太陽劇団「Le Dernier Caravanserial《最後のキャラヴァン宿》」

◎テクストと身体-日本の翻訳劇制作現場で考える  芦沢みどり ▽太陽劇団の最新作に即して  このところ学校でのいじめを苦にした小中学生の自殺が頻発して、教育委員会の対応やマスメディアの報道のあり方も含めて、社会の関心の的 … “太陽劇団「Le Dernier Caravanserial《最後のキャラヴァン宿》」” の続きを読む

◎テクストと身体-日本の翻訳劇制作現場で考える
 芦沢みどり

▽太陽劇団の最新作に即して
 このところ学校でのいじめを苦にした小中学生の自殺が頻発して、教育委員会の対応やマスメディアの報道のあり方も含めて、社会の関心の的になっています。最近の子どもには他者への想像力が欠けている、といった言説もメディアを通して聞こえてきます。昨今の日本が子どもに限らず想像力を欠いた社会であることは間違いないにしても、自他ともに人を尊重しなくてはいけないといった倫理観は、自他の概念が曖昧なまま思考停止のミーイズムに陥っているかに見えるこの国では、いくら学校が道徳教育に力を入れたところでそう簡単に育つものではなかろうに、と思うのですが。

 さて。つい最近、ケンブリッジ大学出版会から出ている『ニュー・シアター・クォータリー』(以下NTQと表記。注1)という演劇雑誌で、この自他概念を扱った興味深い論文を読みました。アリアーヌ・ムヌーシュキンが率いる太陽劇団(注2)の2003年公演Le Dernier Caravanserial《最後のキャラヴァン宿》(注3)に関する論考です。

 太陽劇団のこの作品は、劇団結成40周年の前年に制作されたもので、副題が<オデュッセイア>であることからも察せられますが、ヨーロッパで政治問題化している移民・難民を扱っています。これまで太陽劇団の舞台にテクストを提供してきた作家のエレーヌ・シクスー(注4)は、現代のディアスポラの苦難物語をテクスト化しようとした時に、自他-self and other-をめぐる芸術的倫理の壁に突き当ったといいます。論文の筆者ウィリアム・マッケヴォイは、「テクストと身体」という、より演劇的な概念をからめて、シクスーがその困難をどう乗り越えたかを検証しています。

 この「テクストと身体」という二項対立的概念を、演劇の制作現場に即して敷衍してみますと、「セリフと身体表現」、「戯曲の上演と物語の解体」、「演出家と俳優」、「操縦と抵抗」等々-様々な位相で語ることのできる便利なタームだということが分かります。戯曲翻訳者として演劇制作現場の周縁に身を置いている筆者は、自分が翻訳したテクストがどう取り扱われるかということも含めて、この「テクストと身体」という概念に注意を向けています。以下は太陽劇団とシクスーの問題意識を上記論文を道案内に辿りつつ、日本の翻訳劇制作現場における「テクストと身体」は今どうなっているかの試論/私論です。

▽エレーヌ・シクスーの選択-身体的記述
 太陽劇団は主宰者のアリアーヌ・ムヌーシュキンが1964年に設立したフランスの劇団で、集団制作を創作の基盤に置いていることや、果敢に政治問題にコミットすることで知られています。太陽劇団が移民・難民・避難民の問題に目を向けたのはこの作品が初めてではなく、すでに1975年にL’age D’or《黄金時代》という、フランスで働く移民の実態を描いた作品を、劇団の拠点であるパリ・ヴァンセンヌの森の弾薬庫跡で上演しています。それ以来、弾薬庫跡は移民と不法入国者のシェルターとしても使われました。

 1999年、ドーヴァー海峡に面したカレー市に近いサンガットに、フランス経由でイギリスに入国しようとする移民のためのセンターが開設され、2001年にムヌーシュキンはクルド人俳優を伴ってサンガットへ赴き、およそ50人の男女の避難民から話を聞き、彼/彼女らはそれぞれに「歴史」を横断している存在であるという認識を得ました。その後一年半の調査とフィールドワークを通して劇団員たちは、タリバン政権下における拷問と抑圧の実態や、ヨーロッパに不法入国することがいかに危険であるかという話、何百人ものボートピープルがオーストラリアへの入国を拒否されてノルウェー船に救助された逸話などを集めました。そのあとシクスーが短いテクストを書いてLe Dernier Caravenserail《最後のキャラヴァン宿》は舞台に上ったのですが、それは奇しくもフランスのサルコジ内相とイギリスのブランケット内相がサンガットのセンターを封鎖した2003年のことでした。

 上演時間が7時間にも及ぶこのLe Dernier Caravanserail《最後のキャラヴァン宿》二部作は、ムヌーシュキンにとっては移民問題を可視化させる政治的に意義のある作品でしたが、1987年以来劇団のためにテクストを書いてきたシクスーにとっては、従来の執筆方法を変えざるを得ない作品となりました。当初の予定ではシクスーは、戯曲を書くことになっていたのですが、劇団員が聴き取り調査をした録音テープを聴いて、テクスト/言葉の限界を知るに至ります。難民の語りの震えおののく声、ため息、沈黙はテクスト/言葉には置き換えられず、彼/彼女らの苦しい胸のうちは身体的にしか表現し得ないと考えたのです。さらにシクスーには、自己の創作意欲を満たしたいという思いと、他者の苦しみを舞台化して見せ物にすることへの道義的責任との葛藤もありました。考えあぐねた末に彼女が辿り着いたのは、テープの語りをセリフの言葉に置き換えるのではなく、テープの語りについての詩的で創意に満ちた短い評論文を書くという方法でした。つまりシクスーは単に自己の創作欲を抑えて他者を表現することに甘んじたわけではなく、創作に近い評論を書くことで身体的記述-ecriture corporelle-の可能性を見出したのです。こうして書かれた4つの評論文を受け取ったムヌーシュキンは、これを基にして「自他」、「作者とキャスト」、「クリエイターと表現される対象」といった概念を行ったり来たりしながら、難民の苦難の語りを、パフォーマーの身体を使った身体化されたメタファーに置き換えて行きました。

 ムヌーシュキンの演出家としての工夫はこの他に、録音テープの難民の語りをナレーションとして流すことや、難民役のパフォーマーをスケートボードのようなキャスター付きのボードに載せることなどでした。このボードは難民が安定した大地に足を下すことができない存在であることを暗示すると同時に、ボードを押して舞台上の移動を手伝うパフォーマーは、発進・停止の際に難民役のパフォーマーに気を遣わなければならないし、難民役のパフォーマーの身体は、ボードの上で絶えず緊張を強いられるという劇的効果を上げました。

 ところでマッケヴォイは論文の中で、俳優という言葉を一切使わずにパフォーマーで通しています。これは太陽劇団が俳優という言葉を使わないからなのか、あるいは彼が意図的にそうしたのかは不明にして分かりませんが、この公演が身体表現を重視したものであることを如実に語る用語ではあります。

▽テクストを捨てよ!
 翻って日本の演劇制作現場での「テクストと身体」はどうなっているかといいますと、筆者が関わっているのは主としてイギリス現代劇の翻訳劇制作現場ですが、ここはかなり分の悪い状況にあると言えます。身体表現を重視した演劇は他の場所では観ることができるのに、翻訳劇はテクストに縛られている(と思い込んでいる)ぶん、身体意識が低いように思います。「身振りに置き換えられないセリフは不要である」といった文章を読むと(注5)、イギリスの劇作家が必ずしも戯曲をテクスト至上主義的には書いていないことが分かるのですが、そのような戯曲が一旦翻訳されると、現場ではテクスト至上主義的に扱われてしまう。それはなぜかと考えますと、あまり言いたくはありませんが、演出家がテクストに縛られて、というかもっと意地の悪い言い方をすれば、テクストにもたれかかって演出しているからではないでしょうか。そういう演出家が演出のコンセプトもなく演出できてしまうシステム、つまり演出家を頂点とするヒエラルキーが現場に定着してしまっていて、当事者にそれを壊そうという意思がないのは、翻訳劇にとってかなり不幸なことです。ここに「テクストと身体」を敷衍した「演出家と俳優」、「操縦と抵抗」の関係が立ち現れて来ます。つまり演出家の演出意図(テクスト)が分からず、演出家に物言えぬ状態で稽古が進んで行くと、俳優の身体は宙吊り状態になり、身体のないまま初日を迎えるか、身体が反乱を起こすかの選択肢しか残されていないという事態になります。

 最近ではドラマターグという装置を導入する現場も出て来ました。筆者はドラマターグを演出家のブレーンと理解していますが、実際の現場を知らないのでそれがどう機能しているかは分かりません。ただ現場の風通しの悪さがこれで少しは解消できるのかも知れないという期待はあります。いずれにせよ演出家がテクストから自立して現場を自由な話し合いの場としない限り、翻訳劇のテクスト至上主義はなくならないでしょう。翻訳劇の場合、幸か不幸かテクストは最初から存在していますが、舞台上の表現手段として言葉は最後に出て来るはずのものだと思うのです。

(注1)McEvoy, William 2006 “Finding the Balance: Writing and Performing Ethics in Theatre du Soleil’s Le Dernier Caravanserail(2003). New Theatre Quarterly, 87
(注2)太陽劇団につぃては『国文学』2002年2月号掲載の木下健一氏の論考「太陽劇団とその周辺、フランス演劇の68年以降」にその詳しい沿革が書かれている。本論はそれを参照させていただいた。「堤防の上の鼓手」が2001年9月に新国立劇場で上演されて話題となった。
(注3)太陽劇団のHPで舞台写真を見ることが可能。すでに映画化されて、今年11月にDVDも発売された。次作Les Ephemeresが本年12月27日にパリで幕を開ける。
(注4)1937年アルジェリア生まれのフランスの作家。フェミニズムではクリステヴァ、イリガライと並ぶ論客と称される。いくつかの著作が日本語にも翻訳されている。
(注5)Gooch, Steve 1988 ” Writing A Play” : A & C Black Ltd

(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第20号、2006年12月13日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)ほか。2006年から演劇集団・円所属。

* 本文中のフランス語が文字コードの制約で適切に表示されていない個所があります。(編集部)

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