ガールズ・トーク「4.48 サイコシス」(サラ・ケイン作、飴屋法水演出)

これまで何回か掲載した「鼎談」企画の復活第一弾として、座談会をお届けします。取り上げるのはフェスティバル/トーキョーで大きな話題を呼んだ「4.48 サイコシス」(作:サラ・ケイン、演出:飴屋法水)。イギリスの女性劇作家の作品を、4人の女性に思う存分語っていただく趣向です。題して「ガールズ・トーク『4.48 サイコシス』」。次々飛び出す目から鱗の発言にご注目あれ。

はじめに

芦沢みどり 私は2007年に、シアターχでサラ・ケインの「フェイドラの恋」をやったときに翻訳を担当しました。その上演は、諸般の事情からあまりうまく行かなかったのですが。
田口アヤコ 私は以前、阿部初美さんのリーディングでサラ・ケインのことを知ったのですが、その時には見に行けず、結局、テキストに触れたのも上演を見たのも今回が初めてでした。以前から興味はあったんですが。自殺とか、センセーショナルなことが言われがちですが、そうでないところで入ってきたという印象でした。事前の知識はないんですが、演出も劇作・女優もやっているので、自分がやるとしたら…という点でお話ができれば。
川渕優子 サラ・ケインは、2005年の舞台芸術に掲載された「サイコシス」のテキストで初めて知りました。実際に観たのは、今年静岡で上演された「ブラスティッド」と今回の「サイコシス」です。改めてテキストを読むと、舞台上でこの言葉を喋ることの難しさを感じます。
今回は、自分の中に解決できないもやもやが残った舞台でした。このもやもやは何なんだろうと考えた時に、演出ノートに「たとえ、まちがった時代に、まちがった体で、演じられようが」と書かれてあって(*)、ああそうかと思いました。「サラ・ケインのことは僕には分からない」って言われた気がして。このもやもやは「サラ・ケインのこと」なのではないかと。他人には絶対に理解できないことがある、ということをやりたかったのかしら、などと考えられて面白い舞台でした。
杵渕里果 私も阿部初美が最初です。そのときシンポジウムで、たしか翻訳の谷岡健彦が、サラ・ケインの摂食障害を話しました。私も摂食障害をしたことがあるので、サラ・ケインに病気トモダチ的な親近感をもちました。

自傷行為と女性性
芦沢みどりさん芦沢 じゃあ、まず簡単にサラ・ケインの紹介を。サラ・ケインは1971年生まれで1999年自死。処女作の「ブラスティッド」の初演が1995年で、それから死ぬまでの4年間に毎年1作ずつ作品を発表している。彼女が出てきた背景ですが、英国の90年代演劇は、20代の劇作家がたくさん出てきたんですね。ロイヤル・コートの芸術監督スティーブン・ダルドリーが若い人の作品を積極的に取り上げた。フィリップ・リドリーとかマーク・ラヴェンヒルとかジェズ・バタワースなど。作品には、暴力を前面に出し、男性性への疑問、消費社会への疑問などといった傾向があります。
そうした中で、サラ・ケインが違うのは、他の人たちはナチュラリズムで書いており、そのまま再現すれば舞台が成立するのに対して、サラ・ケインは「ブラスティッド」と「フェイドラの恋」はそうですが、3,4,5作目になるとテキスト解体になってくる。内容の暴力性でなく、形式の方で戯曲の形を壊していくような。「サイコシス」に、どうやら精神科の医者と患者らしい会話があります。精神科医の台詞は、日本語では僕になっているけど、本来は男女もわからないんですね。初演のロイヤル・コートで、医者はやはり男になっていたのでそれが定着したのかもしれませんが。
杵渕 一つ質問です。入院するほどに精神状態のひどい晩年、演劇活動も並行できていたんですか?
芦沢 モノローグは詩的なんだけど、ダイアローグは急に具体的になる。あの人、私のこと好きなのか嫌いなのかとか。意識がはっきりしているときとそうでないときの差が激しくて、落ち込んでいるときには書けない状態なのかな。活動開始から自殺までの5年は活発ですよね。外国で上演されるときには外国に行って、インタビューも受けている。
杵渕 サラ・ケイン晩年と同じ頃のイギリスについて、興味深い記事をみつけました。「サイコシス」はリストカットの描写が多い芝居だったので、『リストカット―自傷行為をのりこえる』 (林直樹・講談社現代新書)を読んだのですが、95年、ダイアナがBBCでリストカットを告白し、これに感染して、英国でのリストカットが大流行というか、急増したそうです。ダイアナは97年に死ぬ。この同時期、サラは入退院しつつ戯曲を執筆し、99年に自殺していった。サラ・ケインって、イギリスの若い女性の気分的なモードとすごくぴったり添ってたんじゃないかな。彼女は、ある意味“ファッショナブルな女”なのかも。
芦沢 フェイドラの恋も王室を題材にしていますし。確かに、イギリス王室のことを意識していたところがあるみたい。
田口アヤコさん田口 鬱の話が出ると、いつも考えるのは雅子さまのことですね。何年か前に広尾でポタライブというお散歩演劇をしたときに、雅子さまと美智子さまの話をしましょうっていうことになって。そのときキャストだったので、私が持ってくるとしたら何だろうって。がんばりすぎた女の子が鬱みたいになるということをすごく考えたんですね。ダイアナ妃もそうだと思うんですが、その燃え尽き感というのは何だろうって。サラさんもすごく優秀な方だったんですよね。
芦沢 バーミンガム大学を首席で卒業していますからね。
田口 女の人って、男の人よりがんばらないと家の外にも出られないというところがあって。着るモノに気をつけて化粧して、髪を直して、外に武装して出るみたいなところが。大変だなっていつも思うんですけど。
芦沢 田口さんが「女だけの座談会」を提案したのは、その辺ですか。
田口 そういうことに関して自分は違うっていう女性もいると思いますが、私は、(今回の演出家の)飴屋(法水)さんの演出したかったことというよりは、サラさんが書きたかったこと、に近づいてみたいっていうのがあって。
杵渕 飴屋法水は、バリバリ男ですけど(笑)、そのへんは?
芦沢 俺は男だみたいなのは感じないけど。
杵渕 うそ! 「サイコシス」の舞台、中央に筋トレ・マシーンがあって、役者が折りにふれ筋トレやりますよ? 飴屋法水は若い頃、唐十郎の「状況劇場」にいたから、筋トレで「特権的肉体」なのか、って思った。
全員 (爆笑)
芦沢 (舞台は)体育館というか、薄ら寒いところでしたね。病院以外でこの薄ら寒さを表現すると体育館になるのかなって。
田口 飴屋さんのプランがそういうスポーツ的なところにあるというよりは、集まった人が何を身体的に持っているのかというところから出ているのかと。例えば、「何やっていると生きている感じがする?」といった話を座組でしたとして、そのときに「私はボクシングをしているときに生きている感じがします」とか、スポーツというのが出てきたのかなって思ったんだけど。
杵渕 今回のキャストは、どんなふうに集めたんですか。
川渕 今年7月に飴屋さんが「3人いる!」をやった時に出ていた人が何人かいましたね。もともとどのように集めたのかはわかりませんが(**)。
芦沢 日本語があまりうまくない外国人が何人かいましたね。
杵渕 キャストの資料がないのでわかりませんが、スパーリングしながら舞台を一周する男性は、本物のボクサーですか?
田口 プロではなかったですね。
杵渕 ボクシングで鍛えた身体には見えました。台詞はなかったよね。
芦沢 サラ・ケインの戯曲は登場人物の設定がないわけだから、何人でやってもOKなんだけど。この人数はすごいと思いました。
サラ・ケインって読んでいるとすごい女性性があるんですよ。もしかしてレズビアンかもしれないと思わせる表現もありますし。今回の上演は「あまりサラ・ケインらしくない」という感じがしたんですが、でも、男性的とも思わなかったし、これだけ人数がいるのは面白いなと。サラ・ケインがテキストを解体してどうにでもやりなさいという挑発をした。それをちゃんと引き受けて発展させたという感じはします。その点は評価します。サラ・ケインではないけど嫌ではなかった。
杵渕里果さん杵渕 新書『リストカット』によると、リスカとは自己憎悪・自己処罰だそうです。「サイコシス」で「おまえが悪い」「あなたがバカだ」、色々な声がでてくるのは、自分から自分への内面の責めだと思う。以前は他人だった誰かの声を自我に取り込んでしまってて、リスカで自己処罰し続けるんでしょ? 精神科医の台詞もあるけど、それももしかして、自分がイメージした精神科医の声かもしれない。全部の台詞が、自分ひとりの声ともいえるし、実在の他人の声と繋がってもいる。自他が明確に弁別しがたい、ぐずぐずの精神状態を書いた戯曲だと思う。だからこの戯曲は、何人で台詞を分担しても妥当になるんでしょう。
飴屋演出では、「私が悪い」「お前が悪い」「僕が悪い」「あなたが悪い」のように、男優と女優がふたりで掛け合うシーンがでてきます。けど、原作は英語なのだから、“I”と“YOU”の、非常に中性的な掛け合いだったと思う。「僕」「私」という和訳を、男優女優の身体に落とし込んだため、ヘテロセクシャルな相克にみえてしまい、ある精神状態の極限を描いた“サイコシス”という戯曲から遠くなった舞台だと思う。
芦沢 それでもいいんじゃないですか。散漫というか、広げすぎた感じはあるけど。
杵渕 よかったのは、女優で安ハンセム。日本語ネイティブではないでしょう。スムーズでない日本語が、カツカツつかえる感じで、声色も攻撃的で悲痛だった。日常世界で生きられない人の、“サイコシス”な内面で反響する言葉は、こういうトーンかな、と思えた。反対に、いまいちなのは、日本人男優ふたりのスムーズな標準語。「うおー」「むかつくー」と、怒りの表現が明るすぎ。

特権的肉体=山川冬樹

芦沢 山川冬樹さんはどうでした?
杵渕 山川冬樹って、チベットを訪ねてホーメイを身につけた本場じこみの歌手なんでしょ?。腰までの長髪も神秘的でした。あれほど見事にホーメイをうならせる人がリストカットの身振りをしてると、 なんか、“修行”、みたい。精神病というより、神々しかった…。
田口 山川さんって悪魔みたいだなって思って。神を超えて悪魔みたい。
杵渕 「サイコシス」よりは、“山川冬樹ショー”として堪能しましたね。
芦沢 存在感が強すぎるのよね。
杵渕 開演早々、山川冬樹が髪の毛ゆらして、天井からぶら下がってでてきて、その瞬間、サラ・ケイン、どっか飛びますよね。
全員(爆笑)

「4.48 サイコシス」

「4.48 サイコシス」
【写真は「4.48 サイコシス」公演から 撮影=©Jun Ishikawa 石川純 提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

田口 最初、「一万匹のゴキブリ」ってシーンで始まるけど、それを表現しているのかな(笑)
杵渕 その表現なの?すごいショック(笑)
芦沢 心臓の音がしていましたね。山川冬樹さんは、心臓を止めたりもできるらしい。骨伝導マイクで音を拾って。心臓の鼓動の速度や強さを意図的に制御できて、時に停止させながら、連動させた装置の光を明滅させて。パフォーマンスをしている人なんだって。
杵渕 え、心臓止められるの?! それにしても、ホーメイは、声が二つ出る歌い方でしょ? 演出意図はやはり、…精神病を「特権的肉体」で乗り越えよう(笑)。ともかく、山川冬樹ををたくさん見れてうれしかったな。遠目でも近目でも美男子。
芦沢 美しいと言えば、血の池に沈むときに髪がぱあっと広がるじゃない。
杵渕 髪の毛だけ水面に残るのね。壇ノ浦の建礼門院はあの状態なんだよね。
田口 山川さんが一人で特権的肉体というのはどうなんでしょう。
杵渕 山川冬樹、アンド、その他おおぜい、ってかんじだもんね。
川渕 一人立ち位置が違うという意味ではいいのかなと。位相が違うという気がしたので。場を支配してました。

みんなの、私の、サラ・ケイン

田口 全体的には今回の飴屋さんの演出は、救いがあるところがすごくよかったと思うんですよ。サラさんの状態はすごく絶望的な状態だったけど、それを上演したときに、飴屋さんの演出が入ることによって、これから生きていく人の話になったなと。
杵渕 そう? 私は、女性患者が、切々とカウンセリングを受けるシーンに重なるように、舞台前方の俳優たちが、筋トレやフェンシング始めたあたりで、“女の子の暗い話につきあいきれなくて部活に逃げた男の子たち”を感じちゃったよ。
田口 すごいディスコミュニケーションですよね。私が面白いなと思ったのは、「私は悲しい」で始まるところと、最後の方の「~なこと」という二カ所のモノローグ。男女のペアで言っているんですが、ぶつかっているけど、わかり合えていないんですよね。聞いてはいるけど、それは受け入れられないというのをやっている。生きていると全部は受け止めてもらえない。でも、次は聞いてもらえるかもしれない。ペアになっているのは、閉じていない、開いていると私は思ったんですね。世界に開いた上演だなっと思って。
杵渕 それは飴屋さんがうれしい受け取り方ですよね。私は、飴屋法水は、美しいイメージを作るのには成功して、どのシーンも絵づらはよかったけど、“サイコシス”、つまり“ 精神障害”を表現した舞台としては、物足りないと思った。
芦沢 サラ・ケインの場合は必ず「私のサラ・ケイン」っていうのがあって。みんなそういう風に思っちゃう。飴屋さんがやったのはそういうのを全部壊していくみたいなところがあって、それはそれで痛快だった。「ハッチが開く」という表現があるから、閉じられた世界というのはわかるはずなんだけど、舞台を体育館みたいなところにしたり。わざとそうしているんだろうと。「ここまで広がるよ、できるよ」というのを見せたかったんでしょう。確かに絵も見せたかったでしょう。台詞はしゃべってはいるけれども、俳優じゃなくてパフォーマーだったり。場所も劇場の客席と舞台を入れ替えたり。色々な意味で越境する。ここまでサラ・ケインってできるよということでしょう。
杵渕 舞台上に、映画館のような赤いシートがずらっと並んでいて、通路やシートの上空に、卓球台、バスケットのゴール、バイク、筋トレ・マシーン…、運動っぽい用具が配置されてました。赤いシートにはいちいちビニールが張ってあったけど、あれ、何の意味?
芦沢 あれ、やあね。血が落ちるからでしょ。養生のため。
杵渕 劇場の椅子を借りうけて、新品だからカバーは外せなかったダケ?…
ケチだなぁ。
川渕優子さん川渕 あれは私も引っかかってて。見る人によっては養生かなって思えてしまうところがもったいないという気がしました。
芦沢 それを何か逆手に取って生かすような演出があればね。台詞は英語で読んだ方がわかりやすいですね。英語の方が、一つの言葉が具体的から抽象的な意味までカバーする範囲が広いじゃないですか。日本語になっちゃうとどうしても抽象的で難しいこと言っているなって思うんだけど、英語ではもっと具体的なイメージがあるわけだから。翻訳する段階でどうしても無理がある。でも、言葉堅いな、もう少し軽くできなかったのかな。
杵渕 何のつもりで外国人をあんなに配置したんでしょう。韓国人の女の子(安ハンセム)はわかるんだけど。見栄え的にサラ・ケインや飴屋さんの世界を助けているわけでもないでしょう。
田口 ディスコミュニケーションみたいなことではないかな。日本人どうしだとわかりあっているように見えてしまうし。サラ・ケインが精神科医と話していて「わかってもらえていない」と感じる気持ちを舞台に載せるのは難しいんだけど、「通じていない」という絵がほしかったのでは。外国人の男性は、俳優っぽかったですよね。俳優を仕事にしたことがある人たちというか、舞台に立つことについて処理できている感じがした。
芦沢 みんな、一癖二癖ありそうだった。
杵渕 チベットつながりだったりして。
川渕 危ない人たちなのかな。
杵渕 さあ(笑)。それにしても、飴屋演出の「サイコシス」は、精神障害を抱える複数の人々が、舞台の各所で、「うおーむかつく」と叫んだり、精神科医にブツブツ相談したり、公衆電話に何か呟いたり。病いをかかえた、あるひとりの人間の、内面世界の地獄絵図というよりは、「若者はみんな、つらいん
だ」という、いわゆるアブない人々の青春絵巻にみえた。
川渕 個々人がそれぞれに病んでいるという感じはしました。
田口 これは聞いた話ですけれど、東京グランギニョルのころから、飴屋さんが「こういうことやってくれ」というよりは、集まった人たちそれぞれが、その個性を活かしてやれることをやってくださいという演出だったらしいですけれど。
川渕 天気予報もあった。
田口 バイクのイメージはどうだったのかな。ロビーにもディスプレーがあったけど。人間には制御できない力とか。
川渕 バイクっていうとどういうイメージなのかな。
田口 尾崎豊とか。
杵渕 女の自殺・サラ・ケインに対抗して、男の自殺を尾崎豊に象徴させたとか?
芦沢 そういう世界なの(笑)?
田口 どんな人でも少年少女時代は経ているわけで、みんなに受け入れられるものを作るときに、そこから離れたものを作るって、すごい難しいことだなって思うんですね。サラさんはちょっとだけ父親・母親の話を書いているけど、上演の方が印象的でしたね。読んだ感じは「これしか出てこないのか」と。そのへんは飴屋さんのこだわりかなって。
芦沢 お父さんのことは嫌っていたみたいですね。お父さんは新聞記者で。そこらへんに何かあるらしいということは資料にありますね。
川渕 テキストを読むと、外とつながりたかったんじゃないかと。つながろうとするから傷つくんでしょうけれども。内的な言葉が多いけどすごく外に開いている戯曲だと感じます。
田口 日本では劇作家と演出家が分かれていなくて、書きました、お願いしますというのが難しいけど、イギリスではあるわけですよね。書いたから手放すという。その仕事を選んだんですよね。
芦沢 戯曲のうち一つは自分で演出しているんですね。後はジェームズ・マクドナルドっていうロイヤル・コートのアソシエート・ディレクターで、その人が後は全部やっている。日本みたいに、自分たちでグループを作って全部やるという人たちもいるのかもしれないけど、劇作家として出て行くためには、どこかで上演してもらわないと。劇場に持って行くという。
杵渕 そうでなくとも、サラ・ケインの場合は精神的な病いを抱えているから、演出家として大勢を束ねるのは難しくないですか?
芦沢 病気したりよくなったりを繰り返しているので、「フェイドラの恋」は自分で演出をしている。ナチュラリズムの演出で、ヒッポリトスという王子が出てきて、それが民衆に血祭りに上げられて内蔵をかっ切られて、性器も切り取られて。それ全部やるんですよね。鳥の臓物買ってきたりして。それでキャストがみんな逃げちゃって。何回も変わったらしい。当然劇評家の評判はよくなくて、「サイコシス」に関しても、保守的な劇評家でマイケル・ビリントンという人が、「こんなの自殺した女の遺書じゃないか、どうして戯曲なんだ」って。ある意味でそれは本質を突いていて、だからこそ書いたんだし、だからこそ戯曲にした。自分でも書くことが挑戦だったし、上演させるのも挑発だったんだと思う。そういう批判が出てくるのも当然だし、受けて立つ人が出てくる。飴屋さんは受けて立った。

鬱なんてわからない

田口 飴屋さん自身は、そもそも自分がやりたくてやったわけではないということは演劇キックのインタビューで言っていますね。そこで鬱なんて自分にはわからないとも言っていたし(***)。
杵渕 なるほど。「鬱なんてわからない」演出家だから、「うおーむかつく!」と、派手に苦しむ人がワラワラ登場する「サイコシス」になったのかも…。でも、私の前の列の大学生ほどの男の子、グズグズ、泣きっぱなしでした。リスカは女のこがよくする症状だろう、との先入観があったので、”男泣き”は不思議な気がしたんですが、さっきの新書によると、男性でも刑務所に入ったりの極限状況では自傷行為が増えるんですって。ある辛さにいる男には、ものすごく響くのかなぁ。
川渕 「精神病ってこんな感じだよね」みたいに見えるのはどうしてなんでしょう?客席を見ると泣いている人もいて、そういう人には響いているのかなと。でも、私はなんだか納得できなくて、現実通りでなきゃいけないとは思わないんだけど…。
田口 どうなんだろう。精神科医のこの会話は類型的な会話だから、サラさんも類型的にしようとして書いているんじゃないかな。後半のモノローグの「~なこと」を並べているのは、精神病から回復していく間に取り戻さなければならないこと、というような専門書の記述なんですよね。外から精神病について考えて記述しようというのはサラさんの中にあったと思う。
川渕 怒る人がいてもおかしくないのかなとは思った。「こんなんじゃない」って。
田口 映画にしても小説にしても「実際はこうじゃないよ」って言われるのは恐ろしいことだよね。
川渕 絶対にこの人のことはわからないんだという面白さはあったんですが、もう少し身体を突き抜けるものが欲しいなと。「転校生」を観たときは、意味分かんないんだけどあれもこれも身体に響く!という感じがしました。
杵渕 「意味がわからないけど泣けた」、と思えたらよかったのにね。飴屋演出「サイコシス」は、「うおーむかつく」「そうだ、青春ってみんなつらいんだよ」って解読しながら見てしまいました。「わからないことを突きつけられる」ではなく、「わかりやすいお話を突きつけられて」感じちゃった。サラ・ケインのテキストそのものの方が不気味だし、山川冬樹の存在の方が、上演全体より印象深かった。
川渕 バスケットのゴールとかいらないのかも。
杵渕 卓球台とかね。筋トレマシーンも二台あるし。運動器具、置きすぎ。田口 逃げ場があるってことだと思うんですけどね。ストレス解消のためにボクシングしてもいいし。電話するでもいいし。こういう方法もあるんだっていう。
杵渕 エッ? 精神的に追い詰められたときは、ボクシングしよう、卓球しよう、フェンシングしよう、公衆電話もある、ホーメイ歌うとなおイイヨ、みたいな提案??
田口 ホーメイ聞いただけで癒されるみたいな。心が動くのがわかるっていうか。
杵渕 ホーメイ聞くだけなら、テキストはサラ・ケインじゃなくていい。宮沢賢治でもなんでもいい(笑)。
川渕 さっき、芦沢さんが「私のサラ・ケイン」ってあるってお話をされましたけれど、宮沢賢治とかもあるそうですよ。「これは賢治ではない」っていう。
杵渕 そうだよね~。でも、たぶんさ、演目が『サイコシス』でも『オッペルと象』でも、山川冬樹が天井からつるされて、ホーメイ歌いだしちゃう演出ってありうるじゃない? そのとき誰かが必ず「これは違う!」って違和感を持つんだけど、誰かのツボにははまっちゃうから、「なるほど!、さすが飴屋だ」とかノリノリに泣けちゃうんだよ。

ガールズ・トーク「4.48 サイコシス」

ガールズ・トーク「4.48 サイコシス」
【写真はガールズ・トーク「4.48 サイコシス」から 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

田口 パフォーマーはそれぞれ真摯に取り組んでいたと思うんですね。それが舞台の強度につながっている。何でしゃべっているのを見ていられるか。テキストを言うことについて、距離を自分で埋めなきゃというエネルギーは感じたんだけど、それが演出の仕事なのか、個人の仕事なのか。
芦沢 テキストは丁寧に扱っているというのはあった。だから伝わってきたんじゃないですか。
川渕 嘘っぽくなかったです。
芦沢 心臓の音もそうだけど、今回の上演は、電話を切った後のつーつーっていう、ああいう耳に残る音があった。
川渕 「a long silence」とか。
杵渕 テキストは激しいのに、音は癒し系だった。
田口 飴屋さんは優しいのかもね。
杵渕 飴屋法水、95年、「東中野に『動物堂』を開店し、様々な生物の飼育と販売を開始」。生命を愛しみたい人なのよ。サラ・ケインとは、そこが違う(笑)。

理想の上演は?

川渕 テキストを読むと、私にはどれも一人の人の言葉と読めてしまう。
田口 私も読んでどうするかと言ったら一人芝居かなあと。
杵渕 イザベル・ユペールがやったみたい。見た人によると、ユペールは舞台に突っ立って、微動だにせず、目線だけ動くかんじで、全部の台詞を一人で喋り続けたのだそう。目しか動かない感じで。
芦沢 一番サラ・ケインの世界に近いやり方だったかも。今回のは長すぎたんじゃないか。二時間ぐらいあったでしょ。そんなに楽しい世界じゃないから、せいぜい一時間半。これ本当は普通にやると75分ですよね。パフォーマンス的なものが入って二時間になったんですよね。一人芝居なら男女どちらがいいかな。
杵渕 役者の力が前提でしょう。資質が合いさえすれば男優でもいいんじゃない?
田口 俳優としての力は、スイッチが入ってどう変わるかですからね。
芦沢 田口さん、どうですか。
田口 私のカンパニーでやるとしたら、と考えてみたら、やはり私が一人でやろう、という結論でした。読んでて、こういうことができるな、というのが自分で浮かぶという。
芦沢 やってもらうよりも自分でやった方が早いと。
田口 俳優だけでは作りづらいとは思いますけどね。翻訳をやり直すとか、ドラマトゥルグとか。テキストとの距離をしっかり測って取り組まないと、作品にならいと思うんですね。
芦沢 イザベル・ユペールは映像を使ってた。例の数字が減っていくっていう。
川渕 自分の中を横切るイメージのようなものなのかな。発語することは難しいと思います。
(12月8日、都内にて)

【編注】
* 「4.48 サイコシス」当日パンフレットの演出ノートから。「(前略)彼女は、劇作家、だった。/だから、彼女の書いた/そのめんどくさい言葉たちは。/まだこの世に生きている人の口で、/他人の声で、/音、に変換されることを望んでいる。/時に、母国語ではない言葉で、/時に、ねじまげられようが、汚されようが、/それでも赤の他人にしゃべってもらうことを、/彼女は、希望、したのだろう。/たとえ、まちがった時代に、/まちがった体で、/演じられようが。/なので、僕たち、は、/彼女の書いた言葉を、しゃべることにする。/もしかしたら、まちがった時代に。/もしかしたら、まちがった体で。(以下略)」
** 座談会後、キャストについて制作サイドからご説明いただきました。「山川冬樹さんの他に、チラシや当日パンフレットに出演としてクレジットされている11人の方は、飴屋さんがmixiの自分のページに書いた芝居出演者募集のお知らせや、日本語学校にまかれた芝居出演者募集のチラシを見て、7月に原宿リトルモア地下での『3人いる!』に出演した9人と『3人いる!』公演後に、飴屋さんにコンタクトをとり、緩やかなオーディションを経て出演することとなったお2人です。ほとんどの方は、これまで芝居をしたことがないか、以前少しやったことがある、もしくは始めたばかりの方です。みなさん飴屋さんの人柄や作品に惹かれて、この作品に関わることとなった方たちです」座談会参加者の発言中、出演者に対する印象は、作品の感想の一環として語られたものです。失礼に当たる表現もありますが、その点ご理解ください。
*** 「演劇キック」インタビューページより。 飴屋法水インタビューは下の方ですので、スクロールしてください。田口さんの言及に該当する発言は以下の通り。「僕は別に惹かれて作るわけではなくて、たまたま作る機会をもらったから、という程度のとっかかりなんです。たぶんこういう形でなく読んだとしても、そんなに惹かれなかったと思います」「僕は死にたいと思ったことがないし、サラ・ケインのような鬱状態も未知のもので、なるべく楽しく暮らしたいなと思ってる人間なんですが(笑)」
(初出:マガジン・ワンダーランド第172号、2009年12月30日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【出席者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケイン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/
田口アヤコ(たぐち・あやこ)
1975年11月12日生まれ。岩手県盛岡市出身。東京大学美学藝術学専修課程卒。演劇ユニットCOLLOL主宰。演出家/劇作家/女優。劇団山の手事情社・劇団指輪ホテル・劇団ストアハウスカンパニー等での俳優活動を経て、自身の劇作を開始。2005年より、劇作家岸井大輔氏に師事。blog『田口アヤコ 毎日のこまごましたものたち』http://taguchiayako.jugem.jp COLLOL次回公演は、2010年3月『このままでそのままであのままでかみさま』@横浜。現在、毎週水曜夜に(演劇雑誌)を読む会を世田谷区内にて開催中。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/taguchi-ayako/
川渕優子(かわぶち・ゆうこ)
俳優。2006年よりshelfに参加。主な出演作品は、『Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―』(作/ヘンリック・イプセン 構成・演出/矢野靖人)、『廃校/366.0【後日譚】』(作・演出/片山雄一(NEVER LOSE))、SCOT Summer Season 2009 『リア王 4ヵ国版』、『廃車長屋のカチカチ山』(演出/鈴木忠志) など。2008年、利賀演劇人コンクールにて最優秀演劇人賞を受賞。(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。
杵渕里果(きねふち・りか)
1974年生れ。保険業。都内の演劇フリーぺーパー『テオロス』に演劇批評を書き始める。『シアターアーツ』も掲載あり。いまのところ好きな劇団:三条会、少年王者舘。好きな俳優:山村崇子(青年団)、稲荷卓央(唐組)。復活してほしい劇団:劇団八時半。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/

【上演記録】
フェスティバル/トーキョー09秋「4.48 サイコシス
あうるすぽっと(2009年11月16日-23日)
演出 飴屋法水
作 サラ・ケイン
翻訳 長島確

出演 山川冬樹、安ハンセム、石川夕子、大井健司、小駒豪、グジェゴシュ・クルク、武田 力、立川貴一、ハリー・ナップ、シモーネ・マチナ、宮本 聡、村田麗薫

音像設計 ZAK
照明デザイン 髙田政義(株式会社リュウ)
舞台監督 大友圭一郎、寅川英司+鴉屋
演出部 杣谷昌洋、田中 翼
小道具 栗山佳代子
美術コーディネート 大津英輔+鴉屋
衣装コーディネート コロスケ
宣伝ビジュアルデザイン フクシマミキ
協力 あうるすぽっと
製作・主催 フェスティバル/トーキョー

一般 4,500円 学生 3,000円/高校生以下 1,000円(要学生証提示)


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