◎布団の奥に広がる宇宙 普遍性への通路としての自己パロディ
柳澤望
0.
五反田団の新作『さようなら僕の小さな名声』では、台本と演出を手がける前田司郎本人が自分役で舞台に登場する。岸田戯曲賞の候補になりながら受賞を逃した(二回も)という経験を踏まえた物語が始まる。
1.
舞台は、劇作家兼演出家として劇団を率いる「団長」前田司郎がアパートの部屋の中で同棲相手の女の子とごろごろだらだら話をしているところから始まる。
チープな舞台にはなんだか異様に大きな布団がひろがっていてちゃぶ台風の丸テーブルがちょこんと置かれ、同棲相手の彼女は布団にもぐりこんで蛇の図鑑のような本を眺めている。
日常のテンション低い描写のなかで、蛇をめぐるシンボリズムをモチーフにした作品がなかなか書けないままだとかいった会話が織り込まれる。そこで、劇中で作家が構想している作品のモチーフをめぐる思弁的な内容が語られる。世界の破壊と再生を象徴する蛇。ウロボロス。
導入の場面では、作家が語る蛇にまつわる作品は、舞台上で進行している劇という現実の中で言及される構想中のフィクションとして入れ子状に区別されているし、劇中に出てくる前田司郎は前田司郎という役を演じる役者であり、日常を描く自然な口語の劇として進行している。
部屋としてはがらんと広すぎる舞台の奥のほうには車のハンドルとか、雑然と物が置かれていて、布団はあまりに広すぎるもので、日常の情景のような舞台は、すでにどこかゆがんでいる。
2.
いつしか、劇中の作家が作品化できないと言っていた蛇のモチーフが、進行している作品自体の世界に侵入してくる。
作家が部屋に戻るたびに彼女は少しずつ大蛇に呑み込まれていってしまう(あたかもベケットの『しあわせな日々』)という、ありえない事件が特に理由もなく勃発しながらそれが日常そのものとして描かれる(あたかもカフカ)。
布団にもぐりこんだままの彼女の胴体から下が異様に長くふくらんでいて、蛇そのものは描かれないけれど、布団の中にいるのだという想定で舞台が進行する。布団の奥が暗幕の陰につながっていて、その先に広がっているのはまるで宇宙であるかのような。
舞台は、アパートの部屋から始まって、そこに収まらない展開をするのだけど、アパートの部屋を思わせる大きな布団やちゃぶ台は舞台に投げ出されたままにすべてが進行する。どこまでも遠くに行ってしまう物語は親密な部屋の中に閉じ込められてもいる。
演劇ライターにインタビューされる場面だとか、あるていど作家の実体験を踏まえたものなのだろうなと想像させるものになっていて、一方では、作家の経験の自然な反映のように見える。
だが、アパートの部屋から出る演技のあと、インタビューを受ける喫茶店のテーブルがもといた部屋のちゃぶ台をはさんで演じられるあたりからすでに舞台上で進行する虚構の枠は大きくゆがんでいる。
舞台は情景の自然な描写ではなくなって、お芝居であることをパロディ的にあからさまに示すようになってくる。
ライターとのインタビューで、前田司郎役の前田司郎が語る内容が前田司郎自身の創作理念をおそらく語るものになっている。
そしてついには、劇中の前田司郎が進行する作品の作者であると劇中で語られるようになってくる。メタフィクション的な自己言及が虚実の枠を循環させるような仕方で作品の階層秩序を溶解させる。
舞台はリアリスティックな外見を失ってほとんど恣意的なでたらめの世界に突入していくのだけれど、そのすべては冒頭の日常の場面にふくまれたモチーフであるとも言えるし、ナチュラリスティックな作品のタガは少しずつ周到に外されていくとも言える。
3.
岸田賞や演劇の制度をめぐる風刺的な自己パロディは、作品の表題から自然と想像できるものだ。
彼女がくれるプレゼントの包みを開けると、岸田賞が二つも入っている。狭い日本で一部の人しか興味を持たない、小さな名声の象徴である「岸田賞」は、劇中では板切れに「岸田賞」って書いただけの代物で、あたかも賞なんてのは名目だけのものではないかという風刺として、権威を笑いの中で茶化してみせている。
賞とは、あげたいという気持ちだけであげられるものではないし、二つもらえるはずもないのだけど、不条理にというかナンセンスにというか、同棲中の彼女からのプレゼントとして与えられたものでありながら、夢のように奇妙な二重性の論理によって、劇中でもちゃんと権威ある賞であるということになっていて、受賞についての記者会見が開かれる。
記者会見中、「二つももらった岸田賞をどうしますか」と問われて、「恵まれない国の人に寄付します」と宣言し、「どの国に?」と問われて、答えに窮したあげく、でたらめに口にしたふうな「どこかわからないけどマターンとかいう国」へと、リスの運転手(リスのぬいぐるみを女優が手に持ってハンドルを小道具に使って演技していた)が運転する新宿発の高速バスででかけるというあたりから、物語はどこまでも脱線してゆく。
マターンにでかけた前田司郎は、日本で岸田賞を二つももらったとはいえマターンでは当然無名であり、日本人にそっくりで多少不自然な日本語をしゃべるマターン人一家の家におじゃましたところで「何をしているんだ」といわれ「演劇をしている」と答える前田司郎。
「演劇とは何だ?」と問うマターン人の父親に「人の前で嘘の話をすることだよ」とマターン人の息子が説明すると「そんなことはやめたほうがいいぞ」と説教する父親、といった具合だ。
どこにもないはずの「マターン」という架空の国は、一方で演劇とか賞という制度を相対化し風刺する装置になっていてこうした発想はユートピア的フィクションの系譜を踏襲している。いわば、演劇についての反省の演劇化としてフィクション化が進められる。
4.
岸田賞は作中でさんざんコケにされる。劇中の前田司郎は岸田賞の価値を疑わない。前田司郎は板切れの岸田賞をマターン人に差し出すとなべ敷きに使われてしまいそうになり、あわてて止めようとする。世界の中で賞は名目だけのものに過ぎない。作家は名目を追い求める。
劇団員の女の子がマターンに一緒にでかける。マターンの海で泳いでみたいと強く心に決めている。マターン人の制止をふりきって荒海で泳ぐ。おぼれてしまう。
前田司郎はおもいきって残りの岸田賞を海に投げ込む。「それにつかまれ」と叫ぶ。劇団員は板切れの岸田賞をつかむ。劇団員は沈んでしまう。劇団員は死んでしまう。慟哭する前田司郎。
青いビニール紐を他の役者がふるわせている。海である。学芸会のようなチープな演出で、おぼれる劇団員は演技する劇団員を演技している。素のまま下手な演技をしていて、大仰な演技でおぼれていく。
あまりのばかばかしさと、あまりの真摯さが、ねじれた仕方で重なり合っている。夢のようにまったく恣意的であり、夢のように何かうかがいしれない真実味がある。
演劇は作り事であり「演劇」そのものがさんざん茶化されている。前田司郎は岸田賞を投げ捨てるが前田司郎は作家であることをやめない。そして作品は逸脱を続ける。
5.
リスの運転手が死んでしまったので東京には戻れなくなってしまったバスでショービジネスで成功するためにアメリカに向かうマターン人一家についていくほかない前田司郎。
アメリカに着くと、死んだはずの劇団員が幻となって(スライド投影で)舞台にあらわれたりもするけど大した意味もないセリフを言って消えてしまい、「そんな意味のないことをするな、作品がでたらめになる、もう勝手にしろ」、という作家の叫びとともに、暗幕の後ろに登場人物たちは退場して物語は投げ出される。
こうしてあらすじをかいつまんで書くだけでもあまりにデタラメな展開ではあるけれど、夢の中に現実の構図が明確に反映されるように、おそらく、ここでアメリカが(デタラメであれ)言及されることは、演劇についての演劇であるこの作品においていろいろと重要なはずだ。
そのことを解きほぐしている余裕はないので一言だけ言っておくと、作中の作者がもはや進行中の作品の作者のふりをして投げ出してうやむやに終わらせてしまうのに適した最後の場所が、アメリカでしかありえなかったということは、幾重にも象徴的だ。
成功と失敗が抜き差しならぬ仕方でせめぎあうアメリカ。世界から孤立しながら世界を巻き込んで運動するアメリカ。夢が夢として閉ざされながら、夢から覚める前の夢が放置されるような場所であるアメリカ。
マターンで開かれる物語は、他方で、冒頭で言及された蛇のモチーフを描くものにもなっていて、マターンで登場するマターン人一家の娘は蛇との間に生まれ、世界を呑み込む存在だと語られる。
マターンを経由するロードムービー的逸脱の物語がでたらめのなかに解散させられてしまったあと、最後におかれるのは、マターンの蛇の娘にひざまくらする前田司郎に蛇の娘がもう一度前田司郎を生むのよと語る静かなワンシーンだ。
そこで、作中で生まれなかったはずの作品が成就されて舞台が終わる。蛇に呑み込まれてしまう彼女は日本に残されたまま。
作中の作品が作品の最後に作家が思うままに成就することで、逸脱を重ねていたそれまでの舞台はむしろ宙吊りのままに放置され、作家の統御を離れて流産されるがままに永続する。
6.
平田オリザ以降の演劇の流れの中で「演技の零度」とでも言えるような演技の領域が開かれつつあるように思う。
様式を磨き上げるような演技の方法論を捨て去って、日常生活ですでに十分演技されている演技を舞台化し等身大の人物を登場させることでナチュラルな場面を生み出し効果をあげてみせるような発想が、若い演劇人の間で共有されているようだ。
そうした傾向もまた、ある種の新たな自然主義のなかにすでに様式化を始めているかのようだ。演劇が制度化すれば、それを批判し原点に戻ろうとする運動がおきたりする。たとえばピーター・ブルックが『何もない空間』と言ってみたりする。それと同じことが、小規模にではあれここでも繰り返される。
「演技の零度」を、あからさまな芝居っぽさの中に屈折させるような手法が、世界の他のどこの国にもないような新たな演劇の領域を開きつつあるようで、そういう開けはひょっとするとちょっとした亀裂みたいにすぐに閉じてしまうものかもしれないが、「むっちりみえっぱり」の作品とか今回の『さようなら僕の小さな名声』はそういうものではないか。
演劇をいかにも貧しい演劇っぽさの中に還元してしまうことで、演劇が演劇である本質的な何かを裸のまま露呈させてしまうかのような。
7.
《『さようなら僕の小さな名声』では、急激な変転や交替、ばらばらに離れたものの意外な接近の効果が最大限に生かされる。自由な空想やシンボル体系や時に神秘的・宗教的要素が、自然主義と有機的に結びついている。》
これは、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』にある「メニッペア論」(注)の剽窃なのだけど、続けてみよう。
《『さようなら僕の小さな名声』では大胆な発想と空想的な要素が、最高度の哲学的普遍主義と最大限の世界観察的態度とに結びついている。大胆かつ奔放な空想や冒険が、演劇の本質を誘い出し、試みるために異常な状況を作り出すという、純粋に思想的、演劇的な目的によって内的に動機付けられている。》
《カーニバルにおける笑いは深く両義的であり、起源的に見てそれは太古の形式における儀式の笑いにつながっている。地上の最高権威をけなしあざ笑うことにより、それらの蘇りを促そうとするのであるが、『さようなら僕の小さな名声』における笑いもそこに通じている。》
以上、ほとんど切れ切れの引用で、短絡的に『さようなら僕の小さな名声』をめぐる論旨を混入させた代物だ。
さて、こういういたずらみたいな思いつきから生み出される論述が何かまとはずれでもないような印象が『さようなら僕の小さな名声』にはあって、本来ならこのあたりもっと慎重に解きほぐし論及すべきところだが、余裕がないので一言だけ言っておきたいのは、『さようなら僕の小さな名声』でおきていたことが、バフチンの「メニッペア」についての議論に重なり合うもののように見えてくる理由は、その一見デタラメな展開には形式上の必然があり、それは普遍性を目指す作家の姿勢から生まれてくるものに違いない、ということだ。縮小再生産ではあるにせよ、必要なものとして。
8.
前田司郎は前田司郎自身をとことんパロディ化してみせる。パロディ化の運動が開く空間の果てに、作家の思いのままにならない作品と作家の思うがままの作品のイメージという両極が対置される。その両極の間に、作家はリアリスティックな日常から深い夢の底に浮沈するような人間精神の原型的なものまで包括しようとする。
そのパロディ化を単なる個人的な決別の儀式や韜晦的な身振りであると考えるのはあまりに作家を侮った見方ではないか。前田司郎にとっては、演劇界に身を置く自分をパロディ化することこそが、演劇を普遍的な表現に到達させるために可能な隘路のひとつだったということなのだろう。その結果として、発想や手法になんら新しいものが出てこなかったとしても、それは問題ではない。表現が普遍的であろうとした結果として、不条理演劇であれ、文学上の様々な形態であれ、過去にあったものが再び現れてくるのはむしろ当然のことだ。
『さようなら僕の小さな名声』の上演台本は岸田賞にノミネートされたそうだが、前田司郎によって徹底されたフィクション化の運動に巻き込まれているのは岸田賞そのものであるようだ。
【筆者紹介】
柳澤望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年、長野県生まれ。法政大学の大学院でフランスの哲学者ベルクソンを研究していたが、博士課程を退学。某編集プロダクションを経て現在某業界紙記者として働いている。
・wonderlandに執筆した劇評一覧
【参考サイト】
・演劇◎定点カメラ
・観劇の一涙
・Treasure Hunting Report
・しのぶの演劇レビュー
・11月のお薦め芝居 by中西理(えんげきのページ)
・第51回岸田國士戯曲賞/選考過程 最終候補作品(白水社)
・前田司郎インタビュー「なんのためにもならない芝居に懸ける 人間のせめてもの救い」(聞き手・梅山景央)
【公演記録】
五反田団第33回公演「さようなら僕の小さな名声」
こまばアゴラ劇場(2006年10月27日-11月5日)
作・演出:前田司郎
出演:
前田司郎 :僕
望月志津子:女
後藤飛鳥 :記者
宮部純子 :運転手
中川幸子 :劇団員
小河原康ニ[青年団] :父
安倍健太郎[青年団] :兄
立蔵葉子[青年団] :妹
西田麻耶 :ウェイトレス
坊薗初菜[[カムカムミニキーナ] :ボウゾノ
スタッフ:
照明:前田司郎
制作:榎戸源胤、塩田友克、尾原綾
主催:五反田団
提携:(有)アゴラ企画/こまばアゴラ劇場
アフタートーク 10月30日、31日
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