小指値「[get]an apple on westside」「R時のはなし」

◎再現行為それ自体を遊ぶアプローチ
伊藤亜紗(ダンス批評)

仕掛けのある舞台美術にダンスあり歌あり映像あり曲芸(?)ありと簡単に「演劇」の枠でくくることのできないパフォーマンス集団、小指値。多摩美術大学の卒業制作公演として2004年に北川陽子が旗揚げした超若手集団だが、確実に洗練されつつあるその方法論は、すでにチェルフィッチュともポツドールとも五反田団とも違う、わくわくする新しさに到達している。ポジティブ&ハイテンションが売りの彼らだが、しかしそれとてテイストで一気につきぬけるためのパワーなのではない。「物語ること」「演じること」に対する彼ら独特のアプローチを形にするための、必要不可欠な説得力なのだ。



小指値番外公演フライヤー1
小指値番外公演フライヤー2
今回の二本立て公演ではっきり見えたそのアプローチとは、ひとことでいえば「人物を演じること」から「物語をやること」へという発想転換である。通常の演劇は、登場人物の生を役者が生きなおしてみせることによって物語を空間的に現出させる。だが彼らは、そんな生真面目でヒューマンスティックな「再現」なんてまどろっこしい、とばかりに再現行為それ自体を遊んでしまうのだ。

例えば「[get]an apple on westside」は、ひょんなことからオオカミに育てられた犬が、兄弟オオカミとの生活、たのもしい母との別れ、群れからの離脱、少女オルガと出会い、友情の契り、そして死、というそこそこドラマチックな一生を描いた物語だが、こうした物語はすべて舞台端にいるナレーターの口からテキストとして語られる。ではナレーター以外の役者(たいてい5-6人はいる)はいったい何をしているかといえば、物語の進行にあわせて要所要所で組み体操のような(仮装大賞のような?)ポーズを決めているだけである。「馬車が通った」と言われれば轍役の数人がしゅたたっ!と並んで床に長く寝そべり、「狩りに出た」とあれば全員でオオカミの群れとなり天井の片隅をじっとに睨む。はたまたプリクラでも撮るように客席に向かって思い思いのへんちくりんな表情をしてみせたかと思えば、腕をのばして戦隊もののヒーローになり切っている。役者と役の対応関係はゆるやかで、「大道具」にさえなったりしながら、それぞれの役者が組み体操のパーツとして大立ち回りを演じるのだ。

小指値公演から
【写真は「[get]an apple on westside」公演から。 提供=小指値 禁無断転載】

ナレーターは役者につぎつぎとポーズをとらせる指令者であると同時に物語のたったひとりの進行役であり、かつ観客にとっては解説者である。ポイントは、解説者の語りさえあれば、観客は物語の情景を思い描くことができてしまえることだ。すでに観客の頭の中には、雪深い森にたたずむオオカミの群れ等々の絵本か写真集で見たような美しい絵ができあがっている。それなのに、目の前の舞台上に見えるのはその絵をはるかにデグレードさせた人間たちの組み体操なのだ。再現されたもの(オオカミの群れ)と再現するもの(組み体操)のギャップを思い切り開いてみせるやんちゃな悪ふざけ。それがたまらなく可笑しいと同時に、一抹のこそばゆさを感じずにはいられない。何しろ、「組み体操をオオカミの群れとして見る」というどう考えたって無理のあるルールを、ここ(劇場)にいるみんなで共有してしまったのだから。このこそばゆさは小指値を見る体験としてかなり重要な要素なのではないかと思う。それは言い換えれば、劇場の観客という共同体の一員であることを意識してしまう恥ずかしさだ。観客であることは、再現という行為が要求する理解のルールの共有によって結びついた、共同体の一員になることなのである。このルールは、音楽のライブでいうところのコール&レスポンスに相当するものかもしれない。

同時上演された「R時の時間」でも、再現をいかに遊ぶかといういたずら心は一貫している。今度はナレーターは不在だが、役者が自分と同じ服を着た身長20センチ程度の人形を手に持ち、フロアの上で演技させるという一種の人形劇によって話が進行する。物語は、のちに孤児とわかる少年「りゅーじ」と、児童館のお兄さんの心の交流を描いたもの。たくさん登場する子供の一人が怖い夢を見たりすると、先生が巨大化したりするのだが、この巨大化の部分は身長160センチくらいの現実の役者によって演じられる。つまり人間を人形の巨大化として見る、というこれまた無理のあるルールを観客は思わず共有してしまうのだ。傑作だったのは冒頭、児童館のお兄さんが密かに心寄せる小学校の若い女の先生が、舞台後方にプロジェクションされた自身のプロフィールやプライベートを観客と一緒に読みながら、「ふんふん、そうなのよねえ……」と他人事のようにつぶやいていたシーン。そう、登場人物からみれば、自身の生は脚本家や役者によって外から与えられたものにすぎないのだ。自分が登場人物であることに気づいてしまった登場人物。登場人物が自意識をもつということをあっけらかんとやってのけた瞬間だった。

小指値公演から
【写真は「R時の時間」公演から。 提供=小指値 禁無断転載】

小指値の脚本に描かれた物語はあまりに安易だ、という批判があるかもしれない。確かにそこでは「死」や「別れ」が容易に美化され、都合よく「友情」や「和解」が成立していくように見える。大河ドラマのように過剰にドラマチックだったり、メロドラマのように過剰に感傷的だったりする。だが、彼らの物語が物語くさいのは、彼らが物語を単線的な「あらすじ」として語るからであり、「これこれこういう話」という身振り込みのメタ物語として提示するからである。小指値の演劇において、役者の手の動かし方や表情は、物語の解釈を左右しない。それは読み取るべき「ニュアンス」ではない。こうした「物語」と「やる」の切り離しが可能なのは、物語が舞台上に空間化される必要がないほどに単線的で明解だからである。とはいえ小指値の脚本は、ニュアンスはなくとも描写の細部は文学的な豊かさに満ちていて、よく練られている。たとえば児童館に向かう道でセミの声がわあっと大きくなる、というような環境描写は、音響の効果とあいまって観客の想像力を大いに駆動するものだった。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第65号、2007年10月24日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。08年1月に超自由な批評誌「Review House」を創刊。

【上演記録】
小指値「【get】an apple on westside」「R時のはなし」(STスポット提携公演)
横浜・STスポット(9月15日-17日)

●作=北川陽子
●演出=野上絹代(【get】an apple on westside)/篠田千明(R時のはなし)
●出演=篠田千明/竹田靖/大道寺梨乃/中林舞/山崎皓司/ほか
★15日7時公演終了後、カラオケバンドのレビュー
●料金=1500円(前売・当日とも)

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