三条会組『ニセS高原から』

 九月のこまばアゴラ劇場は、五反田団・三条会・蜻蛉玉・ポツドールによる『ニセS高原から〜『S高原から』連続上演〜』が話題を呼んでいます。Wonderlandでも皆様たくさんのレビューをアップされていて、非常に賑々しい。一 … “三条会組『ニセS高原から』” の続きを読む

 九月のこまばアゴラ劇場は、五反田団・三条会・蜻蛉玉・ポツドールによる『ニセS高原から〜『S高原から』連続上演〜』が話題を呼んでいます。Wonderlandでも皆様たくさんのレビューをアップされていて、非常に賑々しい。一ヶ月という長い公演時間が、『S高原から』の劇時間に何となく重なるような気分に陥ったりもして。全体は二十七日まで。三条会組は残すところあと二回(九月二十四日、二十六日)です。


◎絶対の時間を超えるために

 平田戯曲を三条会が上演するという出来事は、たとえば普段の方法論からも対立項を読み込まれざるを得ないだろうし、「現代演劇」という意味合いでも大きな興味の対象となる。言語性や物語性を外縁から囲み、中心から貫く三条会の肥沃な演劇的土壌に、平田オリザ『S高原から』という「静か」ながら強固な台詞劇の種子を蒔く。そこに花咲き実を結んだ三条会組『ニセS高原から』とは、一体どんな舞台だったのか。“Do-Re-Mi”から”Edelweiss”まで、「高原」で結ばれた”The Sound of Music” との光溢れるコラボレーション。そして、Smetana”Moldau”——雄大な河の流れを称える荘重な交響楽にも付与される時間のイメージ。「三条会」ではなく「三条会組」としての登場は、あらゆる状況を孕んで冒険的であり、『若草物語』、『メディア』から連なる新しい三条会の演劇を感じさせるに十二分の逸品であった。

 『ニセS高原から〜『S高原から』連続上演〜』において、テーマともモチーフとも呼べる、平田オリザ『S高原から』が共通のフォーマットとしてある。原作に筆を入れアレンジを施し、何よりも脚本段階でそれぞれの世界観を構築する三劇団に対して、台詞に手を加えない三条会の仕方には、これまでギリシア劇や三島戯曲、近代文学などを扱ってきたとほぼ変わらぬスタンスが窺える。三条会にとっての平田戯曲とは、前記の作品群と並べると大きく性格の異なる類の作品に見えるけれど、「三条会」という演劇集団を軸に据えてそれらを見渡したとき、距離感は同様、自らの意図を戯曲(台詞、物語)に投影することなしに、舞台上に表現されるものとしてのみ作用する。極端なもの同士をどちらも受け容れ、両立させる。平田戯曲の言語性と、三条会の存在感といった両者のズレは自ずと顕れるだろう。

 もう一つの基盤として不動の存在を示すのは共通の舞台装置——正方形に並べられた四脚の赤い長椅子、中央のガラステーブル、その上の呼鈴、観葉植物など——であり、いずれも作品の世界、即ち「サナトリウムの面会室」を舞台に、「死」をめぐる物語が展開されることの前提条件である。人物の行為ではなく、「場」の性格と、そこに流れる時間そのものがドラマであり、如何なる事件が起ころうと表情を崩さない。永遠に続くかにみえる時間の反復・円環にあって、変化を起こし得る可能性を秘めるのは誰かの「死」だろう。しかし、その死ですら少なからず前提として容認されている以上、淡々とたゆたう時空に同化せられてしまう。婚約破棄が、他患者の死が、男女関係のいろいろが、また『風立ちぬ』についての議論が懸命にされようとも、一切は劇的な萌芽に発展することはなく、ゆっくりと流れつづける長く無稽な時間の些末な通過点として、サナトリウムの時・空間が常に相対化していく。患者も、世界を支配する法則の一つとして死に至る流れを受け容れている。受け容れようとしている。そこではサナトリウムという「場」と「時間」自体が主役となる。サナトリウムの人びとの感じる、あるいはそこに流れる時間——「下」と比較される半年の長さなど——、リズムのない、連綿とした時間を繰り返す虚構の日常、与えられた自由による時間感覚の喪失。すべてを強制的に押し流し、それは否応なしに刻一刻と進む、「死」の風であるかも知れぬ。自己は「三週間もいたら」飲み込まれてしまう。意識できるのは黒百合やアザミが咲いたといった自然界の時間である。病が人間の時間・行動を制限し、限定された空間に無制限な時間が流れる。それが、原作『S高原から』の世界なのだった。

 三条会組『ニセS高原から』の表面上には、一見過剰とも云える存在感が横溢し、『S高原から』的な一切は背後にうっすらと浮び上がらせられる。舞台上を流れる風は、一度の例外を除いては、常に下手から上手への一方通行である。入り口から病棟へ。冒頭では医師、松木義男(岡野暢)が下手から上手へと幾度となく横切り、ループする日常的な時間を約束事として視覚化する。松木は終幕近く、藤沢知美(寺内亜矢子)に追われ走り抜ける。他の人物も走る。それまで人物の移動は舞台の後方にほぼ終始していたが、手前の椅子の上をドタバタと駆け抜ける。幕切れに向かって、劇時間は加速する。関美能留は、時に走り、時に立ち止まりもする個々の人物の主体とは別に、等速で一方向に進む客観的な時間軸と、その上を大きく波を描いて交差しながら進むもう一つの時間世界を描きだした。それは時間だけに止まらず、書かれた台詞(=言葉)と舞台上に顕れる演劇的表現の関係でもあったと云えよう。

 「現代口語」的話法から、「強く、速い」三条会特有の台詞術まで、乱発される「どうも」など、極めて抽象度の高い平田戯曲の台詞が様々の位相で語られ、また歌うはずのない、躍るはずのない戯曲で歌い躍る俳優の身体が放出する、過剰且つ豊かな「音」世界が、逃れようもない戯曲の基調音として横たわる「死」——狂騒の陰に、「死」へと向かう静けさを逆説的に暗示する。俳優・照明・音楽のボリュームが、水面下に何かを感じさせる。人物の興味は内へ内へと集約されている。舞台上に見える景色としては、中央に置かれた呼鈴に対する異様なまでの執着であり、その一方で外へ外へと広がり広がる衝動が、俳優の身体を突き動かしている。面会室での話題には、積極的な回復の発言はほぼない。殆どが誰かの「死」という結末であり、ここでは他人の死すら円環の中の一通過点でしかない。病気や死を語るのは「言葉」でなく、流れる時間と場の性格によってである。笑いによる病の治癒効果なども昨今頓に交される議論の一つであるようだけれど、幾度となく爆発する哄笑は、「死」のイメージが浸す時・空間に対抗する「生」の意思表示でもある。死と向き合わざるを得ない人たちの生に対する衝動。絶望の果ての明るさ。高原をかける、最後の夢——。

 療養所の秩序立てられた時間は、三条会組の舞台において、あるとき突如として混沌の中に投げ出され、断絶する。わかりやすい具体例を挙げてみよう。ジュースを頼まれた看護人の川上(久保田芳之)が四つ並べたジョッキにジョウロから水を注ぐ。その間、それまでの会話は中断され、一同、川上の行為を凝視する。ゆるゆると流れる連続的時間は断ち切られ、間隙にグイと押し広げられた一瞬の時が拡大、挿入される。そして何事もなかったように時は動き出す。対話や言葉からではなく、人物の行為・行動を通して均一な時間に対するフェイクがかけられ、生の光量をあげる。また西岡、前島、吉沢兄妹の対話場面では、榊原毅(西岡隆/吉沢茂樹の二役)、大川潤子(上野雅美/前島明子/吉沢貴美子の三役のうち、ここでは雅美、貴美子の二役)の二人が繰り広げる言葉、そして声の鬩ぎ合いに強力な磁場が発生する。時にスピーディな落語とも思わせる、「二人同時一人二役」は、行為としては過剰この上ない。平田オリザ『S高原から』は、噂を介して、孤立する人びとの関係性が紡がれていた。死へと収斂され、様々な情報を無化するサナトリウムの時・空間では、話されている内容よりも、誰が、どのように意思疎通を図るかということが問題になる。言葉は何を伝え得るか。平田オリザが言葉においてそれを乗り越えようと試みたとすれば、その意味で、平田オリザと関美能留の求めるものは、遠くないのではないかという気もする。関美能留はそうして書かれた言葉に、逆に過剰な行為をぶつけ、『S高原から』という時間と場が示す内容自体よりも、表象のされ方を問題にする。書かれた言葉そのものが過剰なのではない。誰がどのように、そのことについてしゃべり、どう伝わるか。鎮静化された台詞を語る俳優に過剰な行為を課すことによって、主体的な人間の在り様が描かれていた。

 関美能留の言語外表現の手腕は新たな出会いによってレンジを広げた。水平に歩む平田戯曲の言葉の世界と、垂直に起る、存在そのものが雄弁である世界。それらを束ねる編集感覚の妙は屈指である。眼に鮮やか、耳にも愉しい。また幾層にも重ねられた仕掛けに笑いながら、うっとりと劇宇宙に身も心も委ねることだってできる。言葉や感情とは無関係にも見える身振りや台詞回しは、むしろその差異によってわたしたちの心に強く迫るのである。これまで一晩限りの舞台が多かった三条会にとって、連続ではないにしても一ヶ月以上の公演期間という長丁場自体が、特殊な時間でもあった。『S高原から』という劇時間が、三条会の現実時間に作用したと考えてみてもおもしろい。時間が既に、絶対のものとして視聴覚化されているその上に、何を置いていくのか。時間を超え、空間をも超えてそこにいる、夢幻のごとき俳優たちの、誰憚ることのない笑声と、その直前まで対象に注がれる眼差しには慈愛をさえ感じる。たとえば佐々木久恵(舟川晶子)が村西(中村岳人)に、大島良子(立崎真紀子)の結婚話を告げる場面。本来であればそこにいるはずのない人物たちが舞台上に残り、佐々木・村西の対話を注視、悪い報せに混乱する村西の返答ひとつひとつに劇しい笑いを以て応ずる。決してリアルではない。しかし舞台全体が織りなす滑稽と悲哀が一入も二入も深まり、胸を衝く。俳優たちが何かを食い入るように見つめる表情、緊張が弾けるまでの空白の「待ち」時間。わたしたちをどうしようもなく支配し、反面、まるで無関係のように在る絶対の時間は、伸縮する劇空間によって一瞬、壁を破られた。死の恐怖とは、誰かの死など一切関わりなく、どこまでも続くであろう現世の時間にある。余人は知らず、少なからずそう感じる筆者にとって、たしかにそこには救いがあった。(後藤隆基/2005.9.19/こまばアゴラ劇場)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください