イヨネスコ「瀕死の王」

◎瀕死の、殿
杵渕里果

「瀕死の王」公演チラシ「あと1時間40分で、王様はお亡くなりになるのです。このお芝居の終わりには」
舞台に、体調を崩した老齢の王が登場すると、王妃と侍医にこう宣告される。余命1時間40分。終演とともに昇天の予定。
「何を申す。縁起でもない」
王は、機嫌を損ねる。なるほど、タイトルどおり『瀕死の王』である。

では、芝居のさいご、王は死ぬのか。
それが、わからない。というか、上演時間いっぱいまで王は微分的に死につつみえるのだが、最後の最後に玉座にもたれかかった王が、ほんとうに「死んだ」状態かどうかは、脈でもとらねばわからないのである。

人間はだれしも、いつか死ぬ。とはいえ、己の生を内側から経験するかぎりにおいては、その死はせいぜい、「瀕死」の段階までしか自覚しようがない。「死」そのものについては、誰しも経験しようがないのだ。「死」にまつわる認識はすべて、他人の死を観察するうちに生じた概念にすぎない。

死ぬ王。考えてみれば、リチャード三世、マクベス、ハムレットとその叔父がそうだった。彼らの「瀕死」および「死」は、繰り返し舞台に晒されてきた。観客は、これら王の死を、いわば他人の死として観察してきたわけだが、今回のイヨネスコ『瀕死の王』ことベランジェ一世の場合、「死」それ自体は見物できない。舞台にあるのは、「死」の手前、「瀕死」の描写に終始するのである。だから、あたかもベランジェの終わりそうな「生」を、ベランジェの内側から、ともに経験する、という趣向の舞台なのである。

「そう、余は死ぬぞ。四十年後か五十年後か三百年後かは知らんが、ずーっと先の話だ。それまでは王のつとめに励むのだ」

死を告知された王は、はぐらかす。とはいえベランジェは、愛人と遊びくらし、王のつとめに励んだためしがなかった。国土や宮殿がいかに荒廃したか、王妃たちも嘆くほどだ。どうも、国王として無能で価値もなく、死んだほうがマシな状況である。なのに、「余はまだ死にたくなどない」。

極端に我執が強いのか。いや、人間の「死にたくない」という感情に、理由などないのだ。なにしろ人間、どうせ死ぬ身だ。まず、生きる意味からして、究極のところ、ない。生とは、不条理なものだ。なら「死にたくない」意味や理屈も、あるほうがおかしい。

20世紀の劇作家、イヨネスコは、ベランジェ一世の生への執着を、ナンセンスきわまりない、が、動かしがたいものとして描いた。これは、「生きるべきか、死すべきか、どっちが立派な生き方か」と悩んだハムレットと、えらい違いである。ハムレットには、王子としての人生や、生きるそのものの価値に天真爛漫な確信があって、それに精魂を傾けた。ところがイヨネスコのベランジェは、とりあえずの王の業務へもコミットせず、漫然と遊びくらした。不条理な生を無意味に費やし、老いて、死を目前に、なお「死にたくない」。どっちが立派な生き方か、問うべきか問わざるべきか。

さて21世紀。演出家は佐藤信。高校時代にイヨネスコを読んで芝居を始めたという、ポスト・イヨネスコの演出家だ。『瀕死の王』を語る、佐藤信のインタビュー(注)を引用しよう。
「(この戯曲を)演出家が「わかって」も仕方ない。というより「わかった」ら面白くないし、それはおしまいを意味すると思う」
「演劇の場合、言葉の中に「意味」を探し始めた瞬間にアウトなんですよ」

佐藤は、戯曲から意味を汲んで、「わかる」ことを、自らに禁じているのだ。「生の意味」に比べれば非常にミクロな「戯曲の意味」、さらに、個々の台詞の「言葉の意味」さえも、このポスト・イヨネスコを生きる21世紀の演出家にとっては、不条理でむなしいものなのである。

佐藤信。60年代アングラ小劇団を率いたこの演出家は、「意味」-解釈の権威や制度と換言してもよかろうが、「意味がわかる」ことにたいへん懐疑的である。不条理な生の、その内側に派生するつかのまの意味のゲームさえ拒絶する彼は、「『全然わかんない』っていわれながら僕は45年も芝居を続けている(笑)」と高らかに笑う。

戯曲をわかったらおしまい、さらに、観客にわかってもらいたくもない。これは個人的信条としては可能だが、演出家という社会的地位を維持する上ではとても厄介なスタンスといえよう。この矛盾。佐藤信ならではの不条理な状況。いったいどこに打開策をみつけるのか。

「よい台本なら意味を探すより、言葉の「揺れ」に身を任せれば、俳優も観客も皆一緒にどこかへ連れて行ってくれる。」

迷わず行けよ、行けばわかるさ-。根拠はないが強度ある確信である。「意味」なるものの総合的先送り。この先送りができるのは、「意味」の介在しない理屈ぬきの「生」への愛着を、動かしがたく実感するからであろう。本人は、もちろん「わかって」いないだろうが、おそらく、そこにこそ佐藤信のベランジェへの共感が潜んでいるように思う。
生きていれば、どこかに連れて行ってもらえる、と思えるから、死にたくない。

では、観客は「どこか」に連れて行かれたか、というと、「どこか」はるか手前で沈没したように思う。
『瀕死の王』を観終えて、私はたしかに19時のあうるすぽっとが21時半のそれへと、時間の移動を感じたが、それだけのことだ。ロビーで会った知人らは、「舞台の奥の時計が1時間40分をまわったのに王様まだ生きてるから、早く死ねとおもった」「うん、あそこからが長かった」と語っていた。私も同感である。

思うに、イヨネスコのこの戯曲は、不条理な生を授かった人間たちに、無意味な生の裏側に潜む理屈で割り切れない生の欲求を、提起する仕組みである。いわば、理性に対して挑戦をしかける、論争的な戯曲である。

ところが演出する佐藤信にとって、芝居そのものが、「わかる」ことへの疑義表明の、デス・コミュニケーションのツールなのだ。何かを問いつけたいイヨネスコと、われわれ観客との間に、佐藤信が絶縁体として立ちはだかり、観客としては、「死んだ」時間をすごさざるをえないのではないか。

いますこし細かくみれば、1時間40分までは観劇時間を長く感じない。それは、柄本明演ずるベランジェや王妃、愛人らとのドタバタが快調だからだ。ベランジェがよたよた転ぶたび、衛兵が「国王陛下、ばんざ~い。国王陛下、ご逝去」とやるのは面白い。喜劇を分析したベルグソンは、躍動的な生きる身体が機械的な反復に陥ったときのおかしさを、喜劇の主要な要素だと指摘したが、『瀕死の王』にはそうしたオーソドックスな喜劇的側面があり、それを楽しめた。

ところが後半は、ベランジェの黄泉の行程になる。王妃が淡々と、ベランジェの臨死体験的風景をモノローグで語る脇で、柄本明が無言で粛々とパントマイムしてみせる。柄本は、とたんにでくの坊、役者として綾のない身体になる。柄本明は台詞には長けているが、長台詞をからだで受けるユーモアに欠けているのだ。

が、それは柄本の責任ではなかろう。「意味を探すより、言葉の「揺れ」に身を任せれば」という佐藤信の演出信条に由来するように思う。佐藤は、自らの「わかった」身振りを極力抑え、戯曲のテキストを字義通りに表出させたいのだ。この演出家は、言葉の「揺れ」に逸脱する役者の悪戯を、嫌うだろう。なにしろ、役者による思わぬ意味の出現を許せば、それは佐藤オリジナルの戯曲解釈に受け取られ、演出家の「わかった」そぶりに通じてしまう。

とりあえず、終盤のたいくつな柄本を見ていて私は、つい、ベランジェが、志村けんであったなら、との思いを抱いた。それを知人に言ったら、柄本明は志村けんとのコント歴が長いので芸風が似てきて連想が生じたのだろう、との指摘であった。彼によれば、柄本明はいまいち役人づらで、たしかに「バカ殿」芸の確立した志村けんこそ王者に相応しいとのことで、その場合、柄本を女装させて王妃にしたら完璧である、とのことだ。

それが果たしてベストなキャスティングだかどうだかわらかないが、とりあえず、終章のベランジェの黄泉の行程は、ベランジェ自身が発する台詞が皆無なので、柄本の身体的な存在感では、空間がもたない。これが志村けんであれば、身振りだけでとんでもなく終末的に人格崩壊していく王様に、変換してくれるように思う。
タイトルはこうだ。

『瀕死の殿』

面白そうではないか。それに、志村効果で思わぬ客層に訴えるから、イヨネスコ振興にも役立ちそうではないか(イヨネスコ著作権関係者がゆるすのならば。)
シェイクスピア、イヨネスコ。他人と共有しやすいネタが増えるなら、私としては大歓迎だ。いつか彼岸にいくのだから、意味のゲームを楽しみたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第116号、2008年12月3日発行。購読は登録ページから)
(注)あうるすぽっとインタビュー 佐藤信×柄本明(取材・文/尾上そら)

【筆者略歴】
杵渕里香(きねぶち・りか)
1974年東京生まれ。演劇交友フリーぺーパー『テオロス』より、演劇批評を書き始める。『シアターアーツ』にもときどき投稿。保険営業。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/

【上演記録】
あうるすぽっとプロデュース「瀕死の王
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)2008年9月28日-10月5日
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○作:ウジェーヌ・イヨネスコ
○演出:佐藤 信
○訳:佐藤 康
○出演:柄本 明/佐藤オリエ/高田聖子/
斎藤 歩/谷川昭一朗/松元夢子

企画:鴎座
企画製作:あうるすぽっと
(スタッフ)
美術:佐藤信/照明:黒尾芳昭/音響:島猛/衣裳:岸井克己/演出助手:鈴木章友/舞台監督:北村雅則/宣伝美術:マッチアンドカンパニー/宣伝写真:ノニータ/広報:小沼知子/制作:藤野和美/プロデューサー:ヲザキ浩実

(東京公演)
主催:(財)としま未来文化財団/豊島区
助成:芸術文化振興基金
(兵庫公演)
主催:兵庫県立尼崎青少年創造劇場

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