文学座『踏台』

◎愛すべきオジサンのための一喜劇  文学座の喜劇である。創立以来、多岐に渡る喜劇のかたちに挑戦し、そのたびに白眉の出来を見せてきた。彼の系譜を辿れば久保田万太郎や岸田國士から別役実、つかこうへいまで、本当に多くの作家によ … “文学座『踏台』” の続きを読む

◎愛すべきオジサンのための一喜劇

 文学座の喜劇である。創立以来、多岐に渡る喜劇のかたちに挑戦し、そのたびに白眉の出来を見せてきた。彼の系譜を辿れば久保田万太郎や岸田國士から別役実、つかこうへいまで、本当に多くの作家による良質の作品を上演しつづけている。水谷龍二の筆による『踏台』は、2000年に初演され好評を博した『缶詰』の後日譚。キャストはほぼ変わらず、渡辺徹が加わり花を添える。いや、添えるどころではなかったけれど。ともあれ、歌ありドタバタあり、そしてシンミリさせる。文学座流の風俗喜劇である。


 物語は大筋で感傷のかたまりであると云ってよい。かつて靴工場の社長、常務、専務だった三人のオジサンは、今やビルの清掃業者。或る夜、大手広告代理店の一室で社内人事をめぐる騒動に巻き込まれる。過去の悪夢を踏台として今を、未来を生きようとするオジサンたちは、我等遺物に非ずと気を吐くがしかし、どうにも「オジサン」然たる姿は否めるものではない。いわゆる「団塊の世代」と若者たちとのあからさまな時代表象的やりとりに思わず鼻が鳴る。その潔いまでのジェネレーション・ギャップ自体がすでに微笑ましく、敬遠されがちなオヤジギャグさえ何の臆面もなく連発される。それが許されるのは百戦錬磨の文学座オジサン俳優たちの魅力に他ならない。

 主演トリオを演ずる角野卓造、たかお鷹、田村勝彦ら文学座の手練の周りを気にしない必死さが笑いを誘う。そう、オジサンたちは一生懸命なのだ。そして熱い。ときに暑苦しいほどに。内向の世代もすでに遠く、目下流行の銘柄は「自閉」を旨として憚ることも知らない世情だけれど、愛すべきオジサンたちは負けじと舞台を駆け回る。中でも角野卓造は本当に達者で、そこに居るだけで或る種のおかしみを醸すのは、別役作品で演劇の基礎を築いた功でもあろう。たかお鷹の即興や楽屋ネタにさえ見える、計算し尽くされた演技や田村勝彦のすっとぼけた新喜劇調の優しさもいい。また渡辺徹の存在感は、舞台をあっと言う間にお茶の間に引き寄せてしまう求心力を持っており、観客の目を惹く。全体として線の細い女優OL陣の中、栗田桃子の器の大きさが光る。ジョニー・サマーズの「ワン・ボーイ」をはじめとするフォーク・ソングも郷愁を誘う。至って現代風、ややもすれば平々凡々とやり過ごしてしまうオフィス・コメディであり、鼻もちならぬ懐古趣味と見られておかしくない設定を、戯曲世界を丁寧に視覚化する鵜山仁の演出のもと、ほのぼのと、あっけらかんとした「おもしろい」舞台へと昇華させた。

 しかし、以上の長所はどうしても俳優の手慣れた演技だけに寄りかかり過ぎて、作品としての精度は物足りないと云わざるを得ない。前作の好評からか、それを受け継いでの路線が展開されるため、初見の観客にとっては少しばかり戯曲の不備を問わずにはいられないし、「つづきもの」として考えても、強引な展開とあまりに唐突な幕切れは予想の範囲内であるにもせよ、「物語」としての強度に欠ける。時代を超えて響く音楽のモチーフも、主演三人の歌の巧さは措いて、劇的機能は不発だった。文学座という恵まれた「場」に甘んじて、安易な「おもしろい芝居」をつくるだけではどうにも足りないと思うのだ。でなくては、劇場で味わう思いが本当にただの「団塊の世代のための演劇的感傷」になってしまわないかと、杞憂ながらもつい考えてしまった。それとも、筆者が団塊以降の世代であるがため舞台の熱を肌で感じきれずに、知らず冷めた眼で観ていたのだろうか。(後藤隆基/2004.10.22)

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