NEVER LOSE 「四人の為の独白 ver.7.0」

◎辺縁を目指す孤独な精神
矢野靖人 (shelf主宰)

NEVER LOSEのメンバーNEVER LOSEは1998年、谷本進を中心に結成。旗揚げ後はこまばアゴラ劇場を中心に年二~三回のペースで公演を行ってきた劇団である。2002年には、旗揚げ四周年記念として青山円形劇場に進出。東京、岡山、名古屋での活動を軸に、劇場のみならず、ライブハウスやクラブでも公演を行っている。

主宰の俳優・谷本進については、昨年(2006年)のROCKIN’ON presents COUNTDOWN JAPAN06/07に参加(ULTRA BRAiNにサポートメンバーとして参加)するなど、メンバーの多くが、地理的な距離ばかりかジャンルの境界も乗り越えて、意欲的な活動を展開している現代演劇カンパニーである。2007年1月現在、座付き作家・演出家である片山雄一を入れて七名で活動中。
そんな彼らが再演を繰り返す代表作の一つに『四人の為の独白』がある。

少しく前の話になるが、昨年(2006年)12月、渋谷のライブハウス渋谷24GIG-ANTICで、この作品を観劇する機会を得た。観劇中、私は様々な知的刺激を受け、そしていろいろなことを考えた。考えるきっかけを与えられた。今回は、そのときから今に至るまで考え続けていることを、少し記述してみたいと思う。

先ず作品の概略を紹介しよう。

『四人の為の独白』の基本構造は、一幕一場。四人の男女が順番に、お互いに相対しながらモノローグ形式で、一人数ページに及ぶ長大な台詞を代わる代わる語る。対話らしい対話、会話らしい会話はほとんどない。いや、厳密には話者の交代する瞬間に、例えば、

女1 ここにいたんだ。
男3 ・・・
女1 なにやってんの? ・・・ねえ?
女1 座れば?
男3 ・・・うん。

といった程度の、つぶやきとも会話とも取れないほどの僅かな会話が差し挟まれる。そしてその後に女1 の、長い独白が始まる、といったカンジだ。

物語の舞台はあるコンビニの前。ただし、それを指し示すようなセノグラフィや効果が用意されているわけではない。何しろ実際の会場はライブハウスで、しかも上演の前後には幾つかのバンドの演奏がある、(対バンがある、)つまりドラムセットや巨大なスピーカーセットがそのままにある、そのままで、『四人の為の独白』は始まる。

「四人の為の独白」公演
【写真は、下北沢CLUB251で開かれた公演「四人の為の独白」から。 撮影=ワタベマユミ 提供=NEVER LOSE】

夕方。上手から男1と男2が入ってくる。乱雑に置かれた椅子の座面にのぼり、背に腰掛ける二人。暫しの静寂の後、男1が語り始める。

男1 ねえ? 聞いてる? 俺、学校辞めてきた。
男2 ・・・そうなの?
男1 学校って言っても誰も知らないような専門学校で、
俺は馬鹿な話だけど音楽がやりたくて、
授業の時に言われたんだよ。黒縁のメガネをかけたロックの事なんかなんにも知らないような四畳半フォークの教師に。
課題の曲を弾くって時に、俺何にも準備してなくって、
「なんで練習してこないんだ」 「こんなことやるために、ここ入ったわけじゃないんで」
「他の奴はちゃんとやってるじゃないか」 「そうですね」
「なんでやりたくないんだ」 「気持ちよくないんで」
「お前なんでここに来たんだ」って 「お前なんでここに来たんだ」 「お前何しにここにいるんだ」って。
回り見たら他の奴等は一生懸命課題曲練習してきててアコースティック弾きながら歌ってんだよ! 俺らの親父達が歌っていたような曲。
今まで馬鹿にしてた奴にそう言われて。俺、初めて気がついたね。
周りを見渡せば地方から情熱だけで東京に来たような田舎者連中ばっかで、あー! あーそうなんだ! って。
ここはそういう場所なんだって。
俺邪魔者じゃん。イイ気になってたわ、俺。
回り全然見れてなかった。
・・・

斯様な台詞で始まる『四人の為の独白』は、上に引用した箇所、学校を辞めてきた男(男1)と、その男に呼び出された男(男2)との、コンビニの前に居座る二人の男の情景を描き、その場所に煙草を買いに偶さか訪れたまた別な男(男3)の心情と、男に見える世界の風景を描写し、男を追いかけてきた女(女1)の独白が続き、そして女の前に立ちつくす男の独白と、終幕、それに続く男女のささやかな会話を以て終わる。

交わされる一つ一つの言葉は、言ってしまえば、(上の引用を読めば分かるように、)ありきたりで凡庸なものばかりだ。東京の片隅の、ある特定の世代・地域のコミュニティ。そこに生きる若者たちの遣り場のない、無記名で、孤独な言葉。凡庸さ故にこそ、真に迫る強さがある、といえなくもない。だがしかし、取り立てて新しい、何かが書かれているわけでは決してない。そんな、装置や照明もなく、途中差し挟まれるような音楽も無い、正味30分程度の小品の、どこにそれほどの知的刺激があったか? それはひとえに、幾重にも張り巡らされた、しかしそれとは感じさせない演劇的な仕掛けを持った「劇構造」そのものに由来していたのだと思う。

その劇構造を次の四つの点に即して、解きほぐしてみたい。

1 独白とは何か
2 「無意識」、あるいは目に見えない「意識の流れ」を描く方法
3 フレームの問題、あるいは歴史への意識
4 アウェイで闘うということ、或いは辺縁へ向かうということについて

1 独白とは何か

独白とは何か。一般にそれは、演劇や小説などのフィクションの中で登場人物が、心の中に思っていることを相手なしに一人でいうことをさす。あるいはその台詞や文体そのものをさす場合もあるが、肝要なのはここで我々には事前に「独白とは、<心の中で思っていること>を、所謂、会話(カンバセーション)や対話(ダイアローグ)ではない形式で表明するものだ、」という了解があるということだ。

登場人物たちは順繰りに一人一人、自身の鬱屈した思い/どうしようもない焦燥感や、やるせない寂寥感、やり場のない相手への想いを、身体を引き絞るような痛切な叫び声で、向かい合う相手に伝える。

NEVER LOSEは自らの手法を指して、(例えばwebやフライヤー等で、)役者の持つ圧倒的な存在感を武器に、演劇の「嘘」を徹底的に排除した緊張感ある空間を作り上げる、のだという。

しかしそれは嘘だ。

少なくともこの『四人の為の独白』には、観るものを巧妙に騙し惑わしていく、実に様々な「仕掛け」が施されていた。演劇的な「嘘」が、驚くほどの効力を発揮していた。私はこの点において、演出家、片山雄一に対し、とても知的で、しかも演劇の歴史を明瞭に意識した批評的精神の持ち主との印象を受けた。

「嘘」という言葉が紛らわしければ、「虚構」と言い換えてもいい。NEVER LOSEは演劇の「嘘(フェイク)」を徹底的に排除した先に、圧倒的に強固な「虚構(フィクション)」の世界を構築する。そしてその虚構の世界は、現在を生きる我々の現実(リアル)を逆照射する。

先に私は「舞台はコンビニの前から始まる。」と書いた。が、正確には、NEVER LOSEは先ず、浴びせかけるような爆音の音楽と共に始まる。音楽が、先ず以て空気の「振動」そのものであることを再認識させるようなその爆音の後に、突然の暗闇と不安になるほど長い、静寂が訪れる。

爆音は人間の感覚を遮断する。聴覚ばかりでなく、皮膚感覚にも影響を及ぼす。そしてその後に訪れる暗闇と静寂は、観客の感覚を揺さぶり、諸々の感覚を開かせる、というより無理やりにこじ開ける。

先ずここに一つの仕掛けがある。観る者の生理を剥き出しにさせるような導入部は、その後の俳優の痛切な叫び、皮膚がヒリヒリするようなそれを、皮膚感覚で体感させるための準備をする。観客はそれを「観る」というよりか、「体感」するよう仕向けられる。そして、「独白」が始まる。

<心の中で思っていること>が入れ替わり、俳優によって叫ばれる。読めば分かるような、非常に分かりやすい心情の吐露。ところがここにもう一つ、別の仕掛けが施されている。

男2 「あー」 「うん」 「そうなんだ」
人に呼び出されるって事は、そいつに何かあったんだなってそれくらいの事は解ります。
でも正直、自分の人生とは関係なかったりします。
何が正しくて何が正しくないなんて難しいことは解らないけど、
結構今の自分が考えている事って、そんなに世間と外れていないってそう思えるんですよ。
友達の・・・友達なのか?
知り合いの愚痴をこうやってコンビニの前で聞いてるって事がどういう事なのか。
夕方で、
こっちの事なんかなーんも見ないで、
買い物帰りのおばちゃんや、ふっつーのサラリーマンが目の前を通り過ぎていきます。
それって正しくは無いけど間違ってもいなくって、
そういう事よりも皆自分のことで精一杯で、自分だって自分のことで精一杯で、
だから横で話しているこいつに向かって
「あーわかった」
「あー、もうわかったから」
「ぶっちゃけ俺はおまえじゃねえから、お前の人生なんて知らないから、
でも悪いことだけじゃねえだろうから、精一杯頑張って生きてみれば? じゃあな」
そういう事言えればこいつにとって一番正しい事じゃ無いかなって思ってるんですけど、
でもそんな事したらこいつとの関係は終わるんだろうなー。
終わっちゃうんだろーなー。
・・・

ここで発せられている台詞は、「独白」として、即ち、<心の中で思っていること>として書かれてある。少なくとも自分の目の前にいて、自分を呼び出し、おそらくは話をしたかったであろう相手(男)に対して、引用末尾で明言されている通り、直接にはぶつけられない「内面」として描かれている。

しかし、それを見ている観客にとっては、事情は大きく異なる。その言葉は届かない「内面」の声などではなく、じっさいに相手に対して届いているように見えてしまう。見えるというより、感ぜられる。身体を振り絞って発せられるそれは、前述の導入の仕掛けともあいまって、観る者の身体にも直接に響く。舞台上のもう一人の俳優に対してもそれは同じだ。言葉は、明らかに届いている。意味が届くというよりか、直接に手で触れるように、台詞が、相手の身体に直接に届いている。ヒリヒリと響いている。

補足すれば、ここにNEVER LOSEが徹底して排している演劇の「嘘(フェイク)」がある。

「それ」を「独白」としながら、その場を共にしているもう一人の俳優は、決してそれを、「聞こえていない振り」などしない。勿論、聞こえていることを指し示すようなそぶりも見せない。(そんなそぶりは記号でしかない。)ただ、俳優はひたすらに、そこに「在る。」そこに在って、感覚を開き、周りの空間や相手の言葉を、それも意味ではなく、声の質感や息遣い、緊張を通して共有している。

しかし、ここで、二人の間で交わされているものは、いったい何なのだろうか。観ているこちら側には、それが全く分からなくなる。

2 「無意識」、あるいは目に見えない「意識の流れ」を描く方法

人間の<内面>とは、謂わば、人が<心の中で思っていること>であり、且つ、実際に口に出して語ることのないもの、あるいは語ることの不可能なものだ。例えば、チェーホフの戯曲が、それ以前の戯曲と比較してどこが優れていたかといえば、先ず以て、このことを発話される台詞のレベルに書き起こすことに成功した、ということにある。

チェーホフ以降の戯曲は、基本的に、直接に語られる「台詞」と、話者間の「関係性」を通して、言葉として発話されることのない<内面>を間接的に炙り出す。

それは同時に「無意識」、あるいは目には見えない「意識の流れ」を描く方法として、近代以降の一つの演劇の歴史の流れとなっているわけだが、例えば平田オリザの提唱する<現代口語演劇>も、この流れに位置づけられると思う。(人は自分自身のことをきちんと把握して、自分が喋りたいことを自律的に喋っているわけではない。人は自身が置かれた環境や文脈によってなかば無意識的に、偏向を受けた状況下で喋らされている。それが、平田オリザが演劇の歴史に導入した言語認識の新しさであり、戯曲を書く際の方法論だったのではないか。)

片山は、明らかにこの平田の<現代口語演劇>を参照している。演出の手つきなどもまさに青年団および平田オリザの方法のそれで、俳優に対しては、演技=意識の流れを身体の(生理的レベル)でトレースさせていくものとして捉え、外部より過剰な条件を付すことによって、俳優の自己意識を分散させ、結果としてよりナチュラルに立たせるべく、肌理細やかな演出を施していく。

その手腕だけでも、それはそれで特筆すべきことだ。片山は舞台上で、ともすれば自らの「表現」のみに執着しがちな俳優をして、出来る限り外部に開かれた状態で立たせ、無意識的なもの、身体の発するノイズをきちんとまとった、密度の濃い身体へと移し変えて行く。明確な輪郭をもった存在として配置させる「方法」を片山は持っている。

しかしその程度の技術であれば、一定の経験を持つ俳優や演出家は、誰もが持っている。本当に特筆すべきなのは、そこに幾重にも重ねられた「虚構性」を持ち込むことによって、観る者の認識を幻惑していく方法を獲得しているということだ。それは「虚構」というより、もっと軽いものかも知れない。ちょっとした遊び心というか、趣向というか。演劇の持つ様々な約束ごとを知り尽くした上で、それらを疑い、からかって、挑発し、ふざけ倒すような、悪意で以て支えられている。

例えば、その台詞が「独白」であるという構え。先にも述べたように、「独白」という<内面>の発露、他人には届かない心の底の叫びとしてそれを書きながら、しかしその場にたたずむ二人の間には、明らかにその「発話」を通して、何かしらコミュニケーションのようなものが成立している。

その瞬間、「独白」は「独白」足りえなくなる。「独白」とは、<心の中で思っていること>を、所謂、会話(カンバセーション)や対話(ダイアローグ)ではない形式で表明するものだ」という了解事項を、我々は裏切られる。いや違う。それは確かに「<心の中で思っていること>を、所謂、会話(カンバセーション)や対話(ダイアローグ)ではない形式で表明」している。

問題はそれが、<心の中で思っていること=内面の事象>であることを突破して、顕在化して来るということだ。そのような「錯覚」を、我々が覚えてしまうということだ。

ここの言語化が非常に難しいのだが、つまり、目に、見えてくるのだ。しかも「独白」で語られるその人物の内面を通してではなく、『四人の為の独白』という「形式」を通して、そこに立つ俳優の身体から溢れるノイズで以て、それが、目に見えてくる。

ルールとしては、それを聞こえていないはずの相手の顔に浮かぶ、明らかなる表情以前の何か。そのとき俳優は、(おそらく演出の指示によって、)受け止めたものを表情に出すことを厳格に禁止されているはずだ。しかし、だからこそ、そこに浮かび上がるものがある。それを言語化することは非常に難しい。

3 フレームの問題、あるいは歴史への意識

誤解を恐れずにいえば、近代以降、小説や戯曲など言葉を取り扱う芸術は、一貫して人間の<内面>を描いて来たのではなかったか。近代以降の、いわく言葉にし難い人間の<内面>をどうやって取り出すか。そのことに汲々として来たことを、片山は正しく理解している。更には、芸術において、<内面>を取り出す、という作業の、その手つきにこそ価値があって、<内面>そのものに価値があるわけでは決してないことも、片山はおそらく認識している。いや、<内面>に価値があるかどうか? その判断をいったん棚上げし、その問題に立ち入ることを巧妙に回避している。

女1 ここにいたんだ。
男3 ・・・
女1 なにやってんの? ・・・ねえ?

男1、男2、ゆっくり退場。
女1、ゆっくりと椅子に向かって歩き出す。

女1 座れば?
男3 ・・・うん。

男1、座らない。

女1 時々あなたが何を考えているのか分からなくなります。
二人で決めた約束は必ず守ってくれるのに、あなたは少しも楽しそうに見えません。
明日どこかに遊びに行こう。
いいよ。
ご飯を作るのが面倒だからどこかに食べに行こう。
いいよ。
あなたがそう返事をするたびに、私はあなたがだんだん解らなくなっていきます。
全然楽しそうに見えないあなたの前で、いつの間にか、私はなぜか、
精一杯楽しいフリをするようになっていました。

どうして男っていうのはこんなにメンドクサイだろう。
言えばいいのに。

あなたが何も言わない間、私は私の中で色々な事を考えます。
私と居てもつまらないんじゃないか。
他に気になる人が出来たんじゃないか。
いつかあなたは私に何も言わないで、
散歩に出かけるみたいに突然いなくなってしまうんじゃないか。

そんな事を思えば思うほど、私は何かを我慢してしまいます。
・・・


「四人の為の独白」公演

「四人の為の独白」公演
【写真は、下北沢CLUB251で開かれた公演「四人の為の独白」から。 撮影=ワタベマユミ 提供=NEVER LOSE】

身を削るような痛切な叫び声、振り切るような大声で語る俳優の身体から立ち現れ、零れ落ちる情報は、語られる言葉の「意味」を振り捨て、言葉以前の「衝動」そのものとなって、その場を埋め尽くす。しかし、向き合う男は何も語らない。何もその身に映し返さない。女1の声が、ただひたすらに、うつろに響く。

見ている我々には、この目の前の情景をどう捉えていいのか、「独白」が続くほどに分からなくなっていく。女の叫びが大きければ大きいほど、本当は男もそれを聞いているんじゃないだろうか、無表情であれば無表情であるほど、男にはその女の心からの叫びが、どうかして実は聞こえているのではないだろうか。いや、これは「独白」だから、そんな筈はない。

思考は巡り、その先を追うことに集中するしか無くなった我々が、次に聞き及ぶ台詞がこうだ。

女1 あのさ、
私はあなたが何を考えているのか解りません。
あなたもきっとそうだと思います。
だからこれからちゃんと言おうと思います。
この私の独白は、はたしてあなたに聞こえているのか解りませんが、
言葉だけでは上手く行かない事もあると思いますが、
何が正しく伝わって、何が伝わっていないのか、それさえも解らないんですが、
ここに私がいる事だけは本当です。
だから、ちゃんと喋って下さい。

それが「独白」であるというルール=認識を共有していた我々は、そのルールが破られていないことを知らされつつも、ここに来てそれが、相対する者へ向けられた痛切なメッセージであることをも了解せざる得ない。

これはいったい何なのか? 「独白」とは何か? 「台詞」とは? 人間の<内面>とは?

ここに来て我々は、我々が今、もっとメタレベルの何か、台詞の意味や、言葉そのものの価値よりもっと上位の、あるいはもっと根源的な問題系に直面させられることに気付く。何が正しく伝わって、何が伝わっていないのか分からない。この女の独白が、はたして男に聞こえているのかも分からない、判断が、できない。しかし、そこに二人が存在している事だけは本当だ。

片山は、「独白」という形式を通して、<内面>などというものが実は、根拠の無い捏造された仮構物に過ぎないことを炙り出す。ここには心とからだという二項には決して分けられない、<身体>の<存在>そのものが立ち現れて、ある。

所謂<現代口語演劇>の作法に則りながら、NEVER LOSEは斯様な演出的方途を経て、強度の高い、「虚構(フィクション)」の世界を構築する。

4 アウェイで闘うということ、或いは辺縁へ向かうということについて

男3 ・・・

夕暮れとタバコとコンビニの前で座っている彼らを見て泣きたくなりました。
それってそんなにおかしですかね?
「あーそうだったんだ」 「あー、俺も同じように、こうやってコンビニの前に座っていたんだ」
忘れてましたそんな事。
あの時も事故とかテロとか災害とか、そんなものは毎日のニュースの中でしか知らなくて、
事故で友人を亡くして、それはとってもあっけないもので、
そん時まで、世の中で自分の知り合いがいずれ消えていくんだって事知らなかったですから。
残ったやつらはいなくなって初めてそれが解るんだって事知らなかったですから。
憧れていた人がいて、自分の同じように伸ばした髪を逆立てて、
全てのものにハラを立てて、ツバをはきかけて、
そんな事忘れていました。
都合の悪い事や割に合わない事をみんな忘れてました。
俺なんかより、あなた達の方がよっぽど上等です。
上等ですけど、
でも俺負けて無いつもりです。
自分に甘くて、ロクでも無くて、髪の毛はもう立てていなくて、
腹を立てる事も、嫌だなって思う事も、
「あーあ」って 「あーあ」って思う事も、
「あー」 「うん」 「そうなんだ」 「あー」 「うん」 「そうなんだ」 って思う事も、
本当は全然変わって無いです。
だから俺、負けて無いつもりです。
「おかしいですかね? 俺」
夕暮れとタバコとコンビニの前で座っている彼らを見て泣きたくなりました。
それってそんなにおかしですかね?

彼らは、ここ数年、敢えてアウェイともいうべきライブハウスで、様々なバンドに前後し、彼らが自らを称するように誰よりも「ロック」な魂を観客に届けようと、「媚びず、悪びれず、現状を打破して前に進もうと、もがき続け」て来た。ストイックなその闘いを、ひとり孤独に闘い続けてきた。

ここでいう「ロック」とは、音楽ジャンルとしてのロックではなく、より広義の、思想としてのそれを指す。即ち、既成概念や体制に対する反抗心や怒りを、強い表現として打ち出すムーブメント、文化の本流に対する対抗文化(カウンターカルチャー)として意義付けられた、その精神のありようそのもののことだ。

くり返しになるが、NEVER LOSEはとても、分かりやすい。字面だけを見れば、読んで字の如く、言葉も内容もとても分かりやすいものばかりで、メッセージ性も明確にある。(じっさい読んでいるこちらが気恥ずかしくなるくらい、彼らの表現はストレートだ。)

しかしそれは、他でもない、ライブハウスに集まる特定の観客層を想定して、無駄なものを削ぎ落とし、伝わりやすく回り道の無い方法を模索してきた、その結果ゆえのものだと思う。その「気恥ずかしいまでの分かりやすさ」は、意図的に選び取られたものなのだ。そしてその結果として、彼らは瞬時に観客を自らの劇世界へといざなうすべを手に入れた。冒頭の爆音と静寂、しかり。また彼ら独自の「独白」というスタイル、いわば「旋律を排した詩句のみで構成される音楽」という一つの形式を選び取ることによって、生半なロックバンドよりも強く、「ロック」な表現を勝ち得たのだ。そしてそれらの結果はすべて、彼らが演劇という自らのフィールドを抜け出て、辺境に出向いたからこそもたらされたひとつの成果なのだ。

辺境へと向かう強い意志がある者だけが、初めて手に入れられるものがある。辺境に向かうためには、自らの置かれた環境や文脈を徹底的に疑い、捨て去らねばならない。何故、辺境に向かわなければならないのか。何故、現代演劇は、そのような苛酷な道を選ばなければならないのか。既に在るその場所に安住していられないのは何故か。

答えはない。そこにあるのは、辺境へと突き動かされる衝動だけだ。そして実のところ「辺境」などという場所は、既に無い。というよりも、「辺境」それ自体がまたフィクショナルな存在に過ぎないことに、我々は当に気付いてしまっている。到達すべき未開の地は存在しない。あるのはもっと希薄な、「辺縁」としか呼べない場所だ。そして縁(ふち)という場所も、また厳密には存在しない。我々にとってその場所は、常に、仮想的にそれを措定して、向かうしかない場所だ。

だから、「アウェイ」などという場所もまた、演劇には存在し得ない。にも関わらず、しかしNEVER LOSEはその場所にたどり着いた。それはつまり、実はそれこそが片山の批評精神のなせる業なのだが、

おそらく今、30~40歳前後を迎えている多くの演出家が直面している問題の一つに、存在の根拠の無さというものがある。あるいは依って立つべき座標軸の計り難さというか。向き合うべき大きな敵なぞはついぞ見えず、信じるに足るイデオロギーも不在だ。そしてそれは、おそらく世代を隔てた我々独自の大きな問題系として、目の前に横たわっている。

既存の価値基準に抗い、全てを破壊したのが団塊の世代であったとすれば、我々の世代は、それが捏造に過ぎないと知りつつも、敢えて再び大枠の物語(=価値の体系)を創造することを要求されている。コミュニティを形成し、他者と共に生きなければならない人間が、他者と共に生きるために必要とするルールがあるとすれば、それこそが一つの大きな「物語」だ。何を以て善となし、何を以て断罪するか。或いは、人間とは如何な存在なのか。我々はそれを今、新しく描き直すことを要求されている。

しかしそれは、くり返しになるがそれは、どうあっても「捏造」に過ぎない。自明なものなぞ、消失して久しい。畢竟、我々の仕事は、物語を描いては、描いたその端からそれが物語(=嘘)であることを自ら暴き、それでもなおまた、そこから先へ物語を描き始めるという、永遠の循環を生きる覚悟が要求される作業となる。

片山がたどり着いた「辺縁」とは、まさにそのような場所だ。

先の<独白>に続く男女の会話と、終幕のト書きを紹介したい。

女1 「おかしくないと思うよ、私は。」
男3 「・・・うん」

いつしか日は落ちて夜になっている。
それでもコンビニの前には、たくさんの明かりがあって
たくさんの人が行き交って
沢山の人が立ち止まって
自分たちの場所に帰っていく。

溶暗

自分たちの場所に帰っていく。そんな場所など失われて久しいことを知りながら、片山はそう、最終行に書きつける。決して語られることのない、ト書きに描き出されるだけの酷く悲しくて暖かいそんな情景を、しかし私は渋谷の小さなライブハウスで、確かに垣間見た気がした。俳優・谷本進の佇まいが、私をそう、錯覚させた。

NEVER LOSEの描く人間の凡庸さは、しかしその凡庸さゆえに、底部で普遍性に透徹している。片山雄一の演出は、巧妙に演技の、演出の嘘を排しつつ、演劇を徹底して疑いつつ、あるいは徹底して演劇的な制約(ルール)、を破壊しつつ、廃墟と化したその演劇の残骸の上に、切実でのっぴきのならない現実を描く。

そんな彼らが7月、再び劇場に帰って来るという。劇場という本来「ホーム」であるべき場所で、彼らがどのように「アウェイ=辺縁」を措定し、描き出すのか。非常に、興味深い。(2006年12月19日、所見)

(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第34号、2007年3月21日発行。購読は登録ページから)
(編注)渋谷24GIG-ANTIC公演の写真が入手できなかったため、NEVER LOSE 提供の舞台写真=下北沢CLUB251(2005.4.25)公演=を掲載しました。ご厚意に感謝します。

【著者紹介】
矢野靖人 (やの・やすひと)
shelf(http://theatre-shelf.org/)演出家・プロデューサー。1975年名古屋市生まれ。北海道大学在学中に演劇を始める。
1999年4月より青年団演出部に所属。2000年2月、青年団第五回若手自主公演side-b『髪をかきあげる』(作/鈴江俊郎)演出。退団後、演劇集団かもねぎショット演出助手等を経て、2002年2月shelf始動。自身のプロデュースするshelf の他、2006年より 横濱・リーディング・コレクション(共催/横浜SAAC、横浜市市民活力推進局)プロデューサー・総合ディレクターも務める。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。演劇千年計画実行委員。
2008年1月、名古屋・七ツ寺共同スタジオ35周年記念として、七ツ寺共同スタジオ プロデュース作品を演出予定。

【上演記録】
NEVER LOSE 『四人の為の独白 ver.7.0
渋谷24GIG-ANTIC(東京都渋谷区、2006年12月19日)
作・演出=片山雄一

【出演】
男1:岡本亮
男2:戸枝政志
男3:谷本進
女1:山本祥子
【スタッフ】
作・演出=片山雄一
制作=松丸琴子
【出演バンド】
C.O.M.P/ UNB
入場料:前売り\1600 当日\1800

【関連情報】
ROCKIN’ON presents COUNTDOWN JAPAN06/07
・NEVER LOSE vol.12 『廃校/366.0』[後日譚]
作・演出=片山雄一
公演日時:2007年7月18日(水)- 7月22日(日)
会場: 東京芸術劇場 小ホール

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