THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』

 ◎ミュージカル『ビッグ・リバー』 アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識   観に行こうと決めた最大の理由は、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっ … “THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』” の続きを読む

 ◎ミュージカル『ビッグ・リバー』 アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識 

 観に行こうと決めた最大の理由は、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっている」と紹介している文を読んだことだ。この文だけでなく、新聞のインタビューでも似た記事があったのを覚えている。手元に原文がないので記憶で書くと、「手話をダンスにしたのですか?」という趣旨の質問をされた公演のスタッフが、そんなつもりはないのだがと困惑していた。感動!!絶賛!!の声に包まれながら主催者が微妙に困っている様子を想像すると、それ自体演劇みたいだ。

 たしかに「手話がダンスの振付になっている」は、舞台をイメージしやすそうな例えなのだが、手話とダンスどちらから考えても、その言い方は雑ではないかと思う。まずアメリカ式手話(=American sign language)は、れっきとした言語(=language)の一つだ。「手をこういうかたちにしてこう動かしたら、こんな意味になる」というように、身体の動きは最初から具体的な、決まった意味を持っているはずである。さらにそのかたちは機械的につくられ組み立てられるのではなく、感情が伴う。
 一方、ダンスは基本的に「言語を使わないという制約」(DANCE CUBE)がある。踊る身体の動きはsignとは異なり、決まった意味を必ずしも持たない。それにダンスはとても幅が広いので、現代の観客は「ダンスだけを抽出し、感情を分離させた振付」(前出リンク先より)を観て、それぞれの感受性で自由に作品を理解するという体験もできる。例外といえそうなのは、バレエで用いられるマイムだ。自分の意志や状況を説明するマイムと、手話のかたちが似る場合はあるかもしれない。が、バレエはマイムのみでは成り立たないし、いわゆる「物語バレエ」と呼ばれる作品の中にも、物語の説明に従事することから身体が解き放たれる瞬間はたくさんある。
 このようにダンスは、言語で表現できない・言語から解放された領域に深く関わる。しかし手話は言語だ。ダンスと手話には根本的な違いがある。それを無視できてしまえるのは、もしかしていっしょくたに「どちらも身体の動き」と捉えているからではないだろうか。紹介文の説明に疑問を呈するだけでは仕方がないので、道徳教育的な狙いが強い公演だろうかと若干かまえるところもあったが、とにかく観に行った。


 果たしてそれは、目で聴くパフォーマンスであった。
 俳優は忙しい。ハックとともに旅をする逃亡奴隷のジム(M.マッケロイ)は、通常のミュージカルと同じように声に出して話し歌い、同時に手話を行う。厳しいダグラス未亡人の元から無法者の父親に引き取られ、逃げ出すハック(T.ジョルダーノ)は全身を駆使して手話で話す。
 俳優たちの手話は日常のやりとりとは違って、いかにも演劇的な台詞になっているようだ。台詞が詩になり、リズムやテンポがつき、信じられない表現力が加わるとどうなるか。なんと目で聴く歌詞つきの歌になる。もちろん耳で聴く歌とは違うが、手持ちの語彙ではこう表現するしかない気がする。もしそう捉えられると困ることであったら、音声担当の俳優をそばで話す・歌わせて、台詞や歌をどう表現しているかがわかりやすくなる演出はしなかっただろう。
 また例えば遊び仲間で計画を立て、全員が浮き足立つステップなど、いわゆる「振付」は別に存在している。そういった振付、表情、音による台詞・歌、目で聴く台詞・歌が層のように重なりキャラクターの感情の発露となった場面でも、一つ一つは区別できるものだ。私には手話がダンスの振付になっているとは思えなかった。

 ハックの声の台詞と歌は、原作者のマーク・トウェイン役を兼ねた俳優(D.ジェンキンズ)が脇から担当する(彼は楽器も弾く)。麦藁帽子に柔らかそうなシャツのハックに対し、三つ揃いを着こなしたマークのように、手話/音声の両者のいでたちは違う場合と、似た装いで出てくるパターンがある。その上、彼らの立ち位置が離れている(小説のページを模したパネルが立ち並ぶ装置の斜め上方、あるいはサイドから、または群集にまぎれ、音声担当が手話にあわせて台詞を言う・歌う)場合と、両者ぴったりくっつく場合に分かれる。立ち位置が離れている時は、聾唖の俳優の位置に近い方のスピーカーから音声が出る。
 ぴったりくっつく場合で代表的なのは、ハックの父親だ。容貌はあまり似ていないが、まったく同じ衣装を着て迫力ある髪型をした2人の俳優が現れ、ほぼ同じ振りをしながら手話と音声に分かれる。父親の周囲へ及ぼす迷惑、粗暴な振舞いは両者により増幅して表現される。両者はわずかに違う振りの時を中心に、細かく合図しあっているようだ。なお両者は、このように手話/音声に分かれる時と、手話/音声+手話になる場合がある。
 こうしたヴァリエーションは、演出上最大の効果を発揮するよう緻密に計算されているはずなのだが、繰り返し観ないと全貌を掴むのは難しいだろう。おまけに日本公演は字幕つきである。台詞を字で追いすぎると、手話による台詞を見逃してしまう瞬間がままあった。

 舞台を観ていると、手話は顔の表情や全身を駆使する特徴を持つ言語であり、感情を伝えるための身体表現力が鍛えられるのだなということもわかる。
 特にジョルダーノの、くるくる円を描くような滑らかな手話の軌道は際立っており、それは快活な喋り方のハックを思わせ、また一カ所に納まらない自由の希求者という、キャラクターの完結した側面をにじみ出させていた。一つ一つの手話が慎重で、強い意思を感じさせるマッケロイとともに卓抜した表現力である。ただし俳優の個性として突出しているジョルダーノの清潔感は、ハックという役柄を考えると評価が分かれるかもしれない。それからメイドの母娘による二重唱も忘れがたい。深い海を思わせる圧倒的な声量の霊歌と、天上を繰り返し仰ぐ手話と表情。耳と目に弔いの歌が届く。葬式の場面で歌われるのだが、これほど強い哀悼の表現を私は観たことがない。
 クライマックスでは大勢の俳優が舞台にいて、それまでの音声による合唱がふつっと消え、全員の手話だけが続く場面がある。静寂の中、大音量の歌が目に押し寄せてくるような、不思議な感覚にとらわれた。音が消えた瞬間に、私の中で歌を捉える方法が切り替わったのだ。だがいつもの「ものを見る手段としての目」を変えずに「揃って上体を動かしている」と考えたら、目から聴こえる歌の音量は絞られ、彼らの手話は群舞にも見えただろう。手話が「ダンスの振付になっている」という言葉は、目を目としてしか使わなかった場合の感想だと知った。
 
 装置は舞台の中央に二畳ほどの台が置かれ、それにジムとハックが乗ると、彼らは筏の上にいるという見立てになっている。いざ河へ漕ぎ出す時は、台の周囲に並んだセピア色のパネルが上と横にはねて、鮮やかなブルーのスクリーンが現われた。冒険が始まるという物語上の展開だけではなく、紙と文字で親しまれてきた古い原作から新しく作品が旅立つ、という意図もあって、小説のページを模した古めかしいパネルがはねる装置を創ったのだと思われる。だが、当時の空気が鮮明に舞台に映し出されていたか、さらにその空気を現代に生きる彼らがどう捉えたのかということに関しては、さまざまな課題が残ったように感じた。
 原作は『トム・ソーヤの冒険』とともに、本国では大変よく知られた物語なのだろう。のみならずこの小説を支えるアメリカの、これぞ大陸という広大な土地、場所によって激しく変わる自然や気候、父と息子の関係の重要性、自由の重さ、州ごとの強い権限などはいにしえの神話的事柄ではなく、文化を育み今の生活とも少なからず地続きであるに違いない。そんな空気のように共有されているものを、地形も歴史も宗教も違うところにいる人間が、この作品を観て想像・喚起できる描法がどれだけあっただろうか。今回はその一番大事な空気が入れ換えられ、ハックの冒険譚があらすじに沿って清らかに上演されていた。それよりも作品の時代を生きた人々が感じ、嗅いだであろう南部の空気、大陸の内側にいる人間が意識/無意識的に「当たり前」だと思っている背景を彼ら自身がよく見て立脚点を定め、劇場で描法を駆使して観客の五感に訴えたなら、より創造的な摩擦が起きた可能性がある。俳優らがとまどいを見せるほど淡々と舞台が進んだのは、英語のギャグを理解できない観客のせいだけではないはずだ。
 カントリーやゴスペルを用いた楽曲は「Dang Me」で知られるロジャー・ミラー後期の作品(作詞・作曲)である。が、演奏は少し凡庸で、特にカントリーは勘所とでもいうべき盛り上がりがなく平坦に流れ、俳優の歌唱力と身体のふんばりに頼っていた。この点も、舞台が淡々と進みすぎてしまった原因に繋がった気がする。

 しかし『ビッグ・リバー』は、筆者のように手話を学んだ経験がない者にも、手話という言語が作品を成立させる他の諸条件―例えば音で聴こえる台詞や歌・ダンスなど―とまったく対等に舞台表現として機能していることを、明快に示す作品である。さらに手話が作品の中で孤立せず、他の諸条件と睦みあい、かけあったりアンサンブルになったりしながら、奴隷制をめぐる当時のアメリカ南部社会の通念(キリスト教義の解釈が背景にある)と実際に友人ジムへ抱く尊敬・信頼の念との壮絶な矛盾に悩み、後者を信じて成長するハックルベリー・フィンの姿を描いているから、とても感動的なのだと思う。
 ジムとハックが仲違いの後に、月夜のミシシッピ河上で歌うナンパーには、こんな歌詞が出てくる。「見える太陽や月は同じ でも 僕らは違う世界にいる 一つより二つの方がいい」。ここには、デフ・ウエスト・シアターのスタイルが簡明に表されている。歌が強調するフレーズは、「同じ」ではなく「違う」である。『ビッグ・リバー』は『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあるのだろう。(04.10.11 青山劇場)河内山シモオヌ