ポツドール「顔よ」(クロスレビュー)

「顔よ」公演チラシポツドールの新作「顔よ」が下北沢・本多劇場で開かれました(4月4日-13日)。テーマはずばり「顔の美醜」。「逃れられない人間の最大の業である顔の美醜は、(主宰の)三浦が5年間あたため続けたテーマであり、執拗なまでにリアルにこだわった演出はそのままに、人間関係においての究極のテーマを生々しく、ありのままに描出する」と劇団リリースにありました。 そこで4月のワンダーランド・クロスレビュー(第5回)はこの「顔よ」公演を取り上げました。いつものように5段階の評価と400字コメント(ミニレビュー)です。
4月16日発行の週刊マガジン・ワンダーランド クロスレビュー特集(ポツドール)号に、その後寄せられたレビューを追加しました。(掲載は到着順)

▽山下治城(TVCMプロデューサー・「プチクリ」編集部、「haruharuy劇場」主宰)
http://haruharuy.exblog.jp/
★★★★★
三浦の演出は、今回、冴えに冴えている。「ANIMAL」や「夢の城」「恋の渦」などで行われていた方法論をフルに使っている。三浦は、これからも、このアバンギャルドな姿勢を、保ち続けていくのだろうか?
いや、違うかも。ラストシーンを見て、そのことを強く感じた。
日々繰り返される日常の中から生まれてくる物語を三浦はきちんと描ける。そして、それをきちんと作ることによって、さらなる、新しいポツドールが生まれてくるのかも知れないと思った。それくらい、今回の舞台のラストシーンには驚いた。聖なるものと邪悪なるもの、生なるものと性なるものは人間の中には必ず同居しているものだから。
三浦が今後目指していく方向はどこなのか? 本当に楽しみである。
こういった30代前半の優れた劇作家・演出家が出てくるというのも、日本の、東京のアマチュアリズムまでもを包含した演劇界だからこそ出来ることなのかも知れないとも思うのである。

▽野村政之(劇団・劇場制作)
★★★★
甘い願望で肯定する断言と、つめたい正直さで否定する断言はどちらも変わらずフィクションの暴力を発動させるが、『顔よ』では、顔の美醜と愛とセックスをめぐる「肯定」と「否定」、「否定」と「否定」の断言が、徹底的な同時発生で結晶化を先延ばしされ、最終的には妄想オチでまとめられる。
正直さが各登場人物から引き出してくる暴力や不実や悲劇、勇気やバイタリティや喘ぎの美?を見せつけられたあとのラストシーン(オチ)の、なんとなくのどかな光景は、「肯定」と「否定」のどちらでもなく、また「退屈な日常への皮肉」でもなく、限りなくゼロに近い、微かな、おおらかな希望に見えたりした。
「破壊的な非日常か退屈な日常か」とか「絶望か希望か」とかのフィクションの結論云々ではなく、そのフィクション:演じることに触発された俳優たちのさまと、その俳優たちに触発された自分のくすぐられぶりをたっぷりと味わえた、痛快愉快な時間だった。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nomura-masashi/

▽水牛健太郎(評論家)
★★★
作り込まれた一級の見世物。観客の前に置かれる四つの部屋は、人間動物園の趣だ。登場人物たちのふるまいは、人間の嫌な面を拡大してみせる。リアルでもありのままでもないが(女性の顔を傷つけた時の「リアル」は「その相手と付き合う」ではなくて、高額の損害賠償だ)、ともかく笑えるし、一種の爽快さもある。複数の部屋で同時に発せられるセリフの絡みや携帯電話の使い方など、ふんだんに工夫が凝らされ、「ああ面白い」で二時間半があっという間だった。
一方で、「顔」というテーマの掘り下げは不十分と感じた。浅さが魅力という面もあるが、飽き足りなさは否定できない。ラストシーンは、荒唐無稽な劇の内容に対しリアルさを確保したとも取れるが、保険を掛けたようでもある。俯瞰視線の喜劇として完成度は高いが、その分テーマに対する賭けは足りないのではないか。
才能・技術はあって当たり前。三浦大輔にはそれ以上を求めたい。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

「顔よ」公演
【写真は「顔よ」公演から。撮影=曳野若菜 提供=ポツドール 禁無断転載】

▽因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)
★★★★
どの部屋もテレビがつきっぱなし、登場人物たちはケータイを離さない。彼らの会話は、電車や盛り場で聞こえてくる薄っぺらでけたたましい若者たちの言葉そのままである。暴力や性行為のあけすけな描写より、声質も内容も耳障りな会話をここまで克明に描けるのは三浦大輔の力量であり、演じる俳優も天晴れである。「日常を切り取ってきたかのような自然な会話」「他人の部屋を覗き見しているような臨場感」などぶっ飛ばされてしまう。心もからだも含めて人間同士が交わることの虚しさややりきれなさを、三浦は思い切りぶつけ、問いかけてくる。これをどう思うのかと。もっとざらついた、嫌な気分になるかと予想していた。しかし休憩なしの2時間30分、思いもよらない最後の一景まで全く気の緩むところがなかった。終演後なぜか顔を伏せて帰路に着く。今の自分の顔を知り人に見られたくない。食欲が失せ、『篤姫』をみる気力もない。この脱力感は却って爽快だ。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/inabaya-kiyoko/

▽武田浩介(演芸作家、ライター)
★★★★★
「うわあ…」に「ええぇ…」に「たはは…」に「ううむ…」に。これらの感情が渦巻いて、上演時間中、一時も休まることがなかった。我を忘れたかと思うと、即座に我に返らされる。「顔」にまつわる、人間どもが織り成す自意識やエゴのモザイク模様。それもハイパー・ギリギリ・モザイク模様。気づけば観ているこっちも共犯者。そしてその共犯者的ポジションすらも安穏とさせてくれないのが、今作におけるポツドールの進化と深化だ。
覗き趣味とか露悪趣味とか、はたまた(1周回った)愛とか優しさとか。そういった言葉を当てはめるのは、とりあえず留保しておきたい。この劇を鑑賞して、自分の内に蠢いた感情。それだけを、抱えていこう。この顔で。俺のこの顔で。
キャスト表に、「女」としてクレジットされていた役者さんの名前を、観劇後、帰ってから画像検索してしまいました。てか、みんなやったっしょ、どうせ。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeda-kosuke/

▽高木 登(脚本家)
★★★★★
やっと観た。観れた。恥ずかしながら初見である。ずっと見たいと思いつつ観る機会を失していたのだ。はじめてのポツドールは充実の舞台だった。いままで観れなかったのは、この作品に出会うための天の配剤だったのかもしれぬ、そんなことを考えてしまうほどに見事な作品だった。
などと言いつつ、この作風で本多劇場にまで進出したポツドールの、三浦大輔の力の在処が奈辺にあるのか、冷めた目で同時に探っていたりもしたわけなのだが、愛とか夢とか希望とか、ありとあらゆるポジティヴな幻想を剥ぎ取った果てにあらわれるのがただセックス、ただ肉体のみであるということが、ネガティヴに見えるどころかむしろ逆であったというあたりにその秘密があるのかもしれぬと思った。すぐれた芸術作品は受け手の世界の見方を変える。世界の見方が変われば世界は変わる。『顔よ』はそんな作品だった。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-noboru/

▽伊藤亜紗(レビューハウス)
★★★★★
「ヤらしてくれるんなら誰だっていい」が純粋な性欲だとすれば、「顔の美醜(誰とヤるか?)」というテーマは、それを不純で複雑にする要素である。結果、「させないという拒絶」(性行為なき性欲)や「させるという強制」(性欲なき性行為)のような、性欲と性行為の分離がふんだんに描かれ、物語をいっそうおぞましいものにしていた。右下の醜×醜カップルなど、むしろもっとも健康的なブースだった。遠隔操作のツールとしての携帯電話の使い方がいつもながら巧みで、「スピーカーを通して聴こえる声の主はいまここには不在である(舞台の外部にいる)」という解釈コードを利用しつつ、観客の意識を声の主=犯人さがしのミステリーへといざなう。そして、結局裏切られる。(犯人は、顔のみえない幽霊のような存在として舞台上にいた。)ふだん演劇を見慣れていないひとの目をもつかむであろう、普遍的な説得力をもっていた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ito-asa/

「顔よ」公演
【写真は「顔よ」公演から。撮影=曳野若菜 提供=ポツドール 禁無断転載】

▽広沢梓(会社員)
★★★★★
2時間半上演できる強いテーマと戯曲、役者の演技。どこをとっても完成度が高く、「面白い」以上のことが言いにくい作品だと一度は思った。しかしたった数分のラストシーンの存在が、その印象を完全に払拭した。それまでの出来事が主人公の妄想であったことが明らかになるのだ。この部分を除き、閉じた物語世界が展開されていく。そこで主人公の「美しい」人妻を演じたのは内田慈だったが、ここでは「醜い」別人へと変わるのである。
これを単なる夢オチとして片付けることはできない。ラストシーンにより自らの視線を省みざるを得ず、故に観客席にいるこちら側をも巻き込む装置として機能していたと言えるのではないか。というのも美しい内田であったから、見世物として見ることができたのである。だが初めから「醜い」女性が演じていたとしたらどうだろうか。散々顔にまつわる業を思い知らされたにも拘らず、なお美醜に囚われる自分を意識させられた。

▽中西理(演劇・舞踊批評)
★★★★★
「覗き見」の快楽。ポツドールの舞台をそう称したことがある。「顔よ」も見てはいけないものを覗き込んで見ている時の背徳的な喜びを与えてくれた。裸体を見せるというような直接性はないが、だからこそ「エロチスムとはタブーの侵犯である」(バタイユ)という意味のエロスは存分に堪能できる。
住宅街の一角をリアルに写したような舞台装置が秀逸だった。上手には古い2階建てのアパート。下手側はやはり二階建ての一軒家。ディティールの質感にまで拘った美術である。部屋ではそこに出入りする人たちがかかわる、さまざまな出来事が同時進行していく。最初は壁があるが、物語の進行に従いひとつずつ壁は取り払われ、内部の様子が細かいところまで観客の目に露わに晒されていく。それはあたかも、観察キットで巣に生活するアリの様子を観察するかのような「覗き見」であり、三浦大輔は「醜い顔」をめぐって起こるそれぞれの男女の葛藤を通常は避けて通っていくような本音の部分まで露悪的に抉り出して描いてみせた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nakanishi-osamu/

▽小林重幸(放送エンジニア)
★★★★
序盤のスケッチは、この物語のスタンスを、全体の3/7までの間で余すところ無く提示し尽くした。その密度は、暗転のたび客席全体からため息が漏れるほど。観客を物語世界へ力尽くで引きずり込む辣腕ぶりは見事の一言。
残り4/7の「笑っちゃうほどの過剰さ」がこの作品の真骨頂。仕舞っておきたかった観客自身の心のイヤな部分が波状攻撃的に眼前で展開される。その執拗な繰り返しに観客は翻弄される。その高揚感ゆえ、思わず観客自ら、自分の心の奥を覗いてしまうのだ。実に鮮やかで手練である。ストーリがやや強引なのもやむなし。全てはこの物語世界から観客を醒めさせないためである。
新たな文体の取り入れ、劇場サイズに対応した演技法の採用、そして物語の構成にも工夫を怠らない。「らしさ」を失わず、エンターテイメント性十分に仕上げる敏腕さとしたたかさも、作演出者の実力の証であろう。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kobayashi-shigeyuki/

▽杵渕里果(保険営業)
★★
登場人物は、顔がどうであれ、全員喋りっぷりがイケテル人々。誰も彼も、美醜についての相手の「本音」で傷ついたというより、うまい返答ができなかったから(そういう台詞が当てられてないから)傷つくように見える。だから、ひごろ顔ネタふられたときの「傾向と対策」と、想定問答集みたいで面白かった。
一幕進むごと、舞台上の四つの部屋の壁がストリップのようにはがされ、室内の人間模様があらわになっていく。その四つの部屋が全部見えたあと、えんえんと五章六章、性・血、といっエログロな章立てで見せられると、冗漫でつらい。
あの舞台装置なら、四幕か五幕で終わらせる節度がほしい。長いもんだから、「人間顔がすべてだ」と下手な観念を展開させた中学坊主の妄想芝居としか思えなくなった。よって、★二つ。

▽木村覚(ダンス批評)
★★★★★
4部屋=4面(4組)のマルチスクリーンな構造で同時多発的に出来事が展開する仕組みは、これまでの延長とも言えるけれど、人間関係のジェットコースター的変化の紆余曲折に応じ、ところどころ偶然にバラバラな4組の歩調が合い、一種のダンス的なユニゾンが展開されるなんて技巧には、これまでにない快楽があった。もうひとつ、家庭環境の異なる者たちが交差している点も新鮮に思えた。「顔」というテーマもほじくるべきポイントを正確にほじっていた。だが、むしろ驚くのは、そうしたアイディアの洗練や革新が、いささかの気負いもなくさらっと、いや何やら退屈ささえ混入していると感じてしまうシステム構築の末に実行されていることだった。全能の神が現世で恋愛をするような、自分(三浦)の振る舞いへのしらじらしさ面倒くささ絶望感が物語の内容とは別に漂っていた。演劇を見る快楽を存分に感じさせられつつも、観客のぼくは、その退屈しているテクニシャンの前で、なんとも言えない気分にさせられた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

▽北嶋孝(本誌編集長)
★★★
消費蕩尽社会の文化、教養、品格ある衣装をひん剥いて、性的欲望の動物相でいまどきの若い衆をみる/みせる。冷徹、精緻に「写実」して、決してたじろがない。その強靱な精神力をぼくは、爬虫類的と表現したくなるほど買っていた。ノンフィクション作家吉田司の手になる初期の大冊「夜の食国」の世界を彷彿とさせたからだ。
しかし雲行きが怪しい。今作は「夢落ち」というべきラストのどんでん返しによって、舞台のほとんどを白昼夢=妄想の世界とみなしている。妄想には根拠があり、かつリアルであるはずなのになぜ、その世界を反転させるのか-。
動物は妄想を持ち得ない。絶えず発情し、性的な欲望と妄想を掻き立てるのはヒトの特性なのだ。なるほど。どんでん返しは、妄想存在としてのヒトを描くからくりだったのか。それにしても、妄想が「性」にだけ固着するのはなぜだろうか。見事な舞台を見終わってもまだ腑に落ちていない。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド クロスレビュー特集(ポツドール)号、2008年4月16日発行。購読は登録ページから)

【上演記録】
ポツドールvol.17「顔よ」
本多劇場(4月4日-13日)
作・演出 三浦大輔

【出演】
今井裕一:米村亮太朗
橋本智子:内田慈

田村 :古澤裕介
裕子 :白神美央
浩二 :井上幸太郎
隆司 :脇坂圭一郎
里美 :安藤聖
上村 :岩瀬亮
久美 :松村翔子(チェルフィッチュ)
小野 :横山宗和
山本 :後藤剛範(害獣芝居)

絵里 :片倉わき
香織 :新田めぐみ
女  :梶野春香(国分寺大人倶楽部)

【スタッフ】
照明/伊藤孝(ART CORE design)
音響/中村嘉宏
舞台監督/矢島健
舞台美術/田中敏恵
大道具製作/夢工房
映像/冨田中理(SelfimageProdukts)
小道具/大橋路代(パワープラトン)
衣装/金子千尋
舞台監督助手/加納金幸
照明操作/櫛田晃代
衣装助手/岡村可也
演出助手/富田恭史(jorro)尾倉ケント(アイサツ)
写真撮影/曳野若菜
チラシイラスト/桔川伸
宣伝美術/two minute warning
広報/石井裕太
制作/木下京子
運営/山田恵理子(Y.e.P)
制作助手/安田裕美(the Square of y)石井舞
協力/スターダスト21 ぱれっと 吉住モータースオフィスピー・エス・シー マッシュ
企画・製作/ポツドール

【料金】
全席指定 前売:4200円 当日:4500円

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