世田谷パブリックシアター「友達」(作:安部公房、演出:岡田利規)

◎鼎談 不条理劇、岡田演出、個性派俳優のブレンドの味
芦沢みどり、香取英敏、水牛健太郎

「友達」公演チラシ世田谷・シアタートラムで開かれた「友達」公演(2008年11月11日-24日)は、芝居好きの間で事前にかなり話題になりました。安部公房の代表的な戯曲を、チェルフィッチュ主宰の岡田利規が演出するうえ、小林十市、麿赤兒、若松武史、木野花、今井朋彦ら人気、実力、個性の際だった俳優が登場するからです。不条理劇と岡田演出と個性派俳優陣との組み合わせが注目されたのでしょう。その結果はどうだったのか、ワンダーランドの寄稿者3人が舞台をさまざまな角度から検証しました。(編集部)

何を期待したか

芦沢みどり:シアタートラムで行われた公演「友達」(作:安部公房、演出:岡田利規)について話そうということでお集まりいただきました。まず、この公演に何を期待したか、何を見たいと思って劇場へ行ったかうかがいたいと思います。
香取英敏:わたしはやはり、役者の組み合わせが、どうなるのか。演出家の名前で行ったんではなく、麿赤兒と若松武史、そこへ木野花が組むとか。加藤啓も「劇団、本谷有希子」の「偏路」で見てよかったし、すごいなと思っていました。今井朋彦も特性があって面白いし、男はまあ、好きなのばっかり。(公演パンフを見ながら)三男を演じたの(柄本時生)は、柄本明の息子でしょ? 配役的に面白いと思った。
水牛健太郎:わたしは以前から、岡田利規演出で麿さんが出るとか、話題の公演だったので、見なくちゃなあという感じで。何が見られるかというのはあんまり予想もせず行きました。
芦沢みどりさん芦沢:わたしはチェルフィッチュをそんなに早い時期から見てないんですけれども、初めて見た時、あ、これはスゴイなと。つまり身体表現と文体ね。文体というかテクストの言葉。両方とも新しいから、これはスゴイなと思って感心して見てて。で、その人が出自の違う身体、つまり自分の身体表現を持ってる人たちを演出するっていうんで、それをどうやるんだろう、いつものあのやり方を使うのかなってのが一番の興味の中心でしたね。で、見たら、そうじゃなかったって感じ。つまりいつもの方法は使えなかったんだ、ということが分かりましたけどね。安部公房と岡田利規ってのは、似たところもあるんですよね。それまであった演劇、安部だったら新劇みたいなやり方じゃない、実験的なことを「安部公房スタジオ」を作って、俳優の身体訓練からやりましたね。
香取:スタジオには、山口果林とか…。
芦沢:西武劇場がバックアップして…。
香取:西武がバックアップしたからできたんだよね。
芦沢:安部スタジオになって最初の戯曲「愛の眼鏡は色ガラス」を西武劇場でやったんですね。とにかく、安部は実験的なことをやりたがっていた。で、岡田利規もそうでしょ。既成の演劇から離れて、自分の文体を身体表現するために、ああいうのを作った。最初に戯曲があった。岡田利規の場合、まず書いて、それを稽古場で俳優たちにやらせて、それに合ったダラダラ、ぐだぐだした感じの文体をどうやれば身体表現できるかって、やっていったわけでしょ。だから二人とも実験的なことをやったという点は同じなんですよね。
香取:ただ、方向性が違う。だから同じというのはどうかな。
芦沢:うん、そうですね。安部公房の場合は、寓意劇じゃないですか。ぐだぐだとか、あいまいさがあったら寓意にならないから。でも、岡田利規の本ってのはわりにベタじゃないですか。その、実感っていうか、自分たちが生きてる状況みたいなものをすくい取ろうとしている。だからああいう文体にもなるし。ワンダーランドの岡田利規インタビュー(注1)でも記録って言葉を使ってるけど、記録しようという感じがあるわけですよね。だから、その辺がずいぶん違うんじゃないかという気がするんですね。実験的なものを狙ってて、でも同じことを安部公房のテクストでやろうと思っても、それはちょっと無理があるんじゃないって感じはしますね。

「友達」という戯曲

香取英敏さん香取:「友達」は、「闖入者」っていう小説があって、それを戯曲化したんだよね。これは入って来た集団が暴力をふるうって話だったんだけど、当時の社会状況、ネオナショナリズムだとか、明治百年とかって時代になってきて、公房は共同体のウソっていうか、民主主義って名がなくなった時の共同体の暴力について考えた。共同体に与しないで個人として孤独を守ろうとする人間が、どう押しつぶされてゆくかを考えてたってことが全集に載っているんですけどね(注2)。「闖入者」から「友達」へ、みたいな文章があって。だから共同体が暗黙にふっかけようとしているような問題を書きたかったんだ、というようなことを彼ははっきり書いている。
水牛:テーマ主義というか、比較的はっきりとテーマが出ている脚本だってことですよね。
芦沢:家族が共同体の寓意ってことですね。
香取:うん、擬似共同体。本当には共同体じゃないんだけど、みんなが一緒にいることによって共同体みたいになっちゃって、それに黙って従いたくない人間が押しつぶされてゆく。
水牛:でも、これが演劇の脚本としていい脚本かどうか、正直疑問がある。
芦沢:それは、どういうところ?
水牛:たとえば、家族が9人いるけれども、特に9人いる必要ないじゃないですか。3人でも、極端な話、いいんだよね。要するに役割がみんなほとんど同じです。次女の動きがちょっと違うのと、あとはその次女と長女が最後の場面になって、お互いに嫉妬の情をのぞかせるとかはあるんだけど、家族が何人いようと役割は同じだし、しかも、お互いの距離がだいたいみんな同じなんですよ。この人は「男」とちょっと近いとか、このメンバーとこのメンバーはお互いに近いけど、このメンバーとこのメンバーは仲が良くないとかいう関係の位置取りの複雑さが全くないわけですよね。だから、一面的な感じで、中心に「男」がいて、周りに円みたいな感じで家族がいるじゃないですか。すごくのっぺりした感じ。
芦沢:それはのっぺりした世間なんじゃないですか?
水牛:いや、だって、戯曲ってのはそれじゃつまらないじゃないですか。
芦沢:まあ、退屈ですよね。
水牛:人間関係のいろんな距離があって、その微妙な差みたいなものがあるから、それを立体化することに意味がある。そういう意味でこれはのっぺりしているから、お芝居としてそんなに面白くないと思う。だから、「男」と家族の対立構造以外にないのは、まさにテーマを出すためのお芝居で、これをそれ以外の演出でやったら、そんなに面白くないんではないかと思ったんですよ。
芦沢:ただ、人数から話をするとね、この書かれた時代は家族におじいさんとかおばあさんとかいて、だいたい9人とか8人が家族だったわけ。わたしなんかむしろ、あれ見てるとノスタルジーっていうか、ああ、昔は家族ってこんなだったなあというのがありますね。今の話とちょっと違うかもしれないけど…。
水牛健太郎さん水牛:それはでも、ぶっちゃけた話をしちゃうと、おそらくキャストの都合なんですよ。そのぐらい出さないといけないという現実的な問題でこうなってるんだと思うけど、一人ひとりのキャラクターを立体的に描けているかというと、そんなことはない。それぞれにそれぞれのセリフを言っているだけで、もちろん最低限の性格付けはあるんですけれども、立体的じゃないから、そんなにいい脚本じゃないなって気がする。まあ、テーマが面白いから谷崎潤一郎賞を取ってるけど(注3)。
芦沢:そうね、これ、谷崎賞を取ってますね。
水牛:第一幕はまあ面白くないこともないですが、第二幕は展開とかバタバタしてなんかおかしいじゃないですか。何で急にこうなっちゃうんだって話もあるし、外出しているところのシーンも、たどたどしいし、露見してから殺されちゃうところのバタバタさ加減とか、あんまりうまくない気もするんですよね。

岡田演出のねらいと手法

芦沢:今回は手法として、家族が客に向かって話したりしているじゃないですか。それについて日本経済新聞で岡田は言ってたんですけどね(注4)。観客と一緒になって「男」をいじめるように。
香取:ああ、賛同を求めて。
芦沢:そう、賛同。だから、こんな男だからいじめられたってしょうがいないよね、みたいな方向へ持って行きたいと。だから観客にはですね、世間としての側面、見知らぬ他人に暴力をふるうような側面が自分にもあるといことを観客に思ってほしいというようなことを言ってました。
水牛:でも、そうはなってないよね。
芦沢:うん、なってない。

「友達」公演から
【写真は「友達」公演から。 すべての撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

水牛:公演パンフの岡田の文を見ると、この戯曲は面白いです、と書いているけれども、その書き方が「しかし、この戯曲を演出することが決まって、これを読み始めた頃のわたしは、必ずしもそうは感じていませんでした」と。最初は面白くなかったけれど、いろいろ工夫したら面白さが分かったとしてあるけれども、本当にやりたい本ではないし、多分、本当に面白いとは思ってないんですよ。
芦沢:岡田さんのブログを読んでみたら(注5)、だんだん乗って来ていて、早く観客に見せたいみたいなことが、書いてありましたよ。
水牛:それは何だろ…自己暗示? 演出家ってそういうことしますよね。
香取:力のある役者と一緒にやってて、現場が面白かったんじゃないですか。創っていくこと自体のプロセスが、すごく面白かったと思うんだ。
芦沢:ただね、「友達」の幕が開く前に、劇場で演出家のレクチャーがあったんですよ(注6)。それに行った人の話を聞くと、やっぱり、やってみたらしいんですよ。自分の身体表現。でも、できなかったらしい。
香取:岡田利規のはよく、浮遊感覚みたいに言われるんだけど、それにはしっかり立たないっていうのが大事だと思うんですね。底が抜けてるみたいな。だけど近代演劇って、しっかり舞台に立つってとこから、始まるじゃないですか。それを岡田は、立たないでぶらぶらしてるじゃないかわれわれは、っていう。それともう一つ、彼はリアリズムを追及していっても、ホンモノにはならないってよく言う。逆にウソで行った方が本当にらしく見える、ひっくり返る瞬間があるっていうようなことも言うから。今回は、みんなしっかり立ってる役者さんたちじゃないですか。
芦沢:特に麿さん。こんなの無理だよね。
香取:それこそねえ、丸太みたいにごろごろ転がったり、寝転がしておく方が…。
芦沢:ええ、やってましたね。
香取:暗黒舞踏の雰囲気が少し。だから、しっかり立たないようにするにしても、立っちゃう人たちだから、大変だったと思うんですよ。
水牛健太郎さん水牛:勝手に岡田さんの立場になって考えると、本がこうで、役者がそうで、強いて面白み出そうとしたら、どういうことになるか。以前「友達」の別の公演に携わった友人によると、遺族の意向で、脚本はほとんど変えられなかったっていうんです。今回も、最初の場面を最後に持ってきている以外は本通りでしょう。セリフをもう少し現代化してブラッシュアップしたら、自分なりの「友達」っていうのが、ある程度作れるかもしれない。それもダメなわけですよね。まあ、はっきり言って古い言葉だし、ちょっと変な…。
芦沢:古色蒼然としている。
香取:安部公房って、小説でもちょっと違和感がある言葉の使い方するじゃないですか。

水牛:たとえば、長女が「と、まあ、以上のような次第でございました」っていうセリフがあるじゃないですか。こんなのいったいどうすんのよ、って感じがあるわけですよ。これをやれっていうの?って正直思うわけ。そうしたら、言葉の面白さとか、変さに無理やりフォーカスして、それぞれの役者の持ち味で思いっきり言ってもらう。それを極端に押し進めると、一人ずつ出てきてもらって、観客に向かってぱっと言ってもらおうじゃないか、みたいなことになるんじゃないかなあと。
香取:チェルフィッチュの芝居ってさ、一人のセリフを繰り返しリフレインして言ってるじゃない。あと、話題自体がいつの間にか戻ったりとか、そういうふうにやったらきっと、やりがいがあったと思うんですね。もともと父親一人が演説してるから、あれをみんなが引き受けてって、ぐるぐる回りながら、繰り返しながらやってけば、もっとチェルフィッチュふうになって、工夫のしようがあったろうにね。ただ、あれ以上長くなっても大変だけど。だから全部はできないけど、たとえば一場とか二場の部分を再構成して、ぐるぐる回しながらやってけば、もうちょっと何とかなってたかも。
水牛:うん、多分一つのやり方だね。これ、一つ一つのセリフに間が異様に長く入っているところがあるから、原作より明らかに長くなっていると思う。
香取:長くなってる。俺が昔見たときはあんなに長くなくて。
水牛:一時間半くらい?
香取:そう、そんなに長くなかったよ。
芦沢:わたしは青年座かどこかがやったのを見たけど、そんなに長くなかったなあ。

いまどきの家族とノイズ

水牛:あと一つ思ったのは、この演出を見た場合に、家族のコミュニティーの感じがぜんぜんないんですよね。
香取英敏さん香取:この本が書かれたのは、家父長制が残っていた時代。おじいちゃんがいて、お父さんは一番上にいなければいけない立場で、お母さんがそれを支えて、子供たちが反発したりっていう。そういう前近代的な家族制度のもとの話じゃないですか。それが今や家族自体が変容しちゃってるから。
水牛:それを解体する意図は、岡田には明らかにあったんでしょうね。
香取:お父さんが家の中であんなに演説してたら、みんなに鼻つままれちゃって…。
芦沢:だいいちあんなお父さん、もういないじゃないですか。
香取:お父さんがあんなふうに子供に説教したりしたら、大変な目に遭いますよ。
芦沢:ノスタルジーの世界。
香取:だから、難しいよね、昔の芝居をやるってのは。
芦沢:岡田さん自身はですねえ、ワンダーランドのインタビューの中で、他人の作品も、古典なんかもやりたい、と。イメージにノイズがあればできるって言ってるんだけど。じゃあ、あの作品にノイズを入れられる? 入れるとしたら、さっき香取さんが言った、繰り返しとかそういうこと? それはノイズになりますかね。ならないでしょ。
香取:それは、ああいう家族って、さっき芦沢さんがいったみたいなノスタルジーがあるじゃないですか。それが今ではすでにノイズでしょう。今の家族が規範を押しつけられたら困るから、ああいう姿は今となったら、家族ってものに対する一つのノイズでしょう。家族はこうあらねばならないと言われたら。
芦沢:嫌だよね。それはそうよね。嫌だと思わせることが、岡田にとって大事なわけでしょ。
香取:だから、そういうものが侵入してくるっていうことは、現代から見ればノイズになりうるけれど、じゃあ、主人公をやってた小林十市が今を生きている人間に見えてたかというと、今ひとつキャラが立ってなかった。
水牛:かっこよかったですけどね。
香取:やはりダンサーで。
水牛:牛を着ててもかっこいいという。牛の衣裳というのは、見た通りの解釈でいいんでしょうか。犠牲になるから牛だっていう。
芦沢:嫌なやつってことじゃない? だってあれ、課長代理か何かでしょ?
香取:だから、そういう社会的立場があるのに、ああいう幼児的な恰好をしているってところのギャップを面白がってるんじゃないのかな。
水牛:いや、あれ、マジにああいう服を着ているって設定じゃないでしょ、あれは。
香取:いやでも、あれが彼の部屋着なんでしょ。
芦沢:わたしもそう思いましたよ。
水牛:あんな部屋着、着てる人いないじゃない。
芦沢:だから、嫌なやつなんでしょ。
水牛:いや、あれは演出でああいう恰好してるんであって。本当にあの家でああいう服を着ている人、って意味じゃないと思う。
香取:そうかなあ。カリカチュアみたいな?
水牛:ええ、そういうことだと思いましたけど。象徴的な意味を持たせているとか、象徴的な意味は何もないけど異化効果みたいなことで、とりあえず着させているとか。
芦沢:いるんじゃない? いますよ。これ、変な人なんだから。
香取:岡田さん、ドイツへ行ってブレヒトの影響を受けてきているかもしれないじゃない。
芦沢:本人もブレヒトの影響を受けているって言ってるから、異化効果か。
香取:あれ着せちゃったから余計、小林君のキャラが立たなくなっちゃって、もったいな
かったな。

最後に、成果は

香取:この舞台、そんなにはツマンナクなかったけどね。
水牛:でもまあ、物足りないっていうか、大成功したとは言えないよねえ。
香取:そりゃあ、合格点には行かないけどさ。
芦沢みどりさん芦沢:でも、岡田さんは自分の作品じゃないものを演出することに初めて挑戦したわけでしょ。世田谷パブリックシアターの方から話があったらしくて、それってちょっと気の毒な感じもするのね。ミスマッチだもんね。
香取:ちょっと早すぎたって気がするね。もう一、二年たってやってれば、ベテラン俳優に、もう少し演出家として尊敬されたとか、コミュニケーションがもう少しよく取れてたんじゃないかな。
芦沢:安部公房の「友達」でよかったのかってこともある。
水牛:制作側がやるべきこととして、この「友達」を持って来て、このキャストで岡田演出でいいのか、ってのはありますよね。それは制作がもうちょっと考えた方がよかったんだろうし。岡田さんの責任じゃないから、気の毒というか。でも、そういう経験をしたということは、悪いことではないんだろうと。長い目で見れば。
芦沢:ただわたし、この「友達」から離れますけれど、大江健三郎賞をもらった小説(「わたしの場所の複数」『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収)を読んで、すごい文章力のある人だなあと。もともと演劇でも書く方から入ってるじゃないですか。つまり文章の人だなあという気がして、もちろん演出やりますけどね、自分のところの演出はやるし他もこれからやるんでしょうけど、文章もっといっぱい書いてほしいなって気がします。
水牛:この辺で、まとめに入りましょうか。「岡田利規がチェルフィッチュを離れて演出することの意味は何か?」
香取:チェルフィッチュの作・演出ってのは、みんなで稽古場でやってくことだから、その部分がなくて本もらって演出つけるってやり方が彼に合うかどうでしょうね。もっと大胆にアレンジしたら面白くなるのかもしれないけど。完全に構成台本にして、ト書き台本にする形になれば、そうだったら、シェイクスピアとか見てみたいよね。『リチャード三世』をチェルフィッチュふうにグズグズにして、リチャードがセリフを何度も繰り返したりして、解体していけば面白い。
芦沢:今回は手も足も出なかったってことですよね。俳優に関しても、本に関しても。岡田さんにとっては気の毒だったと。
水牛:それはやっぱり制作の問題で。言ってみれば制作がちゃんと、演出家の思うとおりやってくれる俳優を連れてきて、あるいはちゃんとケアをして、間をつないだり、手間暇かければ、多分出来るし、シェイクスピアでも何でも、それはぜひ今後やってみたらいいし、やってほしいと思う。
芦沢:そうね、そうですね。岡田さんの演出するチェルフィッチュふうシェイクスピア。
水牛:だから、今回はひとつ経験値を上げたということで。ああ、いろんな人がいるんだなあと、それが分かったということでいいんじゃないですかね。
(2008年12月7日(日)、早稲田のPA/F SPACE(パフスペース)にて)
(初出:マガジン・ワンダーランド第118号、2008年12月17日発行。購読は登録ページから)

(注1)岡田利規インタビュー「自分にフィットした方法で いま を記録したい」(ワンダーランド 2005年4月5日)
(注2)「このドラマが、小説「闖入者」と本質的に違うところは、まずそのテーマである。「闖入者」の場合には、ごく単純に言えば、誤解された民主主義、もしくは多数という大義名分の機械的拡大解釈に対する、諷刺がそのテーマの中心におかれていたと言ってもいいだろう。(中略)だが、時代が変わった。「闖入者」的テーマが完全に無効になったというわけではないが-それはそれで、いまなお大きな主題だとわたしは考えているが-それ以上に切実な状況がわれわれに迫り、おびやかしているのが、今日的な状況なのである。それは、多数神話が単に神話にすぎないという、大衆の実感を、逆手にとって登場してきた、いわば新保守主義の逆行的リアリズムなのである。その特質を一口に言えば、多数原理から民主主義のオブラートをはぎとった、むきだしの共同体原理の強調と言ってもいいだろう。その代表的なものが、新ナショナリズムの旗印になる。むろん新ナショナリズムに実体などがあろうはずもなく、必然的に疑似共同体にたよらざるを得ない。象徴天皇も、隣人愛も、民族的自覚も、すべてそのシンボルにすぎないのだ。それらは、過去の実体をともなった共同体とは違い、要するに疑似共同体にすぎないのだが、しかし、『異端告発』(左翼では、通俗的転向論の一つのパターンとして現れる)の効果は、じゅうぶん過去の共同体に匹敵するものを持っている。つまり、非常な多数決原理で襲いかかった「闖入者」たちが、こんどは、親愛なる同朋として、「友情」の押し売りをはじめたというわけだ。プロットには共通性があるが、テーマはすっかり変質してしまった。「闖入者」を「友達」という、いささかトボケた題名に変えることによって、わたしは疑似共同体のシンボル(明治百年、紀元節の復活、等々)に対する、われわれの内部の弱さと盲点を、その内部からあばいてみようと考えたわけである。(中略)再び繰り返すが、このドラマのテーマは、現代の内部にうずく、共同体復活へのプロテストなのである。」
(友達-「闖入者」より (1967.2頃) 安部公房全集20巻 / 新潮社)
(注3)谷崎潤一郎賞 中央公論社創業80周年(1965年)を機に、作家谷崎潤一郎にちなんで設けた文学賞。第3回(1967年、昭和42年)受賞作が、大江健三郎「万延元年のフットボール」と安部公房「友達」。
(注4)日本経済新聞 2008年11月9日朝刊「岡田利規が挑む安部公房『友達』」
(注5)チェルフィッチュブログ2 2008年10月09日付「『友達』稽古中
(注6)世田谷パブリックシアター上演作品レクチャー2008秋 『友達』/岡田利規(演出家)10月24日(金) http://setagaya-pt.jp/workshop/2008/09/the_diver.html

【略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケイン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

香取英敏(かとり・ひでとし)
1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校勤務の後、家業を継ぐため独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。ウェブブログ「地下鉄道に乗って-エムマッティーナ雑録」を主宰。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。そのほか村上龍主宰の「ジャパン・メール・メディア(JMM)」などで経済評論も手がけている。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
世田谷パブリックシアター『友達
シアタートラム(2008年11月11日-24日)

[作] 安部公房
[演出] 岡田利規
[出演] 小林十市/麿赤兒/若松武史/木野花/今井朋彦/剱持たまき/加藤啓/ともさと衣/柄本時生/呉キリコ/塩田倫/泉陽二/麻生絵里子/有山尚宏
[ポストトーク]
11月12日(水)出演=岡田利規(演出)/野村萬斎(世田谷パブリックシアター芸術監督)11月18日(火)出演=小林十市/麿赤兒/若松武史/木野花/今井朋彦
11月19日(水)出演=小林十市/剱持たまき/加藤啓/ともさと衣
全席指定 一般5,000円、友の会会員割引 4,500円、世田谷区民割引 4,700円

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