◎青春に取り憑かれた「夢想者」たち 燃えたぎる身体が放った鋭い閃光
高野しのぶ
演劇は、瞬く間に過ぎて忘れ去られていく、豊かでかけがえのない“今”という瞬間の連続だ。どんなに現実離れした夢や虚構を舞台上に作り出しても、俳優と観客がいる劇場で上演される限り、演劇はライブ(生)の現実であることから逃れられない。そして、どんなに昔や未来の出来事でも“今”起こったことにしてしまう。そんな演劇の宿命を生かした作品をこそ観たいと思う。
清水邦夫の戯曲『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』に登場するのは、奪われた青春を再びよみがえらせることに取り憑かれた“夢想者の群れ”(注1)だ。蜷川幸雄の演出はライブである演劇の力を大胆に発揮させ、出演女優らの人間離れした卓抜な演技が、夢想者たちが命がけで見た夢を2009年春の“今”に現前させた。
開演前から姿を露わにしていた百貨店のショーウィンドウが開くと、中央に青白い大階段が鎮座する吹き抜けの空間が広がった。1980年代らしい、今となってはレトロな香りもする内装で、むしろ生活感も浮き出ている。
そこに純白の豪華なドレスをまとったジュリエット(三田和代)が登場する。弾けんばかりの笑顔を湛えて、大階段を下りてくる可憐な姿に思わず息を飲んだ。ジュリエットの実年齢(13歳)らしい若さはないが、その美しさはまばゆく、同時に死の形相もちらつかせている。装置全体を飾る無数の丸電球がピカピカとにぎにぎしく光る様は、華やかでありながらチープな仰々しさもほのめかしていた。
ジュリエットを演じるのは風吹景子・通称フー子。1940年代に北陸地方で人気を博した、石楠花少女歌劇団の娘役スターだ。歌劇団は空襲に遭って消滅し、フー子は頭に傷を受けて30数年もの間ほぼ寝たきりだったのだ。年を取っても心は少女のままの彼女のために、歌劇団の熱烈なファンで構成された“バラ戦士の会”の男たち(古谷一行ら)は、オリジナル戯曲『日本海遥か……ロミオとジュリエット』を上演することにする。
歌劇団再結成の呼びかけに応えて、舞台袖や客席後方からぞくぞくと女たちが集まってくるシーンは、戯曲のト書きを鮮烈に実体化していた。
そして、どこからともなく歌声がきこえてくる。
煽情的で、しかも傷つきすすり泣くような女たちの声……
やがて店内のあちこちから幽鬼のような流浪の女人の群れが湧き出してくる。
ある者はたがいに身体を支え合い……
ある者はうちひしがれた者を背負い……
そして、呪詛のような呻きがあふれた時、世界が一変する、まるでネガがポジに変わったように……
はじける喚声!
女たちはどっと中央に殺到する。
なつかしの石楠花少女歌劇団の仲間たち……流浪の群れのように見えたのは、彼女たちが、おびただしいお土産や身の廻りの品を持ち、それに孫たちの手をひいていたからだ。(注2)
物語の流れから彼女たちが歌劇団の元団員であることは明らかなのだが、客席背後から漂ってきた気配はおよそ常人のそれではなく、スローモーションでじわじわと舞台へと近づく姿は、あの世とこの世の間をさまよう亡霊のようだった。さいたまゴールドシアター『95kgと97kgのあいだ』(作:清水邦夫/演出:蜷川幸雄)で、老俳優らが客席後方から登場した時に感じた戦慄が、再び背筋によみがえった。
『日本海遥か…』に登場するのは無数のロミオとジュリエットたちだ。原作のロミオは恋人ジュリエットの従兄を殺した罪で国外追放されるが、ここでのロミオはいわば国家や社会から弾圧・迫害された、世界中の戦士を象徴している。激しい銃弾の音が降り注ぐ中、愛するロミオを失ったジュリエットたちは悲痛の叫び声を上げる。大勢のジュリエットを演じるのは、孫がいてもおかしくない年齢の女優たちだ。所作も服装もごく普通の“おばさん”だった女たちが、顔を白塗りにして、赤い血の色の薄汚れたドレスをまとい、激しく取り乱して暴走する。
夢と現(うつつ)、過去と現在がないまぜになる仕掛けが鮮やかで、舞台で起こる出来事を追っていくだけでも文句なしに面白い。でも今作は“上質な戯曲と豪華キャスト・スタッフの妙技を、安心して鑑賞する公演”には収まらなかった。本編の筋書きがすっかり頭から消えてしまうほどに、目の前で命を燃やす女優の存在に心身を揺さぶられたからだ。
めまぐるしいほど細やかに変容する三田和代の声や表情には、常に鬼気迫るものを感じた。鳳蘭の放つオーラは別格で、大階段中央できびすを返すだけのほんの小さな動作にさえ、恍惚を誘う美しさが宿っていた。毬谷友子は全身全霊をかけたソウルフルな歌唱で、劇場全体を彼女の色一色に染め上げた。
俳優は自らの身体を使って戯曲中の実体のない人間をつくり出し、時には死者をもよみがえらせる。座席に座ったまま、未知なる、人ならぬ者と邂逅したような稀有な体験をした。
三田と鳳の演技合戦の最大のハイライトは、フー子と俊が再会するシーンだろう。フー子は現役時代の相手役だった俊をひたすら待ち焦がれていたし、盲目となった俊は悩みぬいた末に歌劇団の仲間に会うことを決意する。喜びに満ちた感動的な再会になるかと思いきや、2人は烈火のごとく怒りを噴出させ、大ゲンカを始めるのである。2大女優による怒号と罵声の応酬は、自分本位でとげとげしく、わき目も振らず感情のままにぶつかり合う、“青春”そのものだった。
両主役がそろったところで劇中劇の最後のシーンが始まり、劇自体もクライマックスへとなだれ込む。ジュリエット(フー子)が眠る霊廟で、ロミオ(俊)は毒を飲んで倒れる演技をする。その直後、俊は舞台を去って飛び降り自殺をしてしまうのだ。フー子も、ジュリエットがナイフで自害する演技をしてから、俊の後を追う。2人の行動は長年の宿願を果たした末のものだと理解できたので、疑問が湧く余地はなかった。
その後2人の遺体を前にして、他のロミオとジュリエットたちは何かに取り憑かれたように狂気に陥っていき、『雨の夏、…』は終幕した。いささか唐突に感じつつも、汗だくで激しく踊り続けるの女たちの顔、体、声に、目は釘付けになっていた。限界を省みず、ひたすら動いて熱を発する肉体は、彼女たちが演じる役も物語の枠も越えて、ただそこで躍動していることにあらがいがたい魅力があった。
やがて訪れたカーテンコールでは、度肝を抜く演出が待っていた。イントロが耳に入った時点でまさかとは思ったが、忌野清志郎が歌う「デイ・ドリーム・ビリーバー」がフルコーラスで流れたのだ。客席から沸き起こっていた拍手は、曲に合わせて自然と手拍子へと変わっていった。私は歌が示す意味と効果に打ちのめされ、ダメ押しをされたような心地になった。
亡くなったばかりのカリスマ的ロック・スターにオマージュを捧げる意図はもちろんあっただろう。作品から逸脱した演出だと受け取る観客も少なくなかったと思う。しかし「ずっと夢を見て いまもみてる」という歌詞は、この劇の登場人物のことであり、忌野氏のことであり、私自身のことである。誰もがその時テレビや新聞、ネットで目にしていた忌野清志郎というヒーローを媒介に、『雨の夏、…』という夢が“今”に凝縮されたのだ。
蜷川の演出は豪快かつ野心的で、見事に的を射ていたと言わざるを得ない。この作品は舞台から放たれた鋭い閃光だった。全身で受けた衝撃とともに、その残像は私の体の中で生き続けるだろう。
(上演時間は2時間55分。1幕1時間20分、2幕1時間15分、途中休憩は20分。筆者は初日に鑑賞)
(注1)清水邦夫著「 雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた/エレジー」 (ハヤカワ演劇文庫21) p52より引用。
(注2)同 p46より引用。
(初出:マガジン・ワンダーランド第143号、2009年6月10日発行。購読は登録ページから)
【著者略歴】
高野しのぶ (たかの・しのぶ)
大阪府生まれ。東京都在住。青山学院大学文学部・英米文学科卒業。現代演劇ウォッチャー。「しのぶの演劇レビュー」主宰。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takano-shinobu/
【上演記録】
Bunkamura20周年記念企画「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」
Bunkamuraシアターコクーン(2009年5月6日-30日)
作:清水邦夫
演出:蜷川幸雄
出演:
三田和代 鳳蘭 真琴つばさ 中川安奈 毬谷友子 衣通真由美 市川夏江 古谷一行 磯部勉 山本龍二 石井愃一 横田栄司 ウエンツ瑛士 井上夏葉 赤司まり子 石井ゆき 今井あずさ 江幡洋子 太田馨子 柏木ナオミ 加藤弓美子 吉祥美玲恵 佐藤薫 高間智子 玉井碧 土屋美穂子 戸谷友 仲田幸代 鳴海由子 難波真奈美 羽子田洋子 ひがし由貴 別府康子 蓬莱照子 松乃薫 山口詩史 山口夏穂 山本順子 祐輝薫
(▽加納夏子役の中川杏奈が急病で途中降板し、5/29昼は公演中止。中川の代役に毬谷友子。毬谷演じる直江津紗織役の代役に、難波真奈美、祐輝薫、広崎うらん。5/29夜、5/30昼の2ステージは代役で上演)
スタッフ
美術:中越司
照明:室伏生大
音楽:門司肇
振付:広崎うらん
音響:井上正弘
衣裳:小峰リリー
ヘアメイク:鎌田直樹
演出補:井上尊晶
演出助手:藤田俊太郎
舞台監督:濱野貴彦
料金 S\10,000 A\8,500 B\7,000 コクーンシート\5,500 (税込)
主催・企画・製作:Bunkamura