ラ・スフルリー劇団「綿畑の孤独の中で」(ベルナール・マリ=コルテス作)

◎逃げ場のない関係性に陥った人間を描く 他者の他者性に漸近する現代劇
大岡淳(演出家・批評家)

「Shizuoka 春の芸術祭2007」パンフレット『綿畑の孤独の中で』は、フランスの劇作家ベルナール=マリ・コルテスの代表作として我が国でも知られているが、実際の上演に触れる機会に乏しい私たちにしてみれば、この特異な戯曲に相応しい演出がどのようなものかについては、なかなか想像がつかないというのが正直なところではないか。しかしこのたび来日を果たし、「Shizuoka春の芸術祭2007」にエントリーしたラ・スフルリー劇団による公演『綿畑の孤独の中で』は、ともすれば難解なダイアローグの連続とも見えるこの戯曲を、明快なスタイルと強烈なインパクトを備えた芝居に仕立て上げたという点で、意義深いものであった。

登場人物は、ディーラーと呼ばれる男と客と呼ばれる男のふたりだけ。ふたりは、互いに長い台詞の応酬を繰り返す。ディーラーは、この暗闇の中で非合法に客が買いたいと欲している商品を所有しているとほのめかし、客は、自分にはそのような欲望は存在しないし、存在するとしても自分ではわからない、と返答をかわし続ける。かくして、ディーラーが売ろうとするもの、客が買おうとするものが何なのか最後までわからぬまま、その空虚な中心の周囲をぐるぐると旋回するかのように、饒舌な台詞が重ねられ、徐々にふたりの間で緊張が高まってゆく。そして最後には、言語化されない商品/欲望の代わりに「武器」が話題として持ち出され、客の「よし、それじゃあ、武器はなんにする?」(佐伯隆幸訳)という、破滅的カタストロフを暗示するひとことによって、幕となる。

以前ビデオで見たパトリス・シェロー演出では、ふたりの男は激しく歩き回って暗闇の中で駆け引きを繰り返していた。また、佐藤信が演出したリーディング版では、ふたりは長いテーブルを挟んで差し向かいとなり、対決を繰り返した。いずれも、ふたりの男が対峙し合うという明快な構図によって、対立と緊張を醸し出すことが企図されていた。

ところが今回のニコラ・デュリュー演出は、これらとは一味違った演劇的な工夫が凝らされている。漆黒の闇に浸される舞台上に、ただ自動車の運転席だけが照らし出されており、助手席にはディーラーが、運転席には客が座っている。ふたりの対話は、基本的にこの構図のまま進行する。だが、そのスタティックなたたずまいの中にも、徐々に葛藤が激しくなるふたりの心理状態を反映するかのように、自動車内の光は微妙に変化し、低く唸るかのような音響が緊張感を醸し出す。後半、心理的な対立の激化に耐えられなくなった客がとうとう車から外に出てしまうが、観客席に近づいた彼の姿は闇に呑まれて全く見えはしない。そして彼はとうとうあきらめて運転席へと戻り、再び我々の目に見える存在となる。このくだりは、逃げ場のない関係性に陥った人間の姿を鮮烈に描き出して見事であった。そしてラスト、「よし、それじゃあ、武器はなんにする?」という台詞に続き、舞台上は完全な闇に包まれ、音響は高まり、車が発進したことを想像させてこの芝居は幕となる。

綿畑の中の孤独

綿畑の中の孤独
【写真撮影=橋本武彦 提供=静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】

売買とは「命がけの飛躍」によってなされる行為であり、そこに「等価交換」が成立したように見えるのは常に事後的でしかなく、ここにはむしろ他者との関係の絶対性があらわれている、と分析したのは柄谷行人の『探究Ⅰ』である。この『綿畑の孤独のなかで』という戯曲の特徴は、演劇作品としては珍しく、このような他者性を主題としている点に見出せるだろう。

そもそも演劇は、俳優が役を演ずること、言い換えれば、自分とは異なる他人の身の上を勝手に〈代行=表象〉するというメカニズムを、不可避の条件として成立する。だが自己にとって他人とは、〈代行=表象〉を拒み、理解/無理解という二分法すら超越する〈他者〉なのではないかという、哲学者エマニュエル・レヴィナスがおこなったような問題提起に対して、演劇が正当なレスポンスをおこなったことは稀であろう。なにしろ、未だに大半の演劇において、登場人物の対立によって物語が展開し、最後には融合/断絶という大団円へと止揚されるのであってみれば、その構造は、自己と非自己の対立が、絶対精神の自己展開として止揚されてゆくヘーゲル弁証法そのものであると言えるし、そのような予定調和を切り裂く世界観が構想されることがあるにしても、自己の実存を他者にも投影したうえで、調和なき葛藤を描くサルトルのような作劇術がせいぜいであった。いわゆる不条理劇が描く人物像ですら、「狂人」といったイメージに回収されることで、正気/狂気という二分法に位置づけられ、結果的に他者性を損なっていたかもしれない。

その意味では、この『綿畑の孤独のなかで』のようなコルテスの実験は、正気/狂気という二分法を想定しようにも、そのいずれとも決定できないエクリチュールが延々と綴られるというスタイルであり、登場人物ふたりは、あたかもドストエフスキーの小説の如く、双方とも相手が自分の言葉をどう解釈するかを先回りして封殺し、自分が言いたいことはああでもないこうでもないと饒舌に言葉を浪費しながら、接近も離反もできず、互いの欲望が明るみに出ることもなく、商品が売り買いされる予定調和は訪れず、最後の最後まで宙吊りのまま対峙し続ける。このような対話は、相互理解を暗黙の前提としている「ダイアローグ」という概念を当てはめるより、むしろ「モノローグ対モノローグ」とでも形容するのが相応しい。このような叙述のスタイルによってようやく、現代演劇は、他者の他者性に漸近する方法論をつかんだと言えるのではないか。俳優もこの場合、役の実存を〈代行=表象〉する行為としての演技によりかかることはできず、詩的散文の物質性をあらわにする存在と化す他はない。

このような哲学的主題を抽出しうる戯曲を、デュリューは、いたずらに観念的な演出を施すことなく、むしろ都会の深夜にうごめく男たちの身に現実に起きうるドラマと見える、それでいて決して通俗に流れない強度を備えてもいる、「これぞ芝居!」としか言いようのない演出を施すことに成功した。商品と貨幣の交換を繰り返す私たちの日常的な関係性のただなかに、漆黒の闇が、底なしの断崖が、埋めようのない裂け目が潜んでいることを、運転席の対話は浮かび上がらせる。〈代行=表象〉としての演技を脱却し、役の他者性を露呈させるという課題からすれば、ディーラー役のティエリー・メルシエが、自然主義的な心理表現に流れてしまったことが惜しかった。一方、心理や感情を安易に洞察させない無機的な表情のまま、緊迫感のある言語表現で最後まで押し切った、客役のアレクシ・トリピエは巧みであった。

この芝居は、私たちSPAC文芸部員が昨年のアヴィニヨン演劇祭で出会い、惚れ込んで、宮城監督の決定によってこのたび静岡に招聘したのだが、アヴィニヨン版では客役のトリピエがディーラー役に回っており、対する客役を演じていた俳優(名前がわからない)が実に見事で、カーテンコールになって実は彼には障害があり、車椅子に乗った俳優であることが初めてわかって、さらに我々は驚いたものである。俳優の技量はこのアヴィニヨン版の方が優れていたが、闇を活かした上演空間の造型という点では、そもそも劇場建築に備わっている静謐な美学がプラスに作用した、この静岡版に軍配が上がるように思われた。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第52号、2007年7月25日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大岡淳(おおおか・じゅん)
1970年5月兵庫県西宮市生まれ。演出家・批評家・パフォーマー。パフォーマンス集団「普通劇場」メンバー。(財)静岡県舞台芸術センター企画運営委員・文芸部員。(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。静岡文化芸術大学、桐朋学園芸術短期大学、河合塾COSMO東京校非常勤講師。
・wonderland掲載劇評一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ooka-jun/

【上演記録】
ベルナール・マリ=コルテス作「綿畑の孤独の中で」-Shizuoka 春の芸術祭2007
舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」(2007年6月2日)

演出 ニコラ・デュリュー
作 ベルナール・マリ=コルテス
出演 ラ・スフルリー劇団

フランス語上演・日本語字幕
4,000円/同伴チケット(2枚)7,000円

【関連情報】
・ラ・スフルリー劇団(La Soufflerie)「綿畑の孤独の中で

・Avignon, les bonnes surprises du festival off : Dans la solitude des champs de coton(fragil.org


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