二兎社 『 歌わせたい男たち 』

最初に書き下ろした劇評からの脱皮を何度も試みた。くり返せばくり返すほど、戯曲に引きずられる運動から逃れられなくなった。今が潮時と妥協して、脱稿することにした。 ●〝もしも〟この劇評に興味を抱いたなら…  観劇前に読むこと … “二兎社 『 歌わせたい男たち 』” の続きを読む

最初に書き下ろした劇評からの脱皮を何度も試みた。くり返せばくり返すほど、戯曲に引きずられる運動から逃れられなくなった。今が潮時と妥協して、脱稿することにした。

●〝もしも〟この劇評に興味を抱いたなら…
 観劇前に読むことは勧めません。観劇後に読んで、見方がどう違うのか、比較していただけると、幸いです。さらに、その結果を「コメント」していただけると、お互いにとって、批評眼を鍛えることになるかと想います。欲ばりではありますが。。。


「あなたは卒業式で君が代を歌えますか」。

愚問である、歌う人にとっては。苦悶である、歌わない人にとっては―。

君が代を通して〝原因を憂えず、結果を憂う〟日本人像を活写した『歌わせたい男たち』が、ベニサン・ピットで上演されている。

ある都立高校の卒業式。その直前に、元シャンソン歌手で音楽講師の仲ミチルが眩暈(めまい)を起こす。ミチルが国歌を伴奏するのかしないのか、観客の気を惹きながら、物語は展開する。「眼鏡」と「シャンソン」が随所に場面を引き立てる。

眩暈(めまい)がした時にコンタクト・レンズを落としたミチルは、譜面が読めなくなったので、以前、眼鏡をかけさせてもらったことのある社会科教員・拝島則彦(はいじま・のりひこ)から借りることを想いつく。ところが、拝島は君が代の伴奏に眼鏡を使うのなら貸さない、と拒絶する。この決心が後にシャンソンとの相乗効果をもたらす。

傑作だったのは、校長の「内心」だ。ミチルが本心は国歌の伴奏をしたくないのでは、と疑心暗鬼の塊になる。校長が内心の自由を尊重した過去の文章をビラにされても、あっさりと「前言」を翻す。挙げ句の果てには「もし一人でも不起立者が出たら、ここから飛び降りる」と、校舎の屋上から叫ぶ。内心と「外心」は違う、という裁判所感覚が校長の内心を支える。

この反面教師の見本のような校長が〝教育〟を支配し、不起立者を逆に反面教師の「好例」にして、孤立化に追い込む。その過程を校長は教育「改革」と呼ぶ。その内実は、郵政民営化という「改革」に反対した議員を、造反議員に仕立てる構図と重なる。

最後の局面で、屋上から飛び降りると開き直った校長の「宣言」に、たった一人で不起立を貫こうとした拝島は、選択の自由を奪われる。どっちつかずだったミチルは、拝島の心情を察して、何度頼まれても拒んでいたシャンソンを歌い始める。シャンソンの底流には「反権力の、レジスタンスの魂が流れている」。

ミチルが「どこかけだるく、しかも甘く」歌い出すと、拝島は眼鏡をそっとテーブルの上に置いて姿を消した。心のぬくもりと悲哀を覚えた瞬間だった。

《公演情報》

◇二兎社 『 歌わせたい男たち 』
 ・作/演出:永井愛
 ・出演者:戸田恵子、大谷亮介、小山萌子、中上雅巳、近藤芳正
 ・劇場:ベニサン・ピット (東京都江東区)
 ・上演時間:約1時間50分
 ・公演期間:2005年10月08日-11月13日

「二兎社 『 歌わせたい男たち 』」への1件のフィードバック

  1. 山関さん、こんにちは。今井です。
    「歌わせたい男たち」について自分のブログに記事をアップしました。もしよければご覧ください。

    http://tabla.cocolog-nifty….

    他のブログでの記事も少し読みましたが評価がいろいろと分かれているようです。ちなみに最終部について、中途半端な終わり方、と感じている記事もありましたが私は、「こころのぬくもり」と書いた山関さんと多分同じで、作者の優しいまなざしのようなものを感じました。またあえて結論を出さずに観客にゆだねた秀逸な幕切れと評価します。

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