三条会「ひかりごけ」

◎演劇的な読替えの愉しみ 濃厚で圧縮された舞台
片山幹生(早稲田大学非常勤講師)

「ひかりごけ」公演チラシ2001年に初演されて以来、再演を重ねてきた三条会の「ひかりごけ」の公演を下北沢、ザ・スズナリで見る(2007年1月19日)。三条会の独創的な舞台についての高い評価はこれまで何度も目にしていたが、私が三条会公演を観たのは今回がはじめてである。

三条会のウェブページ上には、自身の表現形態の特徴について以下のように記載されている。

三条会の作品は、三島由紀夫や武田泰淳、安部公房などの近代戯曲・文学をテキストにして作られる。戯曲の物語世界、作者の作家性を探りつつ、それらを相対化することで現代演劇として視覚化する。
現代を生きる俳優が舞台上で近代戯曲の言葉を発するという「ずれ」を検証し、その「ずれ」の違和感を突破した上で、時代を越えても変わらない人間存在の普遍的な問題をユーモアに富んだ表現で舞台化してきた。 (「三条会とは?」)

実際、私が観劇した印象は、上記にある表現についてのマニフェストを裏切るものではなく、この理念を忠実に具現したような舞台だった。刺激的な演劇的創意に満ちた、濃厚な一時間を堪能する。

三条会公演の観賞の前に評者は原作の小説にも目を通した。武田泰淳の代表作である「ひかりごけ」は1954年(昭和29年)に『新潮』誌に発表された。原作は現在手に入りやすい新潮文庫版で63ページの長さなので、一時間半ほどあれば通読できる。

「ひかりごけ」は不均質なふたつのパートから構成されている。前半部は作者自身を語り手とする紀行文、手記の形をとり、この小説を書くに至った経緯が記されている。作品は知床半島で昭和一八年に実際に起った遭難船船長による「人肉食」事件をモデルとしている。「人肉食」という事件のあまりの生々しさゆえに、武田泰淳は「きゅうくつなリアリズム」を伴う小説という形式で事件を描写することを躊躇した。彼が選んだのは、上演を前提としない「読む戯曲」という形式である。
後半は二幕の戯曲形式になっている。第一幕は極寒期に船舶遭難によってマッカウシ洞窟に閉じこめられた四人の男たちの物語である。仲間の人肉を喰った船長だけが生き残る。
第二幕は法廷での場となる。登場人物は船長、検事、裁判官、弁護士、そして傍聴人。検事は船長の人肉食を倫理的観点から激しく告発する。

原作では戯曲部分に先だって、全体のバランスを考えるとかなり長いプロローグを作者の一人称語りの手記という形で置いている。一種の「額縁小説」であり、戯曲部分の虚構性はこの構造によって強調されている。この二元構造は三条会版の舞台でも踏襲されていたが、外側の枠組みには原作とは全く異質の世界が導入されている。

開幕前の舞台には黒幕の背景の前に学校机と椅子が七組、シンメトリックな配置で並べられているだけだ。舞台中央奥に一組の机・椅子、その両側に三組ずつ。しばらくすると禿頭の学ラン姿の学生たちが四人ぞろぞろ騒がしく入場してきて、いかにも頭のよくなさそうな振る舞いを繰り返す。彼らは「ハンバーガー」にかぶりつく。このハンバーガーが「ひかりごけ」の人肉食を示唆するのは明らかだ。小柄な女教師が入ってくる。国語の時間が始まったようだ。テキストはもちろん「ひかりごけ」である。原作では作者の一人称語りという現実世界の枠組みの中で提示される虚構であった戯曲部分は、三条会版では劇中劇という形に転換されている。この物語の外枠の変換はこちらの想像力を大いに刺戟するギミックだ。外枠の物語の提示はかなりアングラ風の癖の強いもので、グロテスクなユーモアに満ちている。

教師に命じられて学ラン姿の学生たちはテキストを読み始めるが、その様子は荒廃した底辺校の弛緩した授業風景を想起させるものだ。テキストの世界は学生たちには全くリアリティが感じられない文字列にすぎない。しかし外枠とその中の「ひかりごけ」の世界の境界は、三条会版では原作のように画然としたものではない。原作では「手記」の部分と「戯曲」の部分に大きく分かれ、戯曲の幕はそれぞれ「洞窟」と「法廷」という異なる場と時間で展開し、この三つの世界ははっきりと区別されていた。しかし三条会の舞台ではこの三つの世界の境界は実にあいまいで混交し合う。この混交の契機となるのが教室に後から入ってくる一人の若い女性である。妖艶なほほえみを浮かべる彼女に、学ラン学生たちの欲望をかきたてる。転校生? しかしノースリーブのドレスを身にまとう彼女の姿に学生らしい雰囲気はない。男子学生のあからさまに性的な視線をぐっと引き寄せたかと思うと、彼女は「ひかりごけ」の船長、あるいは検事に化身して、男たちを一気に虚構の世界に引きずり込むのである。彼女は二つの異なる次元の世界を媒介する巫女的な存在である。彼女が教室にやってきた理由、彼女の正体については結局明らかではない。彼女は若い男たちの性的欲望を刺戟することで、彼らを非日常の次元に引きずり込む。

「ひかりごけ」公演
「ひかりごけ」公演
「ひかりごけ」公演

「ひかりごけ」公演
【写真は「ひかりごけ」公演から。撮影=内田琢麻 提供=三条会】

黒い背景の殺風景な教室は、四人の遭難者が退避する知床の洞窟になり、時に船長が裁かれる法廷となる。と思うと、また教室に戻っていたりもする。洞窟の場と法廷の場の両方に登場する唯一の人物である船長は、女教師、若い女性、学ラン学生の三名によって交互に演じられるが、他の役柄は一人一役である。裁判場面が、洞窟のシーンに挿入されるものの、台詞自体は原作にあったものをほとんどいじっていないようだし、各場面の進行も時間軸に沿ったものになっていて、展開を見失うことはない。

教室の机の上で学ラン男たちは悲痛な台詞を語り、その死とともに退場していく。「ひかりごけ」の世界では彼らは餓死していくのにのだが、舞台上では彼らはまるで教室内で首を吊って自殺していくようにも見えた。死ぬ間際の何とも言えぬ悲しげな表情がせつなさを喚起する。死んだ者の肉を食って生き延びることの寂寥感を洞窟でたった一人になった船長は「せつない」という言葉で表明する。この「せつない」は原作にもあった台詞だが、三条会版では特異なイントネーションで「な」の部分を引き延ばし節をつけ、何回か繰り返すことで強調していた。この「せつなーい」という船長のつぶやきの、民謡のリフレインを連想させる叙情的な響きが印象的だった。

「せつなさ」は法廷の場では「我慢している」ということばに変わる。この「我慢している」という船長のことばは原作でももっとも強い印象を与える台詞である。いったい船長は何を我慢しているのか。極限状況の中で仲間の屍肉をあさることで生き残った自身の選択を我慢して受け入れているというのか、あるいはそういった極限状況を生きたこともない人間たちに裁かれることを我慢しているのか。食人というタブーを犯した船長の「せつなさ」、彼の「我慢」の背景にはこうしたことばでの説明を越えた人間の根源的な不可解さ、闇の深さが横たわっている。われわれは人間の抱えるこの深淵の深さに戦慄するのだ。

そもそもわれわれはなぜ人肉食に関心を持つのか? 人肉食という主題は古来われわれの猟奇的な好奇心を強烈に刺戟してきた。食人行為は、近親相姦とともに、多くの社会で反文化的行為、野蛮・未開の象徴とされている。この場合、そのような野蛮なことを行う人間を想定することによって、われわれは逆に自らの社会、文化とその境界を明確にしようとしているのだと考えることができる。

文明人としての矜恃から人肉食を恥ずべき行為としてとらえる考え方は、原作の冒頭部で作者自身によっても示されている。武田泰淳は人肉食という非人間的営為を、日常の延長線上にありうるものとして捉えている。戯曲部分の第二幕で船長は検事に激しく倫理的に糾弾されるが、船長が経験した極限的状況は彼の人肉食を了解可能な行為として正当化しているのだ。原作の最後で法廷にいたすべての人間の後ろにヒカリゴケの輪が見えるのは、われわれすべてが人肉食という「罪」を犯しうることを示唆している。こうした認識は小説発表当時(1954年)の読者にも、現代のわれわれにも、了解可能な普遍性を持っている。

しかし太平洋戦争末期における飢餓状態の南方戦線での食人行為、戦中・戦後の極端な食料窮乏と貧困などの記憶がまだ生々しく残っていたはずの小説発表当時の読者は、現代の我々よりもはるかに自然なかたちで極限状態における飢餓における食人行為を受け入れることができたのではないだろうか。彼らは「ひかりごけ」の状況を日常的なリアリティの延長線上にイメージできたように私には思える。

飽食の現代日本社会に生きる我々は、「ひかりごけ」事件の前提にあった飢餓自体が既にイメージしにくいものになっている。人肉食に対する距離感は小説発表当時の読者とは相当異なっているはずだ。
しかしだからといって人肉食に対する距離が往時より遠くなってしまったというわけではない。奇しくも昨年末に続けて発覚し、マスコミで大きく取り上げれたばらばら殺人事件の猟奇性は人肉食を連想させずにはおれない。佐川一政による「パリ人肉食事件」(1981年)をはじめ、宮崎勤事件(1988-89年)、神戸連続児童殺傷事件(1997年)といったバラバラ殺人事件の数々は、現代日本ではカニバリスム的異常性が日常のすぐ傍らに、日常と平行するようなかたちで存在していることを示している。「ひかりごけ」の時代にはカニバリスムは日常の延長線上にあり、その行為は理性的理解の範疇にあったが、飢餓がリアリティを失った現代日本ではカニバリスムは不条理に属し、しかもその不条理は日常と接した場所にあるのである。

三条会版「ひかりごけ」では、食人の物語の外枠を学校の教室に変更することで、原作と異なる現代的なコンテクストを作品に導入することに成功している。小説「ひかりごけ」の世界は、国語の時間に朗読を強いられる教科書の物語同様に、リアリティを欠いた空虚なファンタジーである。しかし思春期の不安定さと抑制のきかない欲望はしばしばカニバリスムのような非日常性を日常の中に唐突に、暴力的に招きいれてしまうことがある。

三条会版「ひかりごけ」では現代の高校生にとって日常的な食の代表であるハンバーグが人肉に姿を変える。食人という非文明的営為はわれわれの日常から横滑りしたすぐそばにあるのだ。七人の登場人物のなかで、人肉を喰らった船長、物語の軸となるこの登場人物だけが複数の役者によって演じられる。船長の特異性はあらゆる人間がその心の奥に内包しうるものであり、彼の異常な行為は人間存在の不可解な暗闇を象徴するものなのだ。われわれは揺らぎやすい不安定な存在なのである。

七組設置されていた教室机と椅子のうち、中央・奥に配置された一組の机・椅子には、六人の役者の誰も座ることはなかった。カーテンコールで役者たちはこの無人の机・椅子を手で指し示した。私にはあの無人の座席に座っていたのは観客であるわれわれ自身であるような気がした。

三条会版「ひかりごけ」の上演時間は一時間強だった。原作をほぼ忠実に映像化している熊井啓監督、三國連太郎主演の映画は約二時間の長さなので、脚本は原作を相当刈り込んでいるのだろう。しかし観た印象では原作で提示されている要素はほぼ全面的に三条会の上演でも提示されているように思えた。

濃厚で圧縮された舞台だった。導入部、物語の外枠として提示された部分のギミックには意表をつかれるが、順序の組み替えは行われているとはいえ、武田泰淳のテクストはおおむね忠実に使用されている。作品のコンテクストが大胆に組み替えられ、独創的な演劇的仕掛けに満ちてはいるが、原作の本質的要素はしっかりと伝えられているように思った。

三条会の舞台では演劇的表現の様々な制約が、逆に作り手と観客の想像力を喚起することによって大きな自由を手に入れるという演劇的パラドクスの醍醐味を味わうことができる。これは演劇よりはるかに自由な表現手段を有する映画がそのリアリズム的表現の呪縛ゆえにしばしば原作のスケールを小さいものにしてしまっているのと対照的である。

三条会の舞台の暗喩に満ちた演劇表現は観客の想像力に強烈に訴えかける。しかしその表現密度の高さゆえ、観客の想像力の扉を開いたまま、さらに別のイメージが重なっていく。しばしばこれらのイメージは開かれたまま放置される。こうした「放置」は観客を不安と欲求不全の状態に導く独善に陥りがちである。しかし「ひかりごけ」を見る限り、三条会の暗喩的イメージは観客を惑わすものではあっても、観客を拒絶するような閉鎖性はない。イメージの重なりの中の曖昧模糊とした光の中心に直接的な表現を拒む何かがある。その表現されえない中心を三条会の表現は示唆しているように思える。この意味で三条会の芝居は極めて演劇的であると同時に文学的でもある。

各役者のユニークな表現力も言及しておこう。彼らの演劇的身体にはグロテスクな味わいの奇妙なユーモア感覚と軽みがある。様式性重視のこけおどし系芝居のつまらなさ、退屈さとは無縁の、何とも言えぬ愛嬌がある。

【上演記録】
三条会「ひかりごけ」
下北沢 ザ・スズナリ(2007年1月18日-2007年1月21日)

作:武田泰淳
演出:関美能留
照明:佐野一敏
宣伝美術:川向智紘
制作:久我晴子
出演:大川潤子,舟川晶子,榊原毅,橋口久男,中村岳人,岡野暢
上演時間:約70分
料金:一般3500円(前売3000円)、学生2500円(当日共)全席指定

【筆者紹介】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。現在、早稲田大学ほかで非常勤講師。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。

【関連情報】
・関美能留インタビュー「演劇にはまだやれることがいっぱいある」(wonderland 2005年6月)

・[原作]武田泰淳『ひかりごけ』(新潮文庫)ISBN:410109103X (amazon.co.jp)
・[映画]熊井啓監督『ひかりごけ』:三國連太郎主演。1992年劇場公開。2001年コロムビアミュージックエンターテイメントによってDVD化(amazon.co.jp)

・武田泰淳作品一覧(amazon.co.jp


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