ユニークポイント 『あこがれ』

 2001年の初演以後、地方公演を経て今回BeSeTo演劇祭で再演されたユニークポイントの『あこがれ』は、太宰治『斜陽』を原作としながらそれとまったく毛色の違う、別の話に再構築された作品。小説で物語の裏にひっそりと隠され … “ユニークポイント 『あこがれ』” の続きを読む

 2001年の初演以後、地方公演を経て今回BeSeTo演劇祭で再演されたユニークポイントの『あこがれ』は、太宰治『斜陽』を原作としながらそれとまったく毛色の違う、別の話に再構築された作品。小説で物語の裏にひっそりと隠されていたものを繊細に表舞台に引きずり出した戯曲は、『斜陽』を準拠にはするも奇を衒った新解釈は狙わない、山田裕幸という劇作家のスタイルが明確に示されている。


 「演出家」の活躍が眼を惹くBeSeTo演劇祭において、ユニークポイントはその名の通り、やや特異な存在とも云える。たとえば文学作品の演劇化は様々の演出家の手で行われているけれど、その他の劇団が作品を言語と身体の関係性から意識的に構築し、また作品読解にも過激な冒険が試みられているのに較べて、小説から「わたしたちの生活」を掬いとり「戯曲」化していく山田の筆致は此方もリアリスティックな演出法と併せて、一般に浸透しているであろう「演劇」というものの「標準形」をそのかたちのままに伝達する。

 新劇的リアリズムに則った作法は観客に安心感を与えるだろう。淡々とした日常描写、わかりやすい話し言葉。わたしたちの生活に近しい感情の表現。一々のリアルさは舞台を覆う清潔感とも無関係ではない。一歩間違えれば「平凡」の一言に止まってしまう危うさを、『斜陽』という、また「太宰治」という名前を利用して超克しようとする。それが『あこがれ』という物語の強度なのだった。原作の上原を大学で太宰研究をする先生にし、直治をそのゼミ生と設定する遊びもそれなりに活きていたようだ。全体に無駄を省いた台詞及び舞台構成は、『あこがれ』の裏に隠された『斜陽』という物語を観客の想像力に訴えかける。思えば、最後まで登場しない母親は観客によって想像されるべき『斜陽』そのものだとも云えるだろう。『斜陽』から生まれた新しい物語は何よりも『斜陽』によって生かされ、『あこがれ』を通して『斜陽』に別の角度から光があたるよう細工されていた。作家としての山田裕幸の恥じらいを微塵も見せない誠実がそこにある。

 小説に散りばめられた豊富な言語表現を登場人物に丁寧に分配して、極普通の善良なる人びとの生活を描く。そう、そこに居るのは本当に「普通」の人たちなのだ。東京に住む叔父夫妻、ゼミの同期の友人たち、田舎の病院の跡を継いだ若い医者、直治に連れられてきた女など、直治とかず子を取り巻く人びとに血を通わせることで、姉弟の異質さ、疎外感を浮き上がらせむとする作業があった。そしてもう少し付言するなら、たとい直治が破天荒な振舞いをし、かず子の御嬢様然たる世間知らずがあるにもせよ、将来への不安と、周囲の人間のしあわせに対比される己の不幸は、平々凡々としたわたしたちの送る毎日と同じ苦悩ではなかったか。繰り言にもなってしまうけれど、一見『斜陽』の衣を借りただけ、原作からは遠い、現代家庭劇であるかに見えるにもかかわらず、やはり『斜陽』あっての『あこがれ』なのだと思わざるを得ない。その意味で、原作との付合い方という可能性の幅の広さを感じさせられた。

 ユニークポイントは普通さやリアルを真摯に突き詰め、日常からの違和感を感じさせない舞台の創出をめざしているように思う。よくまとめられており、静穏な会話劇でもある『あこがれ』は極めて新劇的な風味をもっている。それが山田裕幸という人の作家性でもあるのだろうが、そうした仕方を身につけ、尚かつ的確に表現できる才能は決して多くない。BeSeTo演劇祭だけでなく現代演劇という問題を考えたとき、リアリズムについて或る意味で「昔ながら」の延長線上を歩いているユニークポイントは、それがより洗練されていくにつれ、新劇的小劇場演劇を実践する稀有な団体になっていくのかも知れない。(後藤隆基/2004.11.23)

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