「化粧 二幕」

◎舞台こそが化粧
金塚さくら

「化粧 二幕」公演チラシ埃だらけで薄汚れた楽屋の、そこだけが聖域か何かのように白い布で覆われている。ちゃぶ台より少し大きいくらいの、平机。起き上がった女座長は威勢よく座員に檄を飛ばし、かと思うとぶつぶつ何やらひとりごちる。夏の夕暮れ、あと一時間もしないうちに舞台の幕が開く。

ひとしきり天気の心配などしていた女座長が、やがて机の前に腰を落ち着ける。そうして彼女が、ざっと勢いよく白い布を取り払えば、その聖域にはごちゃごちゃと取っ散らかりながらも極彩色の、化粧道具一式。
さあこれから、役者が役になるための神聖な儀式に、私たちは立ち会うのだ。
水白粉を刷毛で塗りたくり、スポンジを顔に叩きつけながら彼女は言う。厚く塗りなさい。座員への訓示として。顔は厚く塗らなければならない。化粧をケチって薄くしたために潰れた一座もある、私たちはお客に夢を売るのだから、素顔をチラつかせて幻滅させてはならない。

本当に、よくできた戯曲なのだと思う。一人芝居において、役者の身体はコミュニケーションの相手もなしに一体何をしていたらいいのかというのは、常にひとつの問題だろう。「観客」を相手に語ることはできるとしても、その間ぼうっと座っているわけにもいくまいし、かといって一人でばたばた動き回って不自然になっても困る。いかにして間を持たせ、手足に行き場を与えるのか。「舞台に出るために化粧している」という作業を与えるとは、実に見事な解決方法なのだった。

見事な解決法というなら、「“中丸のおじさん”のための口立てのおさらい」という形で語られる『伊三郎別れ旅』も、きわめてスマートに処理された劇中劇だ。母のない子の伊三郎、子のない母の茶屋のおばさん、育ての親の渡世人-と、“五月洋子”がいくつものキャラクターを一人で演じ分けてゆく。様々な表情を見せる“五月洋子”自身を含めて、これぞ一人芝居の醍醐味。

五月洋子が『伊三郎別れ旅』作中の台詞を口に乗せれば、私たちの目の前には登場人物が生き生きと立ち現れる。見た目からしてがらっと印象が変わるのだ。倅になったり母になったり合間で五月洋子に戻ったり、まったくこの人はくるくるとよく変わる-と舞台上に出現する虚実ないまぜた人間模様を無邪気に楽しんでいるうちに、しかしある瞬間、はたと気づく。彼女は今、伊三郎という若いやくざ者の顔かたちに、拵えの途中ではなかったか。

白塗りの顔には若い男を表す化粧。眉はうっかり片側だけで、頭には丸く紫の羽二重ばかり。そんな中途半端ななりでも、膝を合わせてするする歩けばおっ母さんだし、股を開いてしゃがみこめば倅になる。観ている間に作業は進んで、一幕の終わりには脚絆に手甲のいなせな若い渡世人の姿が完成する。なのに、むしりのついた髷の鬘を被っていても、ぐっと背を引き衿を抜いておっ母さんを演じてみせれば、その姿は紛れもなく初老の女に変わるのだ。片眉しかないことに気づき、「あらあたし酷い顔してる」などと呟いていてもう一方を急いで描き足す“五月洋子”は、そそっかしくも可愛らしい、紛れもない女だ。

伊三郎となるべく化粧を施している姿に、なぜこうも様々な人物を見得るのか。一体、私たちの見ているものとはなんなのだろう。

拵え途中で股旅の渡世人になったり茶屋のおっ母さんになったり。その違いは、衿を抜くか、逆にぐっと前に引っ張るか、それだけなのだ。その切り替えだけでガラリと別人になってみせる。確かにそうした小細工は判りやすくジェンダーを規定するお約束の記号ではある。しなしなと衿を抜いていれば女、しだらなく衿が開いていれば男-私たちはそうやって情報を“読んで”いる。しかしそれにしたって、目の前の「伊三郎」の姿かたちは、なりかけも含めて、茶店で働く老いた女とはあまりにもかけ離れている。

化粧も鬘も服装も、眼前にある姿かたちとはまったく無関係に、私たちの目は演じられている「個性」の本質を掴み取る。声の出し方、喋り方、立ち居振る舞い、ちょっとした仕草。観客を幻惑する舞台の魔法は、役者の姿かたちが作るのではなく、演じることそのものによって生み出されるのだろうか。

そこにいるのは股旅姿の若い渡世人。しかしその姿のままで、おっ母さんは出現する。むろん口立ての言葉を止めれば、“五月洋子”が出現する。その五月洋子は、女だてらに一座を切り回す気風がよくてガラっぱちな女座長のこともあれば、茶目っ気たっぷりの愛嬌が時折一瞬あだっぽい可愛い女なこともあるし、苦労の果てに生活のにおいの染み付いた古い時代の母のこともある。最後、魔法が消えて、崩壊していく劇場の真実が明らかになったとき、そこにいるのはひどく小さな、ひとりぼっちの老婆だ。廃墟に棲みついた寄る辺のない、しぼんだような年寄りなのだ。工事の轟音に怯えた目をさまよわせる姿は、それまで一度も、どこにも見たことがなかった人物で、そのことにひどく驚く。

化粧など、何ほどのもの。その役作りに何の役にも立っていないではないか。
それでも役者にとって化粧が神聖な儀式であるのは、彼らのためにこそ化粧が重要なものであるからに他ならない。観客のためではなく。

化粧は自分の目から赤裸々な自身を隠し、客席より注がれるたくさんの視線から生身を護る鎧となる。観客は構わないのだ。役者がまったくの素顔で現れようと、私たちは演じられているキャラクターをしっかり捉え得る。私たちは確かに美しいものを愛ではするが、美しい顔を見るためだけに劇場に足を運ぶわけではないのだ。化粧を薄くしたために潰れた一座が本当にあると言うならば、それは観客が素顔に幻滅したためではないだろう。化粧に守られなかったから、観客の容赦ない眼差しに皮膚が負けて心が折れて、役者が舞台に立っていられなくなったからに違いない。

考えてみれば、私たちの日常もそうなのだった。女は外を出歩くために化粧をするが、それは何も通りすがりの他者の目を楽しませるためではないのだ。必ずしも理想的でない自分自身の素顔を、ありのままに直視されることは怖ろしい。他者の目に自分の欠点が映っていると思うと、その欠点は自分の中でいっそう存在感を増して不安を煽る。だから一番外側の、表層に偽りの虚像を塗りつける。人目をうまく欺いた、と自分自身に思い込ませて、自分を安心させるのだ。ファンデーションを塗って毛穴が隠れたと安堵し、コンシーラーでクマが消えたと喜ぶ。眉の形を変え、睫毛をわずかばかり長く伸ばし、頬や唇に色をつけて、多少美しくなったはずだと自信を得て、見られることにどうにか耐える。それはまったくの独り相撲なのだ。実際のところ、他者の目にとっては、素顔と化粧をした顔とでそれほど大きな違いはない。きれいになったと言ったって、ほんのわずかな変化にすぎない。同じ顔はどうしたって、同じ顔でしかない。
化粧とは幻想だ。それも、見る者にとってではなく、本人にとって。自分自身をうまく騙して、絶望しないでいるためのまやかしだ。

そこはもはや劇場ではなく、瓦解する工事現場であることが暴かれるラストで、私たちはこの舞台そのものが五月洋子の化粧であったと知る。現実に押し潰されないために、自分自身に信じ込ませる物語。バリケードのように虚構で壁を築いて、絶望から自分の身を守る。
無駄なことなのだ。他者の目にはまったく真実がバレている。白日のもとに曝された五月洋子は、愚かで憐れで、ひどく小さい。都合の良い物語の続編を捏造し、幻想の城にどうにかしてハッピーエンドを持ち込もうと足掻いても、それで現実の何が変わるわけでなく、彼女の独り相撲は滑稽だ。けれど、その姿は痛々しく切実で、愚かだと笑うことはできない。

『伊三郎別れ旅』の続きの物語に、彼女はすべての希望をかける。その妙案で自分の人生を埋め合わせようと、逸る口調で懸命に語る。一幕で、気風のいい女座長の舞台裏の「素顔」を、私は呑気に楽しんでいた。化粧の手際に無邪気に感嘆し、「座員」との遣り取りに、何も知らずに笑っていた。真相に足をすくわれて、どこか取り返しのつかない思いでその必死の演技を見つめる。

目の先で、五月洋子の化粧は仕上がっていく。まがい物の母と息子をつくり上げ、ひらりと飛び乗る机には化粧道具が載っている。「伊三郎!」「おっ母さん!」、一人二役、互いを呼び合うその顔は晴れやかだ。
ここは彼女の聖域。毎日毎日繰り返される、これは彼女の神聖な儀式。崩壊の轟音の中、私もそこに立ち会っている。
(初出:マガジン・ワンダーランド第145号、2009年6月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。

【上演記録】
座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕
作 | 井上ひさし
演出 | 木村光一
出演 | 渡辺美佐子
座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日-31日)
上演時間 約1時間35分

入場料金 全席指定4,500円(税込)
協賛:株式会社資生堂  企業メセナ協議会認定
後援:杉並区、杉並区文化協会
企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク

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