三条会「アトリエ杮落とし公演 2005年日本近代らりぱっぱ4部作」、そして『メディア』へ

◎月に跨り千葉通い

三条会が千葉市にアトリエを構えたらしい。そんな噂を耳にしたのは2005年の春である。1997年の旗揚げ以来、国内外さまざまの場所で演劇をつくってきた三条会が、ついに本拠地を手に入れたという報せは我が家を乱れ飛び、心はその話題で持切りだった。4月の落成に至るまでの事情は、Wonderlandに掲載された関美能留のインタビューに詳しい。戯れに、昨年梨園を賑せた中村屋の「ボス」襲名の言祝ぎに倣うなら、「新しい三条会」の活動はここから発信されるわけで、すでに、『メディア』(静岡野外劇場「有度」、5月)、『ニセS高原から』(こまばアゴラ劇場、9月)が生れている。そのアトリエの杮落とし公演が、市民参加の狂言『新・千葉笑い』(千葉文化センターアートホール、12月8日)を間に挟みながら、霜月から師走に跨る毎週末に、週変りで上演された。


千葉駅からPARCOをめざし、繁華な街並をほんの少し外れたビルの三階、そこに三条会アトリエはある。普通、わたしたちがイメージする「劇場」という器は、往々にして四方の壁と床天井を黒く塗られているのではないか。豪奢な大劇場などはとまれ、「小劇場」と呼ばれるような場所は殊にその色合いが強い。しかし、三条会アトリエは白かった。壁天井の白きところに、俳優たちの影が伸縮しながら映し出され、時に圧迫感さえ伴って、わたしたちに覆いかぶさってくる。この新しい空間でも佐野一敏の照明は冴え渡る。長谷川きよし「黒の舟唄」の「まっかな潮が満ちる時」で天井が炎と浮びあがる趣向(『ひかりごけ』)などは云うに及ばず、光と影を積極的に操って、空間の色彩をよりゆたかに描きだしていた。白地に浮ぶ舞台は、幅二間、奥行き三間ほどの黒い素舞台、奥にはこれも漆黒の格子が立てられ、俳優が出入りする上手奥袖から、格子を隔てた向う正面に亘って紅白の幕が張られている。赤と白のハレの場所に囲まれた常闇の舞台は、どこか特権化されて目に映りこむ。

「日本近代らりぱっぱ4部作」と題されたのは、『山椒太夫』(作・森鴎外)、『砂の女』(作・安部公房)、『班女・卒塔婆小町』(作・三島由紀夫)、『ひかりごけ』(作・武田泰淳)の四作品。さまざまの場所で幾度も再演されてきた演劇作品が、「アトリエ」という「新しい」空間を得てどのように変るのか。また、それぞれ成立から事情の異なる作品群が、「アトリエ」という「共通の」場所でどのように変るのか。再演は初演の再現ではない。あらゆる条件を喰らう演劇というものが、いかに可変的であるかをビシビシ感じる。同一の場所での複数回公演が当たり前になってくると、少なからず反復を余儀なくされるわけだが、多く文字通り一夜の「一回性」に惜しみなく奉仕する三条会は、場所にしろ時間にしろ、特殊な公演形態を重ねてきたのだと、改めて思う。戯曲や、俳優の演技、演出などが、すべて空間の機能と密接に連結していて、その時どきで体温を変えながら動く、まるで生きもののようだ。

配布パンフレットの「あらすじ」をちょっと引いてみる。

「山椒太夫」 姉と弟が生き別れ。
「砂の女」 男が砂のなかに落下。女と出会う。
「班女」 男がふられ、
「卒塔婆小町」 詩人と老婆が出会う。
「ひかりごけ」 船長、人肉を食す。

まさに「粗筋」ともいう、このシンプルさがいい。眼目は単純なまでの人間関係、特に男女の出会いである。他者としての男女が出会いそして別れ、また男が女に惚れていくその過程が、四作品を貫くいくつかの共通項に縁どられ、しかしまるで異なる形式としてめくるめいている。

第一夜を飾った『山椒太夫』。舞台中央での一人語りと身体所作で、求心的にうごめく情念を顕現させる大川潤子という稀有な女優の力強さ、どこか土着的なたたずまいが、古くから語り継がれてきた物語の時間を、安寿と厨子王の空間的遍歴を伝える。「語る」こと、その仕方は、こんなにもバリエーションに富んでいるのである。星条旗を讃えながら幕開く『砂の女』は、緻密に構築された数学的な空間が観客の身体にまで及ぼす平衡感覚の揺らぎ、乾いた触感を伴うテキスト構成の見事さでもあった。砂の穴に落ちた男の閉塞感と、そこでの女との関係と生活に、何とも切ないロマンさえ漂っている。『班女・卒塔婆小町』では、修辞的と云われる三島言葉が、たとえば『班女』で、ポージングしつつ「ああ、肉!」と叫んだ実子(榊原毅)のように、ほとばしる健康さと生々しい肉体で以て本当に明るく語られる。大川潤子と榊原毅の二俳優が舞台手前に並び立つ、『班女』の強靭なダイアローグ。『卒塔婆小町』では岡野暢と橋口久男が魅せる。詩人が橋口→榊原と引き継がれ、また岡野/大川による老婆(=小町)の位相。『班女』への円環を示しながら、衣服を脱ぎ捨て「小町、君は美しい」と語る榊原毅の、崇高さえ感じさせる声と身体。その美しさは果敢ないまでに短命である。警官(中村岳人)の登場で、緊張が解ける。美に駆けあがる一瞬の昇華と、それをたちまち断ち切る軽みは、三条会の十八番と云っていい。第四週、代表作といわれる『ひかりごけ』で「四部作」は完遂される。「船長、人肉を食す」という「あらすじ」にもかかわらず、ここでは人肉食の是非如何などは然程問題にならない。人を食べたことがいけないとか、道徳的な善し悪しではないのだ。そこでは、ヒトを食べた人間になることが表現されるのではない。俳優である彼らが、異なる言葉や時・空間に出会ったとき、自身の全存在を賭けて言葉を語り、世界とせめぎ合って、劇という宇宙に溶けこんでいく。その活気あふれる終宴に、拍手は止まなかった。

去る酉から戌へ、ひとつ時は廻る。『メディア』である。「楽しい悲劇」の一語が万事を物語る。やはり衝撃的だった冒頭の数分。『メディア』という「ギリシア悲劇」を観に来たわたしたちは、多少なりシンミョウなオモモチで、これからやって来るであろう「悲劇」の時間に臨んでいる。ところへ大音量のglobe “FACE” である。そしてパンツ一丁の股間を押さえ、朗々と歌いながら登場する男優たち。初演で観客の度肝を抜いた全裸姿はさすがに規制かかったかと残念がりながらも、のっけから劇世界にグイと引き込む手腕と、何だかわからないけれど物凄く壮大なイメージに圧倒される。演出家の描く世界と、そこに生きる俳優のエネルギー。みるものの心にも身体にも強く訴えかけてくる皮膚感覚。「これはどういう意味かしらん」といった論理的解釈や、心理的共感を超えてそれを感じさせてくれるものは、演劇に限らず本当に少ない。これはもう非常なるバラエティの真髄だ。意表をつく現象が思いもよらぬ配列で構成され、次々と巻き起こる。スリルがあり、ユーモアがあり、時に謎めきながらも、そこに描かれる世界はひどく美しい。そして最後には豊かなカタルシスさえ待っている。未知の緩急に身体を晒しながら、それでいてどっしりと『メディア』に着地してしまう見事なコントラストが、遠大な齢を経た「悲劇」をして、現在に「楽し」からしめる所以である。そして、「三分間の休憩」後の群舞を、第二部として新しく名づけた「未来へ」という言葉に、静かな決意を思う。

新旧、と云ったら聊か語弊もあるけれど、昨年末から年明けにかけての一連の公演は、三条会の歩んできた時間そのものだった。現在、「演劇」というと科白劇の部分が広く知られているが、それだけではない。そんな当たり前と云えば当たり前のことを気づかせてくれる。あるパターンに終始するのではなく、演劇という可能性の実際的な在り様を、どちらかと云えば抽象的な手法で、しかし愉しさを損なうことなくみせてくれる。「日本近代文学」や「ギリシア悲劇」の、「書かれた」言葉、濃厚な物語を前提として、それらを語る人間(俳優)とはどういう存在なのか。人間は、外部の言葉と出会うことでどのように変り得るのか。思うことはひとつ、「演劇って何だろう」。社会的にどうとかではなくて、「演劇として」、何ができるだろう。その先に、もう一度、「演劇って、何だろう」なのである。三条会の演劇が、これから何を発見していくのか。その舞台から、わたしたちは何を発見していくのか。春にはオニール、初夏には寺山修司が待っている。果して、「すべての土地はもう人がたどりついてる」(ムーンライダーズ「マニアの受難」)かどうか。新たな領域を開拓していく三条会の足跡を、後追う人は悔しいなあと、見つめるのかもしれない。

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