COLLOL「きみをあらいながせ~宮澤賢治作「銀河鉄道の夜」より」

◎主題と変奏のシフトで複数化された物語
中村昇司(雑誌編集者)

COLLOL「きみをあらいながせ」公演チラシきみをあらいながせ。
そのタイトルを聞いて、おかしな言葉だな、と思った。主体と客体がねじれているような違和感がある。きみをあらいながす、のであれば丸く収まったのだが、ここには「きみ」をあらいながすべき「私」(あるいは「きみ」)以外に、もうひとり私にそれを促す私がいる。「きみ‐私1」の関係から「私1‐私2」に、途中で主客がシフトしている。独白か、対話かも知れない、ちょうど曇った鏡に言葉を掛けるような彼此の不確かさをもつ、あやうい言葉だ。


分裂、ねじれ、置換。タイトルひとつでこのとおりなので、本編も、宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」の名を冠しているとはいえ、物語的な作品にはなっていないだろう、と思ってはいたが、予想以上に複雑なつくりになっていた。むつかしいなぁ、と思った。が、安直な実験作では持ち得ない、明確なイメージと構成・構造、ほとんどイノセンスというべき清々しい空気感と主題を持つ作品だったように思う。作・演出の田口アヤコ氏は「宮沢賢治さんとお話しながら、つくっていった」作品だというので、自分もこの複雑な作品が何を語り得たか、ちゃんと向き合って考えてみようと思う。

宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」より、とあるとおり、賢治の代表作のひとつ「銀河鉄道の夜」のテクストを抜粋して用いている。原作は、数度にわたる改稿を重ねた末に決定稿を残さないまま賢治が亡くなり、原稿の散逸もあって、こんにち刊行されているものにも出版社ごとにいくらかの異同があるものだ。だが今回の台本では、それらの異同がまるで問題にならないほど大幅な書き換え、解体、再編がなされ、さらに原作には全くない現代の20から30代の男女による会話劇が複数挿入されている。

たとえば冒頭の「午后の授業」のくだり。
銀河は何で出来ているでしょう、という先生の問いに答えられなかった少年ジョバンニを見て、答えを知っているはずの友人カムパネルラもやはり答えない。
このシーンを、はじめに数人で演じた後、役者を追加、シャッフルして舞台の左右にわかれて2グループで同時に再現する(舞台中央には姿見、鏡台のようにも見えるオブジェがあり、舞台上では、しばしばその両側で表裏関係にあるような場面が同時に行われる)。その際、はじめに先生を演じていた役者が二度目にはジョバンニを演じている、といったように役と役者の関係は不定であり、また再現時にはセリフや演技に変化を加えている。とくに、帰宅したジョバンニと病床の母との会話の場面は、劇中で計4回のバリエーションが繰り返された。この、提示と、変化を加えての再現・再々現、といったシークエンスが作品の基本的なつくりになっているようだ(ただし、とくに最初の提示部が特権的な位置付けをもっているようではない)。

この構成はポップアートふうの再生性の印象以上に、音楽の世界で古典的に用いられる「主題‐変奏」のような関係を思わせる。劇中で使用されていたバロック音楽や、オープニングに使用されたラヴェル作曲『ボレロ』の、同じメロディを異なる楽器で延々再現し続ける音楽にも暗示され、また先に『きみをあらいながせ』というタイトルに見た「ねじれ」にあるように、主体のシフトによる複数化された物語、という作品構造をイメージさせる。

舞台上での役者は、シーンごとにシャッフル/ディールされるように、別々の役を演じるのであるが、これは本作では大変に効果的な演出に思えた。そこで選ばれた役者の組み合わせは或る任意性を感じさせ、その背後に、成立しなかったこれ以外の多数の組み合わせを潜在的に表徴することになる。すなわち、そこである組み合わせが舞台上に成立したとき、それ以外の可能性、というものがはじめて意識され、「複数‐多数」への飛躍を得ることになるのだ。
この多数化が目指すのは繰り返される物語の普遍化ではなく、むしろ、これらの再現が全て異なるvariations(複数の変奏)であるように、個々の特殊性・固有性の総和であるはずだ。いま舞台上にいるのはほかでもない、この二人であるのだが、これがほかの誰かである可能性もあった、という無数のパラレルな次元を想起させるということ。その意味で、ここでの物語のひとつひとつは、観客ひとりひとりの個人的な実体験に肉薄できる射程を得ていたといえる。

さらに(これは残念ながら観劇時は気付かなかったことなのだが)、役者は、場面ごとに全く違う役割を得るため、それぞれの縦軸というか、役者レベルでのコンテクストは、その都度リセットされてゼロに戻っているように思っていたのだが、実際は役者レベルでの象徴的なイメージの線も存在したという。
たとえば、出演者のひとり、八ツ田裕美は、劇中で少年や母親を演じるときも一貫して常にもっとも「死」に近いイメージの存在として描かれる、というように。

役者レベルでの縦軸のつながり、連続性というものが保たれながら場面ごとに役が入れ替わり進行していく。とすると、この作品は複数の線が回転する、ちょうど螺旋(らせん)状の構造をもっていたことになる。おもな役者は白い服の七人の男女と黒服男の計八人なので、八重の多重螺旋を描く。

これは、作品の構造として、すばらしく美しい組成に思える。舞台上に立ちあらわれているのは、その無数の交差のいくつかなのだ。

しかし、上演中のひと時で、そこまでイメージさせるほどの即効性のある表現力は働いていなかったように思える。それはイメージを見え辛くさせたものがあるからだろう。
この作品にテーマを求めるとしたら、それは、愛、のようなものであろうと思う。先述したが、本作には原作に基づくテクスト以外に、まったく独自の田口アヤコ作の会話劇が組み込まれている。それは男女、あるいは同性による、他愛もなく、同時に掛け替えもないような瞬間を切り取ったもので、人と人のあいだにある想いのようなもの、信頼や幸福、別離や死の予感を漂わせながら淡々と流れる、冷やかで親密な空気のようなもの、そんなものが最小限の会話と身振りで描かれる。
お祭りの夜に自室で過ごすふたり、久々に再会した友人、または恋人? それをやはり同様のテクストを何パターンかの役者の組み合わせて演じていくのだ。

観劇の実感としてこの自作部分のほうが、面白かった。それは原作との優劣ではなく、テーマの一貫性の問題で、「銀河鉄道の夜」から切り出した箇所には、自作箇所ほどの完成度、テーマの切り詰めがなかったように思えた。
原作の主要なエピソードはだいたい網羅されていたのだが、それらはどこまで必要だったのか疑問で、むしろ難解さを助長させた側面があるように思える。
たとえば、ジョバンニがひとりで影遊びをするシーン(を同時に複数の役者で演じる)や銀河の風景描写を七人の役者が舞台上を動きながら別々のことを同時に叙述するシーン(過剰な情報がホワイト・ノイズのように充満する感じ。ときどき聞き取れる箇所がある)、鳥捕り男のエピソード(役者、吉田ミサイルの演ずる、電子音声で話すロボットあるいは傀儡のような鳥捕り男は素敵だった)や、客船の沈没の描写(淡々とあまり聞き取れない声でつぶやかれる)など、それぞれ、新鮮で面白かったり美しかったりしたのだが、その目先の美しさや面白さが、作品構造の研ぎ澄まされた姿をわかり難くさせてもいたように思う。
原作の再現など別に観たいとは思わないし、そんなことを意図した作品でもないのだろう。母、友、死、といったテーマに関わる本当に必要な少数の箇所だけで充分だったように思えた。

まとめる。
本作の第一印象は、むつかしいなぁ、というものだった。その難解さをもたらしたのは、構成・構造の複雑さではなく、皮肉なことに、演劇的な豊かさというべきもの、シーンや役者の美しさや面白さ自体であったように思える。
作品のつくりの複雑さ、それは作為的な難解さのための難解さといった技巧趣味に傾いてのものではない。その変奏構成と多重螺旋構造というスタイルだからこそ切り開いて行ける、高次な造形美と表現性を可能にするために産み出されたものだ。さらにテーマ(ひとことでいえば、愛か)とあいまった独特の空気感、音楽、りんとした清々しさと喪失感と、それら望んでも得がたい魅力がこの作品にはあった。意味がわからん、のひとことで素通りする/させる、には惜しいものだと思う。わかりにくさ、というものはサジ加減で観客の意識を引き込む魅力にもなるものだが、これだけ中身の詰まった作品ならば、わかりやすさに徹しても誰も文句はいわなかっただろう。
伝えるということ、それが全てだとは決して思わない。が、観た人に伝わって欲しい、と思えるものがここにはあったので。
チラシにあった文句。
「それでも、とりあえず明日まで、いきのびるために の お芝居」
そうあれたはずの作品だった。

以上。最後に、田口アヤコ氏と自分は面識があり、以前彼女に、自分はまだ演劇を観て泣いたことがありません、といったら、絶対泣かせてやります、といわれたのを憶えている。今回は泣かなかったので、勝った、と密かに思うことにした。次回、負けられるようであればいい、と思う。

この小文は、千秋楽の終演後に行われた、劇作家、POTALIVE主宰の岸井大輔氏と田口氏とのポスト・パフォーマンス・トークによる分析に多くの示唆を得て書かれたものだ。大変理解を助けられた、謝意を添えておきたい。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第34号、2007年3月21日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
中村昇司(なかむら・しょうじ)
1974年、神奈川県生まれ。音楽誌記者を経て、現在、至文堂編集部にておもに美術誌編集を担当。2006年ごろより趣味で観劇を開始。演劇関係の刊行物に『現代演劇』(今村忠純編 2006)がある。

【上演記録】
COLLOL「きみをあらいながせ ~宮澤賢治作「銀河鉄道の夜」より~」
王子小劇場(2007年3月9日-13日)王子小劇場 賛助公演

■Cast
大倉マヤ(マヤ印)
谷口真衣
木山はるか
八ツ田裕美
朝比奈佑介
吉田ミサイル(吉田ミサイルの世界)
笹岡幸司(進戯団 夢命クラシックス)
田口アヤコ
甲斐博和(徒花*)
大木裕之

■Staff
Words & Direction:田口アヤコ
音響演出:江村桂吾
照明:関口裕二(balance,inc.DESIGN)
美術:川島沙紀子
舞台監督:吉田慎一
制作:COLLOL
制作補:守山亜希(tea for two) 高橋悌 日下田岳史 宮田公一
記録映像:FOU production
宣伝美術:鈴木順子(PISTOL☆STAR)

社団法人企業メセナ協議会 助成認定活動

※各回終了後にアフタートークを開催。
3/9日(金)川島沙紀子さん(現代美術家、本公演の美術を担当)鈴木順子さん(デザイナー、本公演の宣伝美術を担当:PISTOL☆STAR)
10日(土)15:00 羊屋白玉さん(演出家:指輪ホテル主宰)
10日(土)20:00 安田雅弘さん(演出家:劇団山の手事情社主宰)
11日(日)15:00 横山仁一さん(演出家:劇団東京オレンジ主宰) 金崎敬江さん(女優:bird’s-eye view)
11日(日)20:00 広田淳一さん(演出家:劇団ひょっとこ乱舞主宰)
12日(月)20:00 矢野靖人さん(演出家:shelf主宰)
13日(火)15:00 江村桂吾さん(音楽/音響演出家、本公演の音響演出を担当)山田宏平さん(俳優:劇団山の手事情社)
13日(火)19:00 岸井大輔さん(劇作家:POTALIVE主宰)
※3月10日(土)昼公演(15:00開演)のみ、託児サービスあり。
託児料金:2200円(開演1時間前から、終演1時間後まで)
対象:生後3ヶ月以上9歳未満

■料金(全席指定) 一般 3000円 (前売/当日とも) 学生割引 2200円 リピーター割引 1000円  web先行割引(2/9まで) 2500円
※先行予約特典 戯曲集(1000円/1冊)プレゼント

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