寺田みさこ「愛音」

◎不安定になった体にこそワクワクする
伊藤亜紗(ダンス批評)

寺田みさこ「愛音」公演チラシこれまで砂連尾理(じゃれお・おさむ)とのコンビ、通称「じゃれみさ」をベースに活動してきた京都在住のダンサー、寺田みさこのソロ公演。余談だがダンスの公演は怒濤のように2-3月に集中しており、逆に年度替わりの4-5月はシーズンオフなので(助成金など公演運営上の都合らしい)、6月に入ってようやく本格的に始動してきたという感じだ。

ホットパンツに大きな黒のサングラス、死んでも肌は焼かないわとめいっぱいツバのせり出した女優風の帽子をぶわんぶわんと揺らしながら、衆目釘付けのハイヒール美脚でキャットウォークしながら舞台上にあらわれた寺田みさこ。「セレブのパロディ」などではない。素である。カッコいい。着こなしている。ルックスの面でも身体能力の面でも、二重の意味で「向かうところ敵なし」である。

ところが、作品を記述するより先に問題の核心を俎上にあげてしまうことになるが、この「無敵のカッコよさ」はしばしば攻撃的に見えやすく、だとすればそれは必ずしもパフォーマーにとって有利に働くとは限らない。攻撃的、という言葉が強すぎるとすれば、一方的に見えがちである。無理してカッコつけている、あえて背伸びしている、というパフォーマティブな次元を欠いた状態でつきつけられる「本物」の見た目に対して、観客は共感はしにくい。驚嘆や憧れの念を抱いたりはするだろうが、刻々と変化する内面を思い描いたり、内面を思い描かなくても「これからどうなるのだろう」と気を揉んだりワクワクすることは少ない。向かうところ敵なしの資質は、逆説的にも、「本物」「素」のままに強調されると、マネキンとかお人形とか、そんな非人間的な存在に見えてしまうのである。それは美人ゆえにつきまとう課題であり、展開して欲しい可能性として、寺田の舞台を見るときに常に感じることである。

もちろん、ダンスにパフォーマンスとしてのクオリティーではなく、身体能力やルックスのクオリティーを期待する見方もあるだろう。私は前者の立場でダンスを見る、つまりライブ感を重視してダンスを見るが故に上のような疑問が湧くわけだが、後者のように、ダンサーはまさにお人形なのであって内面を煩うことなど知らなくてよい、ただ振り付けを十分にこなす身体能力を供えてさえいればいい、と考える見方を否定するつもりはない。どのような見方でダンスを見るかは、その人がこれまで見てきたダンスのジャンルに大きく左右されるだろうし、例えばバレエを見続けてきた人にとっては、身体能力を重視する後者のような見方こそ自然なものだろう。そしてもし寺田のダンスが、バレエ的な制作と鑑賞のコードにのっとった作品であるならば、私の見方はズレた、斜めから見るようなものかもしれない。

実際に、寺田のダンスは徹頭徹尾バレエのコードにのっとっているように見える。そのことを端的に感じるのは脚の使い方である。つま先までピンと伸ばされたよくしなる脚は、表現上の必要性とは無関係に、終始軽やかに走り困難なポーズを決めることに奉仕している。冒頭の壁づたいのキャットウォークなどは、脚の動きという点ではむしろ抑制されていた方で、いったん壁を離れるや、脚は枷を外されたように軽快なおしゃべりを始め、楽しげな軌跡をひらひらと空中に描きつづける。寺田の動きはしばしば上半身と下半身が別々のことをやっているが、これもバレエ的なコードを思わせる。上半身で手がコミカルな動きをしていたり、背中を床につけて仰向けになっていたとしても、脚はメロディーを繰り出す指揮棒のようにどこまでも自由闊達に動き続けるのである。

にもかかわらず、私が非バレエ的な見方をするのは、この作品が単に美しさを狙っただけのものではなく、「女性の性」というリアルでシリアスなテーマを中枢に据えているからである。仰向けのまま数秒間持続される開脚は、脚の美しさを強調すると同時に、明らかに女性器の位置を見せつける挑発である。さらに露骨だったのは、人差し指を男性器に見立てて口にくわえ、執拗なまでに上下させる冒頭の長い長いシークエンス。そこには明らかに、観客の感情を逆なでする扇情的な意図が込められていた。

高嶺格が担当した舞台美術も、女性の性というテーマをいっそう際だたせていた。舞台中央にぽっかりと開いた穴は、ひたひたという音によってのみその奥に水があることがわかり、中盤でようやくその正体が判明した天井からぶら下がる蛍光灯のようなオブジェは、ぼた雪のような白い泡をふつふつと分泌する装置だった。数種の「蛍光灯」から分泌された泡は、自重に従ってさまざまな大きさにちぎれながら床に堆積し、最終的にはびっくりするような量となってフルーチェよろしくぷるぷると震える柔らかい海と化して舞台上を占拠した。

「向かうところ敵なし」の寺田が、あえて女性の性という生々しいテーマを選んだのだとすれば、その挑戦は面白い。けれども、せっかくの挑戦であったなら、もっとこのテーマを咀嚼して欲しかった。咀嚼といっても、テーマについて深く考察するということではない。表現の仕方の問題だ。指を男性器に見立てるシークエンス-そこでは音響が1、2、3…と機械的な声で拍子を取っていた-に象徴的だったが、動きをメトロノーム的なテンポで刻んでしまうことは、せっかくのテーマの生々しさを、生気のない安全なものへとパッケージ化してしまう。後半のフルーチェの海で溺れるシーンも、動きは「滑る」なのだがテンポはきわめて正確で、決められたグリッドにそって動いているように見えた。

正確なテンポが動きをポーズの連続に見せるのに対応して、性というテーマはどんどん記号化していってしまう。「挑発」や「コミカル」と形容される動きであったとしても、それがポーズとして決められている限り、美しさのフォルムは壊れていない。テンポがくずれ、不安定になった体にこそ観客はワクワクするし、性のなまなましく粗暴な力が、単なる記号ではなく作品を動かすエネルギーとして舞台を支配するのだろう。寺田の作品を離れた一般論になってしまうが、そうしたテンポのくずしは、ダンス的にいって「自然な」体の各部位の連動、たとえば上半身をぐにゃりと前に倒すと自ずと顎が上がる、というような連動が、半ば自動化した「表現力」としていかにダンサーを縛っているかを自覚し、ひとつひとつ分離したあとで体の各部位を再び結び直す作業の中から生まれてくるのではないだろうか。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第47号、2007年6月20日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ito-asa/

【上演記録】
寺田みさこ「愛音-AION-」(SePT独舞vol.17)
シアタートラム(2007年06月01日-03日)

[振付・出演] 寺田みさこ
[美術] 高嶺格

「砂連尾理+寺田みさこ」ウェブサイト:http://www4.airnet.ne.jp/jaremisa/

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