ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第2回)

「ダンス」や「アート」の概念を揺さぶる
堤広志

●「演劇」か「ダンス」か、それが問題か!?

「今どきのコンテンポラリー・ダンスはどうなっているの!?」という問いかけの裏には、「なぜ、これがダンスなの?」「どこがダンスとして評価できるの?」という疑問があるように思う。それだけ現在のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれている表現は多種多様であり、一般的なダンスの概念からは乖離してみえるようなものが数多くあるということなのだろう。

ヤン・ファーブルの場合、「身体」を探求する取り組みが、「リアル」な身体を希求するコンテンポラリー・ダンスの問題意識と合致する。ゆえに「ダンス」として評価できる。しかし、『寛容のオルギア』ではそうしたリアルな身体感覚やダンス的なムーヴメントを提示するより、あえてパロディ・コントのようなセリフやアクションを多用した演劇的なタッチが全面に展開された。その結果、代理表象としての度合いが強まり、ダンスとして評価することを困難にしたのかもしれない。

しかし、はたしてそのような「ダンス」か「演劇」かといった二項対立的なものの見方は有効なのだろうか。私はそもそもファーブルの舞台を「ダンス」という既成概念に押し込めて評価を下そうとすること自体に無理があるのではないかと思っている。前述したようにファーブルの表現の起点は現代アートにあり、彼自身もアート・パフォーマンスの実践者であった。舞台作品として本格的に評価されたのは、1981年フランスのナンシー国際演劇祭で発表した『Kで始まる芝居はトム・キャット』(80年初演)で、これがヨーロッパ演劇界への実質的なデビューとなった。さらに続く『待ち望まれ予見されていた演劇』(82年初演)や『劇的狂気の力』(84年初演/86年初来日)でも、既成の演劇への反発と挑戦を続け、前衛演出家として世界的な注目を集めていった。

「ヤン・ファーブルは、いわゆる演劇作品とは別に、美術活動の延長線上にあり、しかもアクションを拡張していった初期のパフォーマンスで様々な試みをした」(※4)というのが当時の認識であり、より厳密に言えば、その表現はアヴァンギャルド・シアター(前衛演劇)とかシアター・パフォーマンスと呼ばれるものであった。90年代に入ると「演劇」以外の作品も手掛けるようになり、『頭の中のコップはガラスでできている』(90年初演)や『静かな叫び、つらい夢』(92年初演)は「オペラ」作品、『片手でする拍手の音』(90年初演)や『時間のもうひとつの側』(93年初演/94年来日)などは「バレエ」作品とされた。

つまり、ファーブルは「アート」の分野を基本としながら、発表する作品によっては「演劇」の「演出家」にもなり、テキストを書けば「詩人」や「劇作家」という肩書きを持つこともある。バレエ・ダンサーが多数出演する舞台を創れば「バレエ」として取り扱われ「振付家」ともなる。ジャンル横断的にオルタナティブな活動を展開する鬼才なのであり、その創作表現を「演劇」か「ダンス」かというように単純にジャンル分けしたり、既存の学術体系に縛りつけて判断することは、アーティスト本来の才能や個々の作品を理解するのに要らぬバイアスをかけることになるのではないだろうか。

実はこうしたことは、ファーブル以外にもよく起こっている。例えば、かつて水と油が国内でなかなか評価されなかった原因の一つに、ジャンルが「演劇」でも「ダンス」でもないため、その表現をまるごと受け入れられる業界がなかったという状況があった。そのため、評価以前に認知されることを目指して海外へ遠征し、アヴィニヨン演劇祭やエディンバラ・フェスティバルに参加したのである。はたしてエディンバラで賞を獲得した時、エントリーしていたのは「演劇」や「ダンス」の部門ではなく、「フィジカルシアター」部門であったという。そして凱旋帰国後は自分たちの表現を「パフォーマンス・シアター」と称することで、国内でもようやく認知・評価がなされるようになっていった。

また、今でこそ日本のコンテンポラリー・ダンスを牽引する人気カンパニーの1つとして評価されているコンドルズにも、ブレイク前の面白いエピソードがある。海外ツアーに行った際、エントリーしていたのが「コメディ」のフェスティバルで、本人たちも現地へ行って初めて知って驚いたという。日本では主宰の近藤良平が山崎広太作品等に出演し、優れた演技を披露してダンサーとして認知されていた。そのためカンパニー自体も一応は「ダンス」のジャンルで扱われていたものの、初期にはほとんど評価されていなかった。少なくとも90年代にあっては、「近藤良平はいいダンサーだが、他はほとんど踊れない素人ばかり」「あんなコントみたいなことをしていちゃダメだ。しかも笑えないし」といった批判が、舞踊評論家の間で隠然と囁かれていた。

当時の舞踊評論家たちにとって、「笑い」という要素を「ダンス」表現の範疇に許容する態度はなく、そのためコンドルズの微妙で独特な笑いのセンスも真っ当に取り扱われることはなかった。それが「ダンス」としての認知を遅らせた一因でもあった。また、メンバーたちが「踊れない素人」と見なされたのも、ダンサー個々人の経歴に知悉していない評論家たちの情報不足(※5)もあったが、それ以上に大きな要因として、ダンス・テクニックを誇示するような振付や演出が舞台上に見い出せなかったために、既存のオーソドックスな舞踊美学的な価値判断が失効してしまったことがあげられる。

コンドルズがようやく「コンテンポラリー・ダンス」の文脈の中で肯定的に論じられるようになったのは、2000年代に入ってから(私見では2003年以降 ※6)である。珍しいキノコ舞踊団『フリル(ミニ)』(2000年初演)の画期的な成果とともに、観客と直接コンタクトをとってコミュニケートしたり、ともに一体化するようなライブ感のある祝祭空間を創出することが、「ダンス」として評価されるようになったのである。それは60年代に美術評論家マイケル・フリードがミニマル・アートを批判する際に唱えた「演劇性(theatricality)」を逆に肯定的に引用したり(※7)、ドイツの舞踊評論家アルント・ヴェーゼマンの「ダンスは代理表象的なものではなく、(中略)祝祭文化に属している」という言説(※8)にコンセプトを得て、ようやく言及することのできた隘路であった。

舞踊評論家の中には、日本のコンテンポラリー・ダンスのアーティストやカンパニーが2000年代に入ってから陸続として現れ、多彩な活動を展開して「ブーム」を巻き起こしたと捉えている向きが多い。しかし、実際には水と油にしても珍しいキノコ舞踊団にしてもコンドルズにしても、個々の作品ではその見え方や印象に多少の差異はあったものの、カンパニーの旗揚げ当初の90年代からほとんど変わらぬスタンスで表現活動を続けてきた。一部の業界関係者やマスコミ関係者、熱心なファンなどのアーリー・アダプターにとっては、その魅力を最初期からリアルタイムに理解し評価することができていた。しかし、その反面アカデミズムの領域においては「ダンス」として認知することを逡巡し、評価を確定するまでにかなりの年数を要したのである。そのパラダイム・シフトが起こるまでのタイムラグは、実に5年から10年に及んだ。

●コンテンポラリーであるということ

ことほどさように、既存のジャンルや学術体系に依拠した固定観念から、アーティストの表現を断罪しようとする態度は考えものである。ただし、それは逆から考えれば、なかなか評価を獲得できなかったアーティストやカンパニーの表現が、それまでにはない先進性や独自性を有していたことの証明でもある。にわかに安易な評価を下すことが難しかったり、価値判断に迷うような表現であることが、コンテンポラリー・ダンスの「コンテンポラリー」たる所以でもあるのだ。

通常「コンテンポラリー・ダンス」という言葉は、歴史的な時代区分の中で用いられることが多い。モダン(近代)やポスト・モダン(脱近代)の後にくるのがコンテンポラリー(現代)であり、より具体的には80年代にフランスやベルギーから発生したヌーヴェル・ダンス以降、現在までのダンス・シーンを大雑把にくくった呼称と考えられている。

一方、観念的に考えるならば、そもそもコンテンポラリー(contemporary)の語源はラテン語のcon-(共に、一緒に)+tempus(時、時刻)で、「時を共にする」という意味である。訳語としては、「同時代の」(=同じ時に属している)や「現代の」(=現在に属している)が用いられる。しかし、con-には「すべて」という意味が、temporaryには「一時的な、仮の」という意味もあり、私はそこに「すべてが一時的な」「すべてが仮の」というニュアンスも含まれているのではないかと思っている。

これを芸術分野に当てはめて考えると、直訳すれば単に「現代舞踊」「現代美術」にしかならない「コンテンポラリー・ダンス」や「コンテンポラリー・アート」も、その内実として「まったく一時的にだけど、今のところ評価して支持しておきたいダンス」とか「まだ評価は確定できないけれども仮説的には極めてアート」といったニュアンスを持つものとして捉えることができるのではないだろうか。つまり、それまでの「ダンス」や「アート」の概念や定義を揺さぶるような表現、再認識や再定義を迫るような表現こそが「コンテンポラリー」なのだと考えたい。いわゆるカッティング・エッジ(先端的)であり、マージナルな(辺境の・限界ぎりぎりの)表現であることが「コンテンポラリー」なのである。

そのため、「今どきのコンテンポラリー・ダンス」という言い方は厳密には誤りである。なぜならコンテンポラリーな芸術表現は、常に「今どき」の問題性を孕んでいなければならないからである。そして、現在よりも先の未来に向けて評価がなされる可能性のあるもの、仮説的に評価を問うていくべきものであることがその存在証明となる。コンテンポラリーな芸術表現には、前提条件となるオーセンティックなドグマ(教義)とか、すでに評価の定まっているスタイルや技法を獲得するための特定のディシプリン(修練)は、必要とはされない。コンテンポラリー・ダンスもその都度、様々な表現様式や身体技法を貪欲に包摂し、混交がなされ、進展していくものなのである。何をしても許される場が担保されており、それが「今どき」であるか、「ダンス」であるかが吟味され、検証までに時間がかかれば留保される。アーティストの表現とともに観客のダンスの見方も推移し、変遷を重ねていく。そうして多様な表現の乱立する状況が「何でもアリ」と形容されるのも、ひとえに「コンテンポラリー」であるがゆえなのである。

その意味で、フランスの新星ビエール・リガルの『プ・レ・ス』はとても興味深いケース・スタディではないかと思う。80年代から世界をリードしてきたフランスのコンテンポラリーなダンス状況がうかがい知れるからである。(続く)

♯♯註
※4) 佳手芙美「演劇的なるものに向けて」(『JAN FABRE ヤン・ファーブルとの対話』1994年ペヨトル工房刊、p140)。

※5) コンドルズのメンバーの経歴が初めて紹介されたのは、各メンバーへのインタビューを掲載した2002年刊行の初の写真集(撮影:藤里一郎/インタビュー:岡本ノオト)においてであった。しかし、この写真集は自主制作によるものであり、公演会場のほか一部の大型書店やミュージアムショップでしか販売されなかった。メンバーたちの経歴がより広く一般に知られるようになるのは2003年で、パフォーミングアーツマガジン「Bacchus#00:特集・徹底解剖コンドルズだよ全員集合!」の刊行のよる(インタビュー:蟹澤志穂)。また、その直後に「演劇ぶっく」「レプリーク」などの演劇専門誌も追随して各メンバーを紹介する記事を掲載し、ようやくメンバー個々人のパーソナリティに注意が払われるようになった。

※6) 蟹澤志穂「VIVA! CONDORS」(「Bacchus#00:2003年春号」T2発行、p22-29)。

※7) 貫成人「ダンスの新次元を切り開く-ピナ・バウシュ新作『天地』」(「シアターアーツ:2004年秋号」AICT日本センター発行、p84)。

※8) 副島博彦「ドイツのコンテンポラリー・ダンスの現在」(『現代ドイツのパフォーミングアーツ』2006年三元社刊、p166)。
(初出:マガジン・ワンダーランド第152号[まぐまぐ! melma!]、2009年8月12日発行。購読は登録ページから)

▽ピエール・リガル「プ・レ・ス」
第1回 「寛容のオルギア」があぶり出したのは コンテンポラリー・ダンスは今(第150号
第2回 「ダンス」や「アート」の概念を揺さぶる表現(本号)
第3回 (次号)

【筆者略歴】
堤広志(つつみ・ひろし)
1966年川崎市生まれ。文化学院文学科演劇コース卒。編集者/演劇・舞踊ジャーナリスト。美術誌「art vision」、「演劇ぶっく」「せりふの時代」編集を経て、現在パフォーミングアーツマガジン「Bacchus」編集発行人。編書は「空飛ぶ雲の上団五郎一座『アチャラカ再誕生』」(論創社)、「現代ドイツのパフォーミングアーツ」(三元社)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tsutsumi-hiroshi/

【上演記録】
▽「プ・レ・ス」(Shizuoka春の芸術祭2009)
静岡芸術劇場(2009年6月13日-14日)
振付・出演:ピエール・リガル(カンパニー・デルニエール・ミニュート)
音楽:ニール・ボルデュール
上演時間:60分

製作:カンパニー・デルニエール・ミニュート、ゲイト・シアター(ロンドン)
共同製作:ランコントル・アンテルナシヨナル・ドゥ・セーヌ=サン=ドゥニ、テアトル・ガロンヌ(トゥールーズ)
助成:DRACミディ=ピレネー、トゥールーズ市、オート=ガロンヌ県議会、キュルチュールフランス=トゥールーズ市助成協定
協賛:キュルチュールフランス、フランス大使館、エールフランス航空、
協力:東京日仏学院


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