ジェットラグプロデュース「投げられやす~い石」

◎お前の頭の中にある俺は、俺ではない 才能をめぐる残酷な物語
文月菖蒲(古書・骨董研究家)

「投げられやす~い石」公演チラシこれは「才能を傍でみているもの」の物語だ。
かつて天才ともてはやされ、美大生「山田」の憧れだった級友「佐藤」は失踪から2年、変わり果てた姿を見せる。「佐藤」の元カノで今は「山田」と結婚している「美紀」をまじえ、才能を失ったもの、才能が元からなかったもの、才能を愛したものという三様の人間を描き、岩井秀人(作・演出・主演/ハイバイ)は残酷な物語を作り上げた。

1)
あいつに再び会うことがあるならば、せめて自分を凌駕するような存在でいてほしい。でないと自分が惨めで仕方がない、という想いをしたことはないだろうか? 相手は振られた女だったり、小学校の同級生だったり、または兄だったり。現実に自分を振った女は10年後、太ったおばさんになり、プチ尊敬の相手は低年収のサラリーマンになっているのだ。初体験の男をブラウン管の中や、NEWS WEEKの中で見つける可能性は万に一つもない。それでも絶対に許せないのは、かつて自分が完敗し、自分の才能の無さを認め、道を譲った相手が“なりたかった理想の自分”になりえなかったときだ。

そういうやつに限って、不意に予想外な姿をさらし、身分相応な暮らしをしている自分の心をざわつかせる。なぜ彼ら(「佐藤」)は必ず姿を現すのだろうか?

2)
一場は「佐藤」(岩井秀人)が若き天才アーティストとしての知名度を使い、バイヤーや評論家・メディアを集めて級友「山田」(山中隆次郎)と恋人の「美紀」(内田慈)の作品を紹介するイベントの控え室。

「投げられやす~い石」
【写真は「投げられやす~い石」公演から。撮影=岩井泉 禁無断転載】

奇才「佐藤」はなぜか芸大仲間の間でも評価のぱっとしない凡人「山田」を気に入り、「山田」も「佐藤」をまぶしげに慕っている。「佐藤」の恋人「美紀」は必ずしも絵の才能はないが、よき恋人で「山田」はそんな二人に心惹かれていることが語られる。

一転、二場。
突然の失踪から2年。「山田」は「佐藤」から呼び出される。呼び出された場所はコンビニ。黒い素舞台に錆びたベンチを積みかさね、雑誌を並べればそこはコンビニ。木枠が自動ドアを、上手上につるされた紙芝居風の写真で場所が象徴される。演出家は「想像すること」を観客に強いる。ハローキティーに口がないのは、見る側の気持ちで表情を想像することで時々の感情に即した癒し効果を狙っているそうだ。あくまで象徴的な舞台は、ハイバイ特有のごっこ遊び手法を更にすすめ、観客に内在する記憶をひっぱりだして、世界を補強することを狙っているか。

「投げられやす~い石」
【写真は「投げられやす~い石」公演から。撮影=岩井泉 禁無断転載】

難病に侵された「佐藤」はガリガリに痩せ、髪の毛も変に剥げている。服装もボロボロで臭そうだ。万引きの難癖をつけてきたコンビニ店員(中川智明)は『化け物』と呼び、触れることすらためらう。岩井は地肌が見えるほどのハゲをつくり、やつれたフェイスペイントを施すことで、悲劇的でありながら滑稽な、岩井ワールドへ客を導入する。

3)
三場。河原の錆び付いたベンチに座り、語り合う「佐藤」と「山田」。「佐藤」は絵を描かずにファミレスで働いている「山田」を責める。「お前に『描け』というために戻ってきた。」難病の「佐藤」の死期が近いことを察しながら「お前がもどってくるなら描くよ」と答える「山田」。子供じみた石投げ遊びでかわす「佐藤」。

「佐藤」はどうやら「美紀」にも会いたいらしい。二場のコンビニ店員との応酬で事なかれ主義的な気弱さを見せた「山田」は、ここにきて強気になり「美紀」をこの場に呼ぶことに大賛成する。健康体だから、「美紀」を手に入れたから、「佐藤」より内心自分を上位に感じていることが分かる。

卑屈な凡人「山田」は、ポツドール「騎士クラブ」、サンプル「カロリーの消費」を経て、もはや山中隆次郎の十八番といってもいいキャラクターだ。ただ川に石を投げるというどうでもいい遊びにすら「佐藤」のもつ輝きがない「山田」。「佐藤」が投げる様子はどうにも愛らしく観客は笑うが「山田」の動作では笑いがおきない。光があたるべき人とあたらない人がくっきりと表現されて、鳥肌のたつ場面。

「投げられやす~い石」
【写真は「投げられやす~い石」公演から。撮影=岩井泉 禁無断転載】

四場、カラオケ店。失踪中に結婚したことを隠しつつ、お茶を濁して早めに帰ろうとする「山田」と「美紀」。「佐藤」は「美紀」に「(死ぬ前に)セックスさせてほしい」と懇願する。やぶさかではない「美紀」と次第にイライラがつのる「山田」。
「これだけは見て欲しい!」と2年間の失踪と病気という困難の末に書いた油絵を取り出す「佐藤」。息を呑む二人がみたのは哀れな落書きのような絵。「・・・それ、タモリ?」「タモリでもあるし、そうともとれるように・・・描いた。」

その絵をみた「美紀」は「私、帰っていい?こんなのヤダもん」という。「こんなのヤダってなんだよ!」と切れる「佐藤」。言い訳をすればするほど「佐藤」がもはや何者でもないことが露見し、かつての恋人が下す判断は残酷だ。

「投げられやす~い石」
【写真は「投げられやす~い石」公演から。撮影=岩井泉 禁無断転載】

「もうムリ!!」とむせび泣く「美紀」。内田慈は弱いからこそ可愛い、元彼にある期待感をもってやってきて、現実の変化にショックをうけつつ、それでも優しくしてしまう「美紀」を無理なく演じる。

二場のコンビニ店員がカラオケ店員にみえ、それが死神であることに気づいた「佐藤」。険悪さが限界に達したとき、死神が迎えにき、「佐藤」は事切れる。わけも分からず「美紀」が歌いだしたのはちあきなおみの『喝采』。歌い終わって沈黙する「山田」と「美紀」。幕。

4)
世の中には2つの評価基準がある。「誰か(パーソナル)」と「みんな(マス)」だ。一般的には後者の評価や金銭的な価値が相対評価として流通している。ところがマスの評価にもバラつきがあるため、アーティストであろうがなかろうが、人は誰か(パーソナル)をどうしても譲れない指針にしている場合が多い。そして面白いことに人は自分に才能があるということよりも、自分に才能がないと自覚するために、その指針をおくことが多い。

『投げられやす~い石』には才能があったのに(あるいは振りをして)死んでいく者と、才能がないのに生き続けないといけない者、才能があるものを愛し、忘れられない者が出てき、三者三様のエゴが描かれる。才能がないものに創作を強要するエゴ、才能がないことを証明させるエゴ、才能が失われたことを判断するエゴ・・・。

かつて愛した才能が駄目になると感じるとき、なぜこれほど悲しいのだろう。才能が駄目になっても自分が生き続けなくてはいけないことは、自分に才能がないことよりも辛いくらいだ。

それは、才能がだめになったかどうかというマス的な事実はさておき、その才能を愛することができなくなったことで、過去から現在までの自分を否定することが悲しいのだ。自分の評価のために他者に才能のレッテルをはる。才能を見つけるということは、返す刃で自分に才能がないことを認めることに近い。だから、相手には自分の思うような何者かになってほしい。自分が誰か(パーソナル)としてそれを見届けるから、と。愛は至上のエゴでもある。

愛のキューピットなんかにはならないぜ、お前の中で描く俺を俺として定義するなとでもいうように「佐藤」は姿を現した。「山田」は絵を描かないし、「美紀」は「佐藤」を忘れるだろう。「山田」も「美紀」も「佐藤」の思い描くようなハッピーエンドは迎えないのだ。

岩井秀人は「お前の頭の中にある俺は、俺ではないぜ」、つまり人が他者をイメージすることの限界と齟齬からおきる悲喜劇に関心がある。と同時に、彼は人間がそうだからこそ救いを感じているようだ。浅はかで自尊心が高い生き物を、とっても面白いと思っているのだろう。
もし私が誰かにとっての「佐藤」なのであれば私はそれを気づかないでいたい。ずっと「佐藤」を探しながら、いたい。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第81号、2008年2月13日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
文月菖蒲(ふづき・あやめ)
古書・骨董研究家。バイヤーの嗅覚をベースに本・漫画・演劇・ダンス・歌舞伎の分野をたゆたう。

【上演記録】
ジェットラグプロデュース「投げられやす~い石」
新宿ゴールデン街劇場(2008年1月24日-27日)

作・演出=岩井秀人(ハイバイ)
出演=山中隆次郎(スロウライダー)、内田慈、中川智明、岩井秀人(ハイバイ)
照明:松本大介(enjin-Light) 富所浩一
音響:荒木まや 中田摩利子(OFFICE my on)
舞台監督:T-BOY金子
演出補:坂口辰平
絵画製作:いちこじま画伯
宣伝美術:冨田中理(SelfimageProdukts)
当日運営:三村里奈(MRco.)
制作:ジェットラグ
プロデューサー:阿部敏信
企画・製作:ジェットラグ
チケット:前売3000円/当日3500円 25日(金)14:00の回 前売2700円/当日3200円

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