#1 岡田利規(チェルフィッチュ)

演劇スタイルの転換

柳澤 大学サークル当時から比べて、作風は変わりましたか。

岡田 全く違います。ずっとみてるひとからは、作品に流れている表面的ではない部分は変わらないと言われますけど、ぼくが自覚的になれるのはスタイルぐらいしかないんで、そのレベルで言うと、自覚的になる以前と以後では演劇のスタイルはまったく違います。

柳澤 2001 年にいまのスタイルが始まって、そこからスタイルの自覚というか、大きな変化があったわけですが、それまでは大きな変化はなかったのですか。

岡田 方法的な転換点はありませんが、卒業間もないころは先輩後輩など大学関係者が中心だった。そういう仲間の比率は変わりました。学生仲間で演劇集団を立ち上げて、やがて時間がたつにつれて他の人たちが加わってくるのはどこの劇団でも同じじゃないでしょうか。ぼくもそれは経験しました。

柳澤 そういう構成の変化から、学生サークルでやっていたものをそのまま続けていけないというか、先に進めないという感覚みたいなものが生じて2001 年の転換の端緒になった、というところもあるんでしょうか。

岡田 多分、変わらなければいけないというような切迫感から出てきたものではなく、それとは別のところでいまのスタイルになった。こういう言葉の形がいいんじゃないかと思ったこともそうだし、順序としてはその次になりますが、よく言われる身体性についてもそうです。何かを探さなければいけないと思っていたわけではないですね。

柳澤 でも大きく変わりましたよね。

岡田 ええ、まず言葉遣いが変わりました。最初に言葉を変えたときは、身体性の概念は自分になかった気がします。自ずと付いてきた感じで、狙ったわけではなかった。言葉だけは明確に変えようと思いましたが、身体性をどのように考えていたかということはうまく答えられない。全部稽古場で見つけたというか、落ちてた、ということになるんですかね。

平田演劇の影響

柳澤 平田オリザさんのセミナーに参加された経験がありますよね。いつころですか。

岡田 多分 1997 年か 98 年の秋だと思います。

柳澤 参加したきっかけはなんですか。

岡田 ぼくは慶応大学出身ですが、そのワークショップは慶応主催で、大学の構内で行われたので、それもあって参加してみようと思ったんでしょうね。平田さんの『現代口語演劇のために』( 注4 )を読んでいて、影響を受けたというか、目から鱗というか、衝撃を受けていたことも参加の理由だったでしょうね。

柳澤 そのワークショップは、演じることが主なテーマだったんですか。

岡田 そうですね。ただワークショップの対象は俳優だけではなくて、一般の人にも開かれていたので、そんなに難しいことはやらなかった。平田さんの演劇の基本ですが、そこで「せりふを言うときは、意識をせりふから外すために体を動かす」とか、そういう紹介はありました。それはすごくおもしろかった。

柳澤 岡田さんはポスト平田オリザなどと言われますね。演劇コラムニストの中西理さんは、平田さんが始めた現代口語演劇のあとの新しい展開のなかに位置づけていました(注5)。現代口語劇の作家はドラマをリアルな会話の群像劇として展開したけれども、岡田さんの場合はモノローグがメインになっていて、そこに会話が入れ子的にコラージュされて入りこんでくる。口語化の徹底という点では同じ系譜にあるけれど、ドラマの立ち上げ方は決定的に違う、と。事後的にそういう整理ができるとして、多分それは正しいと思うけれども……。

岡田 多分正しいと思います。

柳澤 それで、そういう自分の作風を作り上げていく上で、先行する平田オリザさんの仕事をどの程度意識されましたか。あるいは平田さんの仕事を徹底して突き抜けていかなければならないと考えて今のスタイルを作り上げたのでしょうか。

自分にフィットする方法

岡田 いや、ちょっと違いますね。どういったらいいのかなあ。簡単に言っちゃうと、要は自分にフィットしたものを作るというだけなんです。そうやってみたら、こうなったという話なんですよ。平田さんの方法は、あるいは平田さんだけではなくて他の人の方法も、ぼくにはフィットしてない。平田さんの方法は、平田さんにフィットしていると思いますけど。でも当然、刺激を受ける人はいるわけで、それはぼくには平田さんだったりブレヒトだったりするわけです。ただぼくは、ブレヒトの言っていることを正しく継承しているかどうかは分からない。正しいかどうかの観点が必要かどうかも分かりませんしね。ただブレヒトの演劇論集(注6) はぼくにとって平田さんの著書と同じように、ショッキングな本でした。

柳澤 何がショックだったのでしょう。

岡田 平田さんとブレヒトに共通するのは、演劇の嘘臭さを嫌っていることではないでしょうか。嘘臭さを大部分の人は認識していると思うけど……。

柳澤 臭いというか気恥ずかしいというか……。

岡田 平田さんもそのワークショップで、そんな嘘臭いことをしたら恥ずかしいじゃないか、みたいなこと言っていた。ああ、こういうことを言う演劇人がいるんだと、そのときはちょっと驚きました。ぼくはどこかで、そういうことを考えちゃいけないんじゃないかと思っていたんだと思う。

柳澤 演劇を始めるからには、大げささとか嘘っぽさとかを自分なりに引き受けたうえで、その枠の中で活動しなければいけないみたいなことを暗黙のうちに前提していた、と。

岡田 そう明瞭に言語化する手前のところで思っていたんですけどね。そこが、ぼくの問題意識が引っかかった理由かなという気がします。

柳澤 ベールを剥ぐというか、目から鱗が落ちるというか、ブレヒトや平田オリザさんからの刺激は先入観の打破という結果につながって、その上で自分にフィットする方法を探っていったという流れでしょうか。

岡田 そうですね。ブレヒトにも平田さんにも傾倒したわけではなくて、ただ刺激はとても与えられた。ぼくは 2001 年に転換するまで、表現が現代性に向かう、自分の表現が現代性を帯びるということへの関心があまりなかった。例えばいまのぼくの演劇は、言葉遣いにしろ身体性にしろ、現代的だと言われるし、こういう指摘に対して否定もしないです。でも昔はそういう現代性への嫌悪感がありました。現代の持つ貧しさみたいなものに関心が向かなかった。そんな現代と離れ、貧しさと無縁なところで演劇を作りたかった。そう思っていた性根が変わったということが、実はいちばん大きい。

柳澤 貧しい現代や現実と離れたところで虚構を立ち上げたいと当時は考えていたんですね。

岡田 虚構の中でやることに関心が向いているから、現代に興味は向かなかった。そういうものを作りたいと、突然思うようになったんですよ。それが
2001 年だった。>>


(注4) 平田オリザ『現代口語演劇のために』 (晩聲社
(注5) はてな日記「中西理の大阪日記」から 「チェルフィッチュ『三月の5日間』」(2004年6月4日付け)、「2004年の演劇ベストアクト」(2005年1月6日付け)
(注6) ベルトルト・ブレヒト『今日の世界は演劇によって再現できるか 演劇論集』 (千田是也編訳、白水社)