「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」

◎暗闇で感じる「日常からの自由」
カトリヒデトシ

どこまでも上空が開かれている感覚。この空間には終わりがないのかもしれないと感じさせる。
広々としたところにいる「畏れ」よりも、満たされていく解放感への戸惑いだった。
…おかしいな。ここはビルの地下のはずなのに。
私が暗闇の中で感じていたのは、そういった虚空へ自分が開かれていくような開放感であった。

私はこの暗闇の中で、確かに「ここにワタシが存在している」、そういう実存感に満たされた。
同行者たちの声が聞こえる。彼らの顔を思い出すことはできない、しかし、彼らと私の距離はたいへん近しいものに感じる。相手を思いやる気持ち、ふれあった時の仲間意識。共通の体験をしているとはいえ、かつて隣人をこれほど無限定に近しいものに感じたことがあっただろうか、と不思議な気持ちになる。
そこには擬似的には違いないのは承知の上でも、「コミュニティ」を感じ、声によってメンバーが「つながっている」ことが実感できる。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(以下DID)を「体験」している最中、私はずっと、今までに経験したことがない、日常からの脱出と自由を感じた。普段過ごしている日常や生活というものがいかに束縛に満ちたものであったのかということを感じた、と言い換えてもよい。

1989年ドイツのアンドレアス・ハイネッケ博士が発案したDIDとは、「晴眼者」として暮らす人をまっくらな空間に放り込み、「視覚障がい者」のアテンドにより、その空間で聴覚や触覚など視覚以外の感覚を使って「日常」を体験するエンターテインメントである。

キャッチに「まっくらな中で五感をとぎすます。森を感じ、水の音を聴き、仲間と進む。まっくらやみのエンターテインメント」とある。これまで世界25か国・約100都市で開催され、ドイツでは20年間、日本では10年間の歴史がある。いままでの参加者数は、09年現在世界全体で600万人以上、日本では約5万人であるそうである(HPより)。各地のイベントで催されていたものが、昨年から神宮前で2年間の期間限定で常設された。現在、期間の半分を過ぎたところである。

お気づきのとおり一般的な演劇の公演とは異なる。パッケージ化された「お手軽体験」でファンタジーとしての暗闇ではないかと批判を受けることも承知の上ではある。しかし、区切られた時間の中で「異世界」を体験し、その経験によって今まで持ち得なかった「考え」がもたらされ深く心に残ることが、「演出」されているということで、凡百のお芝居より、上質な演劇体験がもたらされると感じた。このレビューはそういう考えに基づいたものである。

会場で受付をすませ、時間がきて準備が整うと、8人の参加者が集められる。皆、二人連れだが、他の人とはもちろん初対面。ぎこちなく挨拶し、中へと入っていく。まず、薄暗くされた予備室のようなところに入る。これは暗順応というよりも、いきなり全くの暗闇に入る心理的負担を軽減させるものだろう。各自が白杖を選び使い方を教わる。ここで、アテンドが受付の方から、視覚障がい者の方へとスイッチする。自分のニックネームを決め、簡単に挨拶する。そこではすでに互いの顔はよく見えない。参加者はこれからの期待からか、軽く高揚し、多少大きな声になりつつも、多少大胆に、かつフレンドリーな振る舞いをする。キャンプファイヤーの時の興奮というと伝わるだろうか。

そして、いよいよ、漆黒の闇の中へと導かれる。
そこは林だったり、公園? 原っぱ? という場所だったり、バーだったりする。そこをめぐりながら、トンネルを通ったり、階段を通ったり、ベンチに座ったり、木や地面をなで回したり、はしゃいだ後に飲み物を味わい沈静化するといった体験をする。目を開けていても漆黒という中で、子どものころから慣れ親しんだありふれた場所のようであっても、新鮮な驚きと感動をもってその場所に「対面」することができる。

そこでは、日常の生活では経験しえない、「視覚障がい者」がリードしてくれるという特別な時間と空間がある。そこは普通「健常者」という嫌な呼ばれ方をする「晴眼者」である私がなすすべなく、人を頼りにする時空間である。しかしそこはとてつもなく「居心地のよい」場所なのであった。

今後の体験する方のために、詳細は語らないでおくが、とにかく驚き、実に貴重な演劇的体験であったのが、「声」の力である。演劇的体験というと実演による物語の力に巻き込まれ、照明や音響などを伴ったスペクタクルやカタルシスを得るところと思われがちではあるだろう。しかし声によるもてなしやアンサンブルといったコミュニケーションの生成が行われるところというのも重要な演劇的体験である。そこでは日常と異なる時空があり、異見の発見という体験が得られる。それは極めて演劇的な体験である。

DIDでは普段の生活の中で最も偏重されている「視覚」という感覚を奪われる(奪われるというこの言い方自体が、「健常者」と呼ばれるものによる傲慢な考え方で、歪みに満ちていることにも気づかされるのだが)ことから出発する。いかに「世界」の認知のために、視覚によりかかって暮らしているかを鋭く暴いてくれる。「目」が封じられると聴覚や触覚、嗅覚が研ぎ澄まされるという当然が、さらには視覚を除いた五感がなんと豊かなものであるかと気づきをもたらす。普段では感じることができなかった、かすかな鳥の音、隣の人の息づかい、自分を取り巻く空気の量や質を実感し驚かされる。

お笑い集団と見なされている大川興業がここ数年まじめにとりくんでいる「演劇」に「暗闇演劇(登録商標)」という作品がある。劇場を暗闇にし、そこでドタバタをするのだが、料理をしてその臭いを客席に充満させたり、LEDのかすかな明かりを強烈な照明に感じさせたり、視覚を封じることによって残りの五感をフル稼働させる作品である。エンタテインメント仕立てでありながら、「感覚の開拓」という試みは新鮮な演劇体験が手に入る。筆者はその取り組みをかねて高く評価していたのだが、暗闇演劇はあくまでも劇場で行う芝居で、その枠の中で行うエンタテインメントなのであるから、観客はどこまでも観客で、安心して受動的に立ち会っていればよい。通常の演劇と同じに「守られた観客」を逸脱することはない。

ところがDIDはそれぞれが本人として世界に対峙するために、ときに自らの実存へ向き合う瞬間が訪れる。そこでは作り物の中での安定した受容体験といったものとはかけ離れた瞬間が襲ってくる。感覚を失うことの生命としての恐怖を味わうことができる(もちろん有限な時間であるのを承知の上だから、それは自我の危機にまではいたらず、ある余裕をもってその時間を楽しめるのであるが)。

その体験の中でとくに新鮮だったのは、声さらには「音」というものがこれほど人の心を動かす(安心させたり、ざわざわさせたり、緊張させたりといった意味で)「力」であることへの気づきであった。それは例えば演劇の一つの柱である、「物語」によってもたらされる魅惑をやすやすと越える思いを生じた。

最大の驚きはコミュニケーションにおける「声」の力であったのだ。声だけで人をもてなし、良質な関係が築ける。誰一人として専門的な声の訓練を受けていないはずなのに、アテンダーだけでなく参加者も含め、そこにいる全員が企まない生の声をだしているだけなのに、その声の持つ「音」、その音の響きの調和=「アンサンブル」が、そこに親和力を発動させ、その結果その場を「暖かい場所」に変容させてくれるのである。

闇の中で声で距離を測り、高さを測り、相手の声で心理状態を感じ取るとともに、心の動きや感情が隠すことなく露わなってしまう声を発してしまう。日々の生活の中でこれほど、包み隠さず感情や心情が発露されてしまう声をだしてしまうことがあるだろうか。また、そういった他人の声を聞くことがあるだろうか。と考えると、この声の力は、くらくらするほど、気持ちがよいものである。

DIDの最中には通常ではありえない人との接近や接触が起こるが、それが全く不快ではない。むしろ視覚があったら困難なほど、見ず知らずの人と気遣いあい、肉体的な接触でも厭う気を起こさず、さらには助け合うことができる。それはそこにコミュニティが存在するからである。そのために声の役割ははかり知れない重要性を持つ。なんという体験ができたのだろうか、と思う。

「晴眼者」が目が見えてしまうためにかえって経験できなかった経験をし、普段味わえないことを体感することにはそれだけで十分に貴重なことである。しかしそれを日常にフィードバックするためには、大きな跳躍が必要であろう。現在の社会がマイノリティに優しくないのは残念ながら認めざるをえない。それを「障がい者」としてラベルを貼った上で社会参加を促す方向ですすむ現在は、マイノリティをくくりだしてそこへ手を差し出すという方向に流れていっている。それは健常者/障がい者という区別を補完してしまうことになるだろう。だからマジョリティが無意識に振る舞うことが、マイノリティに暴力的に働くということが起こってしまうのだろう。

そんな中、DIDの効用はいくつもある。バリアフリー社会への礎となる大切な経験が得られるという側面。「目の不自由な人」の社会参加の機会を設けるという側面。それによる共生の可能性を感じ取れるという側面。

彼らが「晴眼者」と異なる感覚で世界を認知し、生活を行っていることを実感することの重要性は、福祉やホスピタリティのための経験というよりも、なによりも「見知らぬ世界」を体感することにより想像力を手に入れ、別の「豊かな世界」を知るきっかけになるかもしれないことにある。

しかし、DIDはあくまで擬似的な世界である、だからこの心地のよいコミュニティもその場限りであるのは認めざるを得ない。それでも想像力と思いやりさえあれば、視覚に囚われないこと、さらには視覚が邪魔であるかもしれないコミュニケーションがあることを信じることができる。その世界はじつに居心地がよいと感じ取れるだろう。それは新鮮この上ない驚きだ。

DIDは優れた芸術と同じく「感覚を拡張する」という魅力的な経験である。この経験を生かす「生」のありかたを考え、想像力の鍛えにつなげて行くことが次のステップへとつながるのだろうと思う。

最後に少しネタバレを…。遊び疲れた後で立ち寄る「暗闇バー」でのビール、音と香りと味。極上のものでした(笑)。
(初出:マガジン・ワンダーランド第195号、2010年6月16日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
カトリヒデトシ(香取英敏)
1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校に勤務し、家業を継ぎ独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。個人HP「カトリヒデトシ.com」を主宰。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katori-hidetoshi/

【上演記録】
ダイアログ・イン・ザ・ダーク TOKYO
主催:特定非営利活動法人 ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン
会期:第5期 2010年3月20日(土)~開催中
第4期 2010年1月4日(月)~3月14日(日)
第3期 2009年10月1日(木)~12月27日(日)
第2期 2009年7月4日(土)~9月23日(水)
第1期 2009年3月20日(金)~6月22日(月)
会場:東京都渋谷区神宮前2-8-2 レーサムビルB1F
定員:各8名(所要時間約90分)

参加予約:http://www.dialoginthedark.com/

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