精華小劇場「イキシマ breath island」

◎「どこでもないここ」のリアル
高橋宏幸

「イキシマ」公演チラシその舞台空間は、見ている観客にいびつな感覚を与える。ただでさえ低く作られている天井は、舞台の奥にいくほどさらに低くなり、柱や窓も斜めになるなど、遠近法の焦点は微妙にずらされている。客席に座り舞台を見ているものにとっては、閉塞感をともなう。だが、客席の天井まで低くしているわけではないので、見つめる視線のみがその空間には囲われる。 白い壁の両面にいくつも開けられた、小さな明り取りの窓から差し込む光も同じように、まるである狭い空間を外側から覗き込むような働きをしている。それは客席から見つめる視線と同じように、舞台空間を取り巻く視線となっている。見るもののまなざしは捕われたような圧迫感を受けるのに、見るものの身体だけは取り残される奇妙な感覚が残る。

維新派を率いる松本雄吉が、ほぼはじめて他の人が書いたテキストを演出した。テキストはマレビトの会を主宰する松田正隆。作品のタイトルは『イキシマ』。英語ではbreath islandとなっている。イキシマというカタカナのタイトルでは固有名詞、もしくは壱岐島(いきのしま)なども連想させるが、まず冒頭のシーンでそのイキについて語られる。

ある男が、壁を隔てて隣にいる死にそうな男のことを「息」と名付ける。そこから漏れ聞こえてくる「息」を吐く音。その男を「息」と名指すことと吐く「息」そのものについて、そして瀕死である男が、まだ「生き」ているということ。イキという言葉にいくつもの意味が重なっていることが語られる。

ただし、物語はそれを起点に進んでいくわけではない。イキシマというタイトルのシマという言葉にあるように、ある島を舞台に島民とそこを訪れたものたちの会話、そこで起こるエピソードなどが、それぞれ細かく区切られたシーンとして構成され、物語を一つに収斂されることは拒むかのように配置されている。船大工と「息」の妻の会話、海女2人のやりとり、天使2人の会話、島へと戻った男など、それぞれ一つ一つのシーンは取るに足らない言葉を数人で交わしているだけだ。ただ、それぞれのシーンの小さな出来事が重なると、ときにゆるやかにそれらが連結されて、見ているものになにかしらのイメージを形作る。

たとえば、冒頭に出てくる「息」の妻は、後半ではその島を訪れた映画の撮影に女優として出演する。それは単に二役であるのかもしれないが、島という場所に撮影クルーが来て行われるということでは、否が応でもあるつながりを感じさせる。なぜなら映画を撮影するシーンも、別のシーンで2人組の天使が『ベルリン天使の詩』の話をするからだ。「息」についていくつも意味が重なって語られたように、映画についてもさまざまなシーンが下敷きとなって語られている。

それは島に来た映画監督が、いくつも映画論を話す箇所などからも、映画を強く意識してテキストは書かれていることはわかる。そもそも、この話に出て来る天使の存在も『ベルリン天使の詩』と同じだ。『ベルリン天使の詩』では、その街をずっと見ていることしかできなかった天使が、人間に恋をして天使をやめて人間になる。そこにある世界を見て、なにが起こっているのか認識することはできても、それを経験することはできない天使。この話でも、同じように天使はなにもできず、就職をしてみようとして天使をやめる。

その映画から引用されるだけではなく、撮影というメタレベルのシーンなどを導入するのは、冒頭で述べた空間のいびつさとでもいうべきものが、テキストのレベルや演出のレベルでも対応して作られているといっていい。いくつも重ねられていく言葉の意味と視点と身体感覚は、このテキストから浮かび上がるはずの風景のイメージを脱色したかのような、その場所がどこかを認識できないようにしている。

それは先ほどの天使とはまるで正反対の、それがどこかを認識することができずに、ただその舞台空間の客席にいるという経験だけが残るのだ。天使の一人が佐世保という地名を挙げることからは、日本の九州あたりを舞台にしているのではないかと予測はついても、舞台の風景は、とても日本というイメージに結びつくことはできない。その島は、舞台美術とあいまってイタリア映画などでよく見られる地中海沿岸を撮影したようなシーンを切り取ったようにも見えるし、少なくともテキストに多少は書き込まれているだろうその土地の匂いを、演出のレベルでどこでもない場所へと変えている。

このどこでもない場所というものは、ある空想でしかないような世界であっても、強度の高いリアリズムとして幻視のなかで描いているからだといっていいだろう。いわゆるリアリズムとして、ただ細密に描くのではなく、ある視野のなかの範囲だけを強固に塗り固める世界。それは、たとえば松田正隆がイタロ・カルヴィーノの世界をモチーフに都市シリーズのようにして作品を作っていたことを思い起こす。もしくは、たとえるならスティーヴ・エリクソンのような幻視的な想像力の世界を構築しようとすることだといってもいい。

そこには松田正隆のテキストの特徴とも言えるが、どれだけ幻想的などこにもない世界を描こうとも、その一つ一つの言葉がもつリアリズムの形象として、リアルに塗りこめられるように描かれるからこそ、そこから逸脱してしまういびつさが逆にある。少なくとも、もはや口にするのも恥ずかしいが、現代口語演劇といわれたもののリアルとはまったく質が異なっている。

そして、その一見すると単に抽象的なものだけに映りかねない世界を、演出する松本雄吉も同調して空間そのものも含めていびつなものにしている。その空間に俳優が立つと閉所的な囲まれた空間である以上、遠近法の狂いのなかで俳優の身体は、視ているものの視線にも違和感を常に差しこむ。それを一言で見づらいといってしまうことももちろん可能だ。だが、この作品を完遂された世界として構築しようとするよりも、どこか不安定ないびつのなかに置くこと、その演出においても現代口語演劇という日常の延長にある世界との差の広がりは大きい。

だから、このどこでもない場所として作品全体を機能させることには成功しているといっていい。そのどこでもない場所であることは、ロマン派的な、ここではなく別のどこかへと向かうことに対置される。「ここではないどこかへ」ではなく、「どこでもないここ」を設定することが、この作品なのだろう。そこに、ロマン派的な詩と同一される思考に対して、ルカーチが『魂と形式』でリアリズムをもって批判したことを思い起こすこともできる。それが松田正隆のテキストであり、松本雄吉も維新派のアングラ的な要素として浪漫的なものをテキストに同調して演出することによって消しているといえる。

「どこでもないここ」とは、どこに向かうことももはやできない。そして、どこでもないこことは、その場所自体もどこでもない。どこに向かうこともせずここにいることと、どこでもない場所であるここ。それこそが、いま新たに形式化されるリアリズムというものが要請しようとしていることではないか。

この作品は、その企画性の強さもあって必ずしも十全に成功したとはいえないかもしれないが、その試みとしての興味深い点は、その企画性が高いからこそ、それは維新派では行い得ないことであり、逆に松田正隆がマレビトの会で作るものでもない、そこにしかない作品があったのではないだろうか。
(初出:マガジン・ワンダーランド第183号、2010年3月24日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
1978年岐阜県生まれ。演劇批評。日本近・現代演劇研究。桐朋学園芸術短期大学非常勤講師。『図書新聞』で演劇批評を連載。共著『Theatre in Japan』(Theatre der zeit)論文に「誌と身体の交錯―村山知義のアヴァンギャルド時代の空間」(『述3』)など。

【上演記録】
第1回精華小劇場製作作品「イキシマ breath island
精華小劇場(2010年2月18日-28日)

テキスト 松田正隆(マレビトの会)
演出 松本雄吉(維新派)
出演 芦谷康介 大熊隆太郎 岡嶋秀昭 沙里 金乃梨子 高澤理恵 速水佳苗 宮川国剛 宮部純子 山口惠子 山下残
舞台監督 大田和司
舞台監督助手 若林康人
照明 吉本有輝子
映像 山田晋平
音楽 佐藤武紀
音響 大西博樹
舞台美術 武岡俊成
演出助手 伊藤拓
宣伝美術 松本久木
宣伝写真 ホイキシュウ

料金 前売 3,500円 当日 3,800円 学生前売 2,000円 学生当日 2,300円 高校生以下 1,000円(前売・当日共)(全席指定)

■主催 精華小劇場活用実行委員会・精華演劇祭実行委員会・大阪市

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