studio salt 「7」

◎「類型」表現と、作家の「悪意」
矢野靖人 (shelf主宰)

studio salt 「7」公演チラシ横浜の劇団studio saltの新作『7』が素晴らしかった。等身大の日常を描いた作家は多くあれど、社会の底辺というか、それもプロレタリアートという意味でのそれでなく、知性も教養もない、頭が悪くて、これといったとりえもなくて人が好いわけでもない(むしろ無意識的な悪意に満ち満ちている。)そんな、とても小さな人間の存在を描かせたら、今、彼女に比肩出来る書き手はなかなかいないのではないだろうか。

確かに劇団員俳優の力量にはやや難がある。有り体にいえば、studio saltの俳優はぜんぜん全く巧くない。しかしながら同時に、彼らほど生活の実感・生活のにおいを舞台上に醸し出せる俳優の集団を私は寡聞にして他に知らない。そんな、お世辞にも上手いとは言えない俳優たちが、如何に椎名の劇世界でリアルな存在感を獲得しているか。あるいは、どこにでもいそうな凡庸で類型的な登場人物ばかりを登場させながら、椎名の劇作が如何に普遍性を獲得しているか。

「写実」と「類型」「悪意」という言葉を軸に、その事由について少し記述してみたい。

1.「写実」と「類型」

劇団旗揚げから7作目、座付き作家の椎名泉水にとっても7本目の戯曲のタイトルは『7』。自治体から委託を受け、野犬等の殺傷処分や里親斡旋を行う「動物愛護」とは名ばかりの管理センターを舞台に、そこで働く職員たちと、そこを訪れる人々の日常を丁寧に描く。

薄暗い事務所はコンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれていて、部屋のなかは来客を通すための簡易な応接スペースと、休憩スペースとに分かれている。休憩スペースには、簡単な食器棚、電気ポットなどがあり、簡易な水道、流しが一つ。テーブルと、簡易な椅子が数脚。応接スペースの片隅に一つだけ置かれたデスク、その上に電話と最小限の事務用品が置かれてある。

上手側の壁に更衣室へ向かう入口があって、部屋の隅には小学校で使うような旧い机が置かれており、その上に水槽に入ったカメが飼われている。休憩スペースと応接スペースの仕切りはなく、舞台奥には嵌め込み式の窓があって、更にその奥には檻が見える。檻の前の廊下の天井に、おそらくは採光用の窓があるのだろう、外光が唯一ここから差し込み、朝夕の時間の変化を感じさせる。

ドア付近に長靴を置いておくスペースがあるらしく、職員は皆、そこでサンダルから長靴に履き替えて、奥のスペースへと向かう。ドアを開けるたびに犬、猫の鳴き声が聞こえる。

幕が開くと、舞台上では青い作業服の男達が談笑している-

studio salt「7」公演
【写真は studio salt「7」公演から。撮影=藤倉善郎 提供=studio salt 禁無断転載】

studio saltの描き出す劇空間は一見写実的で、ある種のリアリズムに則って構築されているかのように見える。

リアリズムを仮にロマン主義に対するアンチテーゼとして、「演劇=人生の探究、実験室であり、且つまたその再現であるという理念を提示したのもの」であるとし、また「現実を、空想によらずありのままに捉えようとする試み」だったとすれば、しかし、studio saltのそれは決して「写実主義=リアリズム」的なものではない。むしろ日常の描写に際して、その日常に裂け目を入れるためにこそ、写実的な技法を援用する。

ところで、一方で椎名の取り扱う劇作のモチーフは驚くほど分かり易い。それは類型的で、凡庸といって差し支えないくらいなのだが、しかしその手の凡庸さは劇作家が周到な手順でそれを取り扱うとき、その凡庸さゆえに普遍性を獲得する場合がある。

そして椎名はじっさい確かな手順である種の普遍性を獲得してしまう。

類型的である、とは、キャラクターであれエピソードであれそれが有りがちであるということだ。

有りがちな表現は多くの観客に対し、我々がそれを実体験として知っていなくとも「私はそのことを既に知っている。」という既視感をもたらしやすい。所謂「ワンパターン」や「定形」「マンネリズム」といったものがそれで、それ故「類型」はしばしばネガティブな文脈で語られがちなのだが-

一方でこの状況を逆手にとった、時代劇や西部劇のような「勧善懲悪もの」のような手法もある。これらは毎回同じ展開を踏襲することによって観客にある一定のカタルシスを与え、結果として固定客を獲得することに寄与する。と同時に「類型」的であることは、それが、他でもない「物語(虚構)」そのものであることを示す「指標」として非常に強い規制をも持つ。

椎名の描く劇世界にはいつも、非常に多くの類型的な人物やエピソードが登場する。(本来「類型」は物語の形式について語られる言葉なのだが、それを踏まえた上でここではより広く、エピソードやキャラクターについても「類型」という言葉を当てはめて考えてみたい。)今回で言うと、例えば家族の一員として長年連れ添っていた犬を「もう育てられないから、」と処分の依頼に来る老人。テレビで見て「可哀そうだったから、」とそれだけで浮かれて捨て犬を引取りに来る(結果的にはすぐに飽きて、引き取りの申請を取りやめてしまう)女子高生。あるいは終盤の重要なエピソードとして配置されている、新卒の職員(星野、増田知也)が事務所で10年飼っていたカメを逃がしてしまうくだり。

星野  俺、明日買って来ます。
矢口  そういう問題じゃないと思うんだよねー。
星野  すみません……。
陣内  余計な事しなくていいのに先生。甲羅干しなんかさー、なんでやっちゃったの。
松尾  そうだよ、なんでやっちゃったの?
星野  なんか、気分で……。
テツ  気分?
ピン  網かけないと、カラスにやられるんですよね
カメは。
星野  そういうの全然知らなかったから。

間。

矢口  全然知らないのにやっちゃったんだー。
星野  本当に俺、明日買って来ます。家の近くにペットショップあって……カメも多分売ってるから……。緑カメですよね?
矢口  だからさー、そういう問題じゃないって言ってんじゃん、さっきからさー。
陣内  ぼぅまだ探してんの?
テツ  探してんじゃないスか?
陣内  誰か呼んで来いよ。暗くてもう無理だろ

亡くしてしまったものを買ってきて解決しようとする人間の心理。決して褒められたものではないが「しばしば人間はそういう発想をしてしまうものだ。」というこのこと自体が、既に一般に共有されやすい類型的なエピソードの一つだ。

あるいは先の老人(アイ、勝碕若子)とこの新卒の職員との冒頭の遣り取りについても、

星野  ご存知だと思いますがこの施設は……。
アイ  (遮って)よくいろんな所へ連れて行きましてね。多摩川の河原に連れてって、一日中遊ばせたり。結構おてんばなんですよ。今はもう、私と同じでお婆ちゃんですけどねぇ。
星野  ……。金山さん。
アイ  ハイ?
星野  電話でもお話ししましたが、十六年? ですか、長い間一緒に生活して来たわけですから、これはもう、最期までみてあげて欲しいなと思うんですが。
アイ  もちろん、それは私もそうなんですよ、もちろん。でもね、無理なんです。主人が透析してますでしょ、人工透析。週3日ですよ、病院通って。もう足腰がダメなもんでヘルパーさんにね、迎えに来てもらって、車で。送迎してもらってるんですけどね。私も膝がもうダメで、とても散歩どころじゃないんです……。するとあの子もストレス溜まるといいますか、部屋で暴れるんですよ。こないだなんて私、噛まれましたもの。腕のここ。ここ見て下さいよ、跡があるでしょ?こう、ガブッって。驚きましたよ。
星野  ……。
アイ  まぁ、あの子もこの辺で寿命っていうんですか? 散歩も行けない、病気のジジババとストレス溜めながら一緒にいるなんていうのよりかよっぽど……ねぇ。この辺が潮時だと思うんですよね……。もう十六年ですから……。充分だと思うんですけどね。
星野  それは金山さんが決める事じゃないんじゃないでしょうか?

間。

アイ  責めるんですか? 私を?
星野  いや、責めるというか、生き物なんですから……。本当に飼えないのかよく考えていただかないと。簡単に「処分」なんて言いますけどね、ペットはゴミじゃないんですから。

アイ、突然泣き出す。

星野  ちょ、ちょっと……。
アイ  ホントに無理なんです……私達に死ねって言うんですか?
星野  そんな事言ってませんよ。
アイ  言ってます! 私、知ってますよ。こういうトコに持って来るんじゃなくて、車で遠くに連れて行ってそのまま捨ててきちゃう人もいるらしいじゃないですか。それに比べたら! 私はこうしてキチンとプロセス踏んでるわけですから

と、単に捨てに来る老人の言い分が類型的なだけでなく、返す星野の説得までもが見事にありきたりで。

斯様にして次から次へと類型的で凡庸な、つまりありがちなエピソードやキャラクターの登場する椎名の戯曲は、その物語の構造を含めて、つまりそれが物語に過ぎないこと。自分達の世界とはかけ離れた、虚構の世界に過ぎないこと。時にはその結末、結果などをも含めて、定石どおりに観客に共有されていく。

ところが、この「類型」に亀裂が入る、とでも言えばいいだろうか。ある瞬間、椎名の描く劇世界は突如、我々をして鏡を通して自分自身を見ているかのような錯覚を起こさせる。

安全な位置から「物語」を安穏と眺めていた(愚かな登場人物たちを嘲笑していた)観客をして、いつのまにか自分自身を笑っていたことに気付かせるのだ。

2.「状況」を描くための「類型」

一見簡単なように見えて、その実これはとても難しいことだ。例えばこれが、現実を模倣したような、写実的な作品であったとすれば、観客は最初からそこに自分がいるとは思わない。映画やドキュメンタリー映像などに比較すれば分かり易いと思うのだが、そこに登場する人物は、リアルであればあるほど、最初から他人として存在する。

ここに類型の力がある。

類型的な表現は、それがどれほど写実的に描かれていようとも、それが類型である限り同時にある種の「抽象性」を持つ。つまりメタファーや、象徴としての機能を果たしてしまう。

そしておそらくここに椎名泉水という劇作家の特性があると思うのだが、何故、椎名は斯様に類型的な表現に依存した方法を選び取ったのか。というと恐らく椎名は、椎名泉水の描くドラマは、人間の関係性を描いたものであるというより、人の置かれた「状況」の描出を意図したものだったからなのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

しかも椎名は、徹底的に自分自身の経験を担保に描く、私小説的なアプローチを取る。椎名は、我々を十重二十重に取り巻くしがらみや、様々な相反する価値観、先入観や誤解に満ちた「世間」の目が複雑に入り組んだ「私」の「状況」を、自身の経験を担保に描き出そうとする。

studio salt「7」公演
【写真は studio salt「7」公演から。撮影=藤倉善郎 提供=studio salt 禁無断転載】

例えば椎名は登場人物の一人として「動物愛護管理センター」でともに働く同僚の一人に、軽度知的障害者(ぼう、麻生0児)を配置する。そしてそのことで、椎名自身がじっさいに感じた差別意識ともコンプレックスともとれない「自分の仕事はそういう人でも出来るんだ、」という思い。それが歪んでいることに気付きつつ、どうしようもない。キレイゴトでは済まされない。という「私」の置かれたその状況を観客に向け、まるのまま描き出そうとする。(ここには明らかに、知的障害者守らなければならない弱者である、という社会的に正しいとされる類型的な価値観が背景にある。そしてそれが背景にあって初めて成立する「私」の歪んだコンプレックスがここに介在している。)

椎名は、社会の中での個人に興味がある、という。あるいは主宰の麻生0児によれば「椎名の戯曲には必ず個人から見た社会と、社会から見た個人という、二者の対立構造が根底にある」のだという。人間を、そもそも徹底的に「業」を持った存在として描いているのだと。

確かに、椎名の人間観は非常に冷めている。冷めているというか、あまりに救いがない。その救いの無さを麻生は「業」と称するのだろうし、その救いの無さこそが、この作家に不可欠な「悪意」を用意しているのだが。

可哀そうな障害者。守らなければならない弱者。しかしそれは本当か。その考え方は正しいのか。障害を持って生まれたことは「可哀そう」なことで、彼らは本当に守らなければならない弱者なのか。

もちろん椎名が言いたいのはそんなことではない。椎名の興味はもっと内側を向いている。それは他でもない、自分自身が「可哀そうな障害者。守らなければならない弱者。」という類型的な物語を深く信じているからこそ「自分の仕事は、そういう人でも出来るんだ、」という思いに苛まれるという、のっぴきならない状況そのものをこそ、椎名は描き出そうとしているのだ。(だから、椎名の描く登場人物は「他人」であってはまずいわけで、それ故に非常に抽象性の高い、類型表現を多用するのではないか、と私は思うのだが、)

椎名が描く「社会」はだから、例えば「関係性の網目」というような、乾いたな言い方では表しきれない。

椎名の描く世界は、しがらみや、様々な相反する価値観、先入観や誤解に満ちた「世間の目」が複雑に入り組んだ、より湿度の高い世界であり、そしてそんな「社会」が深く内面化されることで「私」はコンプレックスや劣等感に苛まれる。内なる社会から激しく阻害される。

「私」はとても小さい。「私」は社会通念に従いたい。世間体は気になるし、出来ることなら正義を貫きたい。しかし「私」はそう思いながらも、それが自分には適えられないことを知っている。「自分の仕事は、そういう人でも出来るんだ。」そんなことは思いたくないのに、そう思ってしまう「私」のコンプレックスをこそ椎名は描く。そのために椎名は、知的障害者をさえ一つの「類型的なエピソード」として、一つの道具立てとして利用する。

そこには「物語」の「登場人物」に対する、あるいは観客に対する作家の「悪意」の存在を強く感じられる。

3.作家の「悪意」

劇中を通していちばん美しいシーンの一つに、新卒でこの職場に入り、なかなか馴染めなかった星野(増田知也)がある事件をきっかけに終業後、職場の応接スペースに居残って陣内(東享司)とぼう(麻生0児)と3人で酒を酌み交わすシーンがある。
studio salt「7」公演

studio salt「7」公演
【写真は studio salt「7」公演から。撮影=藤倉善郎 提供=studio salt 禁無断転載】

そもそも10年かけて事務所で育てていたカメを星野が逃がしてしまったことがその酒のきっかけになっているし、結果としてよそ者扱いされていた星野と男たちの間に奇跡的な対話が生まれたようにも見える。リーダー格の陣内は柄にもなく身の上話を打ち明けるし、星野とて、自身が在日韓国人であることを遠まわしに告白し、二人が急激に打ち解けたように見えなくもない。

じっさいこのシーンは、劇中を通していちばん美しいシーンの一つだった。二人がポツリポツリと交わす遠まわしな言葉、そこから生まれる対話と、一方でぼうが、自分の記憶を反射的に羅列するだけの台詞(同僚の誕生日や、最初にカメを拾ってきた日について、年号から曜日までを、ただ促されるままに読み上げるだけなのだが、)それとの対比は非常に美しく、また柿ピーを、制止されるまで啄ばみ続けるぼうのその所作は、食べ続けるという病的な行為の「嫌な感じ」と、その動作の単調さが独特のリズムを生んでいて、とても好かった。のだが、しかしそれでも、彼らは決して「打ち解けた」わけではないのだ。椎名は書く。

不思議なもので、そんな怠惰な職場であっても、同じ痛みを共有しているからなのか、お互いの気持ちを無意識に思いやるような優しさがあって、同僚と雑談を交わす時、親友と話すよりも心が癒されたりする事もあったのだった。(『7』当日パンフレットから引用)

確かにそれは、一見この引用にあるような「癒し」であったり、他者に対する「優しさ」であるかのような錯覚をする。しかしそれは、その「癒し」や「優しさ」は厳密には他者への眼差しではない。自分自身がより生き易くなるための、言ってしまえば一つの方便に過ぎない。椎名泉水はそのことを正しく理解している。そして冷ややかな目で、人間と社会とを観察する。

人はなぜ僻むのか。何故腐るのか。あるいは何故、腐っていることに気付かないのか。いや。違うのだ。そもそもが人は、僻むのだ。腐り、そして腐っていることにしばしば気付かないのだ。そう透徹しているところにこそ劇作家・椎名泉水の悪意はある。

例えば、以前から自分が大嫌いで、もう生理的に受け付けない。一緒に仕事をしたくない。そんな相手がいたとして、しかし彼女が実は自分と同じ左利きだと分かった瞬間にどこかほっとする。それだけのことでこれから先どうにか遣り過ごすことができるかもしれない。ほっとする。それだけで、どこか相手を「思いやれる。」「癒される。」

もちろんそれは、本当に、本当の「優しさ」ではないかもしれない。椎名はそのことに気付きながら、やはりそのことの是非を問わない。ただひたすらにそのような心理を丁寧に掬い上げ、舞台に載せる。

斯様にして椎名の戯曲は人間存在、殊にコンプレックスをうちに抱え込んだ弱い人間への眼差しで出来ている。そしてその眼差しにこそ、彼女の人間存在に対する「愛」が潜んでいるように思える。

studio saltという劇団については、1,000人を超える動員のほとんどが劇団員の手売りであるということや(そのことはそも、この劇団の公演「活動」が如何な成り立ちをしているのか。非常に示唆に富んでいる。)あるいは、このことがどれほど椎名の劇作に影響を及ぼしているか。芝居慣れしていない「観客」を相手にすることは椎名のこの類型を重ねることで凡庸さを無化するような「方法」の獲得に大いに寄与しているに違いない、と思う。

彼らについては本当に語り、検討され、記録されるべき事がらが尽きないと思うのだが、椎名の劇作については以上の特異な点を記述することに留めて、ひとまずは本稿をおきたい。(2007年5月17日、所見)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第48号 2007年6月27日発行。購読は登録ページから)

【著者紹介】
矢野靖人(やの・やすひと)
shelf演出家・プロデューサー。1975年名古屋市生まれ。北海道大学在学中に演劇を始める。1999年4月より青年団演出部に所属。2000年2月、青年団第5回若手自主公演side-b『髪をかきあげる』(作/鈴江俊郎)演出。退団後、演劇集団かもねぎショット演出助手等を経て、2002年2月shelf 始動。自身のプロデュースするshelfの他、2006年より 横濱・リーディング・コレクション(共催/横浜SAAC、横浜市市民活力推進局)プロデューサー・総合ディレクターも務める。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。演劇千年計画実行委員。来年(2008年)1月、名古屋・七ツ寺共同スタジオ35周年記念として、七ツ寺プロデュース作品を演出予定。
・Wonderlandサイト掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yano-yasuhito/

【上演記録】
studio salt 『7』
相鉄本多劇場(神奈川県横浜市、2007年5月16日~24日)
作・演出=椎名泉水

キャスト:
星野 星野昌夫…増田知也
陣内 陣内六郎…東享司
松尾 松尾明…shikyo
テツ 中川哲…高野ユウジ
矢口 矢口政夫…木下智巳
ピン 吉田一…松本・F・光生
ぼう 坊上豊…麻生0児
エリ 森田絵里…富岡英里子
マヤ 佐伯麻弥…小角真弥
アイ 金山アイ…勝碕若子

スタッフ:
舞台美術:小林奈月
大道具製作:C-COM舞台装置
小道具協力:高津小道具
照明:阿部康子(あかり組)
音響:岩野直人(STAGE OFFICE)
舞台監督:笹浦暢大(うなぎ計画)
宣伝写真:降幡岳
宣伝美術:成川知也
記録撮影:升田規裕(M’s Video Group)
宣伝支援:三村里奈(MR Co.)
制作:薄田菜々子(beyond)
特別協賛:フランス料理・洋菓子 横浜 かをり
企画・製作・主催:studio salt

指定席 前売・予約のみ/2,800円
自由席 前売・予約/2,500円 当日/3,000円
学生割引 前売・予約のみ/1,500円


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