庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」

◎「庭」が可能にするリアルな妄想の感触
木村覚

庭というのは自然そのものではない。むしろ妄想そのものだ。自然の内に押し込め入念にしつらえた妄想。庭とはまたひとを招く場所、庭が体現する妄想に客人が巻き込まれ吸い込まれる場所。時折迷いネコが通り過ぎたりする。庭劇団ペニノ(以下、ペニノ)の庭ではそんなネコのように役者は観客の存在を無視したまま、現れて消えていく。普通のセリフ劇がセリフとそれを口にする役者へ観客の注意を一元化するのに、ここでは庭とそこにいるすべてのものどもが等しく興味深い。

劇団名になぞらえてあえて強調する。ペニノは庭の劇団である。舞台上に妄想の庭を出現させること―ペニノが他のどんな劇団とも異なるのは、この点でありこの点の容赦ない徹底である。ペニノにとって庭(舞台空間)とは、セリフ劇に奉仕する背景でも飾りでもない。いわばそれ自体が劇なのである。青山のマンションの一室には天井から蜜がしたたり床に畑のあるレストランが(『小さなリンボのレストラン』04年)、新宿副都心脇の空き地には実寸大の地下道が(『黒いOL』04年)、駒場アゴラ劇場には二階建ての中華料理店が(『ダークマスター』06年)姿を現した。極めてリアルな、というか細部にわたるまで現物そのものが舞台に持ち込まれてしまっている徹底的に即物的なセットを眼にする度、その過剰な贅沢さと荒唐無稽に苦笑し、あっけにとられ魅了されてしまう。湿度の高い粘着質の空気漂う妄想の庭に閉じこめられる恐怖と快楽が、これまでにない洗練と緻密さをもってきわまった新作『アンダーグラウンド』は、これまでの試みの集大成的作品というべきものとなった。快作であり傑作だった。

庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」 写真撮影=田中亜紀、提供=庭劇団ペニノ
庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」 【写真撮影=田中亜紀、提供=庭劇団ペニノ】

ジャズのトリオが舞台脇で時折演奏するなか、女ばかりの看護士たちが獣のような男を手術台に乗せ、なにやら切開手術を行う。それが主な出来事。やや古びているが本物の器具や装置が並ぶ手術室。何の手術かは明かされない。彼女たちに会話はほとんどとんどなくあってもひそひそ声で、そこからどんなドラマも読み取れない。だから観客に許されているのは出来事のいちいちを眺めることだけだ。腹部にメスが入る。まさか(本当じゃないよね)と思うものの、ゾッとするリアリティがある。皮膚が四方にめくられ内部に手が差し込まれていく。舞台後半、観客の視線はここに据え置かれる。けれど、そこここで起きている諸々の出来事に気を逸らされながらだ。黙々とドリルで体内の何かを削り、また腸の如き長い物体を引き出し野放図に放り投げる看護士二人が真ん中で奮闘。それが場面の中心ではあっても、その脇でこれまた黙々とガーゼを用意する看護士のもたもたした感じも気になる。後ろでは研修中の新人看護士が台の上から腹部を見下ろす。そのそわそわした感じやその横の注意散漫な猫背の女が手持ちぶさたにぶらぶらしている感じも無視できない。いちいちが気になるオブジェで注意を定まらせないこうした多焦点的な空間が「庭」の光景として迫ってくる。セリフで観客を誘導しない分、ただ開け放たれたままの空間にあるすべてが劇でありうる。そう思えてくると壁のX線写真を照らす蛍光灯が次第に点灯する独特のリズムなんかも面白くなってくるし、ところどころに気が散れば散るほどそれぞれを眺める楽しみが増してゆく。

セリフに舞台を支配させ統御させる演劇がモダニズム的だとすれば、演劇のポスト・モダニズムはセリフの支配から自由に生々しくまた多焦点的な光景を舞台化する。

さて、こうした光景を舞台に出現させる点から、ポツドール(例えば『夢の城』06年)の舞台とペニノのそれとを並べ置くことは可能だろう。ただし、生々しい現実を切り取って観客に見せることにポツドールの狙いがあるとすれば、ペニノの場合、光景の生々しさはファンタジーを強化するために求められている。それは現実ではない、妄想だ。けれども妄想こそ細部までリアルでなければならない。妄想を単に理解させるのではなく体験させるためには、記号的にオブジェがあるというのでは全く不十分なのであり、即物的で生理的に訴えるリアルな感触があって初めて、観客は妄想の内に巻き込まれている感覚を得ることが出来る。生々しい現実の内に妄想がせり上がって初めて舞台は「庭」になる。窪んだ白タイルの床に水がたまっていて、光が当たると壁に水面の影が揺れる。例えばこうした揺れの感触を観客が抱いて初めて、ファンタジーは真に舞台に降臨しうるのだ。そして、そのことを熟知しているに違いない演出家・タニノクロウが仕組む細部はどれも、観客に自ずと安心と陶酔をもたらす。ペニノがもつ不思議な高級感は、恐らくこの易々と妄想に没頭できる贅沢なしつらえに理由がある。

舞台に戻ろう。観客をほとんど突き放してひたすら自分の作業に没頭する女たち。その周りで「指揮」と役名のついた小人役者・マメ山田が文字通りうろちょろする。冒頭、女の一人に執拗にくすぐられまくるなんてグロくて不思議に魅力的な場面もあったけれど、マメが女たちとどういった関係にあるのかは分からない。手術室に住む亡霊か。それとも彼女たちの指令者なのか。そもそも彼女たちは誰なのか。宙づりのまま手術は佳境に入りあわてる看護士たち。演奏がそれを煽る。気づけば水着姿のマメが女たちに分け入ると釣り竿で男の腹から内臓を釣り上げる。役者の身ぶりは音楽と交差し、一方で演奏する三人は舞台の光景の一部であり、だからすべては音楽でもあり、すべては美術でもあり、けれどもそれらはすべて演劇的な試みとしてあるのだと思い直し、我に返る。

ラスト。女たちの退出した手術室に赤い水たまりが広がる。ホラーの気配。けれども、それはあっという間に「ズズズ……」と音を立て床下に吸い込まれる。すると手術台に横たわる男の激しいため息が一つ漏れる。腹の辺りが蠢き出した。腹からマメは頭を突き出し、はい出ると枯れ葉を腹に敷いてゆく。風穴のように開いた男の腹は、異質な何かを通す管となった。このときぼくは、唐十郎のテント舞台が最後に背景に穴を開け、現実の空間と虚構の空間とを地続きにしてしまう様を連想した。けれども、二つは異なるとすぐに思い直した。男の腹が通した異物は極めてリアルなもう一つの妄想に他ならない。妄想に出口なし。妄想は空洞を作って観客を自分の内部に閉じこめる。そこに現実と地続きの通路はない。折り重なる襞のように、妄想に穴を抜けても広がるのはまた別の妄想、それだけだ。

「それだけ」という居直りともとられかねない認識あるいは諦念こそ、庭を純化させる。妄想の詰まった徹底的に狂った庭。ユイスマンスの『さかしま』の部屋のように、濃厚な空気の籠もる空間。その狂った庭に一瞬閉じこめられる快楽。現実を遮断し一時の昏睡に陥る快楽。堪能した、それだけだ。閉じることが妄想の暴走を甚だしく増幅させるなら、それは正しく潔い気がする。だからそれで十分だ。

(注)この点を十分に理解するには、ポツドールと最近のペニノ両方の舞台 美術を田中敏恵が手がけていることに注意する必要があるだろう。次の田中のインタビューを参照。http://www.performingarts.jp/J/art_interview/0608/1.html

(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第9号、9月27日発行。購読は登録ページからお願いします)

【筆者紹介】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。

【公演記録】
庭劇団ペニノ『アンダーグラウンド』
北沢ザ・スズナリ (9月15日-20日)
(9/19 14:00、9/2013:00の回は昼ギャザ実施)

作・演出:タニノクロウ
出演:
佐山こうた(p) 中林薫平(b) 長谷川学(d)

安藤玉恵
佐山和泉
島田桃依
瀬口タエコ
保坂エマ
吉原朱美
横畠愛希子
飯田一期
マメ山田

舞台監督:矢島健
舞台美術:田中敏恵
演出助手:川嶋はづき
照明:今西理恵
宣伝美術:野崎浩司
DMイラスト:坂口時継
構成助手・撮影:玉置潤一郎
構成補佐:海老原聡
写真:田中亜紀
メイク:井上悠
WEB:佐田丘仁子
PA:阿部将之

制作 樺澤良・河口麻衣・小野塚央
プロデューサー 野平久志
企画製作 PUZZ WORKS /劇団制作社
助成:東京都歴史文化財団

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