ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」(続)

 「ゴキブリコンビナート」の公演レビューが「そして、始まる・・。」で中断していた「デジログからあなろぐ」サイトで、すぐに後半が書き継ぎがれました。同サイトの吉俊さんは、ゴキコンが「ミュージカルという形式を借りて」「泥水と … “ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」(続)” の続きを読む

 「ゴキブリコンビナート」の公演レビューが「そして、始まる・・。」で中断していた「デジログからあなろぐ」サイトで、すぐに後半が書き継ぎがれました。同サイトの吉俊さんは、ゴキコンが「ミュージカルという形式を借りて」「泥水と組み合わせると、そこには終始水がバシャバシャ跳ねることを必然とする舞台が生まれる」と述べ、舞台設営など「道具使いの上手さ」をぬかりなく指摘しています。


 その上で、ゴキコンの3KミュージカルにさらにもうひとつのK、「心地よさ」を付け加えたいと宣言します。そうこなくちゃ。

簡単に言うと、上記の3K(汚い・臭い・キツイ)がもしも本当に3Kだけであったら、きっと誰も見たいわけじゃないと思う・・・私も恐いもの見たさっていうのが最初はあったけど、見ている最中に感じたのは「高揚感」といった心の内側の感情、そして後半にはそういう高まりは、心地よさへと変容している。
汚い水が体に降り掛かる、役者がどんどん汚れていく、その役者が自分達の上を駆け回る、そういう汚い部分とか・・・役者が服を剥ぎ取られたり、丸太で頭を打たれたり、逆さ釣りにされたり・・・肉体を傷つけられている様を観る部分。
SMという構図もあるけど、どちらかというと自然から全く切り離されて清潔に安全に暮らしている都会で、普段刺激されない人間という動物の諸感覚を刺激してくれているのではないかと思う・・・それが心の高ぶりであったり、終幕後の心地よさに繋がる。
それってまさにスポーツと同じ構図でしょう?・・・ゴキコンはスポーツである!っていうのはこれまた言い過ぎかもしれないけど、大きく間違っている訳じゃない。

 ゴキコン=スポーツ説の誕生ですが、ぼくには見せ物、そのなかでもプロレスとある面でゴキコンが似通っているのではないかと思えます。米国のプロレスはショーアップされ、あっけらかんとした勧善懲悪物語で広い会場を沸かせます。しかも2m100キロ級の肉体が明るいリング上で激突します。対照的にゴキコンは、技はうまわけではなく、痩せこけた身体と不揃いな歌声ではありますが「心意気と情熱!」があり、独自の物語を内蔵しているはずです。そのあたりの比較検討ができるとおもしろいのでは…と思いつきを並べましたが、おしゃべりはこのへんにしましょう。

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

「ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」(続)」への1件のフィードバック

  1.  「米国のプロレス」はご説明から察するに、圧倒的な人気を誇るWWEのことを指しておられるのかなと思います。

     ピュリッツァー賞受賞の映画評論家ロジャー・エバートが絶賛したドキュメンタリー映画「ビヨンド・ザ・マット」には、WWF(公開当時WWEはこの名称でした)のレスラーたちが出てきます。社長兼レスラーのビンス・マクマホンがいろいろと一人勝ちしていましたが、全体を通してプロレスの凄みと、レスラーという人生のきつさと闇と異常さと、流れる血と、父親の試合を会場で観て泣き叫ぶ家族が描かれていました。
     またWWEとは関係ない話題ですが、若手がアメリカ修行に出ると、とりあえずリングネームを「ヒロヒト」にしろと言われるという話(伝説かもしれません)を、レフリーの方から聞いたことがあります。

     このような乏しい見聞を恐れずにものを言うと、アメリカのプロレスの「勧善懲悪物語」「ショウアップ」「巨体の激突」は、彼の地でプロレスを積極的に観る層にとって一番理解しやすい筋書き、そして口当たりのよい味は何かと研究して調えられた撒き餌にすぎません。
     でも、撒き餌にとらわれずにレスラーの「身体」を「コンテンポラリー・パフォーマンス」として捉えてみると、少なくともWWEのプロレスは「勧善懲悪」より遥かにシビアな、「ショウアップ」というにはナイトメアで凄惨な世界と関係を切り結んでいる身体表現であることが、想像できると思います。
     つまりライトに照らされるレスラーの身体が、すでに「ビヨンド~」の内容をある程度まで物語っているんですね。その尋常ならざる世界に、たしかにレスラーたちは実存するという事実にこそ、観客は畏敬の念にも似た「素朴な、プロレス本来の驚愕と感動」(町山智浩)を覚えるのではないかと私は考えています。
     
     プロレスは興行であるという、揺るぎのないもう一つの事実からゴキコンを観察してみると、彼らはプロレスで「塩」「しょっぱい」と糾弾される試合を、文字通りそのまま塩漬けにして観せているのだと思います。こんなにもしょっぱいのに、しょぼいのに、予定調和なのに、体感する3Kは観客の予想を常に超えてくる。その3Kの濃度調節の巧さと、ただただ「しょっぱい」ディテールを緻密に構成して作品を創り、その上観つめられる俳優という、日常とは異なる身体を「しょっぱく」コントロールしている点は独自性があります。

     したがって俳優ないし作品の「しょっぱさ」は、その戦略によって改善されず、また趣味でやっているだけだからとかいう生暖かい波動で正当化もされず、ただ「塩」漬けの身体・パフォーマンスとして屹立しています。「しょっぱさ」に対する怒りや落胆やクレームに応えなければと、客の大多数が満足できる台本を考え収益を上げるのが興行の在り方だとすれば、「しょっぱい」ことの可笑しさのみに固執し、それを一つの表現として掘り下げていく、これはやはり興行がやらない、フリンジな感性(価値があるかどうかは、今は不問にします)ではないでしょうか。

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