d.v.d + nhhmbase

◎応用可能なフォーマットとしてのゲーム
伊藤亜紗(ダンス批評)

ふだんダンスばかり見ているせいか、たまに音楽のライブにいくと楽器が武器(ウェポン)にみえる。なにしろステージ上の人間が体に尖ったものをくくりつけていたり、バリケードみたいにドラム缶状の物体に囲まれているのが新鮮だ。しかも、それらの物体は発砲する。弾丸ではないから安全なのではあるが、あちこちで人が人に向かって対人シューティングしてる。「音」という玉を、どんなリズムで、どんなタイミングで、どんな強さで、発砲するか。最適な解は刻一刻と変化し、すべては相手の出方次第だ。もちろん隙をついて攻撃もしかける。楽器という武器をかまえた演奏者が、「音楽」というシューティング・ゲームのプレイヤーにみえてくるのだ。

この音楽=シューティング・ゲームというアイディアを、共感覚的な手法を用いて文字通り実践するトリオに東京芸術見本市で出会った。佐々木敦ディレクションのショーケース、「Joyful Calculation! たのしい計算音楽!」に登場したd.v.d だ。d.v.d とはdrum+visual+drum の略。左右二つのコントローラー(=ドラムセット)から送られてくる入力信号(=ドラムヘッドの受ける物理的衝撃)を中央のラップトップ・コンピュータがリアルタイムで視覚映像に変換し、スクリーン上で対戦(=ミックス)させる仕組みだ。スクリーン上で視覚化されるドラマー二人のプレイ。否そうじゃない。彼らが自分の手元ではなくスクリーンを見ているのは、これが単なる「演奏の視覚化」ではなく「ゲーム」である証拠なのだ。つまり、モニターされるプレイを見ながらプレイするドラマー。ゾンビの血よろしくぴちゃぴちゃと投げつけられる丸や三角が、どろっと流れてはゲームの白熱とともにスクリーンを汚していく。もちろん、グレーの地にパステルカラーという配色とポップな効果音のおかげで、どこまでも爽快に楽しめるのではあるが。

共感覚というアイディア自体は、決して目新しいものではない。美術の歴史をみても、カンディンスキーの抽象画は「見る音楽」であったし、モホリ=ナジの映像作品は動く幾何学という意味でも先達だ。だが演奏と映像がリアルタイムでインタラクティブに結びつくとき、そこにこうしてゲームの次元がひらける。興味深いのは、視覚化されるドラムの一打一打が、避けようもなく感情に収斂していってしまう音楽のメロディアスな流れに対し、くさびを打ち込むように聴覚を目覚めさせることだ。ひとつひとつの音が、「発射」の強度を帯びながら耳を刺激するつぶとして物理的にとどく(d.v.d の映像が、ウェーブや螺旋といった線的なものではなく、丸や三角のような「つぶ感」を感じさせる図形的(算数的?)なものであることは重要だろう)。

d.v.d1

d.v.d2
【写真は、演奏するd.v.d 。「東京芸術見本市2007」から。撮影=宮内勝 © 提供=東京芸術見本市(TPAM)】

今ここにある音楽はいわばバトルフィールドであり、彼らはそこに向かって音という玉をつぎつぎと打ち込んでいく。これは一般的な意味での演奏という行為が、演奏者の実存や内面の表現というわずらわしさをどうしようもなく帯びているのとは対照的だろう。d.v.dのシューティング・ゲームは、起こっている出来事に対して淡々と応答しているにすぎない。さらに、ミックスのプロセスを映像として提示することは、彼らのバトルフィールドを観客にとっても等しく共有可能なものにする機能をもつ。d.v.d は、drum+visual+drum というコンセプトそのものが、誰にでも共有可能なフィールドを作るシステムなのだ。そのクールさは、演劇のことを考えてみても際だつ。演劇は、演技というある種の活性によってようやく、「フィクション」という共有可能なフィールドを成立させるのだ。

d.v.dがクールなのは、とはいえゲームというフォーマットに結局は固執しないことだ。エア・ホッケーの要領で玉を打ち返したり、相手のプレイを真似たりとゲーム・ルールが最初は守られていたとしても、スクリーンが混雑してパニック状態に陥ればその複雑なリズムの面白さにどんどん賭けてしまう。音をつぶとして聴くことに慣れた耳は、重なる音のレイヤーやフーガ的な反復にドラムをたたく腕のスナップ、ふるえるドラムヘッドを感じる。音をつぶとして聴くことは複雑なリズムの構造を把握することであり、ますます複雑化し成長していくその速度にスリルを覚えながら興奮してついていくことだ。

ところで、複雑なリズムの複雑さを純粋に楽しませてくれるバンドとしてもうひとつ興味深いのがnhhmbase(ネハンベース)である。ギター×2、ベース、ドラムという構成の彼らは、ビジュアルを用いることはしない。とはいえ彼らの、なかでもギター兼ボーカルであるマモルの、体型から受ける印象とはあまりにギャップのあるユニークな手足の動きが、音のもつ「発射」の強度を視覚的に支えていることは確かだ。たとえばジャンプしたマモルが、その細くて薄いいかにも現代っ子な身体を空中で下敷きのように曲げ、腕を旋回させながらひょろっとしたもうひとりのギター、入井昇に向かって「射撃合図!」とばかりに弾けさせる。フックの効いた器用かつ高速なパフォーマンスで音を連射する体に、聴く耳は驚きとともにその弾道を追いかけずにはいられないのだ。

代表曲「9/8」は、8分の9拍子という変則リズムを塗りたくるように重ねていくインスト。だが決して知的なパズルに堕すことなく、トリッキーだがキャッチーなポップミュージックとしてそのドライブ感を楽しむことができる。マモルが目を見開いてハイトーンの絶叫をするサビは、聴く者の快感のツボを振り切れんばかりに刺激してくる。彼らがポップなのは、そこに共有可能な音楽、つまりメロディーによって成立する安定した音の流れがあるからである。そしてまた、音楽という共有可能なフィールドが設定されているからこそ、彼らのテクニックの真骨頂である個々のリズムを「発射」の強度をもって聴き分けることができるのに他なならない。

共有可能なフィールドを設定し、そこへなされるインプットを出来事として享受するのがゲームであるとすれば、それは一つのフォーマットとしてダンスにも十分応用可能なものだろう。たとえば、さまざまな動きのテンプレートを用意しておき、そのそれぞれをコマンドとみなして体に指令を送る、というような。ダンサーは、その意志を通してゲームするプレイヤーであり、その身体を通してプレイされるキャラクターになる。音楽のライブを通じて、そんなアイディアを得た。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第38号、2007年4月18日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。

【参考情報】
Joyful Calculation 楽しい計算!(芸術見本市2007 International Showcase)
2007年3月6日[火] 19:15?21:15 / 丸ビルホール
・d.v.d – itoken + jimanica + ymg
http://dvd-3.com/profile_j.html(profile)
・nhhmbase
http://www.nhhmbase.com/ja/about/(profile)
・nhhmbase(ネハンベース)インタビュー(OOPS!)

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