ダンス企画 おやつテーブルvol. 2「畳delicacy」

◎ミニマルな所作の大いなる効果
木村覚(美学・ダンス批評)

「畳delicacy」公演チラシまず、ロケーションのチョイスが素晴らしかった。目白の赤鳥庵は、駅から高級住宅街を五分ほど歩くと突如現れる目白庭園の一画にあり、都心にいることを忘れてしまう静かで美しい空間だった。夜の回もあったのだが、室内に差し込む午後の光とともに見られて、昼の回でよかった。畳敷きの一室が、舞台と客席を兼ねている。受付で渡されたお茶とお菓子の小箱に手を伸ばし、しばらく開演を待つ。座布団に座って、廊下を隔てた窓から外を見渡せば、池に錦鯉が遊んでいる。時折、和装のダンサー四人たちもあらわれて、本番前にもかかわらず、観客の相手をしたり談笑したりしている。

公演前のこのリラックスした時間がとてもよい感じだったのである。このことは、明記しておきたい。劇場は、日常と非日常とを、舞台と客席とを、公演前の時間と公演の時間とを厳密に区別する。ここではなだらかに、それらは繋がっている。秋の空気を感じ、お茶の味、お菓子の匂い、手作り小箱のかわいさを愛しむ。この感覚が、四人のダンスを観賞することの内にちゃんととけ込んでいくのだった。

まえだまなみの「おやつテーブル」という企画の特徴は、日常空間、しかも食べたり飲んだりおしゃべりしたりする空間にダンスを置くこと。前回は、料理の講習会に用いられる世田谷区民センターの料理室が会場だったので、「おやつ」という言葉にふさわしいリラックスを感じるよりも学校の家庭科の授業を思い起こさせるところがあって、意図と必ずしも一致していないのでは、と思わせた。今回は、見事、まさに「デリカシー(繊細さ)」をもって「デリカシー(美味)」ある時間と空間を味わう公演となった。

十四の小品(以下〈〉で表記する)が並ぶ一時間。ソロもあれば、全員出演の作品もある。オープニングの〈電波系〉は、障子をスッと開けるとダンサーが人差し指を回し一人で無表情に立っている。それが四方で四人分、音楽に合わせて続く。直立しくるくると回る指。無表情で佇む和服。障子の軽さ。和室に鳴るポップな音楽。すべてがチグハグ。すました表情と指のギャップ、とか。笑いが客席のあちこちからから漏れる。とくにおかしいのは、過去の日本女性と現在の日本女性とがズレたままで混在している感じ。そう言えば、と、森下スタジオに畳を敷いて和服姿のダンサーが踊った、イデビアン・クルーの印象的な公演『IDEVIAN LIVE 5 five』(2002)のことを思い出す。あのときは皆若い女性ダンサーで、彼女たちの激しい動きはやはり和服とのギャップを起こしていて愉快だった。対してこちらは、激しい動きでドスンドスンとやるのは難しい本物の和室。ただしそうである分、指のダンスのようなちょっとした身振りが際だつ空間なのだった。

〈はいじ〉では、障子の裏から手指で影絵を作る。乙女のいたずら心といった趣向?タイトルとは異なり、後ろでひそひそ話しているのは『キャンディ・キャンディ』の最終話を見逃したままだ、なんてこと。「ひそひそ」と隠れて喋っている様子に観客としては「聞こえてるぞー」と言いたくなってしまう。こんな風に、些細な仕掛けを賞味する楽しさがあちこちに設えてあるのだった。

〈生まれたての仔馬〉は、岡田智代、おださちこ年長組が、寝た姿勢から立ち上がるまでをやる。大人の女がうつぶせで真一文字になっている。まずそのことだけで十分異様で滑稽。体って、いるだけでおかしい。そのおかしさは、次第に愛おしさに変貌する。なんだろう、これは。かつてピナ・バウシュのダンサーたちに感じた気持ちに似ている。愛嬌を振りまくのではない、むしろシンプルなアイディアを無表情で実行しているだけなのに。この愛着とでもいうべき感情は、ひたすら自分の顔をさわるダンス、最初から二番目の〈ひめもす〉でも生まれたものだった。横並びで「さわる」という共通のルールを、しかしそれぞれの解釈で行うから、必然、各人の個性と表情が見えてくる。勝手に「このひとはこんなひと」と見る者の妄想が膨らむ。親密な関係が、こうして上手い感じで醸成されていくのだった。おださちこのソロ〈奥様お手をどうぞ〉は、こんな思いこみが最も大きく増幅してしまう作品だった。正座し、顔を手でひっぱったり、髪留めを箱から出して髪に挿したり、それだけ。動く手の表情、顔の表情を見つめる。シンプルだから引きつけられる。前回の「おやつテーブル」で見せた手にクリームを塗る小品にも感じたことだけれど、おだには何とも言えない魅力がある、と思わされてしまうのだ。そう思わされてしまう仕掛けが彼女の所作にきちんとあって、それが上手く機能しているからだろう。

他には、まえだまなみのソロ〈赤い鳥〉のように、扇子で鮮やかな赤の紙吹雪を風に舞わせ、畳に散らばったらまた飛ばし揺らし、モノを踊らせるダンスがあった。一方、自分の体をモノのように扱うのは木村美那子のソロ〈ミナコの花道〉。乱暴に飛び上がって胸のあたりで着地すると勢いで背が反り返り「しゃちほこ」が突如出現。暴挙に驚き爆笑。木村はそれでも無表情。まえだは自分も観客の一人であるかようなリラックスした状態で、扇子を繰りながら紙吹雪の振る舞いに自分で笑い驚く。二人とも、行う所作と自分との距離がちゃんと保たれている。だからわざとらしく見えず、見る者と一緒に起きたことを楽しむといった雰囲気が生まれているのだった。

〈立冬〉は、佇む様子だけで眼差しの先の景色を想像させてしまう岡田智代の本領発揮作だった。なかでも、外からの光で輝く障子の桟に指を這わせ、その格子模様を縦に横になぞる場面がとても美しく、またエロティックで、心惹かれた。今年の夏に行われた神村恵の野外公演『間隙』も、住宅街をいわばサーキットコースにして進む作品だった。かつて本誌に書いたように(注)、空間を測るように進む神村は、自らの身体ばかりか接触する空間と経過する時間も際だたせていた。神村と同様シンプルで、より一層ミニマルな岡田の指の動きは、そうであるが故にどんな過剰な振り付けよりも魅力的に、その指と障子のありさまのどちらをも浮き上がらせたのだった。

世代の異なる四人のダンサーたちは、共通におてんばな乙女気質を宿しているに違いなく、だからこそ畳でダンスを踊るとか、のみならず「(和装する)過去の日本女性というもの」とどう付き合おうか?などと問いもするのだろう。最後から二番目の〈四方山〉は、互いの和服を縫い合わせ一つながりの輪にした後で、それを脱ぎ捨てるという作品。何重にも体を縛っていた帯を何本もほどいて、彼女たちは、過去の女性らしさを賛美するのでも飽き飽きというのでもなく、いまの自分はこうと身軽になる。ラストの〈じぇんか〉では、あらためて正座した四人が、ヘッドバンキングだけでタイトル曲を踊った。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第69号、2007年11月21日発行。購読は登録ページから)

(注)木村覚「定規となった身体、測ることで生まれる時空」-神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』(週刊マガジン・ワンダーランド第60号から)

【筆者略歴】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
ダンス企画おやつテーブルvol.2「畳delicacy デリカシーハデリシャスニツナガッテイル」

目白庭園・赤鳥庵(2007年11月6-7日)
振付・出演・構成:岡田智代、おださちこ、木村美那子、まえだまなみ
企画・主宰: まえだまなみ
チケット: 前売 2000円、当日2500円(おやつ付き)

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