らくだ工務店「幸せのタネ」(下)

3.「ポスト静かな演劇」の表現的冒険
堤広志(演劇・舞踊ジャーナリスト)

「幸せのタネ」公演チラシ●「上演」への評価
公演に参加できなくなった劇団員たちに替えて、他劇団から多くの客演を頼んだ『幸せのタネ』。長年培ってきたアンサンブルの妙味が崩れるのではないかといった傍目の心配をよそに、舞台は成功裡に終わった。また、劇団としてのこの大きな転換点は、結果的に俳優の資質を活かす石曽根の演出家としてのセンスを証明するに充分な機会ともなった。


だが、客観的に考えて、この作品がたとえば娯楽映画の感動作のように理解しやすく、即座に感情移入できるものであったかというとそうではない。「日常」をリアルに描写しながら、主観的な感情心理をシーンへと反映させていく「アンティミスト(親密派)」の舞台は、ナラティヴなドラマとは違って説明的なセリフがほとんど省かれており、エンターテインメント指向の観客にとって「物語」を十全に楽しめるとは限らないからである。

特にらくだ工務店の場合、ゆったりとした会話とともに淡々と展開されるシーンの数々に、余情を噛みしめていくような風合いの表現となっている。そうして人物の言動や表情の背後にある内面のドラマを察知し、受け止めていくべきものなのだ。その意味では「静かな演劇」と同様の鑑賞態度が求められるのである。あるいは観客の側にアート・リテラシー的な問題意識も必要とされるのかもしれない。

この公演も「幸せのタネ」という着想に親しみやすさや説得力はあったものの、ドラマ設定上の基本的な了解事項のいくつかが、観客に明示されてはいなかった。もちろん、本稿の執筆にあたっては戯曲(上演台本)を取り寄せて確認すれば、すぐにも「理解」することはできるだろう。しかし、私は舞台作品の評価というものはあくまで「上演」の成果に対してするべきであって、「戯曲」とか「メディアへの露出度」で判断すべきではないと思っている。

確かに岡田利規や三浦大輔が岸田戯曲賞を受賞することは喜ばしいことである。しかし、彼らの表現は、チェルフィッチュやポツドールの公演で生身の俳優の演技を目の当たりにして、初めて完全に理解し、評価できるものではないだろうか。岸田戯曲賞の受賞によって「戯曲」に対する評価だけでなく、劇作家の主宰する劇団や舞台実践に対しても自動的に格付けがなされ、マスコミや業界人が殺到する。そうして実際の舞台に接していない者たちが「評価」の情報だけを流通させ、消費を促していくという構造がある。

たとえば、野田秀樹の『ロープ』はそのような煽情的なマスコミの在り方を痛烈に批判し、また実際多くのマスメディアもその作品のテーマを高く評価しているようでもある。だがしかし、現実の取材報道や出版編集、プロデュース公演や批評・研究などの現場では、反省の色もなく「評価」の情報のみをそのまま流通させて物事を執り行っていく態度が往々にして見受けられるのだ。こうしたマスコミの体質や演劇界の「評価」システムの在り方は、はたはだ不誠実で不健全なものと私は考えるのである。

ちなみに、私は朝日舞台芸術賞事務局のアンケートに応えて、チェルフィッチュ『三月の5日間』(2004年初演)やポツドール『夢の城』(2006年初演)をグランプリに推薦してみたものの、結局は寺山修司賞にさえ取り上げられることはなかった。そのため、チェルフィッチュやポツドールが「上演」の成果を含めて、真の評価を獲得できているとはいまだ思うことができないでいる。批評家や研究者が、岸田戯曲賞の受賞後にその「評価」の「後追い」や「後付け」を試みることはあったとしても、やはり「上演」に対してリアルタイムな評価がなされることはきわめて稀だと言えるだろう。

ともあれこうした理由から、戯曲のト書きなどから設定を確認したり、劇作家の意図した「物語」を字面で解釈することのみを目的とするよりも、あくまで「上演」に接し得た情報や印象に基づいて、論考を進めてみたいと思う。設定的な情報が舞台上で開示されていないことに起因する観客の誤解や誤読も、批評家の異見も、その責任の一端はアーティストの側にあると考えるからである。舞台作品の真の評価とは、本来そのように観客の心に生じる印象や感興も含めてのものなのではないだろうか。

●不可解なシーンの挿入
『幸せのタネ』に話を戻そう。この作品はらくだ工務店のこれまでの作品と比較して、劇構造やシーン演出の面で新たな試みがなされていた。その試みとは、終盤に挿入された二つのシーン-久恵の自殺シーンとその直後の下田の回想シーン-のことである。セリフでは具体的に説明されていないドラマの基本設定を知る上で、この二つのシーンはとても重要な鍵となっている。

「幸せのタネ」公演から
【写真は「幸せのタネ」公演から。提供=らくだ工務店】

久恵の自殺のシーンは、アルミサッシの窓に引かれたカーテン越しに、首を吊った姿がシルエットで映し出されて表現される。だが、これは二階のベランダなどから一階の窓の辺りに向かって、屋外で首を吊ったというより、二階の自室(屋内)で首を吊ったことを象徴的に描いたものと考えるのが妥当だろう。というのも、カーテンの開閉は俳優によって演技的に処理されるわけではなく、また首を吊った久恵の死体をその後誰かが発見したり、解き下ろしたりといった「ドラマチック」な場面も演じられないからだ。

また、その直後の回想シーンもこの劇団にはこれまで見られなかったものである。久恵が自殺したことを引き受けながら下田の回想するシーンであるが、実際には下田がしゃべるのではなく、下田の高校時代の親友だった渡邊博史役の石曽根有也が下田の妹タカコへの恋心を偲ばせながら、はしゃいだように明るくしゃべるモノローグとなっている。

これがなぜ下田の「回想」だとわかるのかといえば、下田役の野本光一郎がずっと舞台に佇んでいるからであり、また窓の外側のみを照らす照明へと瞬時に切り替わって、アルミサッシの窓ガラス越しに制服姿の渡邊を浮かび上がらせるからである。そして、それは外光や室内灯といったリアリズムを想定した照明プランとは明らかに異なるものである。

この二つのシーンが重要なのは、久恵の自殺のシーンを受けながら、下田による渡邊の回想シーンが展開されることで、死の暗示が渡邊へも及んでいるように見えるためである。つまり、タカコに思いを寄せていた渡邊は、おそらく在学中のタカコと高校教師だった牧夫との交際を知って絶望し、自殺をしたと解釈できるのである。それが原因となって、タカコと牧夫の関係は学校内はもとより地域一帯にスキャンダルのように噂となって広まり、その土地で暮らしていくことが困難になったのではないだろうか。そうして地方に一軒家を借りて転居し、密やかに生活するようになったのだと考えられる。また、下田が妹夫婦とは親戚付き合いをせずに、長い間疎遠であったように見えるのも、親友であった渡邊の(死の)一件が原因にあると思われる。

この二つのシーンは、映像表現で言うところのインサートやフラッシュバックの手法と考えれば理解しやすいだろう。そうでなければ、なぜこれらのシーンが連続して唐突に挿入されるのか説明することは、逆に困難と思われる。私はそう思いながら、舞台を観た。しかし、他の観客の中にはこの二つシーンに違和感を感じ、その意味も理解できない者もあったようである。なぜなら、どちらのシーンもそれまでのドラマの流れを寸断するように挿入されたからであり、この劇団ではかつて展開されたことのない手法だったからである。

らくだ工務店は、これまで「静かな演劇」のようなリアリズム傾向の劇団と見なされてきた。また、基本的に三一致の法則を踏まえたようなドラマツルギーにより、「舞台に流れる優しい空気感が心地よい」とも評されてきた。それゆえ、このように象徴的な描写や回想シーンが時間軸や空間軸を超えて突発的に挿入されることに対して、戸惑う観客があったのかもしれない。しかし、それは石曽根がドラマツルギー(作劇術)の上で果敢な冒険を挑んだことによる、ある種のアレルギー反応であったともいえるだろう。むしろ、そこには写実的リアリズムを超えた「ポスト静かな演劇*1」としての表現の可能性が秘められていたと私は考えるのである。

●謎の多い久恵の人物像と自殺
この二つのシーンを手がかりとして、さらなる考察を続ける必要がある。というのも、久恵という人物の設定とその自殺の動機について、強い疑問が残っているからである。私は観劇中も、最後までそのことに対する有効な解答を見いだせなかった。

観劇後、劇団のホームページ等を参照し、初めて正確に確認できた設定がいくつかある。それは、この家の牧夫・タカコ夫婦が「若い」ということ、二人の間に子供ができないこと、その原因が妻のタカコにあるらしいこと。また、同居している久恵が牧夫の妹であるということも、実は最後まで確証が持てずにいた。そして、劇構造としては二組の不幸な兄妹を主軸に置いていることも即座にはわからなかった(なお、前章のストーリー紹介では、あらかじめ確認をした後で解説を施している)。参考までにホームページにアップされた文面を以下に引用する。

一組の若い夫婦が住む一軒の借家。
マジシャンの兄と子供が出来ない妹と、聾話者の妹と物静かな兄と。
人生には「タネも仕掛けも、ない」
ある2組の兄妹のコト。

なお、この文面は公演チラシ、プレスリリース、当パン(公演リーフレット)には記載されておらず、配役表にも「子供のできない妻」とか「牧夫の妹」といったような役柄への補足説明は一切書かれていない(ちなみに「聾話」とあるのは「聾唖(ろうあ)」の誤りと思われる*2)。公演リーフレットには「ある夫婦と、その兄妹の話」とはあるものの、「2組の兄妹」という厳密な記載はなく、私はこれを牧夫とタカコ、および下田とタカコの3人の関係を言っているものと思っていた。

久恵は謎の多い人物である。ろう者の設定であるためにセリフはなく、また牧夫の妹であるとうかがわせるような説明的なセリフも周囲からは発せられない。久恵を演じた江幡朋子の演技や態度には、家族とのコミュニケーションを避けようとする反抗期の子供や自閉症児のそれと似たようなニュアンスがあり、そのため、牧夫とタカコの間の実の娘か、あるいは牧夫の連れ子(つまりタカコは後妻)なのではないか等々、さまざまな疑問と可能性を考えながら、私は舞台を観たのだった。

そうした想像が働いたのには、牧夫を演じた濱田と、タカコを演じた吉田の、二人の演技も起因している。前章でも触れたように、普段自分たちの所属する劇団での演技スタイルや役柄からはほど遠く感じられた。久恵に対する態度も、優しく気遣いながらどこか遠慮がちであること、また何か重大な問題を心に秘めて人生を堪え忍びながら暮らしている、そんな極端に落ち着いた物腰で演じていることも気になった。

もちろん、実際この夫婦はシビアな役柄設定であるのだから、後から振り返れば至極当然な演技なのだが、しかし観劇中は終盤に差し掛かるまで、この夫婦の間にある「子供が持てない」という深刻な問題は浮上してこないのである。それも、シングルマザーの伊藤知子が牧夫に接近したり、久恵が野口から中絶するように要求されたりするシーンの関連から、うっすらと「子供」のモチーフが匂ってくるといったムードでしかない。

また、渡邊(の死)もラスト近くまで登場してこないので、それまではこの夫婦にどんな重い過去があったのか判然としないまま、舞台を見続けるしかないのである。よって、この二人の俳優は本人たちの実年齢よりも年配の、かなり歳のいった夫婦役を演じているのかもしれないという可能性さえ思い浮かべながら観ていた。

●説明されない「不幸せのタネ」
しかし、観劇後にホームページを確認し、実際の設定として久恵は「子供」ではなく、牧夫の実妹であるということを知った。そこから遡って考えると、久恵がろう者になったのにも、深い理由があるように思えてならない。なぜなら、久恵は聴覚障害でありながら手話を使うこともなく、また口話法も体得していないからである。

先天的な聴覚障害であれば、早期訓練によってコミュニケーションをとるための方法を体得しているはずである。また、後天的に聴覚障害となって訓練が充分にできていない場合であったとしても、日常的に意志の疎通をはかろうという努力はするだろう。むしろ、意思の伝達が困難な分、筆談であるとか、顔の表情や動作や態度など身体を使ってオーバーアクション気味にコミュニケートしようとするのが自然かもしれない。

しかし、久恵の立ち居振る舞いにはそうした気配はまったく見られず、手話も口話法も用いることはない。それゆえ、久恵が「聾唖」となったは先天的なものではなく後天的なものであり、しかも発育段階の幼少期からではなく、手話や口話法を習得するのがすぐには難しい成人してからの、比較的最近のことだとも考えられる。

久恵の聴覚障害にからんだ不可解な点はまだある。舞台セットの壁に取り付けられている屋内信号灯である。屋内信号灯とは、聴覚障害者のいる家庭などに設置されるもので、玄関ブザー(呼び鈴)やFAX電話に連動して点滅する仕掛けのフラッシュライトである。豊川悦司と常盤貴子の主演した人気ドラマ『愛していると言ってくれ』で、豊川の演じた聾唖の画家の住まいにもこうした信号灯があったので、ご記憶の方もあるだろう。

しかし、私の記憶が正しければ、『幸せのタネ』の舞台でこの信号灯が点滅したシーンは一度もなかったように思う。家族同然の付き合いをしている人たちが始終出入りしている家庭なのだから、いちいち玄関のブザーを鳴らすようなことはしないのかもしれない。だが、久恵の職場の同僚である野口は、そういう気心の知れた家族的な間柄にはなく、他の登場人物とは一線を画した存在である。来訪する度にブザーを鳴らしていると考える方が自然であろう。しかし、実際には信号灯が点滅しないだけでなく、ブザー音そのものも鳴らないのである。家人の返事がないために、野口は無断で居間まで上がって来れる設定にもなっている。

この屋内信号灯が点灯しない理由については不明である。普通に考えるならば、単に故障しているか、誰かが故意にスウィッチを切っているかのいずれかだろう。問題は、屋内信号灯を必要とする立場にあるはずの久恵が、装置が機能していないことをまったく意に介さずに生活していることである。つまり、久恵は単に聴覚障害であるばかりではなく、この家庭では故意に他者とのコミュニケーションを絶っているのである。

先述したように私は観劇の最中、久恵は反抗期か自閉症の子供のように感じたと書いた。しかし、こうして久恵の関連するさまざまな疑問を検討してみると、彼女のディスコミュニケーションな態度は、単に野口との子を妊娠して中絶をメールで言い渡されたことを気に病んでのものだけではなく、むしろそれ以前から潜在的にあったものだろうと推測できる。

そして、それはやはり牧夫とタカコの交際を知った渡邊の(死の)一件が関係しているのではないかと考えるのだ。「聾唖」となった直接的な原因も、渡邊の(死の)一件からくる精神的なショックや、その後のスキャンダルに巻き込まれたことによるストレスであると想定すれば、久恵の聴覚障害は重度の突発性難聴のような症状であるという仮説も成り立つかもしれない。そう考えれば、手話や口話法を習得できていない理由も、兄夫婦との交流を避けて自閉的な生活態度をとっている心理も、理解できるのである。

こうした状況に加えて、交際相手である野口から中絶を申し渡され、引きこもり状態に陥ったのだと考えられる。単に「聴覚障害者」であるというだけでなく、日常的に自閉せざるを得ないような精神環境にあり、さらに信頼していた恋人に裏切られて、自分一人では処理しきれない人生の問題を誰にも相談することができずに抱え込む状況になってしまったことが、久恵を自殺に向かわせたのだろう。

●説明的でないことの意義
このように基本的な設定と思われる事柄が具体的なセリフを伴っては説明されず、またリアリズムにはないシーンが挿入されたことは、この作品を評価する上での大きな論点であろう。おそらく一般的には、説明不足でわかりづらいことをマイナス評価として捉える観客もいるかもしれない。

しかし、私はあえてその「説明的ではない」という点を評価しようと思う。なぜなら、この作品の世界だけでなく現実の社会に照らして考えてみても、本当に不幸な境遇にある人間というものは自らの不幸を日常的に言葉に出して「自分は不幸である」などとは決して言わないからである。感情的に愚痴や弱音を吐けるうちは、まだその「不幸」は何とか現実的に対処できる程度のものだろう。しかし、人生の上でも解決できないような絶対的な不幸を背負ってしまった人間は、喋れなくなる。宿業のような辛い事件に関与してしまった者は、そのことを自分の心の奥底へと沈潜させて、黙したまま日常を生きていくほかないのである。それはどんなにあがいても、問題の解決が根本的に不可能であることを知ってしまっているからだ。

私の解釈が正しければ、このドラマが始まる前に、すでに人が一人死んでいる。下田の高校時代の親友の渡邊である。渡邊の死を、下田もタカコも牧夫も久恵も、みな同様に背負って生き続けており、無言のまま贖罪を果たそうと暮らしてきたのだ。そうして表面的には平静を保ちながら、心の底では必死にもがいている。それが説明的でないセリフの行間に、無言の演技の「間」の中に描き込まれているのだ。

旧来の劇作家であれば、こうした不幸な境遇にある苦悩を直接的に訴えることのできない人物たちに、あえてその真情を吐露できるようにする作劇上の仕掛けが必要であるとか、あるいはそうしたセリフを書くのが劇作家の仕事であるだとか、いろいろとアドバイスをしたくなる人もあるかもしれない。しかし、演技の「嘘」を徹底的に排除し、「日常」のリアルを描写することに腐心してきた石曽根とらくだ工務店にとって、そうした意見は見当違いなものでしかないように思える。

●「ポスト静かな演劇」の可能性
「説明的ではない」ことに対する評価点はまだある。ここまで縷々述べてきたように、この舞台では開示されていない基本設定を補完するために、観客に想像力が要求される。一見しただけでは十全に理解しえないということを、不完全な作品として批判することもできるだろう。しかし、ドラマや人物の裏側へ、観客がいろいろと想像を巡らせながら観るという楽しみもあるのではないかと私は考えるのである。

とりわけ「ポスト静かな演劇」と位置づけられるかもしれない劇団の場合では、セリフによる具体的な説明がなされず、省略された事柄が多いことによって、逆に作品世界に秘められている深い意味を感得させるような表現も多い。それゆえ、単に説明ゼリフを入れれば良いとか、書き込み不足であるといったテキスト(戯曲)の巧拙の問題ではないようにも思われるのだ。その意味で『幸せのタネ』は、らくだ工務店にとっても今後を占う重要な公演となったと言えるかもしれない。

事実、現在若い世代には単なる写実的リアリズムを離れて、独特な世界観を展開する劇団が増えてきている。寓話的世界の中に人間存在の不確かさを描き続ける倉持裕(ペンギンプルペイルパイルズ)、シュールなスペクタクルの担い手であるタニノクロウ(庭劇団ペニノ)、現代人の深層心理をホラーとして具現化する山中隆次郎(スロウライダー)、若者たちの行き場のない冷めた孤独を幻覚シーンと織りまぜて描く林灰二(Oi-SCALE)、偏執狂的な妄想世界を紡ぐスエヒロケイスケ(tsumazuki no ishi)等々、一見しただけでは作品世界の全容が解明できないような表現にも注目が集まっている。また、最近の赤堀雅秋(THE SHAMPOO HAT)、青木豪(グリング)、前田司郎(五反田団)、松井周(サンプル)らの舞台でも、リアリズムではないシーンが登場するようになってきている。

そこでは、説明的なセリフによってナラティブにストーリーを理屈で解釈をするのではなく、俳優のリアルな演技やセノグラフィー、あるいはリアリズムとは異なるシーンなど、舞台上に展開されるあらゆる事象を感受しながら、言葉では説明されない(できない)次元へも想像を巡らし、共感できるかどうかが問われているようにも思える。

『幸せのタネ』も、観客にそうした想像する楽しみを生じさせたことで、従来一般の「物語芝居」が忘れてしまっているライブ表現としてパフォーミングアーツの可能性があったのではないだろうか。物語を理解するのに不親切な作品と捉えるか、フィジカルでイマジネイティブな表現として楽しむのかは、観客個々人の感性や志向にもよるだろう。しかし、私の場合は断然、後者の楽しみ方を優先したいと考えるのだ。

石曽根は、平田オリザの正当な後継者ではない。また、らくだ工務店は現代口語演劇を標榜してもいない。しかし、演技上での虚飾や誇張といった「嘘」を排除し、現代を生きる我々の日常感覚に忠実であろうとする点において、信頼のできる劇作家であり、演出家である。平田の提唱した現代口語演劇と同様の成果を一回り以上も若い世代が偶然にも獲得しながら、今またさらなる表現の可能性を開拓しようとしているという事実を、私たちは真摯に受け止める必要があるのではないだろうか。その評価はまた、実際の舞台をつぶさに観るという行為によってしか、なし得ないはずである。(了)
(2006.12.3.下北沢「劇」小劇場)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第27号、2007年1月31日発行。購読は登録ページから)

*1)「ポスト静かな演劇」については、「國文學」誌2002年2月号/特集「演劇・ダンス・映画-時代を疾走する」(學燈社刊)での拙稿「いま元気のある劇団20~“ポスト静かな演劇”を中心に~」をご参照ください。ただし、事例として挙げている劇団には変動もあり、あくまで仮説的なものとご理解ください。なお、「アンティミスト」についても同様です。そのうちにまとめたいと思っています。
*2)聴覚障害者のことを通常「ろう者」と呼ぶが、やや古い言い方では「聾唖(ろうあ)者」という。「聾(ろう)」は耳が聞こえないこと、「唖(あ)」はしゃべれないことを指すが、こうしたろう者でも手話や口話法などを習得し、コミュニケーションできるようになることを「聾話(ろうわ)」と表現する場合がある。「聾話学校」などはその一例である。なお、これれらの言葉の意味を厳密に理解した上で、石曽根が意図的に「聾話」の語を用いているのだとすると、やはり久恵という登場人物はコミュニケーション能力を持ちながら、故意に他者との接触を避けているのだということを暗示しているようにも解釈できる。

1. 「静かな演劇」とらくだ工務店(マガジン・ワンダーランド第26号)
2. 転換点となった『幸せのタネ』(マガジン・ワンダーランド第27号)
3. 「ポスト静かな演劇」の表現的冒険(本号)

【筆者紹介】
堤広志(つつみ・ひろし)
1966年川崎市生まれ。文化学院文学科演劇コース卒。編集者/演劇・舞踊ジャーナリスト。美術誌「art vision」、「演劇ぶっく」「せりふの時代」編集を経て、現在パフォーミングアーツマガジン「Bacchus」編集発行人。編書は「空飛ぶ雲の上団五郎一座『アチャラカ再誕生』」(論創社)、「現代ドイツのパフォーミングアーツ」(三元社)。

【上演記録】
らくだ工務店第12回公演「幸せのタネ」
下北沢「劇」小劇場(2006年11月28日-12月3日)

■作・演出 石曽根有也
■出演
野本 光一郎[ONEOR8]
吉田 麻起子[双数姉妹]
濱田 龍司[ペテカン]
岡本 考史[東京タンバリン]
ますだ いっこう
江幡 朋子
岩松 高史
今村 裕次郎
瓜田 尚美
石曽根 有也

■スタッフ
舞台美術:福田暢秀(F.A.T STUDIO)
音響:高橋秀雄(SoundCube)
照明:山口久隆(S-B-S)
宣伝美術:石曽根有也
制作:山内三知/伊藤理絵
企画製作:らくだ工務店

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