演劇評論家の扇田昭彦さんが5月22日に亡くなって1ヵ月余り。東京・池袋の東京芸術劇場プレイハウス(中ホール)で7月6日(月)夕、演劇関係者ら約600人が集まって「扇田昭彦さんを送る会」が開かれた。扇田さんが好きだったというベートーベンの交響曲第6番「田園」が流れるなかで、故人との印象深い出会いを語り、突然の別れを悼む言葉が舞台上の遺影に手向けられた。
最初にマイクの前に立ったのは、演出家・俳優の串田和美さん。「5月1日のトークライブの場で一緒だった。そこで別れたまま。さよならを言うのはとても難しい」と急逝を受け止めかねる気持ちを述べた後、「私たちが『黒テント』を立ち上げて最初の旅公演に出かけるとき、リュックを背負った朝日新聞記者の扇田さんが同行した。それが初めての出会いだった」などと思い出を語った。
評論家の川本三郎さんは元朝日新聞記者。「もう時効だから初めて明かします」と断った上で、「不祥事を起こして朝日新聞を辞めさせられた」川本さんが苦しい文筆生活を続けていたとき、扇田さんが朝日新聞に匿名コラムを書かせてくれた。「本当は許されなかったはずなのに、下っ端の私に執筆の機会を与えてくれた。知的でやさしい、品のある方であると同時に、侠気(おとこぎ)のある方だった。無名の小劇場に足を運んだのも、侠気の精神があったからではないか」と述べた。
扇田さんは東京芸術劇場の企画委員を務めていた。同劇場芸術監督の野田秀樹さんは「学生時代のころからぼくの芝居を見てくれた。もう40年にもなる」と語り、2011年にルーマニアのシビウ演劇祭に一緒に出かけたときのエピソードを紹介した。「演劇祭でおもしろい芝居を見たら、『あれはおもしろいよ』と教えてくれるだけでなく、チケットを手配し、席まで取ってくれた。演劇批評を書く前に、『おもしろかった』というシンプルな心情をいつも持ち続けていた方だった」と述べた。
ビデオ映像で思い出を語るシーンも。学生時代からの友人だったフランス文学者の巌谷國士さんは、扇田さんが「ロマンチシズムの持ち主だった」と話し、俳優の渡辺美佐子さんは「気に入ったときは『おもしろかったよ』と大きな目をクリクリさせて楽屋にきてくれた姿を思い出す」と語った。テレビ番組に出演して、扇田さんと話し合う唐十郎、蜷川幸雄両氏の映像も舞台上のスクリーンに映し出された。
最後に「送る会」実行委員会代表の桑原茂夫さんが、学生時代から長い交友のあった扇田さんとの最期のエピソードを語った。
亡くなる22日の午後、扇田さんから携帯電話がかかってきた。「『頼むぞ。よろしくな』と何度も繰り返した。ほかの言葉が聞き取れなかったのが残念。病院では、まだ2歳半のお孫さんが臨終までベッドの枠を握ってじっと扇田さんを見ていた。その姿を見て『生命の引き継ぎ』を感じた」と言う。「聞き取れなかった扇田さんの言葉は、ここに集まったみなさんへの感謝とお礼と励まし、それに心からの期待(という「引き継ぎ」)だったのではないか」と語った。
最後に「送る会」の企画に協力し、支えてくれた関係団体や個人の名前を次々に読み上げた。「扇田さんのお世話になったこれら後輩たちが熱い思いで本日の会を実現した。そう考えると、この会の主演、演出は扇田さんではないか。その扇田さんはいま舞台上にいる。これまでの仕事を讃え、感謝の気持ちをこめ、拍手を持って本日の会の幕を閉じたい」と締めくくった。その言葉が終わると同時に、客席の大きな拍手がしばらく鳴り止まなかった。
その後、献花の列が続き、ロビーで故人を偲ぶ懇談の輪ができた。
「送る会」の司会は劇作家、演出家の永井愛さんと、俳優、演出家の木野花さんの2人が務めた。献花台は舞台美術家の島次郎さんが担当した。
参加者に配布された小冊子には、「扇田昭彦の-こんな舞台を見てきた 抄録」と題して1960年から2015年まで舞台を見続けた扇田さんの劇評の一部やコメントが年代順に掲載されている。表紙には、次の言葉が引用されていた。
「一生を棒に振る」という言い方があるが、
私はひたすら舞台を見ることで
「一生を棒に振り」、
しかもそれを心から楽しんできた。
劇作、演出、演技など、
優れた才能が結集した舞台に触れるのが、
何よりも刺激的だったからだ。
――扇田昭彦
(北嶋孝)
【関連リンク】
・演劇評論家の扇田昭彦さん死去 西東京市芝久保町在住(ひばりタイムス)
・扇田昭彦さんを送る会・詳報(1~8、ソナエ・産経デジタル)
・扇田昭彦さんを送る会(松井今朝子のホームページ、2015年07月06日)
・「扇田昭彦さんを送る会」のもよう(内田春菊の基礎体温日記II、2015-07-07)
・扇田昭彦さんを送る会(梁塵日記、2015/07/06)
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劇評を書くセミナー2014の第6回の課題は、東京芸術劇場 「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」(清水邦夫作、熊林弘高演出)でした。1960~70年代の名作を新しいスタッフ、キャストで上演し、現代における意味を探るRoots企画の第2弾です。
今回は11人の評が集まりました。講師の扇田昭彦さん(演劇評論家)は、自ら体験した初演の衝撃や特徴ある舞台美術などについて熱を込めて振り返りつつ、今回の上演を受け止めた参加者の一つ一つの評について、質問を交えながら丁寧にアドバイスしました。
セミナー後に提出されたものも含めた原稿のうち、了解の得られたものを掲載します。(編集部)
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「一般社団法人 現代舞踊協会」の制作協力を得て、3月7~8日に、新国立劇場が「ダンス・アーカイヴ in JAPAN 2015」を中劇場で開催した。昨年6月に、大きな反響を得た「ダンス・アーカイヴ in JAPAN」の続編で、日本の洋舞100年の歴史を蘇らせることを意図した催しである。ところで、「現代舞踊協会」の英語表記は「CDAJ(=コンテンポラリ-・ダンス・アソシエ-ション・ジャパン)」。前回に次いで今回も、やはり「現代舞踊は、その時々のコンテンポラリ-なダンスであった」ことを実感した。このたび再演したのは、石井漠(1886~1962)、執行正俊(1908~1989)、檜健次(1908~1983)、江口隆哉(1900~1977)、石井みどり(1913~2008)の作品である。
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「ワンダ-・ランド」の読者は、ダンスを見慣れた観客ばかりではないと考え、また「ダンス・アーカイヴ」での上演作は、ダンスのファンにとっても、日本のダンス史を振り返る上で大変に貴重な公演である。よって歴史的な解説も入れつつ、批評を進めたい。
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日本の洋舞は、1911年(明治44年)に建立された帝国劇場でのバレエ教授に始まった。その一期生で、イタリア人教師のロ-シ-に学んだ石井漠が反旗を翻し、独自の研究に基づき、〈舞踊詩〉と命名して始めた公演が、日本のモダン・ダンスの始発となる。1922年には、石井小浪と共に渡欧した(米国も回り、1925年に帰国)。
石井(漠)の作品で、今回上演されたのは『マスク』(1923年/ベルリン初演)と『機械は生きている』(1948年)で、後者から上演した。これは、男女28人による群舞である。全員が黒い衣装で、6人が中央に縦に並び、他の者達は左右に2列ずつの配列。衣装の体側に銀色のラインが入り、全員で一つの大きな機械の動きを表現する。最後の弟子の石井かほると、孫の石井登が振り写し(以下、作品責任者としての仕事をこのように記す)、登は出演もした。
各ダンサ-の動きは、機械の各部位の動きである。身や手足を力強く直線的に伸縮させ、様々なポ-ズで機械の諸相を表わす。石井には、そもそも機械文明への批判もあったが、本作は、戦後復興期の人々の気持ちを明るく力強く支えようと意図したと言う。
パ-カッションの加藤訓子が、大太鼓とシンバルで伴奏。大きな振動がダンサ-の「身体」に突き刺さるような刺激を与え、反射的な反応を引き出した。このような打楽器伴奏は、20世紀初頭に始まったドイツ表現主義舞踊でも行なわれていた。
『マスク』は、一間(約1.8m)四方の低い台を中央に配し、その上で踊るソロ。石井かほるが踊った。歓喜と悲哀を表現した作品(使用曲=スクリャ-ビン作「2つのダンスop.73-1」「練習曲 op.08-2」)と言われ、表現主義舞踊風の歪んだ手指を用いた、上半身や腕の表現が多い。身を伏せ、腕を台上の左右に伸ばした時の表現は、特に際立った。台の枠が、手指の表現を引き立てる。台の使用によって、空間に区切りをつけ、観客の視線を集めるのは、現代にも通じるテクニックである。
後半には、オリエンタル・ダンス風の腕の運びも見えた。『マスク』とは、「顔を無表情にして、身体に語らせる」という意味であろう。石井(漠)が、上半身を曝した袴のような衣装で力強く踊ったのに対し、かほるは、袖のない自然体の黒いドレス。自ずと、しっとりした質感がダンスに加わる。
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前半は5演目で、前半を終えた休憩後に、実行委員会の片岡康子(お茶の水大学名誉教授)と森山開次の対談をはさみ、その後に、石井みどりがストラヴィンスキ-の『春の祭典』に振り付けた大作『体(たい)』を上演するというのが、この日のプログラムだった。
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さて前半の3作目も、ベルリンで初演した執行正俊の『恐怖の踊り』(1923年)。執行は渡欧し、バレエ、スペイン舞踊、表現主義舞踊を学んだ。子息で創作バレエも手がける執行伸宜が振り写し、東京シティバレエ団団員で、やはり創作も行なう小林洋壱が踊った。
本作は、肩をハンガ-のように怒らせた姿態など、抽象的で分割的な大野一雄の舞踏の上半身のような身体性も含みつつ、全体では表現主義舞踊の妖艶さが濃厚だった。加えて男性バレエ・ダンサ-らしい高いジャンプもあり、新舞踊の創造を志した気概を感じた。
音楽は、バレエ音楽『恋は魔術師』から「恐怖の踊り」。衣装のデザインも、執行正俊。人間と社会の無意識的な闇を浮上させるべく、異界的な印象の袖の飾りなど、当時のファッション最前線の感も得た。小林の踊りは、振り付けを新鮮さをもって再現した。この体験をさらに自らの豊かな内面世界と結ぶ方向で、今後の創作に生かされることを願う。
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次は、檜健次の『釣り人』(1939年)/使用楽曲の作曲者=宇賀神味津男)で、北斎漫画から抜け出て来たような庶民的な日本情緒には、大いに驚かされた。菅笠、単の上衣にモンペを着け、背を丸めて微笑むような、一昔前の日本人の身体性を長い竿を手にしたユ-モラスな仕種を交えて描く。広い舞台をあまねく用いて踊ったソロなのに、舞踊という概念を思い出させない滑らかさに、独自のセンスを感じた。また座り込んで、逃がした魚をアタフタと前後左右に忙しく追う振り付けは、滑稽にして真に敏捷である!
踊ったのは、片岡通人。舞踊に加えてヨガや気功・武道の経験を培った上での、軽みと剽軽さを満喫させた踊りは、さすがであった。振り写したのは、石川須姝子。
檜は、石川のみならず、ケイ・タケイの師である。1936年に渡米して、日本の身体文化を生かした作品で興業し、ル-ス・セント・デニス舞踊研究所にて交換教授を行なった。
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前半の最後は、江口隆哉の『スカラ座のまり使い』(1935年)。ダンディ-な魅力を振りまいた江口が、伴侶になった宮操子とドイツに留学してマリ-・ウィグマン研究所に学び、帰国後、シュ-ベルトの軽快な「スケルツォ」D593に乗せて踊った、江口のソロ代表作。〈ピエロがまりを扱う所作〉を作品化しているが、実際には存在しない架空のまりをマイムを取り入れて扱う。振り写したのは、金井芙三枝。
今回は特別に、〈Ⅰ再現版〉〈Ⅱ日本舞踊家版〉〈Ⅲデュエット版〉の3バ-ジョンで上演。各々をコンテンポラリ-・ダンスで幅広く活躍する木原浩太、両洋の身体性と文化に精通する日舞の西川箕乃助、かつてベジャ-ルの「20世紀バレエ団」でも踊った佐藤一哉と多くのバレエやモダン・ダンス公演で活躍して来た堀登が、踊った。各バ-ジョンとも、江口の道化師風の元の衣装に倣った。下手奥でのピアノ生演奏は、河内春香。
木原は、心やさしく、少しシリアスな表情も混じるピエロ。まりをジャグリングしながら首を柔軟にリズミカルに左右に振り、身も一緒に揺れる。まりを目で追い、走り、身を翻し、首の後ろや横、後ろ手でも、まりを受け止める。最後の笑いも、鮮やかに決まった。
西川は和装だが、キャップの代わりに頭巾、えんじの上衣、黄色の派手な縦縞のもんぺ袴も、江口の元の衣装にそっくりだ。これだけでも笑いたくなるが、全体にも笑いの大風呂敷を広げ、それを実際にやり遂げてしまった感があった。まりを首の後ろや横で受け止める際の、頬や目の表情も可笑しい。和の身体表現(芸)の豊かさに、驚かされる。
デュエット版は、始めに佐藤が中央でソロを踊り、堀は下手奥のピアノに寄りかかって見ている。おっとりと演じる佐藤に、軽やかに絡みを入れた堀。2人が背合わせになる、距離を離れてまりを投げ合う、などの場面を得て、堀が舞台の上手奥へ投げやられてしまう。「あれ!」となった所へ堀が戻って来て大団円へ。ベテランの味を堪能した。
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後半は、石井みどりがストラィヴィンスキ-の『春の祭典』に振り付けた『体(たい)』(1961年)。多くの振付家がチャレンジする演目だが、ニジンスキ-版(1913年)が本家本元で、バウシュ版(1975年)も有名。だが、『体』の創作時にみどりが意識したのはベジャ-ル版(1959年)かと思われ、その2年後に『体』が生まれている。
ところで、ベジャ-ルのモダン・バレエは、胸よりも、太陽神経叢(腹)に意識を集めるために、ダンスに近い。そして、みどりの師であった石井漠も、ロ-シ-には反旗を翻したが、足かけ5年はバレエを学んだ。みどりは23才で、7年間師事した漠から独立したが、ベジャ-ルのダンスに近いバレエと、下地にはバレエもあった漠ゆずりの、みどりのダンスは、確かに近いのかもしれない。
日本の私の、女性振付家の、ダンスの『春の祭典』をという、意欲であったか。当日のパンフレットに「《体》は、言葉にとらわれる事なく、自由に私の生命賛歌として生まれました。宇宙・自然・人間は全ての流れの中に生きる命です」と、みどりの文があった。『体』は、本来の〈犠牲の乙女を捧げる〉型のバ-ジョンではなく、ベジャ-ルと同じく〈生命賛歌〉型の、いわば春の祭典だが、つまりは楽曲名(言葉)を返上し、身体の生命力と宇宙・自然との繋がりを強調したために、独自のタイトルになったのだろうか。
ライトがつくと、舞台中央の遠景に、白いチュ-ルの大きな布を蜉蝣のように肩から纏い、肌色のレオタ-ドの上を透けたタイツで覆った女性達の姿が浮かび上がる。そのダンサ-達が、スルスルと奥から前景へ移動して一筋のラインを成す…。それらは、何と美的であったか。それには、理由があるようだ。
振り写したのは、みどりの娘で、自身も今まさに輝く振付家およびダンサ-の一人である折田克子。今回は、自身の方法論とはほぼ真逆だが、母みどりの「みどりイズム」に挑んだ。それは克子によれば、音楽のリズムよりも、微妙に遅れて動くという方法である。それにより、音楽との調和が滑らかになる。
叩き付けるような曲調の『春の祭典』に対峙するために、稽古で体感を磨く。全編にわたって、動きは激しく、複雑に立て込んで行くが、見る者の気持ちの中に、違和感なく滑り込んで来るように感じた原点には、「みどりイズム」があったのか、と思う。
冒頭の女性達の場面が一息つくと、男性ダンサ-達が上半身を曝し、肌色のスパッツ型のタイツで現れる。女性よりも、格闘的である。ただ女性もそうだが、エロティシズムを秘めた身体に、強靱かつ大らかなオ-ラが漂う。ただ『体』には、〈鹿の交尾に想を得た〉というベジャ-ル版のような、直接的な表現はない。身体が生命力の源と宇宙に開いても、慎ましく心地よい緊張を保持した男女の関わりが、半抽象的な舞踊身体で描かれる。
足先を伸ばさずに、直角的に立てたまま脚を差し出すのは、東洋的な精神・身体性を重んじた、後のベジャ-ルとも似ている。ただし折田によれば、バレエとの大きな違いは、「ふ~」と脱力ができるかどうかだと言う。また、それが曲線的な動きに繋がると言う。
上半身を捻る、傾ける、肩・首・腰・手足などの関節をあらゆる方向に用いた動き。作品全体で、それらの組み合せにより、見たこともない独創的なポ-ズが次々と現れ、また緩慢および静止的な「間」も取り入れて、群舞の場面が流動的に運ばれるのは、まったくに素晴らしかった。床に身を接触させての動きも多様で、全身的な有機性を放つ。
舞台中盤で、前田哲彦(衣装デザインも)作の巨大な壁型の舞台美術が現れる。装飾の模様が透けた中は3階建てで、酒井はなが、上階に現れる。いわば〈稲妻のように恵みを与える女神〉である。男達に掲げられて舞台上に登場し、佐々木大が、パ-トナ-で踊るが、群舞も同時に展開を見せる。その内に巨大な壁は2枚になり、舞台奥に並び立つ。
そして闇が訪れた。いくつもの黄緑色の〈目のデザイン〉が奥の壁上に映って揺れ、「目に伏す闇」という場面になる。ここが、山場でもあった。遠景で、木許恵介と能見広伸が、男同士のデュエットを踊る。前景の暗闇では、舞台の両側から頭を中心に向け、長い髪を床上に投げ出した藤田恭子と佐々木が、鮮烈な葛藤の火花を飛ばして這い寄る。中景は、女性4名(初日=米沢麻佑子、北島栄、西園美彌、幅田彩加/2日目=関口淳子、北島、船木こころ、土屋麻美)だった。
前景が暗いのは印象を深め、近・中・遠景があった上での、別々の展開は贅沢さを加え、その上、やがて女性4名が遠景の男性2人と合わさり、男女カップル2つと、女性同士のペアになる。ここに、その前の場面からの強いエロティシズムと、男同士のデュエットの残象が重なり、ジェンダ-のボ-ダ-に触れ得る現代的な印象を得た。1961年には男女別学が主流で、同性カップルは闇にあり、現在はその証明書の発行を区議会が論議する時代だが、身体に付随するテ-マである。
そして、前述のようなさまざまな独創的なポ-ズが展開するパ-ト、ベジャ-ル版のように皆が集結する輪舞的なパ-トも入り、最後には再び酒井が、男性達とアダジオを踊った後に、佐々木に飛びついての3パタ-ンの素早い鮮やかなポ-ズを決め、天空ともいうべき舞台装置の上階へ駆け登る。踊る以前の身体の現前から開かれた作品であると共に、女性性尊重の色彩を見せる作品であったと思う。
*
冒頭のテ-マに戻るが、これらの作品は、今見ても色あせない濃厚な魅力をたたえるほどに、その時々のコンテンポラリ-な感覚に満ちており、「ありきたりのダンスなんて、どこにもなかった」ことを実証している。そして、今を生きるダンサ-や観客が、これら先人達の多彩な才能と努力の軌跡をたどることは、現代舞踊に蓄積された資源を今後に広く生かすためにも有意義であるに違いない。
日本のコンテンポラリー・ダンスの一部は、「何でもあり」と言いながら、「何でもない」ダンスに陥って活気を失った感がある。ベルリンの壁が開いて東側が回復され、その変化が新たな流れを熟成させる時期を迎えた昨今の欧州でも、「踊りに力がなければ物足らない」と感じる傾向が強くなった、と私は感じている。中欧こそがかつてのダンスの宝庫であり、日本の現代舞踊がその流れを汲んで始発したことも、アーカイヴの継続に私が期待を寄せる理由である。今こそ「踊りの力(身体)/ダンスを創る力」を回復するべき時ではないか。
私は、石井漠の『人間釈迦』や、江口隆哉の『プロメテの火』なども見てみたい。予算や消防法などの知識がないままに書いているが、LEDライトを用いた21世紀の青い『プロメテの火』は、実現しないのだろうか。私は、この秀作シリ-ズの続きが見たいのである。
*注/『体(たい)』における〈稲妻のように恵みを与える女神〉とは、筆者の解釈だが、「創作時には『古事記』を意識した」と折田から聞き、古代からの「雷が雨を呼び、稲の育成に不可欠なために、それを稲妻と呼んだ」という民俗伝承を生かして解釈した。
*参考文献:『日本の現代舞踊のパイオニア-創造の自由がもたらした革新性を照射する-』(監修)=片岡康子/2015年、新国立劇場・情報センタ-刊/発売所=丸善出版
【筆者略歴】
原田広美(はらだ・ひろみ)
舞踊評論家。「朝日新聞」「東京新聞」ほか、専門紙誌に執筆多数。著書に、ハルプリンが影響を得たゲシュタルト療法の『やさしさの夢療法』(日本教文社)、『舞踏大全~暗黒と光の王国』(現代書館)。2015年に『欧州コンテンポラリ-・ダンス~身体、ジェンダ-、ポスト・モダン、表現主義と抽象主義のゆくえ』を現代書館より刊行予定。
【上演記録】
新国立劇場「ダンス・アーカイヴ in JAPAN 2015」
新国立劇場(2015年3月7日-8日)
第一部
「機械は生きている」(1948年)
【振付・音楽】石井 漠
【演奏】加藤訓子(打楽器)
【出演】石井 登 ほか
「マスク」(1923年)
【振付】石井 漠
【音楽】アレクサンドル・スクリャービン
【出演】石井かほる
「恐怖の踊り」(1932年)
【振付】執行正俊
【音楽】マヌエル・デ・ファリャ『恋は魔術師』より
【出演】小林洋壱
「釣り人」(1939年)
【振付】檜 健次
【音楽】宇賀神味津男
【演奏】河内春香(ピアノ)
【出演】片岡通人
「スカラ座のまり使い」(1935年)(3つのバージョンでの上演)
【振付】江口隆哉
【音楽】フランツ・シューベルト『スケルツォ』D593
【演奏】河内春香(ピアノ)
【出演】Ⅰ 木原浩太
Ⅱ 西川箕乃助
Ⅲ 佐藤一哉 堀 登
第二部 「体(たい)」(1961年)
【振付】石井みどり
【音楽】イーゴリ・ストラヴィンスキー『春の祭典』
【装置・衣裳】前田哲彦
【出演】酒井はな 佐々木 大 ほか
制作=新国立劇場
協力=一般社団法人現代舞踊協会
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会場に入ると、巨大といっていい大きさの強化プラスティックの透明パネルが目に入る。目測で1枚あたり高さ2メートル50センチ、幅は1メートル20センチぐらいの透明な強化プラスティック板を、9枚横につないでいる。全体で横10メートルを超えるパネルだ。2か所に木の扉が備え付けてある(ただし、上手側の扉は最後まで開かなかったし、把手もなかったので、扉とは言えないかもしれない)。パネルは窓にこびりつく雪を思わせる白い汚しが入れてあり、向こう側はぼんやりとしか見えない。それから白樺の大きな枝がたくさん、天井から吊り下がっている。葉は白みがかっており、枯死しかかっているようにも見えて、生命感は感じられない。
地点はチェーホフの四大戯曲をこれまでに全て上演している。当日パンフによれば「三人姉妹」は2003年に、当時地点が所属していた青年団のアトリエ春風舎のこけら落とし公演として上演されて以来だそうだ。ただ演出は全く違うとのこと。
芝居が始まると、パネルの向こう側が明るくなる。パネルの向こうには奥行き15メートルほどの空間があり、そして一番奥の壁一面には鏡が貼られている。俳優たちが2~3人ずつ、床の上をくんづほぐれつして転がりながら手前に向かって来る。そしてパネルの横を通り手前に出てきて、パネルを背にしてセリフを言う。その間も他の俳優が挑みかかるように身体を絡ませてきて、戦いながらセリフを口にすることになる。俳優どうしの身体の動きはレスリングのそれである(要するに、打撃技を禁止した上で、お互いの身体を自分の意に沿わせるべく争っている)。
俳優は1人ずつ役を割り振られており、それに従ってセリフを言うが、「三人姉妹」のストーリーを再現する舞台ではない。大まかな流れはあるものの、戯曲の様々な場面のセリフがカットアップされて発話される。その間、くんづほぐれつが続く。男女もあれば、男どうし、女どうしもある。特に恋愛がらみの場面はもれなくレスリングになる。
たとえば追いすがり迫る夫クレイギン(小河原康二)から逃れようとする次女マーシャ(窪田史恵)。あるいはナターシャ(伊東沙保)への長男アンドレイ(石田大)の求婚の場面。女性の身体はプラスティック板に押し付けられ、がっしゃんとソフトながら音が響く。セリフの合間に荒い息遣いが混じり、セクシャルな雰囲気が濃厚に立ち込める。また、三女イリーナ(河野早紀)を巡るトゥーゼンバフ(岸本昌也)とソリューヌイ(田中祐気)のライバル関係も熾烈な力比べとして表現される。
チェーホフの書いた、饒舌ながら品位あるセリフの裏にあるものが、身体のぶつかりあいとして壮絶なまでに表出される。まるで万人の万人に対する戦いのような情景だ。パネルの奥からプラスティック板をたたく者もいる。バンバンと派手な音がする。巨大なパネルは登場人物らが力を加え、奥に向かって押されたり、回転したりもする。登場人物らが四つん這いになって歩く場面もあり、人間の動物化のイメージが感じられる。膨大に吐かれる言葉は空虚なものであり、生々しい力と力のぶつかり合いだけが真実なのだ。
それでもなお、ぎりぎりに追い詰められた言葉たちには力がある。常に身体に負荷のかかった状態で口にされるセリフは、アクセントの位置を変えられ恣意的に刻まれた「地点語」の作用もあって、つぶ立ち、意外な力強さを持って聞くものに作用し始める。
そのクライマックスが小林洋平演じるヴェルシーニンの長ゼリフである。戯曲では第1幕に置かれたこのセリフは、舞台となる地方都市における「知的で教養ある」三人姉妹の存在が、大衆の中に埋もれてしまうようなちっぽけなものでありながら、必ずやなんらかの影響を後に残し、そのような人間が少しずつ増えていき、二、三百年後に地上に「すばらしい生活」を出現させるための、いわば地の塩になる、という内容である。小林はこれを、地点語を駆使しつつ、熱狂的な酔ったような調子で、天使のように軽々と舞台と客席を飛び回り、さらには会場外にまで飛び出しつつ、「あなたは、あなたは」と俳優や観客を指さし、呼びかけながらうたい上げていく。
チェーホフの戯曲のセリフには、遠い未来の人類の「素晴らしい生活」に思いをはせる内容がしばしばあるが、その解釈は両義的である。独特な、夢見るような調子には、科学の進歩とキリスト教的な千年王国思想の結びつきがあるとおぼしい。突拍子のない内容なのでシニカルなニュアンスなのかと思うと、登場人物たちは(そして作者チェーホフも)意外に本気なようす。だが、そうした「未来への夢」がチェーホフ死後のロシアにもたらした地獄を知る100年後の私たちとしては、チェーホフの意図を超えた苦いものをそこに感じないわけにはいかない。三浦基の演出と小林の演技は、言葉が作り出す熱狂の危うさと力をストレートに伝える。感情が揺り動かされて観客の体温が上がる。
それから登場人物たちはパネルを押し、奥の壁にくっつける。三人姉妹が言葉を交わしつつ、くんづほぐれつしながら手前に向かって来る。イリーナは愛していないトゥーゼンバフとの結婚を決めるが、トゥーゼンバフは因縁をつけてきたソリューヌイと結婚の前日に決闘し、撃たれて死ぬ。イリーナは「あたし、分かってた」と繰り返す。
原作ではトゥーゼンバフの死は舞台裏で起こり、1発の銃声によって表される。一方、今回の上演では彼が銃声とともに倒れる場面がそれまでに何度も繰り返されており、当日パンフの【原作のものがたり】でもトゥーゼンバフが撃ち殺されることが文章の最後に明記されている。彼の死はまさに「分かっていた」ことであり、むしろ上演自体が、それを1つの軸として構成されている。
この、最も暴力的な場面を乗り越えるようにして、三人姉妹たちは最後に向かう。3人それぞれに男性俳優と向かい合い、イリーナとマーシャは彼らに持ち上げられて、宙に手を差し伸べる。強い力に拉し去られそうになりながら、それを利用し、軽々と舞い上がる。地を這う動物のイメージと対をなす、天に向かって立つ人間、または天使のイメージ。イリーナが家を出て、劇の最後までに姉妹は全員家を出ることになる。古い家を捨て、不安だが自由な生活に歩み出す。その間、ナターシャはパネルの奥にいて、バンバンとプラスティック板を叩き続ける。今や古い家を支配するナターシャは、自分が持つものに囚われている。
姉妹たちによる「それが分かったら」のリフレイン。一番手前に立つオーリガ(安部聡子)が短く雄叫びをあげると、暗転し、芝居は終わる。
新しい時代が始まった。秩序は揺れ動き、血と暴力の匂いがする。あっと驚くぐらい、100年前と全てが同じなのだ。そんな時代にあって、暴力を乗り越える言葉と表現の力を示して、深い印象を残す上演だった。
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2014年9月より、慶應義塾大学文学部で非常勤講師。観客発信メディアWL発起人。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro
【上演記録】
KAAT×地点「三人姉妹」
神奈川芸術劇場中スタジオ、2015年3月9日-22日
原作:アントン・チェーホフ
翻訳:神西清
演出:三浦基
【出演】
安部聡子 石田大 伊東沙保 小河原康二 岸本昌也 窪田史恵 河野早紀 小林洋平 田中祐気
舞台美術:杉山至
衣裳デザイン:コレット・ウシャール
音響デザイン:徳久礼子
音響オペレート:稲住祐平
照明デザイン:山森栄治
照明オペレート:岩田麻里
衣裳:薦田恭子、篠原直美
舞台スタッフ:山崎明史
舞台監督:小金井伸一
プロダクション・マネージャー:安田武司
技術監督:堀内真人
宣伝美術:松本久木(MATSUMOTOKOBO Ltd.)
制作|伊藤文一、小森あや、田嶋結菜
広報:小沼知子、久田絢子
営業:大沢清
主催:KAAT神奈川芸術劇場
平成26年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業
チケット料金
全席自由/入場整理番号付き
▼プレビュー公演
一般 2,000円 24歳以下 1,000円
▼本公演
一般 3,500円
▽U24チケット:1,750円(24歳以下対象)
▽高校生以下割引:1,000円(高校生以下対象)
▽シルバー割引:3,000円(満65歳以上対象)
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1ヵ月以上前に観劇した鵺的の「丘の上、ただひとつの家」(高木登作・演出)を振り返って、ジョン・レノンの「マザー」(1970)の歌詞を台本の骨組に照らし合わせてみると、その歌詞の背景に存在しうる人間の心境が、鵺的の上演から浮かび上がってくるように思った。
もう少し踏み込んで言えば、レノンの「マザー」の歌詞に、親を必要とする子供の悲嘆の声にも聞こえる言葉「お母さん行かないで」がある。その置き換えとして、鵺的の新作では、家から去ってしまった母を引き止めたかった幼いころの娘「渡瀬愛」(高橋恭子)があり得ると考えた時に、深い傷を背負った彼女の絶望的な表現はさらにレノンの悲痛な叫びと重なった。その思い込みから連想し続けると、「マザー」の「子供たち、私の過ちを繰り返さないで」という念願が、鵺的の上演では、「愛」と母親の再会を実現するまでの過程をスタートさせる触媒作用の役割を果たしていることに気付く。そして、現代における「瞼の母」のような旅の果てに、「愛」自身の自己確認、自意識の冒険が待っていると想像できる。
そう考えるうちに、舞台の中心に据えられているものは、母を知らない「愛」が根こそぎにされた存在の象徴にも見えてくる。
「丘の上ただひとつの家」では、女性の登場人物たちが、母になることをめぐって語り合う場面がある。特に、「愛」が夫の渡瀬章朗(平山寛人)に求められている通りに子供を産もうかどうか悩んでいることをきっかけに、自分を捨てた母を知ろうとする。彼女との対面を実現できた時に、過去の行動を引き起こした理由を問い詰められたお母さん真登香(安元遊香)が何回も「わかんない」と答える。その一言だけでも、家庭から離れた母親の行動は、思考停止状態で衝動的だったことが明確に伝わってくる。
後に、娘「愛」の発する「わかんない」でも、同類の感情が反映されているように聞こえてくる。「愛」が求めた再会の必要性がその言葉からにじみ出ている。娘の人生で、母の行動が繰り返される可能性が十分にある。彼女の心に潜んでいるその恐れがよく感じ取れる。「愛」が感知して、本能的に恐れていたのは、お母さんと同じ立場に置かれて、行き詰った時に有りうる自分の反応である。
「丘の上、ただひとつの家」の冒頭で、「愛」が相談に訪れた弁護士「残間塔子」(生見司織)が夢を語る。「こわい。逃げたい」と感じた際に、眠りから目覚めることが自然な反応である。自覚へ導くシグナルでもなりうる。その時こそ、何となく恐れたことの正体を分からないままに生きるよりも、一度、その恐いものに向き合ってみることが一つの選択である。「愛」が母親について聞いた噂ばかりに頼らず、自分の眼で確かめてみることにした。
「荒野1/7」の続編ともいえる「丘の上、ただひとつの家」が、前作と違って、別の父親を持つ4人の兄弟がお母さんと再会することで互いの心境を伺うことを選んでいる。それで、あらためて「マザー」に言及すると、レノンンの曲が弔いの鐘で始まるのと符合するように、本公演の最後のシーンでは、4人の兄弟がお母さんの葬式について話している。能の謡曲「海士」で言えば、この世にすでにいない「母」が登場して、息子に会ってから成仏できる。同様に、鵺的の劇では、不在だった母と再会して話し合った上で、別れを告げる。言い換えれば、一度過去を振り返ったからこそ、登場人物が自己確認を終えて、個々の道を歩める。
今回の作品で、家族の新たな模様は具体的に提案されていると受け取れるのなら、それは母親真登香の愛人高野浩志(井上幸太郎)のせりふからである。彼が提案するのは、既存概念に基づいた家族のフレームを超えた、柔軟性をもったコミューニティに近いものである。高野が「もっと適当でいいんじゃないの。ゆるくていいんじゃないの?」という問いで示唆しているのは、様々な家族の形を認める寛容的な姿勢として受け取れる。それが、同胞愛のような、楽天的な理想のものでもあるが、公演の楽日に、その可能性を想像できた。
鵺的の上演作品を振り返えると、自分らしく生きようとする登場人物たちの姿が常に描かれていると感じる。阿部定を中心に書いた台本から考えても、高木が持っている、男社会に生きる女性への目配りを見受ける。
「丘の上、ただひとつの家」の舞台美術と照明は象徴的でミニマルである。同じく、高木登の筆致が簡潔で、台本の言葉は本質的である。台本の言葉は率直であるからこそ、観客の内心に入り込める。役者が発するのは物語の発展に必然的で限られたせりふである。それでも、鵺的のメンバーと、毎回客演する役者群の個性の絶妙なバランスが印象に残る。それが、役者個人個人の存在感によって、舞台上で、せりふで語られる以上に、登場人物たちの背景にありうるそれぞれの世界感の広がりが垣間見れて、そこの様々な生き方の可能性が示唆されているからである。
「丘の上、ただひとつの家」では、以前の作品と異なって、観客席との緊張感がうすめられている分、舞台上に集中して、濃密な空間が作り上げられていた。魚の背骨の形に配置された多種の形の足を組み合わせた椅子に座った役者たちと観客の位置関係が多面的であった。それが効果的に、対話劇の密集した進み方にダイナミックな様相を加えている。その演出は、人間の内面と人間同士の関係をあらゆる角度から考察し続ける鵺的の姿勢を象徴的に表している。
鵺的の芝居は絶えず、ドラマチックな事柄の極端なケースを取り上げている。それでも、スキャンダルあさり的な質ではない。今回も、ギリシャ悲劇にもある、禁じられた愛をテーマにしているにも関わらず、ショッキングな展開として扱われていない。それが、もっと奥行の深い人間肖像に焦点を合わせているからである。
本公演では「愛」が、母親との再会と同時に別の父を持つ、血の繋がった他の二人の兄弟と初めて出会う。彼らが、社会的な観点からにしてみれば、倫理的に望まれない命として生まれてきた。その姉の秋山遥(ハルカ・宍戸香那恵)の言葉で言えば、生きてきた「無意味な日々」に価値を生み出せないのである。彼女は「愛」の妹・椎名遥(奥野亮子)の姿勢と対照的に、自分の幸せを犠牲にしても、母への復讐だけに自分の人生が意味を成すと考えている。「この世の楽園」では、家を去った奥さんに対してあきらめることができなかった佐井志津男という登場人物にも似ている。
本公演は、数年前の「昆虫系」で示された救いのない暴力的な結末と正反対の希望を与える劇である。終わりに、世間の目を避けて、恥を感じながら生きてきたハルカの弟・秋山太一(古屋敷悠)が発見した幸せを語ることによって、「会ってみんなで不幸になればいい」と刺すような言葉しか持たなかった姉のハルカの冷淡な心にすこしずつ変化が引き起こされる。太一が優しい声で説得し続けている内に、恨みに支配されていた姉の内面も崩れ始めているように見える。以前の作品と違って、今回最終的に「愛」から始まった過程で、生命力の強さの象徴である母と、その愛人の寛容性を通過して、太一の繊細な働きかけによって、慰めのような穏やかな印象が残る。
これから、新たな姿を見せている鵺的の新作を期待しつつ、ピランデッロ作の「鈴の帽子」と連想できる「暗黒地帯」を始め、過去の作品の再演も楽しみにしたい。
(2015年2月12日14:00の回、2月16日19:30の回観劇)
【筆者略歴】
チンツィア・コデン(Cinzia Coden)
ヴェネツィア大学外国語学部日本語学科卒。卒論は「唐十郎の『特権的肉体論』―役者の記号的な身体」。横浜国立大学に留学。同大学院修了。イタリア文化会館や桜美林大学で非常勤講師。ヴェネツィア大学のルペルティ教授編集『日本における現代演劇のことばと変遷』(Mutamenti dei linguaggi nella scena contemporanea in Giappone, ed. by Bonaventura Ruperti)(2014年9月, イタリアのLibreria Editrice Cafoscarina社から出版。>> amazon.it)で、「唐十郎」「別役実」「山崎哲」「女性の時代」の章を担当。(イタリア語のみ)
【上演記録】
鵺的第9回公演『丘の上、ただひとつの家』
新宿 SPACE雑遊(2015年2月11日-16日 全9回)(上演時間約110分)
作・演出 高木登
[キャスト]
井上幸太郎
奥野亮子
宍戸香那恵
高橋恭子
生見司織
平山寛人
古屋敷悠
安元遊香
[スタッフ]
舞台監督=田中翼・岩谷ちなつ
演出助手=元吉庸泰(エムキチビート)・田上果林(エムキチビート)
ドラマターグ=中田顕史郎
照明=千田実(CHIDA OFFICE)
音響=平井隆史(末広寿司)
衣装=中西瑞美(ひなぎく)
舞台美術=袴田長武+鴉屋
宣伝美術=詩森ろば(風琴工房)
舞台写真撮影=石澤知絵子
ビデオ撮影=安藤和明(C&Cファクトリー)
制作=鵺的制作部・J-Stage Navi
制作協力=contrail
協力=劇団前方公演墳/チタキヨ/MU/ Saliva/IVYアイビィーカンパニー/
株式会社ぱれっと/film_puzzle
企画・製作=鵺的
[チケット]
前売 3200円
当日 3500円
初日割 2/11[水]の回 2800円
学生割 2500円 (要学生証提示)
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●演劇の感想を語り合う場をつくる-ワールド・カフェとの出会い(平松隆之)
2012年10月、静岡県舞台芸術センター(SPAC)で「静岡から社会と芸術を考える合宿ワークショップ」という2泊3日のワークショップを開催しました。私としらさん(白川陽一)はこれに、外部のファシリテーター(=ワークショップの進行・かじ取り役)として関わりました。合宿プログラムでは、初日の始めに観劇が予定されており、事前のSPACの方たちとの打ち合わせで、参加者同士で感想を語り合う機会を是非設けたい、ということになりました。
しかし演劇の感想を話すとき、どうしても「あの演出意図はこうだ」とか「あそこはうまくいってないよね」など、作品についての論評になってしまいがちです。もしくは「おもしろい/つまらない」「わかった/わからなかった」などの二項対立に。そうではなく、もっと参加者同士が自由に話せたら、そして、自身も気付かなかった気持ちを探求するようなことが出来たら…と思いました。そんなとき、対話型ワークショップ運営での経験が豊富なしらさんから、「こんな方法があるよ」と言って紹介されたのが「ワールド・カフェ」でした。
初対面の人といきなり「自由に話し合いを」と言われて話せる人は非常に限られていると思います。対して、ワールド・カフェは一定のルールを共有することで、誰でも自分の気持ちを話し始めることができる方法です。「これはとてもいい」と思いました。こうしてワールド・カフェは合宿ワークショップに取り入れられたのです。その後、ワールド・カフェは合宿ワークショップからスピンアウトし、2015年のSPAC上演作品「グスコードブリの伝記」を題材にした開催では、SPAC内のさまざまな関連企画のひとつ「プラスワン」企画として成立するまでになりました。
その場の雰囲気や具体的な方法については後に譲るとして、この《観劇体験を深める》ワールド・カフェを行って気づいたことがあります。それは「語り合うことは分かち合うことだ」ということです。観劇体験は各個人にとってかけがいのないものです。そのかけがえのないものを持ち寄り、出し合い、話し合うことは、採れた果実をみんなで祝い歓び合う収穫祭のようでした。今後、全国の至るところで、この祭りが行われることを切に願っています。
●演劇の感想シェアに「ワールド・カフェ」という選択肢を(白川陽一)
もともと私は、青少年や社会人の方たちに向けて、人間関係やコミュニケーションについて学ぶといった教育・学習系のワークショップを提供することを仕事としていて、舞台芸術の世界とは無縁の人間でした。そんな私が、平松さんと出会ったのは2011年。劇団制作をしながら「ワークショップデザイナー」としても活躍する彼と関わって感じたことは、「どうやら私たちの活動の志は『対話』というところで一致しそうだ」ということでした。
私が普段のワークショップで大切にしていたことは「対等に話し合う」ということでした。ここで「対等な話し合い」というのは、社会的な立場や年代などの属性にとらわれず、一人の人間として尊重し合うようなコミュニケーションのことを意味しています。このようなコミュニケーションでは「対話」という種類の話し方が重視されます。それは“お互いの違いを気づきの材料として、そもそものところを探求し合う”という話し方です。そして私は、この「対話」を生む方法論を、これまで専門的に学んできたのでした。だから、平松さんから「演劇の感想について対話する場をつくりたいのだけれど」という話をもらった時は、「ああ、そういう方法ならよく実践しています」ということで、ワールド・カフェを勧めることが出来たのです。おそらく、この時が日本で初めて演劇とワールド・カフェとの運命の出会いになったのでしょう。
実際、ワールド・カフェを演劇のフィールドでやってみると、これがとても面白いのです。
というか、やればやるほどワールド・カフェと演劇の親和性がとても高く感じられ、まるでこの対話の方法は、この運命の巡り合わせの瞬間を待っていたと思うほどでした。それほど、演劇に関わる方たちは対話をする(本質的なことについて探究的に話し合う)ことの関心が高いと思ったし、それについて色々な人たちと言葉を交わすことを望んでいる、いや「渇望」していると思いました。こうして、私は「演劇の感想を“豊かに”語り合う場をつくる」お手伝いを、平松さんと一緒に始めたのでした。
以下に記すのは、2015年3月に静岡県舞台芸術センター(SPAC)で上演された「グスコーブドリの伝記(演出:宮城聰、作:宮沢賢治、脚本:山崎ナオコーラ)」を鑑賞した後に、「ワールド・カフェ」という形式に則って、観客同士で感想を語り合ったというプログラムの様子です。その“豊かな”話し合いの様子の一端を、ぜひ感じていただけたらと思います。
なお、この時の司会・進行はSPACのスタッフである佐伯風土さんと仲村悠希さんが行いました。私(白川)と平松さんは、事前のプログラム作りに携わり、当日はオブザーバーとアドバイザーの役割で彼らに関わりました。
【ワールド・カフェとは?】
ワールド・カフェとは、1995年、米国で多くの人数で行う創造的な対話の方法として生み出されました。テーブルごとに小グループに分かれ、フォーマルな会議ではなくリラックスしたオープンな雰囲気の中で話し合いを行うということ、そして席替えをすることが特徴に挙げられます。
【ワールド・カフェの世界へようこそ!】
最初に、司会の佐伯さんによる概要説明が行われます。リラックスして話し合いを楽しんでほしいこと、途中で席替えをはさむこと、話し合いが3ラウンド行われることが参加者に伝えられます。続いて、テーブルの上に置いてある道具の説明が行われます。
「カラーペンと模造紙は、自分の表現を助けるために使います」
話し合いの時は、誰もがうまく考えていることをすぐに言葉にできるとは限りません。また、話し合いの内容によっては、絵で説明したり、図で解説したり、言葉を使うこと以外でコミュニケーションが行われた方が、ずっと活発になることもあります。カラーペンと模造紙は、こんな場合に使える「お助けアイテム」なのです。ワールド・カフェでは、模造紙はもっぱら「らくがき帳」のように使われます。遊び心満載で創造的な対話をするのに欠かせない道具だといえるでしょう。
さて、テーブルの上には何やら意味深な“みかん”もあります。佐伯さんはこれについても説明を始めました。
「これは『トーキング・オブジェクト』と呼ばれるものです。これは、話している人のことを尊重するために使う道具です」
使い方は簡単。話したい人はみかんを手に持ち、話が終わればまたそれをテーブルに戻すという要領です。みかんを持ってない人は、持っている人の話をよく聴きます。こうすることで、話し手の話をよく聴こうという雰囲気がグループで作られます。ちなみに、トーキング・オブジェクトは手に握れるものであれば何でも構いません。
【1ラウンド目の開始】
一通りの説明の後、いよいよワールド・カフェが始まります。3ラウンドある話し合いの時間では、毎回テーマ(問い)が出題されます。
1ラウンド目のテーマはこうでした。「『グスコーブドリの伝記』を観て、あなたはどんなことを感じましたか。『自分のカード』を紹介しながら、話をきかせて下さい」。
ちなみに、テーマの中にある「自分のカード」とは、このようなものです。今回は、事前にハガキ大のカードを用意しておきました。それには抽象的な単語(「ずどーん」「喜」「うむむ…」など)が書いてあったり、風景などの写真が写っていたりします。実は、参加者は話し合いが始まる前に、自分の観劇後の気持ちにぴったり合うカードを選んでいたのでした。自分の今の気持ちを探しやすくするために主催者が配慮した工夫です。ということで、1ラウンド目は「カード」の紹介を通して、自分の観劇後の気持ちを他の人と分かち合うという時間が持たれました。
【席替え】
1ラウンド終了後、司会者の合図で次に移行する旨が伝えられます。
「それでは、次のラウンドを始める前に席替えを行いましょう」
ワールド・カフェでは、ラウンドを変えるごとに席替えを行います。席替えは次のように行われます。テーブルで1人だけ残り、その他は「旅人」になって別のテーブルに散っていくという方法です。なぜ1人だけ残るのかというと、その人は、次のラウンドで新たにテーブルに訪れた旅人に対して、「前のラウンドで起こっていたこと」を最初に報告してほしいからです。といっても、厳密に行う必要はありません。自分の頭の中に残っていることや、模造紙に書き残されていることから印象深いところだけを述べるだけで充分です。これを行い、ラウンドを始めることで、やってきた「旅人」たちは、自分たちの話が前のテーブルの知恵や情報と化学反応するような感覚を覚えるようになります。これが、ワールド・カフェが創造的な話し合いと呼ばれる所以です。
【2、3ラウンド目の開始】
席替え後、2ラウンド目が行われます。2ラウンド目のテーマも1ラウンド目と同様に、「『グスコーブドリの伝記』を観て、あなたはどんなことを感じましたか。自分のカードを紹介しながら、話をきかせて下さい」でした。席替えを行い、新たな人と出会う中で、それぞれはさらに様々な人の感想に耳を傾けていました。
その後は同じことを繰り返します。2ラウンド目終了後、再度席替えを行い、最終ラウンドに移るのです。そして、最終のテーマは、「あなたがもしグスコーブドリであったら、(最後のシーンで)手帳に何を書きますか」でした。ここまで来ると、話し合いはさらに活発になっていき、テーブルの模造紙もさらに賑やかさを増していきます。
【全体わかちあい】
全ラウンド終了後、それぞれのテーブルでどのような話し合いになったかを報告し合い、全体でわかちあいます。今回は、発表テーブルの模造紙を1つ1つ囲みながら、そこでどんな話し合いが起こっていたか、またどんな気づきがあったかなどのことを報告し合いました。
【参加者の声】
このワールド・カフェの体験は、参加者に様々な気づきをもたらしていたようです。以下は実際に「グスコーブドリの伝記」のワールド・カフェに参加した人たちの声です。
「今回は、観劇して感じたことに最も近い言葉・写真のカード1枚を持つことができました。そのカードが切り口となり、自分の感想を素直に伝えることができました。オープンエンドのため、それぞれが感じたことを遠慮なく伝えられ、『それおもしろい! 』という発見を純粋に楽しむことができました。」
「アートについてとやかく感想を言うのは、ともすると野暮なことなのかもしれない。しかし、ワールド・カフェはそんな「野暮」も帳消しにしてしまう。他者は喜んで自分の話を聴いてくれるだけでなく、他者の言葉によって自分の体験がさらに洗練される。寡黙そうな人ほど、饒舌になってしまうことだってあるのだ。」
「残されたブドリの日記について話していて、自分の日記も似たような壮大な事を言っているのかもしれないと思いました。ブドリの理想としている人々の幸せ・平和も一見壮大な感じだけど、個人的な思いがどんどん膨らんでいって大きな事書いたのかなーと。何を書いたのかは謎ですが。日記なんて個人的なことを話せるくらい、普段言葉に出さず止めている思考をたくさんアウトプットした気がしました。」
「観劇の後、心を動かす『言葉にならない何か』を身に纏うことがある。それは体のまわりにずっしり存在しているにも関わらず、実体が掴みにくいものでもある。ワールド・カフェはそれを言葉として自分に明示してくれる体験だった。他者と関わりをもちながら、傾聴の時を得て辿り着く言葉。劇場を離れてもなお、自分に留まるものとなった。」
いかがでしたか。こんな話し合いができたら豊かな時間が過ごせると思いませんか?
これまで、自分が観た演劇について意見を交わすことができる機会はアフタートークが主であったと思います。しかしそれは、演出家や舞台関係者が語らっているのを一方的に聞くという形式で、聞いている側はそれに対して発言をするという程度にしか、感想を述べることはできませんでした。
しかし、観客はもっと「語りたがって」います。そう、私たちはもっと「語り合いたい」のです! 芸術は誰にでもひらかれています。であるならば、すべての観客に等しくひらかれた、自由に意見を述べ合う場が、これからはもっとあってもいいのではないでしょうか? ワールド・カフェは、そのような期待に応えるひとつの選択肢となっていくと私は思います。
私は期待します。これから数年先、数多くの劇場で上演後はワールド・カフェが行われている、という未来を。観劇後、同じ時間を過ごしたのに違う感想をもつことに驚き、またそれを楽しみながら話し込んでいるという観客の姿を。その実現に向けて、私はこれからも、平松さん他共感する皆様方と一緒に、ワールド・カフェを全国各地の劇場関係者とやっていければと思っています。
【筆者略歴】
平松隆之(ひらまつ・たかゆき)
劇団うりんこ/うりんこ劇場制作部所属。ワークショップデザイナー(大阪大学学校教育法履修証明プログラム修了認定) 。NPO法人芸術の広場ももなも理事。せんだい短編戯曲賞審査員。「子ども・地域・演劇」 をキーワードに様々な活動を行う。主なプロデュース作品:2010/2012年「お伽草紙/戯曲」(原作=太宰治・戯曲=永山智行・演出=三浦基)、2011年「クリスマストイボックス」(作/演出=吉田小夏)、2014年「妥協点P」(作/演出=柴幸男)など。 urinko.hiramatsu[at]gmail.com
白川陽一(しらかわ・よういち)
対話と学びのファシリテーター。ワークショップの企画、計画、運営(コーディネート)や、司会・進行を仕事にしている。その他の活動として、自分のスキルを他の人に貸し出す個人発の人助けプロジェクト「レンタルしらさん」や、家でも職場でもない第三の居場所(サードプレイス)のコミュニティづくりを行っている。2015年4月から名古屋市青少年交流プラザの施設職員。 shirasan41[at]gmail.com
1.「面白い/面白くない」の二分法を超えて
劇評は誰のために書くのか? 公演初日に書かれたものであれば、千秋楽までに劇場に足を運ぶ観客のための指針ともなるだろうが、大抵の場合は劇評を読んだ時点でその公演はすでに千秋楽を迎えている。では、読者が活字を通じてその未見の舞台を「追体験」することが目的かというと、必ずしもそういうわけではない。むしろ、読者が追体験するのは、書き手が「頭の中で考えたこと」のほうだろう。
だから結局のところ、公演自体がいかに面白かったとしても、書き手が面白くなければ劇評はつまらないものになる。いかに素晴らしい食材を仕入れようとも、シェフが三流であれば、できあがる料理の質はたかが知れたものとなるのと同じことだ。
もちろん、この喩えはある面において適切ではない。なぜなら、何が素晴らしい食材かということは、実際の料理であればそれなりの客観性(鮮度や糖度や旨みなど)が担保されるものだが、舞台芸術分野においてはあらかじめ答えがあるわけではないからだ。正確にいえば、公演は「食材」ではなく、すでに調理された「料理」に喩えられるべきものである。一流のシェフはそれ自体において一流の評論家でなければならない。
しかし、美味しい料理を口にしたときに「美味しい!」としか言えなかったとしたら、その体験は自分だけのもので終わってしまうことだろう。もちろんシェフが三流なら、微笑みながらこう言ってくれるはずだ。「お客さまに『美味しい』の一言をいただけるのが何よりも励みになります」。だが、私たちは必ずしも「美味しい/美味しくない」の二分法の世界に生きているわけではない。舞台芸術においても事態は同じだ。私たちは別に「面白い/面白くない」の二分法の世界に生きているわけではないのである。
2.インターネットが欲望するもの
劇評サイト「ワンダーランド」が北嶋孝氏によって立ち上げられたのは、2004年のことだった。ちょうどブログという形式が世間に浸透しはじめていた頃のことだ。ホームページが無料でかつ簡単に開設できるというだけでなく、さまざまなデザインからページをカスタマイズできるという強みもあって、SNSがまだそれほど普及していなかった当時、個人が「日記」をブログにつける(そしてそれらを閲覧しあう)ということ自体が強靭なコミュニケーションツールとなっていたことを当時大学1年生だった私は思い出す。
ブログは「日記」であるから、演劇やダンスを観劇した人はそこに感想や雑感を書きつけることになる。2004年から劇場通いをはじめた私もまた例に漏れず、ブログに感想を書きつけていたひとりであった。当時の空気をもっとも象徴するのは、中学生ブロガー(当時)の藤田一樹くんによるブログ(「藤田一樹の観劇レポート」のち「The review of Kazuki Fujita」)であろうか。もうログが残っていないので閲覧できないが、彼は、中学生にして劇場に足繁く通い、それをブログに記事として毎日のようにアップしていた。
だが所詮、日記は日記にすぎない。友人の結婚式で見せられる思い出のポートレイトの数々がきわめて退屈であるのと同じように、個人的な感慨はどこまでいっても「個人」の域を出ない。私自身、かつてブログに書きつけていたこともまたそうで、いまから思えば好き勝手なことを書いていたものだと思う。「個人の意見である」ということは、そこに「責任」が発生しないということを意味する。健康食品やダイエット法の宣伝映像の右下に小さく「※個人の見解です」と書かれているアレだ。
あれから10年が経過してみてよくわかったのは、インターネットを通じて欲望されるものは「個人の見解」の「平均値」だということである。それは「食べログ」や「トリップアドバイザー」といった口コミサイトに顕著な傾向であろう。ひとつの口コミの信頼性は低くても、それを平均化すれば信頼性はぐっと高まる。つまり、求められているのは「書き手のオリジナルな意見」などではないのだ。むしろ逆に、大多数の意見の一致という「非オリジナリティ」なのである。
冒頭でわたしは、面白い舞台を「面白い」という幼児的な一言で片付けてしまわないような劇評を読みたいと言ったのだった。この言葉は「美味しい」という言葉と同じくらいに便利なことばだが、そのぶんだけ空疎なことばでもある。もちろん、美味しいワインを飲んで滔々と蘊蓄を語りだす男は面倒であるが、かといってどんなワインを飲んでも「美味しいね」(あるいはその派生語としての「飲みやすいね」)しか言えない男と付き合うのはやめておいたほうがよい。
しかし、このように「劇評」を定義するのならば、インターネットを通じて「劇評」などそもそも欲望されていないということになるだろう。
3.劇評は「パブリックなもの」である
「劇評を書く」ということは、多かれ少なかれ、「個人であること」を括弧にくくるということでもある。つまり、個人的な関心や世代をいったん棚上げにしたうえで、公演のもつさまざまな意味(社会的、美学的、歴史的、あるいは政治的な意味)について言葉を紡ぐということである。それはつまり自分自身が「社会」をどのように考え、どのような「美学」を規範とし、どのように「歴史」と向かい合い、どのような「政治」を理想に掲げるかを表明するということでもある。劇評とは「公的議論の場」なのである。
別の言い方をするなら、ある一定の人々が共有できる問いに対して、ある反論を想定しながら、暫定的な答えを出してみせるということ。別にとりたてて論争的になったり戦闘的になったりする必要はないが、ひとりの「わたし」にすぎないはずの自分が「わたしたち」を仮構しつつも、その「外側」にいる人たちの存在も意識しつつ、その「両側」に向けて書くということ、それが劇評の作法である。そうでなければ、劇評ではなくもはや「ファンレター」か「ただの愚痴」になってしまうだろう。
といいながらも私はいま、もしかしたら「劇評」という言い方がよくないのかもしれないとも思いはじめている。そもそも「劇評家」などという言葉ははたして昔から通用していたのだろうか。調べてみないとわからないが、ごく最近に使われはじめた言葉ではないのか。美術の展覧会を評する人のことを「展評家」といったり、映画を評する人のことを「映画評家」といったりしない以上、「劇評家」というのはどことなく違和感のある言葉であることは確かである。私自身、そのように自己規定をした試しは一度もない。
4.フリーズドライとしての劇評
インターネットの特質は、「誰もが情報を発信できる」ということである。そのようにいえば聞こえがよいが、逆にいえば発信できるのは「情報にすぎない」ということでもある。机に座って本を読む仕方と、タブレットで記事を読む仕方には、大きな落差がある。端的にいって集中力がちがう。パソコンやスマートフォンではなるべく「早く」「役に立つ」情報を得ようとする。こちらから頼んでもいない大量の情報が、メールボックスからフェイスブックからRSSから流れ込んでくるのだから、読み方はどうしたって「流し読み」となる。そのような人々に向かって「情報」以上のものを発信しようとしたところで徒労に終わってしまうだろう。
しかも、一般的な通念に反して、これらの「情報」は思いのほか蓄積していかない。ページ検索ができる、タグづけができるといった利点はあるかもしれないが、古い情報はどんどん「奥」へと追い込まれることになり、ひいてはその記事があったことさえも忘れられてしまう。しかも、過去のログが消去されれば、外部からその情報にアクセスすることはできなくなってしまう。実際のところ、過去のさまざまなページは(下手すれば数時間前の新聞記事さえも)「ページが見つかりません」という一言で片付けられてしまうことになる。
このような事態はこれからますます加速していくのだろうか。そうだとすれば、数十年後の演劇愛好家たちは、現在の演劇やダンスについて書かれたものの「少なさ」にむしろ驚くことになるのかもしれない。かつて有益な情報として即時に共有されていたものは、即時性と有益性が強ければ強いほど、皮肉なことに鮮度が落ちるのが早い。「冷めたピザ」がその時点でピザのピザらしさを著しく失っているのと同じことだ。ピザは焼きたてでなければならない。寿司は握りたてでなければならない。
劇評とは「保存食」のようなものである。保存食は毎日食べるものではない。それをつくるための調理の幅もそう広くはないだろう。しかしそんな制限のなかから、日持ちのする、しかも美味しい保存食が時折現れてくるものだ。オレゴンフリーズドライ社の商品のなかでも「サバイバルフーズ」と呼ばれる缶詰は、缶内の水分と酸素のほとんどを除去することによって、なんと「25年」も備蓄可能なのだそうだ。しかも、合成保存料等を使用しておらず、美味しいとのことである。
劇評は誰のために書くのか? もちろんまずは同時代に生きる観客に対してという答えが返ってくるだろう。しかし同時に、「25年後」の演劇研究者や愛好家たちに「この当時は、このような社会的状況で、このような議論がなされていたのですよ」ときちんと伝えることも重要な役割である。自分の書いていることばや歴史観が、「25年後」の読者にも通用するものであるかどうか。それは情報が溢れかえるインターネット時代の「読み書き」の作法に抗うことなのかもしれないが。
5.出版不況のはざまで
インターネットの普及のおかげで、誰もが自分の意見を口にすることができるようになり、そのうちの一部の人は「劇評を書く」ということに貢献するようにもなっている。しかし、そこで書かれたものは、なんらかの公的機関によってデータベース化がされないかぎりは、紙媒体として「残す」ことが絶対的に必要なのだと思う。もちろん、構造的不況を抱える出版業界のなかでも「雑誌が売れない」ことを思えば、その困難は明らかだ。
JPAF(舞台芸術財団演劇人会議、理事長=平田オリザ)が発行する『演劇人』は2009年を最後に刊行が休止しているし、日本劇作家協会(会長=坂手洋二)による戯曲雑誌『せりふの時代』は2010年に休刊、AICT(国際演劇評論家協会)日本センター(会長=新野守広)から季刊として出版されてきた批評誌『シアターアーツ』は2015年から原則ウェブに移行した(演劇以外でいえば、『ぴあ』が2011年に休刊、『美術手帖』を刊行する美術出版社は2015年3月に倒産して民事再生法の適用を申請したことは記憶に新しい)。
そのようななかで、京都造形芸術大学舞台芸術研究センターが刊行している『舞台芸術』は2009年にいったん休止をしていたが、2012年から年1回のペースで刊行が続いていることは喜ばしいことである。だが、逆にいえば、このように大学の研究センターが予算を確保しなければ、演劇雑誌の存続はほとんど不可能であるということでもある。
したがって、必ずしも「雑誌」である必要はないのかもしれない。たとえばパリの劇場入口では「ラ・テラス」という月刊のフリーペーパーが配られていて、そこには前記事だけではなく、劇評も合わせて掲載されている。無料ではあるが70ページ以上のボリュームで読みごたえがあり、演劇・ダンスだけでなくサーカス、音楽などと対象も幅広い。毎年夏にはアヴィニヨン演劇特集号が発行されるが、部数は10万部だという。だが、これだけのものを作るには劇場の協賛も必要になってくるだろう。
6.劇評の文体について
最後に、文体についても少し触れておかなければならない。劇評というよりは批評といったほうが正確かもしれないが、基本的な位置づけとして批評は「研究」でもなければ「ジャーナリズム」でもない。アカデミズムの文体とは、まだ誰も言っていない仮説を証明するために、すでに確立された方法論によってロジカルに検証していくものである。一方、ジャーナリズムの文体とは、現在起こっていることを記録として、事実として淡々と伝えるというものである。
ジャーナリズムの文体は、簡潔で簡明でなければならない。「この新聞記者は実に難解な記事を書く」ということはあってはならない。現在起こっている出来事に対して、オリジナルな問いを立て、検証し、誰もが驚くような答えを導き出す必要はない。他方、アカデミズムの文体も、簡潔かつ簡明であるのが望ましい。しかし、「いままで誰も考えなかったこと」を示さなければならないので、いかに簡潔かつ簡明に書こうとも、しばしば難解さを伴うという事態が起こりうる。検証が実に緻密だったり、論理がアクロバティックだったり、他分野の知が援用されたりするためである。
インターネット上で欲望されるものは、どちらかといえば「ジャーナリズムの文体」のほうである。ただし、そこには「問いかけ」がなく、現状の追認以上のものではないということが多い。かといって研究者の書くテクストは、数名の批評家を除けば、「問いかけ」があったとしても退屈するものであることが多い。その理由はといえば、専門分野の知識がフルに活用されすぎていて「黙ってわたしの話を聞きなさい」という声がどうも後ろから聞こえてきてしまうのだ。そういう「声」が聞こえた瞬間に、その人の話にはもう耳を傾けたくなくなってしまう。
冒頭にも書いたように、料理とちがって舞台芸術では「客観性」があらかじめ担保されているわけではない。それをあたかも客観性があるかのごとく振舞っていること自体がおそらく問題なのである。客席にはさまざまな観客が座っており、全員がその日の「観客」という集団をかたちづくりながら、かつ自分は隣の人とはちがう観客でもある。しばしば指摘されるように、「個」でありかつ「全体」であるのが演劇の観客のあり方の特徴なのだ。したがって、書き手が観客全体を「代表」してしまうような書き方は、文体を問わず、おそらく退屈なものとなってしまうのである。
自分とはまったくちがう見方や考え方をしている「自分の横に座っている観客」に向けて言葉が発せられているかどうか。繰り返しになるが、それは「平均的な意見」に照準を合わせることでもなければ、「個人の意見です」と開き直って勝手なことを書くことでもない。客席における経験とは、おそらくその両者のあいだでつねに揺れ動いているものなのだ。劇評や批評が「公共的な言説」であるとすれば、それはまさにこのような意味においてであり、そのような「観客の複数性」をきちんと自覚している劇評こそが、「酸素」や「水分」がしっかり抜けて長期保存可能なものなのだろう。
7. むすびにー25年後の観客へ
「ワンダーランド」の活動はいったん幕を閉じる。最後に結論めいたことを述べておくなら、おそらくワンダーランドの功績のひとつは、まさしく「さまざまな観客がいる」ということを、文体のレベルで可視化したという点にあるのだろう。言うなれば、このサイトは会社勤めの演劇愛好家から、演劇やダンスを専門とする研究者までが同居している空間であった。それは実際の観客席そのものでもある。
ただし、インターネット的な「個人化」の推奨は、多様な観客の声を拾ううえでは有用であっても、クリティークの深度を深めることにはならない。そのことだけはしっかりと自覚しておく必要がある。
自分がある作品を「面白い」と思うということは、その裏側には、その面白さを理解しない、あるいは反発する観客がいるということを意味する。劇評や批評は、誰よりもまずその人たちに向けられていなければならない。なぜなら、その人たちはその作品を見たことがない「25年後の観客」にもっとも近い立ち位置にいるからだ。フライドポテトはなるほど美味しいが、それが25年後の自分が「食べたい」と思っているものだろうか。それは自分がいまフライドポテトを食べるかどうかにかかっている。
この期に及んでとりとめもなく原稿を書かせていただき、ありがとうございました。最後になりましたが、ワンダーランド代表の北嶋孝さん、そして歴代の編集部の皆さま、いままでお疲れさまでした。25年後にまたお会いいたしましょう。
【筆者略歴】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年福島市生まれ。演劇研究・批評。東京大学大学院総合文化研究科博士課程(表象文化論)。早稲田大学演劇博物館(演劇映像学連携研究拠点)研究助手を経て、2013年9月よりパリ第7大学博士課程に留学。専門はアントナン・アルトー研究、現代舞台芸術論。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に『北欧の舞台芸術』(三元社)。2013年、第17回シアターアーツ大賞受賞。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/
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―ワンダーランドのとりあえず最後の企画は、観客から見た演劇を明らかにしたい、という狙いがあります。今回、芝居に関心がある人で、話していただけそうな人を選んだら、たまたま女子会になった(笑)。みなさんはワンダーランドの「劇評を書くセミナー」に参加しています。顔見知りだとは思いますが、あらためて演劇に関心を寄せているわけ、何が劇場に向かわせているのか、ご自身と演劇の関わりについてお話いただくところから始めたいと思います。
芝居事始め
澤田:子どものときに観劇サークルに入っていたので、初めは母に連れられて見に行きました。ケの日とハレの日がありますよね。ハレの日がすごく好きなんです。お祭りごととかイベントごととか。劇場は夢の世界、そこへ行くのだと子どものときから思っていて、暗くなったときがいちばん好きなんです。次は何が来るんだろうとわくわくする。それを味わうために劇場に行っていたように思います。
大人になってみると、ハレの日の裏側が見たい、どんな風に作って本番に持っていくのか、お芝居を見る時も作った人の意図や作者が考えていることをすごく知りたい、と思うようになりました。他の芸術作品よりも、お芝居はその人が捉えている世界をダイレクトに教えてくれる気がしますので。
―作者や演出家の方に興味があるということですか。
澤田:そうですね。役者の方々もそれぞれ世界の捉え方が違って、お芝居だといろんな人の見方が合わさる。そのグラデーションみたいなものを見るのも好きですよ。
黒田:わたしはもともと大学で演劇をやっていて、見ることは演劇をやることの延長線上にありました。見る側になったのは最近です。だから観客として見ることがあまりできてない。自分がやるときはこうやりたいな、と見てしまいがちです。
でも、見ることは見ることとして面白いとここ1、2年でだんだん分かってきました。やる側として見ることと、お客さんとして見ることは随分違う。観客として見る楽しみはこれから探りたいという過渡期にある気がします。でも、例えば同じシェイクスピアでも、これだけ解釈が違うのかということは見ていて面白い。自分がそこからどれだけのことが受け取れるかというのは、今後は鍛えたいですね。
―大学時代は作・演出ですか、それとも俳優ですか。
黒田:両方です。一時期はどちらをやろうか真剣に悩んだこともありました。生活の兼ね合いもあったりして、役者や演出はもういいかな、と。でも、演劇はすごく好きで、でも演劇と関わるとしたら、いまは見る側として関わるのが現実的だなと思います。
田中:もともと古典が好きでした。祖父の世代はみな歌舞伎を話題にしていましたし、祖父自身が浄瑠璃三味線を趣味で弾いて語っていました。そういう雰囲気の中で育ったんですね。それから英文学の話になりますけれど、エリザベス朝演劇やギリシャ悲劇を学生時代に勉強しました。「王女メディア」の台詞を自分で読むのが非常に快感でした。そういうベースがあって芝居を見るようになりました。子どもが生まれる前の1980年代前半まではよく歌舞伎や文楽、文学座や俳優座などの新劇集団の舞台を見ていました。
それ以降は仕事と子育てで身動きがとれなくなった。それでも、子どもが1人のときは歌舞伎座に手を引っ張って見に行ってたんですけど、3歳児は世話物なんか見てくれないわけですよ(笑)。荒事中心に見せたりしてたんですけど、、「暫」で「あのおじちゃんなんで座布団持ってるの」とか大きな声で言う(笑)。落ち着いて見られなくて、2人目ができたときには完全にお手上げ。そのあと20年以上、仕事も厳しくなりましたから、歌舞伎の贔屓の役者の舞台は見に行ってましたけど、ほとんど見ることができなかった。独身時代は映画も含めで月に8本ほど見られたのに、ほとんどゼロ。だからその頃をダークエイジ(暗黒時代)と呼んでます(笑)。
25年くらいそういう生活で、ようやく解放されたのが2年前の3月。40年間の教職生活からリタイアしたのです。そこで、死ぬまでにし残したものはないかと考えました。俳句かな、絵かな、といろいろ考えて、ああ、そうだ、芝居を見残しているな、と。それでまた見始めたんです。
歌舞伎は世代交代の時期で面白くない。それで現代劇を見始めようと思ったときに、「古典戯曲を読む会」やワンダーランドを知って、小演劇の情報収集と見方をちょっとつまんでおこうかなと劇評セミナーに参加しました。
見始めて1年目が80本くらい、2年目は100本くらい。映画も100本ずつくらい見ていて、ドツボにはまってきたかな(笑)。今年からまた仕事を始めているんですが、とりあえず3年間は同じようにやってみようと思っています。
―芝居100本、映画100本。どんどん増えてますね。この調子だと、来年はどうなるんでしょう(笑)。田中さんが初めて参加したのは「劇評を書くセミナー2013」でした。それ以降、毎年参加していますね。
田中:1年目は聴講だけでした。
―それがだんだん深みにハマって(笑)今やブログ(「季節のはざまで」)を持つほどになりましたね。
廣澤さんと知り合ったのは、まだ関西の学生時代でしたか。
廣澤:そうですね、当時わたしは神戸にいました。2007年11月の五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」のクロスレビューの参加が、ワンダーランドへの最初の投稿でした。課題作品について400字なら書けるような気がしたのと、何より複数の人が同じ作品について書くということが面白そうだったので。
―クロスレビュー企画には条件がありました。実名であること、5段階評価を星印で責任持ってつける、という2つです。簡単そうで、これは意外にハードルが高い。関西から未知の方の応募だったので印象に残っています。あらためてうかがいますが、どうして芝居を見始めたんですか。
廣澤:はじめはすごくミーハーな動機です。高校生の頃、宮藤官九郎のテレビドラマが流行っていました。わたしは山口県下関市の出身なんですけど、高校卒業前の春に北九州芸術劇場ができたんです。そのこけら落とし公演のひとつに、劇団☆新感線が来る、と。主演が大人計画の阿部サダヲで、ドラマに出てたひとが見られる、と出かけたのが、劇場で芝居を見た一番最初です。大人がバタバタしてるなーと思った(笑)。
もともと絵を描いたり見たりするのは好きだったので、芸術全般には興味はありました。芸術学が専攻できる大学に行って、卒論で演劇を取り上げようと思った頃から、意識的に演劇を見るようになりました。ちょうど『美術手帖』のコンテンポラリーダンス特集(「dance?? dance!? DANCE!!」2005年12月号)とか、『ユリイカ』の小劇場特集(「この小劇場を観よ!」2005年7月号)とか、舞台芸術全般が他分野からも注目を集めていた頃だったんです。
―その頃は主に関西の公演を見ていたのですか。
廣澤:頑張って勉強しようと見てた時期だったので、関西でやってるものはなんでも見てましたね。新喜劇みたいなものもたくさん見ました。あとは『ユリイカ』を読んで知った、東京のカンパニーの関西公演とか。だんだん精華小劇場や京都芸術センター、アトリエ劇研で見ることが多くなりました。
見る芝居が変わってくる
―みなさんも経験があるかもしれないですが、本数を見ていると自分の好みが出てきます。あまり意識していなかった好みや志向にいやでも気付かされますね。
澤田:わたしは子どもの頃からそうなんですけど、コテコテしたものが嫌いなんです。過剰演出というか重ねていく感じのものがダメ。どっちかというと削ぎ落とし系が好きで、子ども時代はひとり芝居やひとり語りの舞台をよく見てました。たぶん、自分で勝手にイメージを膨らませることが出来る、想像することができるからだと思います。
一時期は落語や講談を見てましたが、最近はその延長線上で、過剰な演出ではないもの、歌って踊る系じゃない舞台、会話劇で最終的に詰めていくような内容の公演をよく見ます。でもあまり閉じちゃうと面白いのが見られなくなるので、とりあえず話題になっている舞台、面白いと聞いた公演は見ようと思っています。
―派手な演出というか、最初にドーンと激しく動いて観客をつかみ、芝居の中に引き込む演出もありますね。
澤田:それはそれでありですけれど、好みではないし、今っぽくないと思います。最近のお芝居って最初に圧倒的な世界観を作るというよりは、徐々に広げていくタイプの人が多いように思います。最初はふんわり、なんとなく入ってくる。そういうのに今の空気を感じる。主義主張をはっきり言わない感じでしょうか。
廣澤:ワンダーランドの連載「もう一度見たい舞台」で取り上げた庭劇団ペニノの「アンダーグラウンド」(2006年9月、ザ・スズナリ)はほぼ無言劇でした。当時、喋らないのが今っぽい! かっこいい! と興奮したことを思い出しました(笑)。
澤田:かっこいい!って思うときありますよね。舞踊には20代の初めにすごくハマりました。何も喋らないのかっこいい! 突き詰めたら身体だ! とか言って(笑)。今は台詞も楽しみたい。そのときそのときの感じによって好みって変わりますね。
こどもを産んでから、男性のつくる母性的世界観の芝居が嫌になりました。押し付けに感じて。いまは女性演出家による面白い芝居を見たい。男性が演出すると、女性の登場人物に葛藤があまりないんですよ。母性的なものをこんなダダ流しにする女はいないよ!と思って腹が立ってくる(笑)。女性に共感できる舞台が見たいと今は思います。
―黒田さんは、自分でやって面白いと思うものと、見て面白いものは一致していますか。
黒田:一致していないですね(笑)。でもそれはやってるか、やってないかではなくて、自分の人生ステージと面白いと思うものが如実に結びついているからだと思います。わたしも山口県出身なんですけど、山口には話題の芝居がやって来ないじゃないですか。見に行くのがすごくたいへん。だからたまにNHKで放映されるような芝居やそのイメージに近い劇団四季や蜷川幸雄演出の公演を見るのが楽しかったんです。
でも大学に入ったら「演劇的中2病」みたいな時代がきて、寺山修司すっげーかっこいい(笑)。それも落ち着いてきたころ、演劇を見に行く目的が変わってきました。今は演劇とどう関わっていこうかというのが自分のテーマなので、演劇って何だろう? ということを扱っている舞台があると、個人的にぐっと興味が湧き、惹きつけられます。情緒的でほっこりするものよりは、構造的なものに踏み込んでいくほうが好みになりました。
―最近、その点で恰好の芝居ってありましたか。
黒田:そういう話をした後で言うのも何なんですが、劇評セミナーの課題になったイキウメ「新しい祝日」(2014年11月)は劇構造を使っていました。しかし、なぜかときめかない。わたしのそういう時代は終わったんだな、というのがここ1、2カ月の出来事です。今は仕事が忙しくて凄く疲れているので、もしかしたら芝居を見に行くのが、お祭り的感覚にだんだんなりつつあるのではないか、そういう気分を求めているのではないかという仮説があって、そうすると「ほっこり系」とバカにしていたものを、もしかしたら楽しめるんじゃないかと考えています。
―それぞれのライフステージによって、見えてくるものが変わるのですね。
田中:芝居を見たあとに、心が浄化されるように思える時があります。最近では(英国のナショナル・シアターの舞台を映像化した)NTL(ナショナル・シアター・ライブ)の芝居を見たときは非常に満足しました。25年前にロンドンで見たことがありますが、演技力、表現力が全然違う。来年あたりイギリスに行かなければと思っています。70年代から80年代にかけて蜷川演劇に目を見開かされたので絢爛豪華な舞台も好きですが、NTLの芝居には、台詞を大切にした、余計なものは削ぎ落された舞台の魅力を感じました。
小演劇をたくさん見始めて、印象に残っているものは木ノ下歌舞伎と劇団チョコレートケーキ。木ノ下歌舞伎を見るようになったきっかけは「黒塚」(2013年9月)です。ワンダーランドの集まりでで教えてもらって、当日券しかなかったので1時間くらい並びました。会場は、ここでやるのかと思ったほど小さくて汚かった(笑)。
―横浜の十六夜吉田町スタジオですね。
田中:20代・30代の青年たちが鬼婆の意識・心象をすごく明快に出していた。「黒塚」は猿之助のしか見てないものですから、こんな風に表現できるんだ、と目から鱗です。古典を現代に生かすと言うのはこういうことだな、と思ったんです。歌舞伎は今のままやっているといずれ滅びて行くと思うんですよ。だって様式だけでやっていたってしょうがないじゃないですか。それを現代で生かしていくにはどうしたらいいのかと考えたときに、これもひとつの方法だなと。それ以来、「東海道四谷怪談」「三番叟」などの木ノ下歌舞伎の舞台を見ています。
劇団チョコレートケーキは、主義主張がはっきりしています。「治天ノ君」「サラエヴォの黒い手」「親愛なる我が総統」など、若い人たちがサラエボ事件やアウシュビッツをこんな風に考えているのかと感心しました。ただ突っ立ったままの、リーディングのような公演で、もっと演技の膨らみが出るといいなといつも思っています。気になるところです。
―劇の骨格がしっかりしているものが多いですね。黒田さんはいかがですか。
黒田:印象に残った作品って何だろうと考えていたのですが、あまり話の筋は覚えてない。瞬間瞬間のことしか覚えていないですね。あのときのあの動きが綺麗だった、あんな音がした、あのとき匂いも音もすごくて、何も考えられなかったな、とか。そういう意味では五感的に追い詰められた瞬間がある芝居はすごく記憶に残っています。でも、筋はまったく覚えていませんね。感覚的に見ていることが多いなあと、ちょっと反省してます。
―芝居はどういう見方がいいとか悪いとか法則があるわけではないですけど、その人にとって必要な部分が記憶に残りますね。
身体と言葉、観客
―澤田さんは削ぎ落とし系に惹かれると話していましたね。
澤田:削ぎ落されたというのは、テーマに対して深堀りしたという意味で使っています。(大学院で)社会学の研究をしていることもあって、今の空気を感じられることがいいと思っているんです。それは若いから、年をとっているからではないと思います。
「小指の思い出」(2014年9月、東京芸術劇場)を見たときに、演出よりも脚本、いつまでたっても台詞が陳腐にならないのは素晴らしいなと思いました。今の芝居の多くは10年後見たら、必ず陳腐化するんだろうと思うんです。こんなこと今言わないと思うだろうな、と。でも、「小指の思い出」の台詞はいつまで経っても色あせないだろうと思いました。
あと言葉と体が離れているということを感じたんです。わたしが最初に思ったのは、このお芝居は必ず手で文章を書くひと、手で原稿用紙のマス目を埋めているひとでないと出てこない台詞だということでした。そう思うと今のパソコン世代の作家の台詞は体と乖離したところから出てきている。身体の乖離と現代性ということを考えています。台詞に消しゴムで消して書きなおす葛藤がない。逆に「小指の思い出」は台詞に葛藤があったから出てきた台詞なんだろうと。昨年観た蜷川さん演出の舞台について思うのは、蜷川さんの演出は血肉が通っている。地面に立って歩いているひとじゃないと言わない台詞を演出する。体と台詞が乖離しちゃっている部分が、現代という時代のひとつの側面だなということを考えました。
―蜷川さんの演出だと、乖離が露わになっている、というのはどういうことでしょう。
澤田:近年の舞台の傾向として、台詞の言い回し、体の使い方で、今芝居をやっているということを出さないようにしている。日常的な台詞を多用して、舞台上の現実感を表現しています。でも、蜷川さんの演出だと、登場人物が現実的な台詞を喋ることで、逆にこのひとがこの台詞をこの体つきで喋ることはない、という違和感を感じたんです。
―廣澤さんはどう思いますか。
廣澤:えーと…作家の世界の切り取り方に興味があると、体や言葉の表現について澤田さんが話されているのを聞いて、ああ、わたし、そこには全然興味がないのだな、と感じていました(笑)。わたしが興味があるのは観客ですね。今は劇作じゃなくて、見ることに興味がある。
―廣澤さんが今まで劇評で取り上げた作品というのは、いわゆる建物としての劇場の中というよりは、野外のパフォーマンス、なのかもどうかよくわからない、ひとと言葉と風景とモノの位置関係だとか、ふれあいだとか、離れ方。そういうものに興味があるんじゃないかと思いましたが…。
廣澤:場所よりも観客への興味が先ですね。観客は例えば拍手や歓声によって演劇に関わっていますとか言うけれど、そういうことなのか? と思う。見ているだけで観客はどう関われるのか。何やっているんだろう、ということが演劇見始めて以来、ずっと気になっているんです。それはわたしが演劇をやったことはほとんどないけれど、見ることを通して興味を持ち続けているということに関係しているのだと思います。
劇場じゃない場所で演劇作品として提示されているものだと、観客―その場合参加者と言われたりもしますが、主体的なアクションが多くなるので、比較して考えやすくなるかもしれないというところはありますね。あと劇場に頼って提示されたものを受け取るだけじゃなくて、能動的に見出して演劇を成り立たせるということも面白かったんです。今はまた劇場に興味が戻ってきているのですが。
―学生時代いろいろ見ていた芝居は劇場公演が多かったですよね。首都圏に来て、就職して、だんだん見るものが変わってきたのですか。それとも、見ているうちに自分の関心を掘り進めていって今に至るということなのでしょうか。
廣澤:ずっと関心は同じなんだと思います。どこに関心があるのか分かってきて、どんどん細く狭くなってきている。で、観客にしか興味がない! とか言ってみてる(笑)。演劇が好きなことは前提だと思うんですが、やる側主導のことが多くて、それはバランスが悪いというか、もうちょっと観客に委ねる部分というか、観客が広げられる部分もあったほうが面白いのではないかと思います。
―田中さんの個人的な観劇体験の中での「空白の20年間」を経て、前と今とでは見たいものはあまり変わっていないですか。
田中:ベースの部分はそうなんでしょうが、昔のものがすべていいとは決して思いませんよ。当時は都市センターホール、虎ノ門ホールなんかがありました。新劇中心です。「コーカサスの白墨の輪」や「るつぼ」「夜明け前」など印象に残っている作品もあります。20年を経てあらためて新劇を見るんですが、工夫されて、洗練されている部分もありますが、全体的に時代のテンポにあってないということを感じます。昔の指導体制が残っているのかなと。台詞の言い回しとか、もうちょっとテンポよくしてよ、と思います。新劇も工夫しているようなので今後は変わって行くでしょう。
小演劇が予算のない中がんばっている。例えば木ノ下歌舞伎のような若者たちの陽性の作劇、いい意味での役者馬鹿!みたいなものは好感が持てます。出来不出来はもちろんあります。あと全体的に若い人の演技力は増していると思う。日常のチャットのような会話は上手ですよ。わたしたちはセンテンスで会話をしたいと思ってますが、若者たちは単語で会話をする。教師の立場で若者に接してきたわけですが、生徒の会話がどんどん細切れに、極端な話、単語だけになってきているのを感じます。「紙!」とか言われても、トイレの紙なのか何なのか分からない(笑)。
―教育現場は高校ですか。
田中:そうです。なので今はブログを書いていますが、昔はホームルーム通信というのを書いていました。当時、教師にも時間的なゆとりがありましたので、芝居や映画を見てきては書く。高校生は見もしないのに、おおーっと感心してましたけどね(笑)。本当は連絡とか、こんなことしちゃいけないといったことを書くんですけれど、そんなの面白くないじゃないですか(笑)。だからホームルーム通信を配って、芝居や映画の感想や紹介をしていました。今から思えば、当時の生徒が「ブログ」の最初の読者でした。
うれしい託児制度
―もうちょっと具体的な話に切り替えます。今回のシリーズでみなさんに聞いているんですが、入場料についてどう思いますか。現状はリーズナブルだと思いますか。
田中:普通の人が1万円近いチケットを買って、そんなに何度も劇場に行けないと思います。歌舞伎の1万8000円もそうですね。だからわたしは3階席の6000円にしています。それでも高い。蓬莱竜太さんが3000円で見せてやると言ったそうなので、その心意気を買って彼の芝居を見に行ったんですけど、暗い話だったので気持ちががくんときました(笑)。新劇も6000円と高めですね。でも最近は観客を掘り起こしたいという意識が見られます。若者向けの割引は当然、初日やウィークデイの昼間は半額近くになったりする。シニア料金もある。大学も奨学金のシステムを工夫している時代です。劇団側にもそういう工夫が要るでしょう。3000円だと行きやすいですよね。
澤田:子どもが生まれてから、託児も頼まなくてはいけなくなったので、チケットが5000円超えるときついですね。託児代かチケット代がもう少し安いといいなと思います。
田中:公立の劇場でも1万円前後のお金をとることがありますけど、おかしいと思うんですね。あとそういうところのパンフレットも1500円、2000円と高い。
―入場料は経済の問題であると同時に、趣味や賭けの要素も交じってきます。高くても面白かったらいいよという人も多い。安ければいいというだけの話でもない…。
黒田:わたしは今身軽ですし、作る側がどれだけお金も時間もかかるか知っているので、面白かったら1万円だって払います。ですが、事前に分からないというところがある。食べてみないと分からない。こんなものに1万円も払ってしまった!と後悔したり。
―観劇にはリスクが伴いますよね。
澤田:ですが、演劇は子連れ客へのケアが進んでいて、他のジャンルに比べて見やすいと思いますよ。芝居には託児がついている。事前に頼めば、開演1時間前から終演30分後まで、決まった時間きちんと見てもらえます。美術館や映画館はそうはいかない場合が多いです。
―田中さんが先ほどおっしゃっていたような割引制度も含め、努力はあるけどバラつきがありますよね。
田中::歌舞伎やオペラは人件費がかかるから仕方がないという側面もある。ギリシャの劇場は舞台から一番遠い席は本当に安い。高い席の入りが悪いと、下りておいで、ってそこにいる若い人たちをを入れちゃう。今後の観客をどう育てるか、は劇団にとっても大きな問題です。儲け一辺ではだめだと思います。いい客を育てる。大劇場で1万円近くも払って、この「マクベス」は一体何! と思う反面、木ノ下歌舞伎の「黒塚」は3000円。素晴らしいですよ。
観劇以前の問題も
―田中さんは20年を経て、客席が変わってきたと感じることはありますか?
田中:新劇は、客のほとんどがシニア世代。この前行った俳優座の「櫻の園」は前売り完売だったんですけど、場内を見渡すと俳優座の歴史とともに歩んできた人たちばっかり。つまりこれから消えていく人なんですね。若い人が入っていない。
―国立劇場のZ席でそれを感じました。舞台には若い人がいるけれど、客席には白いものが混じった人が目立つ。
黒田:満席の舞台って確かに、シニア世代が多いですよね。シニアの人しかいなくてガラガラの客席は見たことない。
澤田:マームとジプシーも最初は若い人が多かったのに、「小指の思い出」はシニアの人の方が多かったと思います。友達がイケメン俳優好きで、「テニスの王子様」ファンなんですけど、そういうところにいくとOLさんがたくさんいるそうです。逆に若い女の人しかいない。それで満席になる。若い層が求めているものと劇場でやっていることが違うのかなと思います。
田中:若い人は何を求めているんですか。
澤田:友達は「ときめき」だって言ってました。でも、どんなにイケメン俳優でときめきがあっても、内容がない舞台を見ると悲しいと。そこそこに面白い脚本でイケメンが出るといいと言っていました。そういうことなんですね。
田中:今労働条件がますます悪くなっていて、来る余裕がないのかもしれませんね。
澤田:お芝居の内容が良くて、これを見ていろいろ考えたいとかじゃなくて、そこにいけば夢の世界が見られる、普段を忘れさせてくれるようなものが見たい、イケメンがたくさんいて現実的でないもののほうが安心、なんでしょうね。どっぷり浸かっても嫌な思いしないし。逆にAKBは若い男の子がいっぱい。そういうものなんだと思う。生身の人が歌って踊ってるだけで感動しますよ。それは必要なんですね。アイドルを呼ぶとかも。
-大手の劇場でよくあるパターンですね。
澤田:でも敷居が高いみたいですよ。内容もよく分かんないし困るってジャニーズファンの子は言ってました。小難しいのは嫌だ、と。
―観客にいちばん関心があるはずの廣澤さんが黙ってますけど、なんか考えが違っていますか。
廣澤:…3000円ですらきついですよ。わたし自身、働いて7、8年になりますが、もらえる金額はどんどん減っているというのが現状で、見る本数は減る一方です。黙ってたのは、基本的に演劇を見るというところから話が始まっているのに違和感があったからです。わたしはまだなんとか払えますけど、娯楽に3000円払えないという状況は容易に想像できます。
黒田:仕事で20~30代の女性向け雑誌をつくっているんですが、よくうちの本買ったなというくらい生活を切り詰めている。漫画1冊買ってすごく娯楽した、という人にとっては、演劇見るなんて1年に1回あるかないかなんですかね。
―所帯別の収入をまとめた調査(国民生活基礎調査)によると、平均で537万円くらい。中央値だと432万円ちょっと。ボーナスを仮に2カ月分としても、月収30万円前後の所帯が半分以上を占めます。国税庁の民間給与実態統計調査でも、給与階級分布を見ると、男子は年間300万円台、女子は200万円台が最も多い。芝居を見るまでにいかないという指摘はよく分かります。文化資本という問題もありますね。地方では特に演劇を見ること自体が突拍子もない考えだということもあります。学校教育では、音楽や美術が「芸術」科目に入っていても、「演劇」は事実上省かれていますから、遠いんでしょうね。
田中:鑑賞教室はありますけれど、教科としてはないですよね。
観客の時間
―これまで言い出しかねていたことはありませんか。
澤田:お芝居見ると喋りたくなるんです。他の人がどう見たんだろう、とTwitterやFacebook、ブログなんかを見ちゃう。そういう話す機会がもっとあればいいなと思います。
―田中さんは劇評セミナーに参加しながら、最初は劇評を書かなかったようですが、やはり書くことはハードルが高のでしょうか。
田中:高いですね。書くことには抵抗はなかったけど、演劇の見方に自信がない。表現方法もわからない。でも、例えばワインのテイスティングの教室に通ったことがあるんですけど、初めは甘いとか辛いとかいう程度の感想しか出てこない。だけど少し知識がついてくると「枯葉の風味がする」とか、「南国の甘いオレンジの香りのする」などの表現がいろいろ出てくる(笑)。お芝居もきっとそういうところがあるのだろうと思います。ただ面白い、面白くないではなくて、どういう風に面白いのか、とか。しかも小劇場演劇を見たことがなかったので、いろんな人の意見を聞こうかな、と思って1年間通いました。
―参考になりましたか。
田中:いろんな劇団を知ることができましたし、助言も与えていただきました。木ノ下歌舞伎の「黒塚」を発見できたし、「アマヤドリ」や「柿喰う客」が劇団名だということも知りませんでした。30代40代の若い劇作家のことを知ることができて、なかなか奥深い世界だなと今は思っています。そういう意味では、知識が入ったことで余計に書けなくなっているというところもあります。今年は2本を書いたので、3本目を書きあげたいと思っています。
―廣澤さんは、観客が感想をシェアする会を開いていますね。書くのと集まって話をするのは違いますか、やはり書くことは敷居が高いと思いますか。
廣澤:集まっていろんな人と感想を話し合うのは面白いですよ。そういう場はあったほうがいい。本当に、びっくりすることばかりです。自分の見方がいかに狭かったかが分かる。でもシェアしたい気持ちと、文章化はまた別の欲望だと思います。個人的には、今は書くことがだんだん面白くなっているので、以前ほど会はやれてないのですが。
―黒田さんはやる側から見る側への変わったということですが、見る側としてできることがないか考えることはありませんか。
黒田:大学の卒論が「演劇観客論」でした。観客が観客を演じたがるということを書いたんです。演劇をやりながらSNSで書き込んで後ろに投影されるような、ニコニコ動画みたいなことをしたり、だだっ広いところで芝居をやって、観客にどこに座ってもいいですよと言って、どこに座るか分析したりしたんです。観客が必要だというのをやる側からしか見てなかったわけですが、今は見ている観客の中には時間が流れて行くのだから、どういう身体状況でその2時間なりが進んでいくのかに興味があります。
でも、書かなきゃ残らないな、とも思っています。ワンダーランドの劇評は作品論が多いので、それも必要なんだろうけど、わたしがやりたい活動は別だと最近思い始めました。見た人がどういう時間軸を辿ったかが分かるといいなと思っている。なんとかやり方を考えて、みんなが楽しくなるといいですね。
澤田:観客が観客を演じるという見方は面白いですね。わたしは観光学という社会学の一分野について学んでいるのですが、現地に行って観光客がどう振る舞うか調べると、観光客は自分の中でイメージしたことをイメージ通りに振る舞うんです。その場で楽しむというよりも、メディアで見たイメージを繰り返すためにその場に行っている。SNSにどういう写真をUPするかが重要で、その場が楽しいかどうかじゃないという話と近いと思いました。実は見てる人も見られていることを知っている。自分たちがどう思われたいかというのが発信するときにあるから、普通に演劇を見てるよりも、「わたしのなか」の観客像を作り上げているのかもしれないですね。
黒田:そういうことを気にしながら演劇を見ているのはひとりの活動で、広がりがない。見ながら目の前で起きていることだけを享受している状態なのか、第三者的な意識があって今わたしは面白い顔をちょっとしてみようとか。そう思ってやってみることってありますか(笑)。
澤田:わたしどちらかというと作品論が好きなんですけど、私の夫は、客席が盛り上がってなさそうだから拍手をしてあげようとか、すごくいい演技をしたから納得したような顔をしてみようとか(笑)。3列目ぐらいにいるとそう思うらしくて、役者さんに向かって「うんうん」うなずいたりしてる(笑)。だから作品の内容を全然覚えてない。観客としてそうするのが礼儀だと言っていて、プレイヤーとして見ている。わたしもだんだんそれが刷り込まれつつありますね。
黒田:やる側になると、客席は結構見えるし、人が入った舞台と入らない舞台は違う。観客がいるかいないかで質が変わる。見ているひとの反応によって変化するというのが体験としてあるから、見ているときに自分に何ができるのかは考えます。だから見た後に何をするかということよりかは、見ている最中に観客として何をするのかが気になりますね。
澤田:観客論って面白いですよね。
廣澤:演劇を見るのが好きな人の中には、観客への興味がある人は少なからずいるのですが、あまり表面化しないんですよね。
―文学の世界だと読者論という視角とジャンルがあって、いつも「読む」行為が問題になります。しかし演劇の世界で「見る」ことがきちんと分析されていないと思ってきました。そのための手がかりとして、劇評を書いて載せて、みんなで読んでみようというのがワンダーランドの始まりでした。観客との関係を閉ざすとおそらく演劇は枯れてしまうのではないでしょうか。この座談会も一つの手掛かりになって、観客の世界が広がるといいですね。今日は長時間どうもありがとうございました。
(2015年1月31日、池袋のカフェ)
(聞き手・構成=北嶋孝 編集協力=廣澤梓 撮影=水牛健太郎)
【略歴】(発言順)
澤田悦子(さわだ・えつこ)
1980年生まれ。福島県喜多方市出身、東京都世田谷区在住。法政大学大学院、修士課程在学。20012年よりワンダーランド「劇評を書くセミナー」に参加。
田中瑠美子(たなか・るみこ)
都立高校教員生活40年強。2人の子供の育児と教育、特に石原都政以来、年々過激・過剰・愚劣になる仕事のせいで、芝居や映画を見る余裕と体力がなかった。今、復活している。
黒田可菜(くろだ・かな)
1987年生まれ。山口県のアマチュア劇団・劇団のんたにて役者デビューののち上京、東京学芸大学演劇学ゼミにて役者、演出などを経験。学生女優を主人公にして書いた小説が三田文学に掲載。現在は編集・ライター業を中心に活動。
廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。観客発信メディア「WL」発起人。
4月からは、【レクチャー三昧】カレンダー版のほうに漸次情報を掲載して参る予定ですので、時折覗いてみて下さい。
ワンダーランドに関わったすべての方々、読者の皆さま、そして日本演劇界の仕合せと繁栄を祈念しつつ、ひとまずのお仕舞いと致します。(高橋楓)
* 【レクチャー三昧】カレンダー版は次のページでご覧ください。
>> http://www.wonderlands.jp/lectures/
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YCC(横浜創造都市センター)そばの路上で、テキストを開きふと目に入った二択の設問に茫然とする。その問いに答えるには多少の時間と心構えが必要だ。念のため貯金通帳の残高も確認しなければならないし。プロポーズを受けた時じゃないけれど、しばらく考えさせていただけますか? 1週間、せめて数日。とてもじゃないけど、終了時間の夕方5時までには答えが出そうにない…。
いやいや、と気を取り直してテキスト―じゃない「冒険の書」というんだっけ―を読み直す。
【ルール】のページを繰ると「演劇クエスト」は「この『冒険の書』に書かれた指示を頼りに実際に街を歩くプロジェクト。好きな時にやめていいし、好きな時に再開してよい」「単独行動(ソロプレイ)を強く推奨」とある。遊歩型ツアーパフォーマンスと銘打たれ、引率者もいなければ途中でパフォーマーが何かをするといった仕掛けもない言わば“放置プレイ”で、実は私は「本牧ブルース編」で体験済みである。今回は同じ方式で横浜の界隈を巡ることになるのだろう。
ガイドブック片手の街歩きとどこが違うかというと、鍵は事前に配られる「冒険の書」(註1)。挙げられた144もの項目はエリア別やルートごとに並べられているのではなく、アットランダムにばらまかれている。道や見るべきポイントの説明だけでなく、先のような不思議な設問やちょっとしたエピソード、小説・エッセイなどの引用も多い。ともあれ基本的なやり方としては、参加者は「冒険の書」を片手に、地点ごとにいくつかの選択肢の中からエリアあるいはポイントを選び、該当する項目と地図を手がかりに先へと進んでいく。
スタート地点のYCCから向かうのは、象の鼻テラス、KAATエリア、新港エリア、桜木町エリアの4つのうちのいずれか。そこで、あまり名前に聞き覚えのない新港エリアを選ぶ。その日は快晴の“冒険”日和で、直線の大きな道をずんずん歩いていくと、左手に大観覧車がくっきりと見えてくる。海に突き当たれば、行き交う白い船をバックに数人の少年たちがスケボーで競走している姿ものどかだ。
続いて、地図を見ながら赤レンガ倉庫→象の鼻テラスへ。この辺はダンス公演や、最近ではままごとの「Theater ZOU-NO-HANA 2014」を見に来た、まあまあお馴染みの場所。だが方向音痴の私には、それぞれの場所には行けても位置関係が理解できていないので、ああ、あそこをこう来るとここに出るのか!という驚きがある。点が線になり面になってエリア全体が把握できるようになる、というのは本牧編でも体験したこと。
さらに進んで、国際客船ターミナルの大さん橋。屋上広場は船の甲板をイメージしたウッドデッキ仕上げ、少し斜めになった床材が組み合わされて緩やかな傾斜をなしている。「くじらのせなか」というネーミングが絶妙だと思ったら、平成18年に公募し、応募された約4000の名前の中から選ばれたのだという。見渡せば、対岸にずらりと立ち並ぶビル群が壮観。
【写真は「くじらのせなか」とそこから眺めた海辺のビル群。撮影=筆者。禁無断転載】
ここからKAAT周辺へ、少し戻るようなかっこうで進む。道々思うに、やはり来たことのない所に行ってみたい。パラパラっと冒険の書をめくったうちでは寿町が気になる。どうも呼ばれているような気さえしてくる。そこでKAATには寄らず、地図でも探しきらずに、何となくこっち方面ではあるまいかという方へ無謀にもどんどん歩き出す。
もしかして行き過ぎなのではないだろうかと思った頃、扇町1丁目の交差点というところに出た。さてここからどう行くのか? 冒険の書には索引的なものがないのでやみくもにページを繰るしかないが、やはりわからない。とうとうグーグルマップを使ってしまう。本牧編に「たぶん使わないほうが楽しい」とあったので禁じ手にしていたのだが、背に腹は変えられない。
「寿町に足を踏み入れてみるなら、石川町駅近辺から向かうこと」というので、まずは石川町駅を目指す。駅周辺の路地に沿って小さな建物がびっしり立て込んでいる一角がそうなのだろうか? 何だか常ならぬ匂いもしてきたみたいだし…と地図を見直す。ところがそこではない。よく見ると、寿町は扇町1丁目から石川町駅までの辺りにあり、何とその横を通り過ぎてしまったのだった。即引き返すことにする。
一体あの匂いは何だったのだろう? そういえば、あちらから来るおじさんの風体がやや不思議。2月上旬というのに、ランニングシャツと膝のところでぶった切ったズボンというあり合わせ感満載な服装、両膝に包帯を巻き、両手には中身の詰まった白いビニール袋をいくつもと赤い柄のついたビニール傘。メモ替わりにと瞬間的に写真を撮りそうになった自分に思わずギョッ!とする。寿町の項には「日本三大ドヤ街のひとつ」「このエリアを探索する場合は、不用意に写真を撮らないこと」とある。
もっとゴチャゴチャしたところかと思っていたが、予想に反して寿町の通りは広い。まずは最初のポイント「ことぶき保育園」に向かう。この地区の真ん中辺りに位置しているらしい保育園の2階から上は「寿生活館」とあり、住まいのスペースのようだ。向かい側にはサッカーのできる公園スペースがあり、土曜日だからか大人も子どもも混じってのゲームの真っ最中。うち2人は白っぽいくらいの金髪をたなびかせている。生活館の4階の窓が開き、少年が「ミライー」と叫んだ。サッカーをしている友達か兄弟の名前を呼んでいるのかもしれない。漢字で「未来」と書くのだろうか。
突然、頭の禿げたでっぷりと恰幅のいいおじいさんが「創価学会のオバン?」と言いこちらをじっと見ながら寄ってくる。問いかけなのか独り言なのか? なぜだかどてらっぽいものを着ていて、この人もありったけの持ち物なのかパンパンになったビニール袋をたくさん下げている。今、一番してはいけないのは、踵を返して駆け出すこと。そしてあからさまな後ずさりも。「違いますよ」という感じの笑みと真顔の中間くらいの曖昧な表情を浮かべて、なるべくゆっくりさりげなくを心がけてその場を立ち去る。
冒険の書には、西尾佳織(鳥公園)の寿町を舞台にした日記「コトブキ滞在記」からこんな一節が記されている。
…ドミトリーは白人の女の人と相部屋だった。夜、共同シャワーを使って足ふきマットが全面どこも濡れている上に立ったとき、強烈なリラックスできなさ、安心できなさを感じた…自分はかなり汚いめの状況でも、雑魚寝とか夜行バスとか繊細さからかけ離れた環境でもいける方になったと思っていた。だけど結局私は、我慢できるようになっただけで根本的に他人をゆるしていない、受け入れていないのだということに気付かされた。ベッドの上段へ行くとき、白人女性の体臭がした。
指示に従っていくつかの角を曲がりながら、見るともなくこの街を見ている。立ち止まっていると話しかけられそうで落ち着かない気分。無言の圧力に押され、冒険の書を開くのも最小限の時間に留めてサクサク歩く。ここにいるのはほとんど男ばかりでかなりの割合で高齢者が多い。目的に向かってではなく、そぞろ歩きでもなく、ただ揺れるように一人で歩くともなく歩いている人がチラホラ。複数のビニール袋や、紐でひっくくった大荷物をガラガラと引いていることも少なくない。ただならない匂いも、気のせいではなく漂っているようだ。
今でもたまに会う娘のクラスメートのお母さんが、中学受験を前に新宿駅の地下道に子どもを連れていったという話を思い出す。当時たくさんいたダンボールハウスのおじさんたちを横目で見ながら「勉強しないとああなるのよ」と「悪いけど」言ったのだという。
続いての「コトブキ滞在記」からの一節。
早朝、私が帰宅しているのを見つけて両親が何か言ってるのが聞こえた…ちゃんと起きてから母と話したら、「パパが『佳織が帰ってきたせいで臭い。乞食の匂いだ』って言ってたよ」と言うので、色々サイテーだなと思った…宿へ戻って戯曲を書いていて深夜、ドアの外から肉と肉の当たる音が聞こえてきてギョッとした。後背位でセックスしている音だと思ったけどまさかそんなわけないだろうと思った。で、男の人がオナニーしているんだろうと思った。それでそういう音が出るものかどうか分からなかったけれど、しかしこの環境で二人、というのは絶対的に無い気がしていた。その音はものすごく長く続いた。断続的なのが殊に嫌だった。たまに手(?)が止まって息切れが聞こえる。しかも。たぶん1回終わった、と判断するくらいの間を置いてまだ次へ行く。電車内でいちゃつくカップルに遭遇したときのような分かりやすい不快さと違って、状況がつかめなさ過ぎて身動きの取れないフラストレーションを感じた。これはアクシデントで聞こえてしまっているのか? それともこの宿では日常茶飯事なのか? 変態がわざと聞かせているのか? この人はどこにいるのか? まさか廊下?? 人数も距離も方向も内容も意図も、何も分からない。
示された道順から少し離れたところに男たちの人だかり。大声で数字を口にしている。地図には「競輪」とあるから、そこにTVでもあって結果がわかるのかもしれないがやはり近寄りがたい。それを横目に歩いていくと不意に大通りに出た。「これで寿町の探索はひとまず終わった」のだ。石川町エリアの項に「南の丘の上には、洋館やお嬢さん学校が立ち並んでいる。あちらが天国だとすれば、ドヤ街として知られる寿町エリアはさながら地獄であることだろう」とあるが、その「天国」と「地獄」、そして地上との境界はけっこう曖昧で、知らなければ気付かずに脇を通り過ぎてしまうほどだった。
寿町で費やしたのは、正味ほんの10分か15分。その直後、大通りを横切っているといきなりクラクションを鳴らされる。ハッと顔を上げれば、ぼーっとして赤信号を突っ切っていたのだった。さほど緊張はしていなかったつもりだったのだが、多少なりとも尋常な心持ちではなかったのかもしれない。昔、足を踏み入れてはいけないと言われたマンハッタンのアヴェニューAの辺りに迷い込んだ時はこんなもんじゃなかった、やっぱり日本だなぁと思っていたのに…。
一番近いファミレスはまだ気が許せないように思えて、少し足を伸ばしたところにある「デニーズ」でホッと一息。引用した「コトブキ滞在記」は、寿町では読めなかったのでそこでじっくり読む。ほどけていく気分と相まってなにがしかのモノガタリが醸成されていくような気配を感じた。時間はすでに5時に近く、私の“冒険”も終わった。(註2)
ときに「演劇クエスト」というタイトル。「クエスト」ですぐ思いつくのは「ドラゴンクエスト」だが、英和辞典で「quest」をひくと1探求、探索、2(中世騎士の)冒険の旅とあった。探索と中世の騎士と言えば“聖杯伝説”を連想する。
騎士による失われた聖杯の探索は、ケルト神話に端を発するというアーサー王物語の主要モチーフの一つ。聖杯は、キリスト教と結びついて最後の晩餐でキリストが用いた杯ともされる。欧米では人気のある話のようで、ワーグナーのオペラ「パルジファル」をはじめ、近いところでは映画「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」(1981年。「インディ・ジョーンズ シリーズ」第1作)や小説「ダ・ヴィンチ・コード」(2003年)等々、さまざまな形で取り入れられている。
伝説のもっとも基本的な形は、次のような形である。漁夫王(または聖杯王)が病み、主人公である聖杯の騎士が聖杯に正しい問いをすることで回復することができるのだが、失敗し、騎士は聖杯探求の使命を与えられるというものである。騎士は数々の試練を乗り越え、聖杯を発見し、漁夫王は癒され国土は再び祝福される。(ウェイキペディアより)
騎士は偶然出会った王の城に連れていかれ、目の眩むほどに輝く聖杯を乙女が捧げ持つという神秘的な光景に出会う。王は不治の傷を負っており、外から訪れた者が「それで誰に食事が供されるのか?」「王はなぜ病み傷ついているのか?」などと問わない限り癒えないのだという。その問いが発されることによってのみ、光に満ちた本来の世界が立ち現れる。
唐突な妄想が頭をよぎる―私は寿町で正しい問いを発しなかったために見出すべきものを見い出せなかったのだろうかと。
聖杯を持つべくも探索すべくもない今の時代の私たちは、一体何を探すのだろう。何を探すのかを探すのだと言えば、それは辻褄合わせの言葉遊びに過ぎるというものだ。
ところで一体これは演劇なのだろうか? 演劇に不可欠なものは演じ手と観客だと習った気がするが、あそこでの自分は観客だったのか演者だったか? 答えを出すにはもうしばらく時間が必要だ。1年か10年やそこらは考えさせてもらえるだろうか? 長いクエストになりそうだけれど…。
(註1)冒険の書はホチキス留めの簡単な作りで、本牧編ではそのホチキスが見えていたのが、横浜編では隠れるよう背に黒い紙が貼られ、しっかりしたノート状に進化していた。いずれも内容は濃く、後日、再使用して別ルートを辿ってみたいと思っている。
(註2)横浜編・本牧編の他の参加者たちの報告も読むことができる「BricolaQによる遊歩演劇『演劇クエスト』に参加した冒険者たちの記録」
【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都生まれ、東京在住。70年代、暗黒舞踏やアングラがまだまだ盛んだった頃に大学生活を送る。以来、約30年間のブランクを経て、ここ数年、小劇場の演劇やダンスを見ている。2009年10月よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/
【上演記録】
TPAM宮永琢生ディレクションBricolaQ「演劇クエスト 横浜トワイライト編」
2015年2月9日、11日-15日
受付:ヨコハマ創造都市センター(YCC)
入場無料
設計・編集:藤原ちから(BricolaQ)
ドラマトゥルク:落雅季子(BricolaQ)
テクスト:柴幸男(ままごと)、西尾佳織(鳥公園)
空間構成(横浜創造都市センター1F):飯田将平(ido)、深川優(ido)、西尾健史、吉野太基
翻訳:並河咲耶
通訳:門田美和
制作:横井貴子(演劇センターF)