#2 関美能留(三条会)

読解は俳優の身体を通して

松本 関さんの演出の仕事としてはもう一つ、原作への取り組みというか、原作の読解があげられると思います。これも同じく目立たないことなんですが、きわめて優れた作業だと思います。読み方を聞くというのも変ですが、これは原作を選ぶところから始まって、書かれている言葉と日常的な感覚との違和感というかズレ、あるいは思想的なものへの距離感みたいなものを手掛かりに読んでいくんでしょうか。

どこかに書いているかもしれませんが、昔は読書家の自分がいたんですけど、いまはわざと本を読むことを下手にしている部分がある(笑)。読んでいくうちに「分かんねえな、これ」と思っていると、演出家ってとても贅沢な職業で、ちゃんと読んでくれる人がいる。俳優が読んでくれるんです。「なるほど、君はそういう読み方をするんだ」とか「それはおれと違うな」とか、そういう出会いがあると、読解も楽しくなる。よほど頭のいい人は別ですが、独りで読解していると限界があると思うので、ぼくももちろん読みますが、ぼくの読みだけではなくて、俳優が血肉化したものを、どういうニュアンスで発展させるのかというのがぼくの興味ですね。

松本 「演出家の時代」の訪れ以来、特に古典的な作品を取り上げる場合は、原作解釈・上演の歴史があって、それに対して稽古前というか俳優にテキストを入れる前に、演出家がある程度新しい解釈を打ち出すというスタイルが主流なんだと思いますが、関さんの場合はそうすると、俳優の身体とか声にされたものを手掛かりに読解を深めていくということですね。

もちろん最初に俳優にはこちらから読み方を示すわけですが、それが決定事項ではないということです。とりあえずやれと言われても俳優は何もできませんから、次の作品はこういう感じで作りたいということは話して、でもその線が崩れようが壊れようがそれは構わない。

松本 防衛線ではないということですか。

ええ、防衛線ではありません。

ある一瞬のために協力

松本 三条会は、身体というべきか身体性というべきか、この点については評価が高く、注目が集まる部分だと思います。旗揚げのころから、いまのような舞台表現・方向性を目指していたのでしょうか。

そうですね。旗揚げのころは三島作品を取り上げていましたから、長いせりふをどう話したらいいのかというところから始めてました。だからぼくを含めて、それぞれどういうように語ればいいのかをずっと考えてきたと思います。

松本 単に身体というよりは、せりふとの兼ね合いで、ということですか。

せりふを成立させるためにも、身体がないとだめなんですよ。長いせりふを説明的にしゃべっても聞ける話じゃない。長いせりふをしゃべる身体ってどういうものなんだろうというところから入らないと、とてもじゃないが聞けない。時間が経過してお客さんに説明しているってことじゃないんですよね。内容があんまり聞こえなくてもいいんです。ああ、長いせりふをしゃべって、何か興味深いなあと思ってもらえればいいんですよ。

松本 俳優としての存在感ですか。

存在感があればいいんです。原作の内容が身体に入っているかどうかはもちろん大事ですが、舞台上でのたたずまいとか、どういう状況で、どう受けて、どうしゃべるのか。せりふのきっかけが来たから長いせりふをしゃべるわけではないですから、芝居が始まってからの長い時間軸を考えてこのせりふをしゃべってもらいたい、そういうことを踏まえた身体でやってもらいたい、とこれまで俳優には話してきました。これはとても大事だと思います。

松本 いまのお話は「ひかりごけ」以来の、ダブル・プロットというか、1人の俳優が原作のストーリー・ラインとは別の身体を生きるということと重なってくると思います。そうすると、芝居の流れというかドラマのコンテキストを入れていくことで、「見られる身体」が成立するということだと思うんですが、おうかがいしたいのは、一体どうすればそれができるのかということです(笑)。あるいは関さんがどのように演出すると、そういった身体は成立していくのでしょうか。

うーん。それはあまり欲張らないことじゃないですか。芝居の中ですべてを実現するのは無理ですから、ラストのこのせりふだけは成立させたいとか、このフラグメント、あるいはこの瞬間のために、集団として約束事を作って協力していく。例えば、うちの榊原(毅)にこの長いせりふをしゃべらせるために、みんなは何をすればいいか考えて協力していく。それが三条会の芝居の特長だと思います。全部を全部、実現しようということはないですよ。演劇はある一瞬でも、おおっと思えれば、それだけでお金を払う価値があるという感覚がありますから。

松本 なるほど、「班女」からつないで「卒塔婆小町」の「美」へと至った三条会の『班女・卒塔婆小町』なんかは、その典型というか、いい例かもしれませんね。途中も面白かったと思いますけど(笑)。ことばと身体の連携から積み上げていって、舞台としても俳優の身体としても、何かを提出できれば舞台表現としてはOKということですね。

舞台空間は現場から、衣装は俳優が

松本 あとは技術的になるかもしれないし、連携というかつなぎ方の問題と重なるかもしれませんが、空間というか舞台というか、装置のない空間と舞台の使い方をうかがいたいと思います。これも当初からですか。

いやあ、最初はこってり作ってましたよ。手作り感漂う装置ですね。作っていくうちに場所の説明をするような装置は違うんじゃないかと思い始めました。例えば「ひかりごけ」は利賀のスタジオで上演しましたが、そこを学校の教室にするのも、そのスタジオが教室っぽいんですよ。だからそういう設定にしましたし、ここはカンボジアのようなところだとあえて装置を作る必要はないと思います。お客さんが想像力でカバーしてくれれば、それほどいいことはないと思います。

松本 観客としては、舞台装置が手掛かりになる。逆に言うと、舞台装置がない、あるいは少ないと、舞台としては当然、他の個所に負荷というかウェートがかかる。端的にそれは俳優ということになると思うんです。その辺も含めて、いまのような空間構成を考えているということですか。

そうですね。

松本 いわゆる劇場じゃないところで公演する場合は、稽古場である程度作ってから小屋で調整するんでしょうか、それとも最初から小屋のイメージを考えて演出するんですか。

それは小屋のイメージがあってのことですよね。お金の話になっちゃうんですけど、こまばアゴラ劇場はエレベーターがあるので使いましたが、ほかで使うとなればとても贅沢な話になりますよね。まあ、そこにあるものを生かすんですが、それはぼくのセンスにかかってくる。それは緊張しながらやってます。

松本 あと衣装についてうかがいたいのですが、初期は随分、いろんなものを着込んでいたようですね。

派手でした。ゴテゴテと着飾ってましたね。

松本 最近はシンプルかと思いきや、「若草物語」、それから「メディア」なんかは、それぞれに鮮やかで、衣装だけ見ていても楽しいものでした。あれは演出家が、具体的なところまで決めるんですか。

チェックしかしませんでしたね。ぼくはもともとチェックだけなんですよ。俳優はいまこうなのか、という手掛かりになるし、それはそれでいいと思うんですよ。

松本 稽古の段階から、衣装を身に着けるんですか。

本番直前にできたりするんですけど、衣装を作る人がいて、ということよりも、俳優が稽古の中身や流れを加味しながら考えていく方がいいと思います。 >>