タカハ劇団「モロトフカクテル」

◎現代っ子と「あの時代」
金塚さくら

「モロトフカクテル」公演チラシ高校時代、母校の生徒手帳には「生徒会規約」ではなく「生徒会自治要綱」と書かれていた。自治、なのだ。
制服着用の義務づけはすでに撤廃が勝ち取られ、生徒は思い思いの私服で登校していた。卒業式と入学式では日の丸掲揚および君が代斉唱の強要に抵抗するのが毎年の恒例行事で、「卒業式・入学式対策委員会(卒入対)」という他校には見られない珍しい委員会が中心となり、全校生徒を巻き込んだ大討論会が開催されたものだ。中学時代はPPMやサイモン&ガーファンクルなどを好んで聴いていた私は、高校生になると日本のフォークソングも聴くようになり、物理教師の弾くギターに合わせてピアノを弾いたりして放課後を過ごした。モロトフ火炎瓶の作り方については、入学した年の新入生歓迎会で部活紹介の時間に、何部かの先輩がホワイトボードに図を描いて説明してくれた。作り方そのものは忘れてしまったものの、実話だ。


念のために申し添えておくが、私が高校生活を送ったのは1997年から2000年春までの3年間だ。当時の標準的な高校生と比べて、どちらかと言えばユニークな環境にあったことは否めない。
制服撤廃など幾多の自由を勝ち取った大先輩たちの戦いの歴史は『改革の炎は消えず』という冊子にまとめられ、購買でパンと一緒に売られていた。

「戦いの火はあるか」。『モロトフカクテル』の作中で何度も繰り返される台詞だ。登場人物はそれぞれの局面で己に問う。自分は何をしたらいいのか。自分も何かできるのではないか。自分も何かをすべきなのではないか。自分自身を見つめ直すとき、彼らは確かめるように「戦いの火はあるか」と問いかける。

作品の舞台は現代に置かれている。そこは典型的な現代っ子がだらだらと集う大学の、古びた学生会館。実質的に機能しているとは言い難い自治会と、仲良しグループと大差ない手話サークルとが、会館からの退去を求める大学当局に対し、抵抗の戦いを挑むというのが物語の大枠だ。彼らの背後に、1960~70年代の「あの時代」に学生運動のまっただなかへ身を投じていった一組の恋人の姿が悲劇的に描かれる。現代と「あの時代」、ふたつの時代をつなぐキーパーソンは、大学事務員の吉田という初老の男だ。

掛け値なしの現代っ子ばかりが右往左往する物語ではあるのだが、舞台を覆うのは「あの時代」の空気であり、中心的なモチーフは「あの時代」の学生運動だ。
作品には紛れもなくノスタルジーの気配があるものの、劇場で配られたパンフレットには「わたしたちは あの時代を なつかしむことはできない」というコピーが書かれている。確かに、この作品の作り手には「あの時代」を懐かしむことは不可能だ。なにせ二十代。ここにあるのは当事者が振り返る想い出ではなく、見知らぬ過去への憧れとしてのノスタルジーだ。

現役女子大生という肩書きを持つ主宰が作・演出を手がけるタカハ劇団。若さ溢れるその舞台では、どういうわけだか森山良子を BGM に学生運動が燃え上がっている。リアルタイムで当時を知る世代が何を思うのかは解らない。むず痒いものもあるだろう。しかし主宰と同世代の私は、この作品に塗り込められた「あの時代」への憧れを、共感をもって受け止める。

2000年春、「四年制」などとも揶揄される高校(四年目は近隣の駿台や代ゼミで授業を受ける)を無事卒業した私は、どうにか浪人もせずに大学生となった。進学先は、後にタカハ劇団主宰となる高羽彩と同じ早稲田大学文学部。キャンパスに林立するタテカンが「大学当局との戦い」を訴え、アジびらが宙を舞う時代遅れな光景に、特に違和感を覚えることはなかった。

高羽より二年ばかり先に入学していた私は、彼女が人づての伝説としてしか知らないという古きよき第一学生会館をこの目で見ている。作中で描かれたのとよく似た騒ぎが、大学二年の夏のはじめ、実際に起こっていた。

各種サークルが活動場所としていた老朽化した会館は、時間が埃となって降り積もり、その中だけまだ昭和が続いているようだった。レトロと呼ぶにはあまりにも小汚い空間だったが、妙に居心地がよく、取り壊して失くしてしまうのは確かに惜しかった。退去の通達にぶちぶちと文句を垂れながらも、私たちは荷物を取りまとめ、代々の先輩諸氏が蓄えてきたわけのわからない歴史的遺物が瓦礫の下に埋まってしまう前に従順にお引っ越しをしたのだった。サークル幹部の中には最後の篭城戦に嬉々として参加した者もいたが、同時に新しい学生会館での部室獲得の手続きをソツなく進めているあたりが、どうしようもなく現代っ子だった。

舞台のクライマックス、学校側に抵抗して学生会館に立て篭もる彼らを見ながら、私は自分の大学時代に思いを馳せていた。眼前には赫々と燃えるストーブを取り囲んで、学部生六人と院生一人と、大人が一人。開戦のときを待つ静かな夜。-あの夜。早稲田大学第一学生会館最後の夜、私はどこで何をしていただろうか。

篭城の現場にはもちろんいなかった。おそらくいつもどおりに家に帰って、夕食の後は風呂に入って普通に寝たのだ。あの篭城はまったくの茶番なのが見え透いていて、いかにフォーク好き、「あの時代」好きの私であっても、参加する気にはならなかった。
あんなところに一日二日立て篭もってみたところで、それで取り壊しとその後の建築計画が一切合財すべて白紙に返るわけがないのだ。本気で戦うべきときは、もっとずっと以前だったに違いない。そんなことは誰しも知っていて要求が通らないのが明らかでありながら、一夜ばかり篭城戦をして抵抗ごっこを楽しもうという軽薄さが嫌だった。本気の人間なんて、きっといなかったに違いない。

戦いに憧れる心は、私にもある。それは必ずしも暴力への渇望や破壊衝動などということではない。ただ戦いの場の、勇敢な自分を夢想するだけだ。戦わざるを得ない状況に陥りさえすれば、自分だって戦うために立ち上がるのではないか。そんな夢を見るのだ。現状の自分は受け身で軟弱で根性なしだけれども、しかるべき境遇に置かれさえすれば、きっと違う。自らの力で考え判断し、勇敢に振る舞うはずだ。今はただ、環境があまりにも覚悟や気概を必要としなすぎるから。だから本気を出しそびれたまま、だらだらと生きてしまうのだ。 いや本当は、「あの時代」への憧れとは、自分自身が戦いに参加するかどうかというよりも、そこに戦いがある、という状況に対するものなのかもしれない。それは社会や政治や世の中の在り方など、誰かが考えねばならないことを真剣に考えようとしている人がいるということに他ならないからだ。自分を含めて難しい問題は巧妙に避けて通ろうとする人間ばかりの現状には、己のことは棚に上げて、無責任にも不安を覚える。自分は気が進まないにしても、誰かには戦っていてほしい。

ひどい甘えだ。言い訳がましい上に無責任だ。他力本願にもほどがある。お気楽な現代っ子も、自分たちの世代に蔓延している根性のなさや不甲斐なさを痛感していて、その情けなさを憂えていたりするのだ。だから、この世から消えてしまいそうな戦いの火を、自分の内に点してみたいと夢を見る。

戦いの火は、私の母校では確かに消えていなかった。とはいえ、実際には大多数は無責任な現代っ子ばかりで、本気で頑張っていたのはほんの一部に過ぎない。それもまた、まさに『モロトフカクテル』作中の田口自治会長や佐藤セクト員のような風貌の連中(ロゴ入りトレーナーがパンツにイン、巨大なリュックサックや意味不明なバンダナ等を身につけ、会話がオタク)だったりするので、現代っ子たちのヤバいキモいウザい的神経を刺激するため、ほとんど風前のともし火のようなものではあった。

現代っ子にとって、「本気」はかなり「ヤバい」のだ。勇気ある一部を除き、私たちは巧みなバランス感覚で本気になることを回避して生きる。そうして、そんな軽薄な自分に嫌気がさして、本気になれる人たちを心の奥底で羨んだりするのだ。
私たち現代っ子が「あの時代」にノスタルジーを感じるとき、そこには嫉妬と羨望が多分に混じりこんでいる。本気で叫び、本気で歌い、本気で団結していた彼らがひどく羨ましい。

もちろん「あの時代」、当時の実際がどうであったのかは知らない。すべての大学生が運動に参加したわけではないのだし、理論武装の上に白ヘルと角棒を持って立て篭もっていた面々のもどれだけ本気だったのかは解らない。議論の中身だって、実は上っ面ばかりのコピーキャットだったかもしれない。それでも、何かその全体を彩る「真剣っぽさ」は私たちの目にまばゆく映る。あんな風に本気の熱意で、夜明けを待ちながら皆で声を合わせて「友よ」と歌うことができるというなら、私だって第一学生会館に立て篭もりたかったのだ。

物語の終盤、吉田は火炎瓶を持って「敵」に向かって駆け出してゆく。それを追っていって必死に止めるのは、彼よりもずっと若い学生たちだ。その結末に現代っ子の限界がある。どんなに憧れを燃やしても、結局私たちはそのやり方では戦えない。
いつどこで知ったのか、現代っ子は機動隊に火炎瓶を投げつけたところで学生会館の取り壊しは中止されないということを知っているのだ。小規模の抵抗や闘争に意味がないことを知っている。あるいは、多少なりとも意味があるとしたらせいぜい嫌がらせにはなるということを知っている。美しい戦いなどこの世のどこにもなく、暴力は常に無惨だということを知っている。理想論だけでは何事も立ち行かず、世の中は劇的に変化したりしないことを知っている。人間ひとりの無力さを知っている。愚かさを知っている。醜さを知っている。どうやって知ったのかは知らないけれど。

『モロトフカクテル』は現代っ子の夢だ。幻想を持たず現実ばかりを知って、戦えないまま敗北を選ぶ私たちが、パラレルワールドで戦いに挑む自分を見つける物語だ。震える足を踏みしめて凛々しく立ち上がり-けれどやはり現代っ子は最後の最後で踏み込むことをやめてしまうから哀れだ。虚構なのだからと言ってとことんまで踏み込ませてしまうには、私たちの世代はつまらないことを知りすぎている。

私たちに残された最後の希望は、この「知っている」と思っていることを私たちははたして“本当に”知っているのだろうかという、懐疑だけだ。現代っ子には、自分を信じない限りにおいて、勝利の可能性が残されるのだ。そうして私たちは結局、自分を信じて戦うことのできた「あの時代」を、嫉妬と羨望の眼差しで眺め続けている。(2009.10.16観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第168号、2009年12月02日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
タカハ劇団第5回公演「モロトフカクテル」-第2回演劇村フェスティバル
座・高円寺1(2009年10月15日-10月18日)
作・演出: 高羽彩
出演:有馬自由(扉座)/畑中智行(演劇集団キャラメルボックス)/広澤草/恩田隆一(ONEOR8)/奥田ワレタ(クロムモブリデン)/石川ユリコ(拙者ムニエル)/山口森広/酒巻誉洋(elePHANTMoon)/浦井大輔(コマツ企画)/西地修哉(726)/こいけけいこ(リュカ.)/小沢道成(虚構の劇団)

舞台美術:稲田美智子
舞台監督:藤田有紀彦
照明:吉村愛子(Fantasista?ish)
音響:角張正雄
演出助手:棚瀬巧

入場料金 全席指定 一般 3,300円(税込) 学生割引※ 2,500円(税込)

企画協力:嶌津信勝(krei inc.)
運営:安田裕美、たけいけいこ
制作統括:赤沼かがみ(G-up)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください