野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり … “野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」” の続きを読む

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり違和感が湧いてきました。どうしてそうなったのか、自分なりに舞台の構造を踏まえて考えたのが、以下の文章です。少し長くなりましたが、ご覧ください。


◎クライマックスはどこにあるか 鮮やかな舞台実践とテキストとの差異
 赤鬼(RED DEMON) 日本バージョン(10.13.2004 at Bunkamura’s Theater Cocoon)

 うわさの「赤鬼」(日本バージョン)をやっとみることが出来た。10月13日のマチネ、場所はシアター・コクーンの中2階席だった。中央にしつらえられたひょうたん型の舞台を斜め上からみる2時間弱。おそらく今年の演劇界で特筆される公演だと思われる。野田の成熟が存分に発揮された芝居として語り継がれるかもしれない。日本バージョンをみただけのぼくでも、容易に想像できる見事な仕上がりだった。
 また外国人を配役に加えるとか海外公演に出かけるという例はあけれど、英語だけでなく、タイ語、日本語の3バージョン公演を実現する試みは聞いたことがない。しかもそれぞれの国ですでに公演したうえで3バージョンを一挙に国内で実現したケースは、一国的な空間に閉じこめがちな芝居を、アジアを含めて多元的に展開する鮮やかな実践と言うべきだろう。

 海外の俳優をそれぞれに配置し、演出も変え、その都度野田がステージにも立つ。8月14日のロンドンバージョン(「RED DEMON」)を皮切りに、タイバージョン(9月14日から)、そして10月2日から20日まで続く日本バージョンで「赤鬼」全体が締めくくられた。

 日本バージョンで舞台に立つのは小西真奈美、野田秀樹、大倉孝二の3人。「あの女」と、知恵遅れの兄「とんび」、それに「女」にまとわりつく村の道化役「ミズカネ(水銀)」だ。また3人は乳飲み子をさらわれたと訴える母親や、村人、長老などの役を一瞬のうちに演じ分ける。赤鬼はヨハネス・フラッシュバーガー。長身、ひげ面。明らかに異人と分かる体躯と風貌である。

 筋はそう入り組んでいるわけではない。
 ある日、異人が浜に打ち上げられる。怪異な風貌から村人は「赤鬼」と名付けるが、よそ者ゆえに疎まれている「あの女」ら3人はやがて「鬼」に近づき、気持ちの通じ合う「人間」だと気付く。赤ん坊をさらったという誤解や、安住の地を求めて航海する船団の斥候役だと見破られたことなどが重なって、赤鬼と女の処刑が決まる。しかしミズカネの機転で舟を調達、3人は海の向こう目指してこぎ出す…。

 四周を座席で囲まれたひょうたん型のステージで、ポールとネットという簡単な道具で浜辺や広場、洞窟を構成する手際。海の揺れと心の動揺を身体の揺れで同期させる技法。暗転を多用して時の推移を表現する工夫。せりふを効かせるため用いられる言葉遊びと道化的=異化的な身振り。いずれも淀みなく、巧みな手筋で運ばれる。せりふも演技も、熟達した演出のタクトで可能になった。

 外国人を暮らしの中に受け入れられるか、村世界を頑なに閉じて異人を排除するのか-。海に漕ぎ出すまでの展開が押し出す問い掛けは疑いようもなく直裁で、大小のエピソードと演劇的な起伏を折り重ね、だれにもわかりやすく提起される。開始早々は野田のせりふの一つ一つに笑いで応えようと待ちかまえていた客席も、幕切れ近くになると舞台に引き寄せられ、しわぶき一つ聞こえない。終演と同時に漏れるため息に似た高揚が熱い拍手に現れている。野田の直球が確かにそれぞれの胸に届いているように見えた。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。会場から引き揚げる満足そうな顔、顔、顔を見ているうちに、何とも言えないわだかまりが胸に巣くうのを感じた。「異人排除」だって? それでは海に漕ぎ出してからの展開は、どこへ行ってしまったのか-。

 最後のドラマは、海に漕ぎ出した小舟の上で起きる。
 赤鬼を待っているはずの船団は姿を消していた。行くあてもなく食料もないまま、漂う小舟の上で意識が薄れた「女」は、ミズカネが与えるフカのスープで命を長らえた。やがて3人は飛び出したはずの浜辺に打ち上げられる。「鬼」の姿はない。消えたなぞをだれも語らない。「女」はあるとき、自分が食べたフカのスープが「赤鬼」の人肉だと知り、崖から身を投げて死を選ぶ。「鬼が人間を食うのではなく、人間が鬼を食う」事実がストレートに投げ出されるのである。

 Web上で演劇評を掲載してきたCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、評論家の長谷部浩は「純粋な結晶」というタイトルで次のように述べている。
 「『RED DEMON』は、単なる異文化コミュニケーションをめぐる寓話ではない。差別と被差別、自由への憧憬、人肉食と生の意味、知性の脆弱さなど、野田秀樹がこれまで執拗にこだわってきたテーマ系が、すべて出揃い、しかも縒り糸のようにからみあっていると気がついた」
 野田の軌跡を同伴しつつ考察してきた人らしいさすがの深読みだが、実際の舞台は深読み通り進行したとは言えなかった。

 野田はどこに力点を置いたのか。「RED DEMON」に関して、ロンドンバージョンに登場した役者のコメントが、会場で販売されたプログラムにずらりと並んでいる。長いけれども引用してみよう。

 タムジン・グリフィン(あの女) アウトサイダーのこと、自分と違っている者を悪魔化してみることなどが、シンプルな美しさで描かれている。…シンプルと言っても浅いわけではなく、テーマが深く明確に描かれている作品です。
 マルチェロ・マーニー(とんび) 人が自分と違うものに対してどう扱うのかということが描かれています。われわれは決して開かれていない。人種問題を乗り越えたつもりでいても、自分でも気が付かないうちに壁を作ってしまう。だから戦争がある。秀樹はそういったことを普遍的な物語の形にして伝えている、すばらしい作品です。
 サマンサ・マクドナルド(村人) だれもが人生の中で、人と違うということを感じることがあるだろうけれど、人を受け入れる寛容さが重要であると語っている作品だと思います。

 これらのコメントで指摘されるのは人種的対立、異なる意見を持つ人との対応と受容である。少なくともロンドンバージョンの役者たちはこの作品を「異文化受容」問題として受け止め、演じていた。作品の基本性格について、野田がそう解釈されるよう仕向けたことは間違いないだろう。日本バージョンもその線に沿って構成されていた。だから、異文化コミュニケーションがテーマだとする評が圧倒的に多かったのもそれなりに根拠があると思われる。

 逆に言うと、この舞台は、海原で起きる一連の出来事をあっさり端折ったとしかいいようがない。特に赤鬼を食べて命をながらえた「あの女」が真相を知って崖から身を投げ、命を絶つエピソードも、伝聞の一こまとして簡単に処理されるのである。

 他人を食べて生きながらえる-。自分の命と他人の命がぶつかり合うアポリア、その事実を自死によって贖おうとする心性を、真っ向から問いかけるはずの結末は、物語のエピローグとして手短に美しく、しかも心のひだをすり抜けるように扱われる。演じられるクライマックスは、それ以前の村での出来事に集約されているのである。

 野田が意識的にそう仕向けたのかどうかは分からない。テーマの分割を避ける無意識の知恵が働いたのかもしれない。客席を混乱させず、しかも客席に過度に重いテーマを投げかけない。これは観客に余分な負荷をかけず、しっかり感動して帰ってもらうための確かな選択だったことは間違いない。

 演じられた舞台と語られたテキストとでは、クライマックスが違っていた。「赤鬼」に見えた狭間はまた、野田芝居の人気の秘密を裏から照らし出してくれたのかもしれない。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、10月28日)

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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