The Vagina Monologues (ヴァギナ モノローグス)

◎「ヴァギナ・モノローグス」にみる社会と身体
志賀信夫

「ヴァギナ モノローグス」公演チラシ▽ヴァギナとフェミニズム

70年代、フェミニズムの主張として、「女性はヴァギナで感じるのではない、クリトリスだ」とするものがあった。それは男性がヴァギナを求めるのに対して、女性にとって自らコントロールできる性器はクリトリスであり、エクスタシーに達するのはクリトリスだという、男性のフロイト的?ヴァギナ幻想を打ち破ろうという主張だったように思う。

実際には、ヴァギナでもアヌスでもクリトリスでもエクスタシーに達することができるようなのだが、アフリカ社会などのクリストリス切除などの風習は、性感帯としてのクリトリス優位性を実証しているようにも思える。
ヴァギナが語るという『ヴァギナ・モノローグス』は、元々、性的好奇心から見に行った。多少の情報で、それがフェミニズムの文脈の上に立っているらしいことは知っていたが、かつてジェンダーの本も作っていたので、その点からも興味を惹かれた。

この芝居は、作者イヴ・エンスラーがヴァギナについて、多くの女性にインタビューし、その結果に基づいて書かれたものだ。当初エンスラー自身が朗読芝居として上演したが、次第に広がり数人で語るようになり、ジェーン・フォンダ、ウィノナ・ライダーなど多くの有名女優たちも演じてきたという。世界数十カ国で翻訳・上演され、日本では2006年に宮本亜門演出、東ちづる、内田春菊などが出演して、上演されている。

イヴ・エンスラーがインタビューした女性の数は200人以上。少女、老女、主婦、娼婦、レズビアンなど、年齢や職業、背景もさまざまで、その体験も色々である。そのため、語られる個々の体験はとても興味深い。暴行されたなどの悲惨なものから、コミカルな話まで一杯に詰まっている。特に冒頭の夫が毛を剃りたがるという話はロリコン趣味につながるのだろうが、マニアなネタでインパクトがある。さらに最初のデートで車のソファを濡らして罵倒され、それから男性と付き合えなくなった女性。鍋つかみをイメージしていた女性など、ちょっとコミカルな話から、ボスニアのレイプの話、女性の心の叫びもリアルに伝わる。

そしてアクセントをつけるように、質問と回答が列挙される。「あなたのヴァギナが着るなら」「口をきくなら」「匂いを例えると」など。「何を着せる」という意図はどうもピンとこないが、列挙され文字で示されるイメージは多様で面白い。

また感じるときの声を並べて演じたり、さらに観客に「まんこ」と言わせたりと、観客の意識に訴えるという意味で、サービス満点。ついつい笑いながらも、ヴァギナと性のことを自然と考えていた。その意味で作者の意図は成功している。

この物語でも描かれているように、女性はヴァギナについて語ることは少ない。「恥部」「陰部」という名が当てられ、陰に追いやられている。自分の性器を見たことがない、恥ずかしいものだと親に教えられていたなど、社会的な風習や倫理観から、女性の自分の性に対する意識は閉じられた部分がある。

しかし実は男性もペニスについて、同様のところがある。親も「そんなところ触るんじゃありません」といい、やはり「陰部」である。風呂に入っても、丁寧に洗わずに恥ずかしいものとして扱う。積極的にきれいにするようになるのは、性行為を意識してからではないか。これには当然、親や社会からの性に対する価値観を反映しており、女性同様抑圧がある。

▽性と身体

ところで、このようにある種のプロパガンダ的な意図を持って書かれた芝居は、通常、面白くない。デモやシュプレヒコールと同様の社会運動ツールであり、それは一つのことしか主張しない。芸術表現は一つの感想や意識によって受け取られるものではない。多様な視点を求めるからこそ芸術表現といえる。反戦芝居や問題告発などの芝居が面白くないのはそのためだ。先日ある反戦イベントに参加したが、フォークソンググループの歌が「憲法九条」とリフレインするのには呆れた。『花はどこへ行った』も『風に吹かれて』も反戦歌とされるが、それを考えなくても惹き込まれる普遍性を獲得している。

つまり、何らかの主張を持っていても、それ以上に多様にとらえられるもの、その主張を超えたものがあれば、芸術表現といえる。この春、彩の国さいたま芸術劇場で上演されたヤン・ファーブルの『寛容のオルギア』は、そういう作品といえるだろう。ヤンの元々の動機は、ベルギーのアントワープが右傾化する流れに抵抗するというものだった。そして、資本主義、グローバリズムなどの批判が展開する。しかし、オナニー場面や性というモチーフを驚くほど過剰に使ったこと、さらにヤンの独自の美意識ゆえに、そこからはみ出し、身体の存在と多様な意味が溢れる結果となっていた。

この『ヴァギナ・モノローグス』にも似たところがある。というのは、性は普遍的だからである。つまり、人間は性を離れては生きていけず、性は生と死と同様に根源的なテーマだからだ。そして性に対するとらえ方は、個人としても社会としても多様である。そのため、女性の社会的抑圧に対する主張があっても、性はそこからはみ出して存在を主張する。この芝居にもそういう側面があるだろう。性というモチーフの本来持つ普遍性と多様性が、フェミニズム的主張を超えている。

また、この芝居はろう者とともに演じたことで、さらに別の様相を作り出した。演じつつ手話で語るろう者と言葉を語る役者。この二人一役は、劇団ク・ナウカが語り手のスピーカーと演じ手のムーバーに分けて芝居を作ったことに似ている。ク・ナウカは文楽的な構造で、言葉と身体の分離と解体、再構築を行ったといえるが、今回の芝居ではろう者という存在による問題提起が重なることで、別の次元の構造が重なった。このように分離した芝居の場合、演じ手を見る場合、言葉を離れてその身体性により着目することになるだろう。ク・ナウカでも、ムーバーを演じる美加理の身体性が輝き、他のムーバーの動きにも舞踊性が感じられる場面が多かった。

この芝居でも、ろう女優の忍足亜希子が、絞り出すように感情と表現を全身で示すとき、そしてフランスのろう女優イザベル・ヴォワズ(国際視覚劇場所属)が、独特の手話を含めた動きをするときに、そこに惹き込まれない観客はいなかったろう。文字通り言葉に語れない部分で、身体表現が生きた。つまり動き自体が独立して立ち上がり身体から来る魅力が表れた。

つまり性と身体がフェミニズム的視点を超えて観客に与えるものがある。

ただ、こういう社会的主張のある芝居にありがちなのだが、全体が緩い。場面の間合いに顕著なように、演劇、芝居として物語に引き込むための詰めが甘い。活動自体に意味を見出すゆえに、芝居の完成度を引き換えにしているように思えた。そこには、自分たちはマイノリティで正しいことを一所懸命やっている、という自己弁護と甘えがあるのではないか。

女性たちが揃って編物をしている場面も、全体の緩さを助長している。女性は編物というステレオタイプを批判しているようにも思えず、また優れた舞台美術家である加藤ちかが担当したとは思えない散漫なセットは、自由さを象徴することは推測されるが、舞台の弛緩を助長している。

しかしそうはいいながらも、語られる女性と性の物語には心惹かれる部分が多く、演じられる動きに引き込まれ、気がついたら性について考えていた。

▽「違い」の意味

僕自身は、性は抑圧されているから、欲望を生み、性行動につながると、漠然と考えている。しかしもちろん、その抑圧が、人間の基本的な権利や生活を侵害するようなものについては、改善されるのが当然である。

なぜ性は抑圧されるのか。性行為はなぜ恥ずかしいものなのか。沼正三の小説『家畜人ヤプー』において、女主人は家畜人に対して恥ずかしいという感情を持たない。
性を抑圧しているものは、社会だと学者はいう。だが、その抑圧といっても色々ある。例えば男性が挿入し女性が受け入れるという構造や、男性は日常的に精子を生産し、女性は定期的に排卵するということ、生理的、生物学的に生じるものが社会との関係で生む抑圧もあるだろう。この問題はここでは論じきれない。

一方で、性を考えるときに、生物学的性と社会的性、セックスとジェンダーという考えは普及した。しかし、この分類法は性の身体性を損なっているのでないかとも思う。例えば性の商品化を考えても、商品化自体は社会的だが、それを可能にしているものは、生物学的性と人間の性行為、性行動と性欲である。単純に社会的性差をなくすというのではなく、性差を認識し、その差を生かした対応をすべきであろう。

フェミニズムに限らず、社会的主張は時に過剰になる。例えば男女平等をいうあまり、「男らしく」「女らしく」は差別だという時代もあった。男女は違う、民族、宗教は違うといった違いを変えるのは無理がある。その違いをどう生かすかということに、意味があると気づきはじめたのが現代だ。

その意味でも、イヴ・エンスラーには、男性にインタビューして『ペニス・モノローグス』を書いてほしい。そうして対比して差を見つめることで、この作品はさらに意味をもってくるのだと思う。と書きつつ検索してみたら、男性が作った『ペニス・モノローグス』があるらしい。では次は、ダイアローグ(対話)か。『ヴァギナvsペニス・ダイアローグス』。あまり面白そうじゃない。やはりエンスラーの視点からのペニスの話、そんな芝居が見てみたい気がする。
(初出:マガジン・ワンダーランド第157号[まぐまぐ!, melma!]、2009年9月16日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
志賀信夫(しが・のぶお)
舞踊批評家、演劇、美術、文学についても書く。編集者、ライター。『ダンサート』『ダンスカフェ』『インビテーション』『バッカス』『TH(トーキングヘッズ)叢書』誌など。身体表現批評誌『Corpus コルプス』編集委員代表。舞踊批評家協会世話人。舞踏新人シリーズ、『ダンスがみたい』実行委員など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shiga-nobuo/

【上演記録】
The Vagina Monologues (ヴァギナ モノローグス)
東京・六本木 俳優座劇場(2009年8月17日-23日)
作 イブ・エンスラー
出演
〈手話〉
イザベル・ヴォワズ(IVT・フランスろう女優)
忍足亜希子(Milk It Inc)
大橋ひろえ(サイン アート プロジェクト.アジアン)
〈朗読〉
西田夏奈子
足立由夏(InnocentSphere)
大窪みこえ(WAHAHA本舗)

スタッフ
演出 平松れい子
翻訳 小澤英実
舞台監督 酒井詠理佳
舞台監督助手 坂野早織
舞台美術 加藤ちか
照明 大野道乃
音響 荒木まや
衣装 さとうみちよ
宣伝美術 京

手話通訳 柿本恵美子、井出敬子
日本ーフランス手話通訳 永井弓子

協賛 KDDI株式会社/株式会社セドナ/ナップエンタープライズ株式会社/株式会社サティスホーム
後援 在日フランス大使館/全日本ろう者演劇会議
助成 芸術文化振興基金vmonologuesma-kku.jpg
協力 IVT、WAHAHA本舗、株式会社ミルキット、ナゴヤプレーヤーズ、ステージオフィス、世田谷福祉専門学校・手話通訳学科、Queens
制作 廣川麻子(日本ろう者劇団)、田中真実、福島悠佳
制作協力 社会福祉法人トット基金日本ろう者劇団
企画・製作  サイン アート プロジェクト.アジアン

入場料 前売4500円 当日5000円 プレビュー3500円(8月17日・前売のみ)

トークショー・ゲスト:
8月18日(火)19:00 早瀬憲太郎 (映画監督/脚本「ゆずり葉」)
8月20日(木)14:00  喰始(たべはじめ) (WAHAHA本舗 主宰・演出)
8月20日(木)19:00 斉藤里恵(筆談ホステス)
8月22日(土)14:00 ピーコ (ファッションジャーナリスト)
8月22日(土)19:00 尾辻かな子(前大阪府議会議員、レズビアンアクティビスト)
8月23日(日)14:00 オールキャスト

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