かいこに寄す

本年も回顧企画「振り返る 私の2005」に参加しました。
05年は「基本的には小劇場の芝居やダンス、パフォーマンスを対象にしますが、何が「小劇場」か、シリーズ公演を1本と数えるかどうかもふくめ、執筆者の判断」(北嶋氏のメール「年末回顧のお願い」より)で、記憶に残る3本を選ぶという内容です。
04年はちょっと変な実験をしてしまったので、今回は熟考して取り組みました。

以下、演劇とは違う表現や舞台以外のことから得られた示唆・発見も踏まえながら、個人的に年間を通して考えた「リズム/日本におけるドイツ年/西欧の時代劇で言われる自由」についてまとめてみました。企画の拙稿ともども、覗いていただけましたら幸甚です。


今年は絵画・写真・彫刻作品から、自然の持つ強いリズムに対して、芸術家はどう自分を表現してきたか洞察する機会に恵まれました。
例えば植物。虚構を交えずに、どれだけその成長や形態のリズムを図鑑の規定スペースに載せられるか、という空間構成能力が問われる植物学者とは異なる試行錯誤が、花を捉える写真家や画家にはありました。そうやって観ていくと、絵の何も描かれていない部分はただのレイアウトではなく、描かれているリズミカルな生物、すなわち生命(いつか朽ち果て原形を残さない)を包み円環するリズムとして感じられました。無から生じる有、これは比喩的な言い方ですが静寂・沈黙から聞こえる音楽、舞台の刹那の生から観客が考え感じ続ける行為、すべて等しい関係にあるように思えます。その観点から振り返ると、インバル・ピントカンパニー『オイスター』、『雷電(シテ梅若六郎)』は発見の多い公演でした。

リズムと芸術家の関係については、バレエの振付家も例外ではないのかもしれません。端的なのが、「メロディ」を踊るダンサーが最後「リズム」の群舞に飲み込まれる『ボレロ』です。また、プロットレス・バレエに豊かな情感や具象的なイメージを見出すことが別におかしくないように、今年上演されたクランコやマクミランの「ドラマティック・バレエ」と呼ばれる作品にも、具象に分解されない抽象的な、音楽と身体の関係があることに気がつきました。
ドラマティック・バレエは、特定少数の人間の関係から生じるわずかな劇性を身体表現で増幅する、というかねてからの考えに加え、それはリズムに対する一種の虚構であり、「ドラマ」を借りた音楽への、身体を使った実験だという見方をできたことが、今年の成果です。楽曲が作品全体を支配するのではなく、ダンサーの身体の内側から音楽が鳴り響いてくるかのようだった、あの舞台の素晴らしさをなんとか言葉に残したいと思います。

日本におけるドイツ年(2005-06)は、年をまたいで続くようです。
ブレヒトの『アルトゥロ・ウイの興隆』は、ヒットラーの権力掌握を、シカゴのさえない心底卑劣なギャングが、青果産業の支配権を握る過程に置き換えて描いた作品です。
冒頭、ウイがさかりのついた野良犬のように這いずり回る、強烈なシーンから始まります。色彩・物語・難解な仕掛け・オペレッタの雰囲気を借りた演出…どれも悪夢的でした。都合どおりにならない現実に生きる人間の鬱憤や妄想、羨望、弱い気持ちがふきだまって押し上げられたものが、他の抑圧に転じる。その過程は、あのカルト教団に集った人の心性、つまり現代の日本とも深く繋がっているんじゃないかと思います。
また、ある集団が一つの虚像をつくり、人心を集め金を出させる。実社会でこれをやっても怒られたり罪に問われず、それどころか金を出した人たちに拍手されるのは、演劇だけではないでしょうか。
落ちぶれた俳優を雇い、ウイが演技や身振りを学ぶ場面を観て、当初どちらかといえば親ユダヤで(ヒトラーの絵を売っていたハーニッシュの言)、バイトのつもりでやっていたらしい演説がとても受けたという、若い頃のヒトラーの才能を思い出しました。何かものすごい負のものが、言葉から炸裂してたのかもしれません。その会場に、なんで甘言を弄する劇団スカウトがいなかったのかな…と思います。
劇中で流された1974年のヒットソング♪The Night Chicago Diedは、カポネが銃撃戦を行い100人の警官が死んだ夏の夜の話(創作)を歌っています。FOXTV『X-files』2ndシーズンのエピソードでも使われたこの曲、どベタな歌詞の臭みは、漫画的な、中空に浮かんだ感情失禁風のコーラスでメロディアスに歌われることによって消されています。
この曲が何度かリフレインされたので、原作の題名「アルトゥロ・ウイのとどめがたくない興隆」に込められている(抑えれば止められた)という暗意は、現場の抑止について言っているのではなく、そもそも抑えも止めもしない社会を指しているということは掴めました。が、音楽的にはひねりが少ない気がしました。

7月に来日したメタ・ミュージカル『プロデューサーズ』もドイツ年関連作品に加えて欲しかったです。第三帝国を舞台にした「史上最低」劇中劇「ヒットラーの春」があるからです。『プロデューサーズ』は、喪失や虚無がどんなものであるか知っている人々が、それでも生きていこうとするタフさを、そう正面から言わずに描いたエンタテイメントです。優れた作品だけが持つ速さがあり、メル・ブルックスが壮大な無駄に込めた恐るべき意味に驚嘆しました。ところで『アルトゥロ~』でポスターになっていたあの人間逆卍は「ヴトケ自身のアイデア」とのことですが、『プロデューサーズ』でも出てきました。ゲイ・パージョンもあったはずです。人間の考えることは、往々にして似るんですね。

後は自由について。西欧の時代劇を観て、劇中で言及/示唆される自由とは、神との一対一の契約に基づき選択をし、その結果ただちに生じる責任と義務を負うことらしいと理解しました。『マノン』は、自由の暗い側面を描いた作品なんだろうと思います。彼女がルイジアナで果てるのは、流刑地アメリカ、という時代背景以上のものがありそうです。さて『ニセS高原から』で扱われた「日本人の死と生」について書こうと思ったら、随分長くなってしまっているのでどこかに改めます。河内山シモオヌ