風琴工房「hg」(下)

「劇評を書くセミナー」春季コースの課題公演となった風琴工房「hg」評を前回に続いて掲載します。講師の西村博子さん(アリスフェスティバル・プロデューサー)と岡野宏文さん(演劇専門誌「新劇」元編集長)の二人が選んだ劇評を基に構成しました。前回4編、今回5編の計9編で、公演のさまざまな輪郭と奥行きが浮き彫りになったはずです。(編集部)

5.終わらない傷みの優れた共有

風琴工房の作品を拝見するのは、世界で初めて人工雪の降雪に成功した中谷宇吉郎を描いた『砂漠の音階』、岸田國士やイヨネスコの作品を手がけた『crossing』に続いて三度目になる。水俣病を扱った作品になると知って、劇団のホームページなどをちらりちらりと覗き、何度も現地に赴く姿を拝見してはいたが、はたして実際の舞台では、私の薄っぺらな想像を遥かに超えた深く重く苦しい現実が達者な役者によって演じられていた。

舞台は二話構成であった。1つは1959年当時の新日本窒素肥料の付属病院医師と工場幹部たちの葛藤を描いた「猫の庭」、もう1つは、水俣の現在を象徴する場として障害者と水俣病患者の暮らす施設「みかんのいえ」の出来事を描いた「温もりの家」である。

二話構成の中で今回非常に衝撃的かつ効果的だと感じたのは、一話で工場側、言ってしまえば加害者側の人間を演じた役者が、二話目では患者となって車椅子で現れることだ。役者を通して観客側に芽生えていった憎悪や怒りといったやるせなく激しい感情は、幕間を挟んで鮮やかに反転する。時代や境遇を自由に操るツールとしての舞台のメリットと、巧妙な構成の手口と、役者達の高い演技力の統合を目の当たりにした感慨は深い。特に、事件発覚当時から現在まで、切り取られた二つの異なる時代の中で、現実のものとして悲哀を投影された揺るぎないセリフを語る優れた役者たちの圧倒力は素晴らしかった。

「猫の庭」
1959年秋。会議室に集まる人々。彼らは後に人々の記憶に深く刻まれることになる病を前に、決断をしようとする人たちである。新日本窒素肥料水俣工場の工場長、工場技術部員とその上司、そして付属病院院長と医師。彼らは熊本大学の研究結果と、自社の技術者が把握している現状と、医師が看ている患者の症状などから、水俣病の発生原因が自分らの工場の廃水にあることを頭では理解している。だが、被害が今以上に増大する前に真実を明かし、謝罪することで生じる膨大な補償を案ずる工場長は、社員を纏める責任ある立場ゆえ、簡単には否を認められないと主張する。自らの手によって真実を求め、原因が何かを突き詰めたいと願う技術部員は、工場長との間で社会的な板挟みとなっている上司に、技術者としての情熱よりも工場の未来を憂えという指示を突きつけられる。

病状を報告し、患者数の増加を訴え、命を救うという立場から問題に取り組みたいと願っても、医師たちは工場幹部の隠蔽的な態度に従わざるをえず、原因を知りながら治療にあたるしかない。シンプルなはずの善悪のベクトルが、それぞれの思惑が絡んで歪み出す。そして、渦巻く葛藤が最高潮に達するとき、生体実験として、工場の汚水を混ぜたえさを食した猫の様子が伝えられる。「猫には症状が見られる」。逃げられない現実を前に、それぞれに課せられる責任だけが肥大化されてゆく。

「温もりの家」
水俣病は、それを患った母親が身ごもると、胎盤を通して胎児に遺伝されてしまう病でもある。胎児性水俣病患者という世代にまたがる患者を生み出す公害病でもあったのだ。そしてその胎児性水俣病患者が、障害を抱える人々と生活を共にする施設が「みかんのいえ」である。舞台はその居住者が食事や作業のために集まるホールとおぼしき場所で、さまざまな客人が訪れる。施設に過ごす者の親戚、近所の小学校の教師、そして劇作家だ。

小学校の教師は、ぴょんぴょんとはねるようなその仕草が動物的だと患者らに笑われたことから、ある疑問を提示する。世間では、患者の特長的な仕草や様子を笑うことはタブーとされているけれど、健常者である自分のそれを笑うのは許されるのかと。それはどう違うものなのかと。
一方劇作家は舞台化を切望するも、みかんのいえの理事長にはその情熱を受け入れてもらえない。患者たちがもっとも嫌うのは真似をされることなんですよ、と、演じることで派生する倫理観や道徳観を突きつけられる。劇作家は戸惑いながらも結論を出そうとするが、それは患者の立場にも超えなければならないハードルがあるのだということを意味していた。

「猫の庭」「温もりの家」のいずれも観客に問いかけられることは同じであったと思う。それであなたはどうするの?

私の水俣病の知識は、世代的なことも手伝って、社会科の教科書からのそれがほとんどであった。こうして文字化すると浅く見えて仕方ないが、正義感や罪悪感がもみくちゃになる風琴工房の舞台は非常に興味深かった。役者たちが舞台上で問題を受け止めようとしていたように、観客もまた、それぞれの思いを抱きながら水俣病と向かい合うのだろうし、驚いたり嘆いたりしながら、現実を受けとめてゆくのだろうと思う。次の風琴工房の作品も非常に楽しみである。

6.奥行きを持って切り出された、二つの一時間

水俣病。言葉としては知っている、その地で事件が起きたことも知識としては知ってはいる。しかし、そこにおいてかつて生きていた人、そして現在もその病の痕跡の中で生きている人たちのことを、私はそれほど具体的に知っているわけではない。そんな言葉の背後にいる、実際に生きた人々、そして生きる人々の姿をとにかく伝えたい。風琴工房の『hg』は、そんな想いにあふれた舞台だった。

メチル水銀を含む廃水によって熊本県の水俣湾沿岸に生じた水俣病がこの作品のテーマである。全体は二話構成となっており、第一話「猫の庭」の舞台は、1959年10月12日、問題となる廃水を流していたチッソ水俣工場の会議室だ。水俣湾近郊で発症した原因不明の奇病と自社の工場廃水の関係性が疑われる中、疑いを晴らすための内部研究会が開かれた。しかしそこで報告されたことは、製造工程で本来は生成されないはずの有機水銀が、実際の廃水には含まれていたこと、それからその廃水を与えた猫に水俣病の症状が表れたことだった。
衝撃的な事実を前に、それぞれ言葉にしないながらも、自社の責任を暗に感じてはいる。動揺しながらも会社の存続や利益を優先してことを進めようとする工場長。工場長以上に会社を守ろうとし、会社に不利な証拠や情報はもみ消そうとする技術部次長。そんな彼らに怖じけることなく、自らの考えを述べ、科学的に問題の所在を徹底追求しようとする有能な若手技師。人の命を救うことが仕事である医師として、その事実に複雑な思いながらも、早急な措置よりもさらなる調査・実験を提案する付属病院の院長。会議中終始とぼけた発言をし、この状況をどうしようとしているのかよく分からないが、しかし言動からは人を思う優しさは確かに伝わってくる若手医師。複雑な状況に立たされての対立的議論の中、各人の内なる思いや葛藤が緊迫感を持って描き出された。彼らがみんな部屋を去った後、女性が一人登場し、彼らのその後を語る。この会議で明らかにされたことは、結局公表されることはなく秘密にされたという。

彼女の報告の最中、それまでのどことなく冷たさを感じさせる殺風景な会議室には、他の登場人物らによって様々なものが運び込まれ、暖色系の心地よい空間が出来上がる。それまでの暗さ、重さ、深刻さとは不釣り合いな快活さと共に登場した彼女は、二話の登場人物の茜だったのだ。彼女の報告が終わると同時に第二話「温もりの家」は始まる。

時は現在、舞台は胎児性水俣病患者の授産施設「みかんのいえ」。彼女は水俣病を題材にした演劇を作るため、東京からこの家を訪ねて来たのだった。母親の胎内で既に有機水銀の影響を受けて産まれた胎児性水俣病患者と、彼らを支援する人々と、茜の交流が描かれる。水俣病は、人の身体のみではなく、心も、そして更には地域社会までをも滅茶苦茶にしてしまった。その痕跡は今なお街には残っている。しかしそれにもかかわらず、このみかんのいえに生きる人々は、病の起こした様々な問題を克服したり、それと共存する中で、逆に人と人との関係性の中で生気に満ちた生を再発見し、それを自分たちの財産としている。茜はここに来てそのことを知り、心動かされる。

一話とは対照的に、二話は全体として、うきうきとし、明るさに満ちている。しかし、その背景には、かつて様々な問題があったし、今もそれは全て解決したわけではないことが、決して重くなることなくさらりさらりと会話のなかで触れられる。街にチッソの工場はまだあり、そこに働く人もこの土地には沢山いること、患者認定されたか否かをめぐっては患者間にもわだかまりがあったりすること、未だに病気に対する偏見が完全に無くなってはいないこと等々。それらの話題は、みかんのいえ理事長の高城が語る「ようやくね。ここまで来たんですよ。私達も。水俣も。」という言葉の重みを、背後から支えており、この空間に満ちる明るさや温もりや生の輝きは、長い時間をかけてそれらの問題を克服するなり、折り合いをつけていく中で、ようやくここまで再び創造されてきたものであるということをその都度思い起こさせる。

また、一話で工場長、技術部次長、病院長を演じた役者が、二話では水俣病患者を演じるという設定も周到だ。そこには、加害者対被害者という対立構図が反転し、彼らが場合によっては被害者の状況にもなり得たことを、無言のうちに示している。

そのような観点から言えばまた、突然訪問して来た近所の学校教師の「患者さんのことを、真似てはいけないというのに、僕のぴょんぴょんはまねてもいいんですかね。」という言葉は、それは決して咎めるような口調ではなく、和やかな親密な関係の中での笑顔の問いであるのだが、はっとさせられた。というのは、ここには水俣病患者を真似ることと、非患者を真似ることのうちに在る非対称性が示唆されている。しかしそこには同時に、患者も常にひたすら被害者の位置にいる存在ではなく、時には社会の中で何らかの文脈では、彼らもやはり加害者にもなりうることを示唆しているように感じられたからだ。

このような批評性は、作者や出演者らにも劇中で向けられている。作品の最後では、自分の無力を感じながらも、自分なりにこの場所での体験を舞台化したいという茜に対して、理事長の高城の耐えられなくなった思いはどなり声となった。
「(真似されて)その結果、傷つくのはあなたではなくて、彼らなんですよ。」
この言葉は、作の詩森氏自身の自己に対する厳しい眼差しでもあり、それと同時に、そのような危険を冒してまでも、自分が目にしたもの、そこにある生の空間の素晴らしさを、舞台化することで、他の人に見せたい、伝えたいという思いであり、またそのための覚悟の言葉ともとれる。

作品中、暗転は一度もなく、50年前のある日の1時間の出来事と、現代のある日の1時間は、茜によるリポートをブリッジにしてつなげられている。あたかもそれぞれの時代から1時間をそのまま切り取ったような構成の中で、登場人物の一人一人が、それまでの人生と、それからの人生の蓄積を感じさせるような奥行きを持って書かれており、それを役者たちが自らの体で体現することで、作・演出の詩森氏の当初の意図は見事に舞台において現実化されていたように思う。
(2008年5月15日観劇)

7.「日常」という「非日常」の世界

そもそも、劇評とはなんだろうか。
舞台上で行われる芝居を切り取り、文章に投影し読者にリアルな舞台の風景を伝えることなのか。芝居をしている人に観客として、受け取ったメッセージを伝えるのか。それとも芝居を外部のものを交えながら独自の視線で切り込み、芝居に新しい世界を作り出すものなのか。

「hg」という芝居について。私は何を書けばいいのか迷った。それは水俣病という病気がどんなものであるか私は全く分からないし、それによって受けた被害がどれほどのものだったのか、全く想像がつかない。それなのにもかかわらず舞台を見て病気のことを書けないと思った。四大公害病であり、日本史に残る公害病であることは知っている。学校で教わった以上のことは、正直分からない。私は水俣病を題材にしているというだけで、この舞台は何かしら水俣病についての知識や、水俣病を訴える、そのような舞台だと思っていた。病気を前面に押し出す作品であると思っていた。

だからこそ、それに対することを書かなくてはいけないのかと思った。「hg」という芝居を見終わったあと、水俣病に関する新しい知識を得たかといえばそうではない。だからこそ何を書いたらいいのか、迷ってしまった。一幕における役者の会話は早く、上手く聞き取れなかった。二幕では今現在の水俣病の患者達の生活があった。一幕における、舞台の雰囲気はシリアスかつ迫力がある。二幕では一幕と変わりほのぼのとした雰囲気、やわらかい人々の笑顔が印象的だった。

舞台を見て感じること考えたこと、それは様々な感情とともに生まれてくる。個人としての見方も他の観客と同じ考えもある。私個人の芝居の見方として、何かしら悩みや考え世界観を得ようしている。しかしこの舞台の感覚は今までとは何かが違った。何かを得るということも、何かを見せつけられ考えさせられるということもない。

「hg」を見て思ったこと、それは「日常」であった。それは我々の日常ではなく水俣と水俣病と関わる人々の日常。舞台上で見たものは、ただの日常である。それを異常とも病気とも公害とも、思えなかった。静かな淡々とした日常ではない。水俣を題材にした演劇をやりたいとやってくる外部からの女の子や、新しい施設が出来上がる。彼らの日常は変化している。私の日常と同じだ。彼らの日常では水俣病は普通のことであり、水俣病患者もまた普通の人なのだ。

私は途中でこの芝居はいつ終わるのだろうかと言う疑問が頭の中をふっとよぎった。それはまるで、この芝居がずっと続いていくもののように感じたからだ。日常は終わらない。彼らの生活は、まだどこかで続いている。

それは水俣という日常がこの世界のどこかで、続いていることと同じだということ。
舞台が終わった後「役を脱ぎ捨てた俳優達」の顔があり、そこで私は「ああ。これは芝居だったのだ」と気がついた。そこで、安堵した。舞台はやはり日常ではない。家に帰りWikipediaで「水俣病」について調べる。私はまんまとこの芝居にやられたことに気がつく。

単純でひねりも無い。難しいことも言えない。私は迷った挙げ句、自分の素直な感想を書くことにした。それこそ自分が書きたいことであると書き終わった後に、気がついた。
私の日常もこうやって変化し続いていくのだろう。

8.痙攣する患者、カンガルーのような健常者

「水俣病」の演劇と聞いて、見に行きたくないと思ってしまったことはないだろうか?私はある。別に水俣病でなくてもいい。イタイイタイ病でも、第五福竜丸でも、劣化ウラン弾でもいい。このような種類のテーマを取り上げた演劇を、私はあまり見たいとは思わない。ん? このような種類? どのような種類だ?

社会派? いや、違う。公害的? ちょっと近くなったが、まだ違う。身体的? もう一声。身体障害者的? そう、そういうことなのだ。例えば、私は今はもう街で見かけることも大分少なくなったが、傷痍軍人の姿なんか見たくない。腕や脚がない人を見るとドキッとする。目を背ける。申し訳ないと思いながらも、見て見ない振りをしてしまう。なぜなのだろう?

風琴工房の「hg」は、見て見ない振りをしたくなる「水俣病」の演劇だった。構成はちょっと変わっていて、約2時間の上演時間が1時間ずつ前半と後半に分けられ、両方とも水俣病を扱ってはいるが、全く別のストーリーになっていた。前半が、1959年の秋、水俣病の原因がチッソの出す排水であるという事実に向き合わざる得なくなったチッソの社員たちの社内会議の1時間。後半が、2008年の春、水俣の授産施設に通う胎児性水俣病患者たちとその周辺の人々の、ある日の1時間。

私は前半を面白く見て、後半を退屈に見た。前半は、会社の会議室という密室を舞台にした濃密な議論劇だった。この手の戯曲は「12人の怒れる男」を筆頭に、頻繁に見られるものとはいえ、よく書けていた。チッソが元は肥料の会社であり、戦後の食糧難を乗り切るために食料増産は国策の最優先緊急課題であったというマクロな視点。その最優先緊急課題を解決するための歪みのツケを支払うのは常に少数の個人であるというミクロな視点。水俣病の原因をチッソだとしたくない幹部社員と事実に目を向けるべきだという平社員の喧々諤々とした議論を、私は骨太な社会派エンターテインメントとして楽しんだ。

それに比べて後半は、輪郭がはっきりしない、なんともぼやけた感じがした。というのも、後半は、胎児性水俣病患者が今どのような生活をしているのか、彼らのほのぼのとした日常を描いていて、前半のようなはっきりとした対立が見えてこなかったからだ。もちろん、授産施設に水俣病の今を演劇にしたいと取材に来ている劇作家と、傷つくのは、演技で真似される患者たちなのだと反対する施設の理事長のやりとりはある。変なクセを持った近くの小学校の先生の、その興奮するとカンガルーのようにピョンと跳びはねるクセをみんなで笑ったりする、何気ないやりとりもある。そこには、50年前から今に続く「水俣病」の現在が描かれていると言えば聞こえはいいが、私たちに関係ないことを、重要だと無理矢理伝えようとする、社会派のお仕着せがましさがあった。

振り返ってみれば、後半の導入が特にお仕着せがましい。チッソの幹部社員を演じた役者が、前半が終わったところで、ナレーションとともに胎児性水俣病患者を演じ始めるのだが、水俣病特有の例の痙攣を始めるのだ。ああ、この痙攣がやりたいのね。これやれば何か深刻な感じに見えるものね。はあ。なんで水俣病に興味のない私がこんな不愉快になる痙攣、見なきゃいけないだろう。あの役者、幹部社員を熱演してたじゃん。なんでわざわざ1時間後に、痙攣の演技をしなきゃいけないわけ? エンターテインメントが台無しだ。ん? ちょっと待って。痙攣してたの、みんな幹部社員の役者? 水俣病の加害者の役者が、後半だと胎児性水俣病患者で、みんな痙攣してる。なんで? これってもしかして、加害者の役者を1時間後に被害者側の人間として提示するっていう仕掛け?

「hg」という作品では、水俣病患者を演じるということそのものが、芝居の重要なテーマになっていた。私は見ないでいたかった。特にあの痙攣を。でもその態度は、自分とは関係ないことにしたいという願望の現れではなかっただろうか? 見なければ、見さえしなければ、想像することはない。腕や脚のなくなった自分の姿を。しかし、私にも起こりうるのだ。加害者の役者が1時間後に被害者側の人間に変わったように。

この仕掛けが、「hg」という作品の肝だったのだと思う。ただ、そうだとしても、何か、頭でわかって身体でわからない印象が残る。加害者と被害者は入れ替え可能であり、水俣病患者と私たちも入れ替え可能である。そのことの身体的実感を受け取れるほどの作品の強さがない。やはり、後半の力が弱いのではないか?

例えば、前述のカンガルー先生のくだり。普段、自分の痙攣を真似されることを嫌う患者たちも一緒になって笑っているこのシーンが、人の特徴をとらえて笑うということがどういうことなのか、もっと重層的に描かれていれば、水俣病患者を演じるということが、水俣病の演劇を見るということが、また違って感じられたのではないかと思う。

9.「人間はみな兄弟」で演劇は成立するか? 他者性の欠如

風琴工房の「hg」(タイトルは水銀の元素記号)は二話で構成されている。前半は水俣病の原因をつくった企業の工場内の会議場面だ。有機水銀を含む工場排水の分析結果と付属病院で行われている猫を使った生体実験で異状が出たことの因果関係を懸念する担当者と、会社命の企業戦士的な技術部長が対立する。観客はその論争から水俣病がどのように発生したかを知ることになる。

この言い争いの次に来るのは何だろうと固唾を呑んで見守っていると、後半、舞台は一転して明るい、暖かな雰囲気の部屋に変わる。前半の会議からおよそ半世紀が経った現在。ここは水俣市に実際にあるという胎児性患者の養護施設をモデルにした施設のサロンである。ちょっと戸惑うのは、車椅子の胎児性患者が4人も舞台にいることと、そのキャスティングだが、それについては後で触れることにする。後半は施設を見学にやって来た一人の劇作家が、理事長はじめそこに集う人々に話を聞くという形で、胎児性水俣病患者と彼らを取り巻く状況が伝えられる。

つまりこの作品は、水俣病の原因と結果(この場合は胎児性患者)に関する膨大な情報の一部をコンパクトにまとめたものであり、その意味では<誰にでもわかる水俣病・入門篇>になっていた。

だが劇作品としてはどうだろう。
残念ながら最初から演劇であることを放棄した作品だったと言わざるを得ない。なぜならこの作品には他者がいないからだ。

ここでは他者という言葉を、劇に葛藤と緊張をもたらす要素の意味で使っている。この作品が水俣病の過去と現在を検証しようとするものであるならば、一番分かりやすいのは原因企業と胎児性水俣病患者をお互いにとっての他者にすることだろう。だが作者はそれを避けた。なぜか。それは企業を「断罪するために書くのではなく、そこにも人間がいたということを書きたい」(公演チラシ)からであり、「明日殺されるかもしれないわたしは、明日殺すわたしかもしれない」(パンフレット)と思ったからだ。つまり加害者が被害者になることもあり被害者が加害者になることもあるので、両者を敵対関係には置かなかった、ということだろう。
公害を扱った作品でそれはないでしょうと言いたいが、百歩譲って、水俣病といえどもそれが真理である場合があるかもしれない、としておこう。では作者はそれをどう表現したのか?

少し話が逸れるかもしれないが、わたしはなにもここで被害者が加害者を糾弾する劇を書けと言っているわけではない。前半には社内に対立があった。それなのに後半でそれが雲散霧消している。人間を対立させたくない、というのがその理由であるなら、工場の実験に使われた猫と八代海の魚の喜劇だってあるだろうし、恋物語だってあり得る。他者は人間である必要はない。動物でも、モノでも、あるいは偏見でも、そこに緊張を生み出す要素さえあれば、演劇は立ち上がる。

話を元へ戻そう。加害者は被害者にもなり得るという作者のメッセージは、じつはキャスティングに盛り込まれていた。会議の場面で会社側の人間を演じていた3人の俳優が、後半では車椅子の胎児性患者を演じている。3人の俳優はベテランで、彼らの障害者演技に嫌味はなかった。したがってわたしの戸惑いの原因は、障害者の形態模写を舞台で見せられたことによるものではなかったと思う(多少はあったかもしれないが)。それよりもむしろ、このキャスティングの意味が飲み込めなかったのだ。いったいこれは何なんだという思いは最後まで解消されることはなく、あとでパンフレットを読んでやっと分かった。

演劇は俳優が身体を90度回転させただけで時空を超えることができる一方で、俳優個人の身体は意外と融通が利かない。同じ俳優が同じ劇の中で別の役を演じる時は、劇の中でその正当な理由が示されない限り、制作費をケチったとしか思われない。加害者は被害者にもなると言いたいのであれば、それを配役だけでなく劇の展開のなかで示して欲しかった。そんなことパンフレットを読んで配役を見ればわかるでしょ、ではあまりにも安易過ぎるし、演劇的欺瞞とさえ言えるのではないだろうか。

しかもこの安易さには思わぬ落とし穴があった。対立する人間と和気藹々とした人間関係を同じ俳優が演じるのを見せることは、作者が意図したはずの普遍から遠ざかり、仲間内の閉じた話という印象を与える結果になっていたからだ。「人間はみな兄弟」的発想から演劇は生まれない。
(「劇評を書くセミナー2008春季コース」 2008年7月12日第7回課題公演評から)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第107号、2008年10月1日発行。購読は登録ページから)

▽風琴工房「hg」()ワンダーランド 2008年9月24日

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