劇団大阪新撰組 『玄朴と長英』

 BeSeTo演劇祭には東京だけでなく全国各地から多種多様の劇団が一堂に会し、他地域の芝居に出会える貴重な機会に恵まれた。最終日の早稲田どらま館で上演された劇団大阪新撰組『玄朴と長英』は今年度の利賀演出家コンクール参加作 … “劇団大阪新撰組 『玄朴と長英』” の続きを読む

 BeSeTo演劇祭には東京だけでなく全国各地から多種多様の劇団が一堂に会し、他地域の芝居に出会える貴重な機会に恵まれた。最終日の早稲田どらま館で上演された劇団大阪新撰組『玄朴と長英』は今年度の利賀演出家コンクール参加作品で、伊東玄朴と高野長英の二人が真山青果の筆によって議論を戦わせる緊密な対話劇。劇団が日頃どのような作品をつくっているかは「ギャグがないのがつらい」という演出メモを手に想像する他ないけれど、今作は利賀に出品したということもあってか、戯曲をそのまま上演するのではなく外側からの視線を送り劇中劇として扱うという、もはや常套でさえある手法を実に簡素なかたちで用いていた。


 裸舞台に行燈が一つ、書物が散乱している舞台。暗闇にそっと浮かんだ、背広と茶髪、仕事に疲れたサラリーマン風の男がため息一つ漏らすと、彼の眼前に突然『玄朴と長英』の世界が「白日夢」として立ち現れる。家族を治療してもらった四人の女が順番に医者である玄朴に礼を述べていく。「先生、ありがとうございました」と一人一人の台詞が重ねられていき、それぞれ終えると四人は声を揃えて玄朴に呼びかける。戯曲にないこの操作、ありがちと云えばそうかも知れないけれど、幕開きの見せ方にはその先を期待させるだけの処置がされていた。女たちは玄朴の妻になり、終始舞台奥で家事をしつづける。男は目の前に繰り広げられる光景を不審そうに眺める。しかし、余りにわかりやすいその二層構造はそのあと特に大きな展開を見せるでもなく、兎に角『玄朴と長英』が進行していくのだ。そして最後には玄朴と長英の幻が消え、残された女たちが無言のまま男を睨みつけるところで幕となる。

 シンプルには違いないけれど、玄朴と長英それぞれを演じる俳優の真っ直ぐな熱演とただ二人を見つめつづける男の温度差は二つの世界を拮抗させる力に乏しく、現実世界に居るはずの男の姿が歯切れのよい(少しばかりよすぎるほどの)長英の台詞回しなどに圧倒されてかき消えてしまうような印象を持った。現実と幻想の価値が転倒し、夢こそが現実を覆い隠す。現実としての現代人が舞台から見えなくなる時、それではあえて二つの異なる世界の住人を出会わせる意味は何処にあるのかという疑問が生れた。いやむしろ、男の存在感の稀薄こそが狙いであり、そうすることで現実を超越する芝居がかることの力を再確認しようとしたのだろうか。たしかに「白日夢」としての『玄朴と長英』には、それとして観劇するに足るだけの力強さはあった。とはいえやはり「男」を舞台上の人物として創造するからには、彼がそこに居ることの意味づけがもう少し必要ではないだろうか。でなくては、作品の制作過程自体が単に「利賀」向けの御挨拶だったのかと思わざるを得ない。ならばいっそ純粋に俳優の勢い以て戯曲通りの『玄朴と長英』を積み上げた方が余程芯のしっかりした上演になったろう、などと思うのは余計なお節介かしら。(後藤隆基/2004.11.23)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください