#9 岡安伸治(岡安伸治ユニット)

若者の浮遊と不安

岡安伸治さん-今回改めて『岡安伸治戯曲集1~3』(晩成書房)を拝読しましたが、バブルの頃にこういう作品を書いていらしたということに驚きました。格差拡大が問題視されている今の方が、むしろ説得力を持つところもあるかもしれませんね。

岡安 サブプライムのような問題もあって、劇作家としては、今の状況の方が面白いんですけどね。今関心があるのは、9.11以前と以降とが、大きく異なるということです。その違いをなんとか表現できないかと思うんですけど、ただし、そこから創作に入ってしまうとダメなんですよ。それはあくまで、ものを見るときの観点に過ぎないのであって、そこから創作を始めてしまうと、いわゆるリアリズム演劇のように、理屈の方から入ることになってしまう。そうではないやりかたでできないか、という課題がある。それが、僕が今抱えている創造の問題であり、戯曲の書き方の問題かな。

-9.11以後の変化というのはどういう意味ですか?

岡安 要は、何か大きな組織があって、その頂点と頂点とがぶつかり合うのではなくて、インターネットを媒介として、テロがあっちこっちで運動化しているじゃないですか。それはやっぱり大きな違いでしょう。そして、そんなことには無関心であっても、人はそこに一瞬にして巻き込まれうる。そして、巻き込まれることへの不安や怖れが増幅していく。そういう時代になってきている。9.11以前は、対立の構図は非常にはっきりしていた。しかし今はそうではなく、曖昧なまま巻き込まれてしまうことへの不安や恐怖がある。それは以前とは違うという気がします。

それからもうひとつ、これは演劇論、演技論にも関わりますが、僕自身の今後の表現方法をどうするか。例えば、岡田利規さんのチェルフィッチュの演技を見たときは、びっくりしましたね。あれを理解しようと思って、台詞言いながら実際にやってみるわけです。やってみたら、地に足がつかない、非常に不安定な、若い人たちの今の状況がなんとなくわかる気がした。ああ、こういう浮遊状態なんだな、と。それはそれとして認めるんだけど、僕の場合は、ちょっとやっぱりストーリー性が欲しいなって。あの浮遊状態をそのままを表現する人がいるのは、それはそれでいい。でも「これも違うな」って、自分でやってみてわかりました。いや、最初はびっくりしましたね。なにこれ、ペタペタやりながら台詞言って?って思いましたね(笑)。

-演技についてもお聞きしたいんですが、それこそチェルフィッチュ的な浮遊感覚に共感できるような若い俳優たちが、桐朋では岡安さんの演出を受けることになるわけですよね。若い俳優たちについてはどうお感じになっていますか?

岡安 私が桐朋の授業で最初にやることは、「立つ」とはどういうことか、という課題です。我々がどこかの空間に立つときには、固定点をとって、筋肉を固定して立っている。それを実感させるんですね。足の裏がきちんと床にくっつくことを実感させる。つまり、演技でもなんでも、実在感から出発します。きちんと足がついて、声が出て、動けて、舞台美術やら何やらにあまり頼らず、何もない空間で、自分のいる時空間を表現できるのがいい役者だと、僕は思っています。それが表現者として大切なことだと思っていますので、教える方法も、こうした認識がベースになっています。従って私の演出する舞台では、飾り物はできるだけ省き、最低限のモノだけで作ります。昔からそういうスタイルでして、今度の『蟠龍』もそうです。となるとどれだけ表現力があるかが明確に問われますから、役者にとっても大きなプレッシャーで、訓練の要ることです。へいへいと簡単にできちゃうことを舞台の上でやるのであれば、お客は「なんだよ」と思いますよね。こんなものにわざわざお金を払う人がいるのかと。やっぱりお金を払うというからには、金額に見合ったサービスなり何なりあるはずでしょう。ところが最近は、お店でも「いらっしゃいませ、こんにちは」マニュアル通りで事が済んでしまう。それが当たり前になってますよね。でも、その程度のことでは、本来お金のやりとりなんて発生しないんじゃないかという気がしますけどね。戯曲についてもこういう技術の問題がつきまといます。僕にしてみると、最近芝居を見ていてもあまり面白くない。でも違和感ばかり言い募っても仕方がなく、自分でやるしかないし、他人様から「あんたも違うよ」って言われれば、それはそれでいいと思います。

技術と演技

-身体感覚に注目し、「立つ」ことから始めるというような課題は、既に世仁下乃一座の頃から、意識してやってらっしゃったんですか?

岡安 結果としてやっていた、ということでしょう。言葉にはなりませんでしたが、これも違う、あれも違うという感覚はあったんですね。例えば、ある幅の隙間があって、人間がそこを通ることを試すとしましょう。人に自由にここを通らせる。すると、いろいろな通り方をする。だいたい人は自分の肩幅の1.3倍を基準にして、それより狭い場合は肩をよじったりして通っていく。ということは例えば、舞台上に上から照明を一つ当てて、そこをいろいろな体形の人物を通らせる。ある人物はまっすぐ通る、別の奴は体を横にして通った。それを観客は見て、そこにある幅の隙間を持つ障害物があると思うわけです。ガラスのような透明の何かが。このように、人は何を見てどう判断しているのかということを、関心をもってやってきたということが僕の古いノートを見るとわかります。

例えば、丸を描いて、十字を一本入れて、下に横に線を入れると、これは顔に見えますね。また例えば、いくつもの電飾の玉を体中に付けて、そのままじーっとしているとただの明かりですが、これが動き出すと、電飾の光の動きを見ているだけで、男か女か、子供か大人か、年齢がどれくらいか、何をやっているところか、人間は読みとる能力があるんです。点の動きだけで読み取れるということですね。こういう具合に、人は何を見ているのかということから逆に考えることによって、余計なものに頼らないで表現する方法が、少しずつわかってきたのかもしれません。僕なりに、感覚的にではありますが。それで「余計なものは、ない方がありがたい」って言うんです。それで、こういう演技論をベースにした自分なりのカリキュラムを組んでやってきた、ということでしょうか。

-確かに『太平洋ベルトライン』をはじめとして、岡安さんが演出する舞台装置は簡素で、俳優さんの身体だけで見せていくという方法論が、ほとんどの作品に当てはまると言っていいでしょうね。

岡安 劇団制の一つの問題は、俳優の年齢ですね。俳優には、長いことやってきて良くなる人もいるけれども、年齢的に限界に達する人もいる。表現するために身体を使う場合、エネルギーも集中力も要るわけで、それが衰えたときに限界が来ます。ところが劇団制の場合、そういうメンバーが主要なポジションに座っていて、良い役が来ないと文句を言うわけでしょう。当人は、自分は長いことやっているんだからできる、と思い込んでいる。だけど、そうじゃない場合もあるんですよね。ある年齢に達すると、舞台に出て激しい動きをしなければならないところで、その動きをダウンさせてしまう。それは自分の都合でそうしてしまう。楽な方をやるわけです。それにはもちろん「息が続かないから」といった年齢に由来する理由があるわけだし、それも表現のうちなのかもしれないけれども、それにしても、自分で自分の鮮度を落としてしまうことに違いはない。確かに芸事の世界では、皆さん年齢を重ねるに従って、年齢に合わせた表現方法を獲得するわけです。その場合、良くなる部分と、引き算せざるをえない部分とが出てくると思うんです。台詞を言う場合でも、多くの肺活量を使いますよね。しかも、激しく動いてみせた直後に、何気なく台詞をぽつっと言ったりする。だからこそお客さんは「おっ」と思うのであって、肩で息を切らせながら台詞を言ったって「なんだよ」って思うだけでしょう。つまり、それでは、効果が薄れてしまう。技術者とは何かと考えると、ほとんどの人ができないことをするのが技術者で、ちょっと習えばできることをやったところで、技術者とは言えない。そういう問題を、表現の世界では考えますね。

ただ、気を付けて物を言わないといけないところもあります。学生が勘違いしちゃうといけないから。例えば「技術を伴わない表現はない」という言葉を誤解すると、「技術が表現だ」と思ってしまう。テクニックばかりをつまみ食いしている学生がいることは確かですし。もちろん、単なる技術と、技術にとどまらない表現との線引きは、難しいんですけどね。

-とすると、岡安さんから見て、この舞台俳優は随分な年齢だけれども、なかなかやるなあ、と評価できる人はいますか? 具体的な名前を挙げていただけるとありがたいのですが。

岡安 例えば、古い映画で言うと、勝新太郎さんの『座頭市物語』に出ておられる、新派の柳永二郎さん。あの方はぼそぼそ喋るけど、きちんと口跡が立ってますよ。同じ映画に出ている下っ端の役者たちは、勢いで喋っているだけで、何を喋っているんだか全然わからない。だけど、柳永二郎さんがぼそぼそ喋っても、見事に口跡が分かる。それは大したものですよ。それはもう、単なるキャラクターということではなくて、そこまでさせた何かが、きっとおありになるんでしょうね。

ある年輩の役者さんが「岡安さん、このくらいの年齢になると、何が恐ろしいかわかりますか?」とお聞きになる。答えは「台詞が覚えられないんですよ」。とすると、例えば、森光子さんがあれだけおやりになっているのは、裏側に大変な努力があるんでしょう。でんぐりがえしばかりが話題になりますけれど、そういうことではなくてね。

-桐朋の試演会や卒業公演で、岡安演出を何度か拝見しましたが、スタンダードな演技に加えて、アクロバット的な要素が数々入ってますよね、殺陣であったり、民舞であったり、ダンスだったり、様々な身体芸を取り入れておられますが、その意図するところをもう少し教えて下さい。

岡安 まあ基本的には、学校だから、色々なことを学ばせなければいけないという前提があります。それと演劇には様々な表現があるということを前提で聞いていただきたいのですが、学生には「くっちゃべりだけを芝居だと思っちゃいけないよ」と指導しますね。基本的な体力がなかったり、肺活量がなかったりしたら、どうしようもない。ミュージカルじゃなくたって、演劇には、役者が歌う場面もあれば躍る場面もあるよ、いったいどうするの? 役についてから頑張るの? と問えば、その必要性が学生諸君にもわかってもらえるようです。従って、卒業公演のような機会には、個人個人に、なるべく身体全部を使うようなことをやらせようと思ってます。ちょっと大変だと思っても平気な顔をして挑ませる、ということは時としてあります。

ただそれだけではなくて、もちろん表現方法としても、身体全部を使うようなやりかたでなければならないという確信が、自分の中のどこかにあるのかもしれません。あの台詞中心の『太平洋ベルトライン』の場合でも、やっぱり身体を使う劇なんですよね。トラックがゆるくバックして追突された運転手が後から一瞬出てきて、怒鳴って去る場面がありますが。前後のテンションの中へすぽっと入るというのも、役者にとっては大変なことなんで、出の前にものすごくテンションをあげている。必死になってやっているんですね、前の場面からの続きでテンション下げずに一気にバッとやる、つまらないことをせずに戻るというのはやっぱり技術のいることなのでね、それは役者の表現として大変な闘いですね。もっとも『太平洋ベルトライン』については、正直に言ってしまうと、数年前富山に持っていった際に、もう古くなってしまったと感じました。何がダメになったのかわかりませんが、僕自身がそう感じましたね。それ以後手をつけてないんですよ。今でもいける作品といけない作品があるんですよね。

-書くべき対象が見えにくい9.11以降の状況が、作品の見え方を変えさせる、ということもあるかもしれませんね。今回の『蟠龍』をはじめ、岡安さんがこれから創造される芝居が、9.11以降の状況を撃つものになることを期待しております。

岡安 そうなってくれればいいと思います。(了)

(2008年10月27日、桐朋学園芸術短大で)