手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」

◎不完全な肉体に宿る不完全な精神と、その救い
小畑克典
私的解剖実験5-関わりの捏造」公演チラシ
3人のパフォーマーたちは240cm×270cmの狭い舞台に乗り、”Zero” のコールとともに、各々のペースで脱力を開始する。自らの身体についてブツブツとつぶやいて実況しながら、ゆっくり時間をかけて身体を整える。”One” のコールで椅子に腰掛け、雑談を始める。服のこと、音楽のこと、食べ物のこと、その他諸々の、たわいのないリラックスした会話。そのうちに “Two”、”Three”、とカウントが進み、その度に少しずつシーンが中断される。ラウンドの間にほんの何秒かだけインターバルの入るボクサーのようだ。”Four”、”Five”、と進むにつれて、パフォーマーたちの身体が徐々にこわばるのが見て取れる。おそらく、カウントが一つ進むとともに、何らかの身体的制約、もしくは条件・ルールのようなものを課せられるのだろう。腕がプルプルと震え、土踏まずに力が入る。それに連動して、3人の関係にもこわばりが生じてくる、ように見える。

手塚夏子の「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」は、人間のカラダに何らかの条件付けをした時、あるいは逆に何らかの条件を取り去った時に、それが人間の「振舞い」を決定するもう半分の大きな要素であるところの(非常に乱暴な二元論ではあるけれども)ココロにどう作用するか、そして、カラダとココロの相互作用の結果として現れる個々人の振舞いが、他者との関係にどう作用するかを見てやろうという試みである。パフォーマーたちの内実とは関係なく、カラダへの条件付けによってどのような振舞いが生まれ、どのような関係がある「ように見えるのか」の探求。けだし、関係の捏造である。

「捏造」と名乗るからには、これはもちろん「作り事」なのだろうが、それにしても目の前の光景は、あらかじめ書かれた台詞、完全に振付けられた身振りなのだろうか?「動き」「台詞」よりもそんなことの方が気にかかるのは何故だろうか? そういえば、この実験が他の「ダンス」「パフォーミングアート」とは別の提示のされ方をしていること、そして自分が別の観方をしている(強いられている)ことも、気になりだしてくる。

通常、(少なくとも筆者が)ダンスのアウトプットとして期待するのは、パフォーマーのカラダの動きである。カラダの動きが「解読できる」時には、それに従ってカラダの動きを読み解き、パフォーマーなり振付家なりの意図を汲めばよい。逆に、訳が分からないパフォーマンスであれば、意味を追わず、カラダの動きそのものに注目していればそれはそれで面白い。「なんと美しい姿勢!」「なんと高い跳躍!」「軟体動物のような身のこなし!」。いずれのケースにしても、カラダの動きは何らかの意図の「結果」として提示されている。

ところがこの実験では、カラダの動きはインプットであり、同時にアウトプットである。まずはおそらく、パフォーマーのカラダを条件付ける・制約する材料としての「カラダの動き」が指定される(インプット)。そのインプットがココロに働きかけ、その反応が再度カラダにフィードバックされてカラダを動かす(今度はアウトプット)。だから観客は、当初のインプットとしてのカラダの動きと、一旦ココロに作用しながら、ココロから反射してきたフィードバックを受けたカラダの動きとを、ほぼ同時に(おそらく微妙な時間差・ズレをもって)目にすることになる。

もちろん、このような相互作用のループはいつ、いかなるパフォーマンスにおいても(いや、パフォーマンスに限らず日常生活でも)常に起きているはずだ。しかし、そこで生じるズレがあからさまに強調されることはないし、また、観客も敢えてそこには視線を持っていかない。つまり、本当は100%カラダとココロの統御を行うことは不可能なのだけれど、でも、統御されているものとして観ていてくださいね、という暗黙の「お約束」が存在しているのである。

ところがこの実験ではそのようなお約束を意図的に外してしまっているので、どうしてもその時間差・ズレに視線が行ってしまう。パフォーマー達の動きを見ながら「この動きはどういう意味なのだろう」とか「これは美しい動きだ」とは思えず、むしろ「今、どのようなインプットがされているのか?(知るべくもないが)」「次に何が起きるのか?(ますますもって知るべくもないが)」と思い続けるほか無い。パフォーマーの内実や振付家の意図への関心はわきに置いたまま、実験の進行をじっと見守るばかりである。

“Six”、”Seven”、”Eight” とカウントが進み、指示の重み・マグニチュードが増すにつれて、インプットからアウトプットへのループ、カラダとココロの相互作用のメカニズムが重みに耐えかねているかのように、パフォーマーたちの振舞いがバランスを失い始める。インプットで期待される反応と実際にフィードバックされる動きとの間の齟齬が、振舞いに「軋み」をもたらす。その不快感はあたかも、スピーカーから出る音をマイクが拾う連鎖からハウリングが生じ、耐え難く増幅していく不快感にも似る。それが狭い空間で3人の人間によって共有される時、そこに生じるのは、軋みの無限ループであり、あからさまな人間関係の「軋轢」である。

“Ten” がコールされ、3人の振舞いの軋みが臨界点を超えるのではないかと懸念され始める頃に、4人目のパフォーマーが登場する。彼女の登場とともに、わたしの不安はおおかた解消される。彼女にかかっている条件のストレスが軽いのか、それとも、彼女の資質としてカラダとココロの統御がより上手に働いているためなのかはわからないが、少なくとも彼女の振舞いにおいてはカラダとココロのズレがより目に付かず、(通常のお約束の意味において)「より自然に見える」からである。やがて、”Nine” がコールされ、カウントが逆に進み始めたことを知る。物事は、カラダとココロの均衡が取り戻される方向へと進むだろう。あからさまな安堵。予定調和の予感。

ところが、カウントが “Zero”に戻りパフォーマーたちがカラダを再度整え始めても、実験は終わらない。”Minus One”がコールされ、カウントはマイナスへと進んでいく。それはカラダに課した条件・制約がさらに剥ぎ取られていくということだろうか? ゼロで「脱力」しているカラダから、それ以上に何を剥ぎ取るというのか? そして、負のカウントが進むにつれて、パフォーマーたちの振る舞いにまたしても軋みが生じるのを発見して、わたしは身震いする。”Minus Ten”で、パフォーマーの軋みを見せつけたまま、状況を放り出すかのように実験は終わる。

カラダに課す条件を積み重ねようと剥ぎ取ろうと、(少なくとも見た目には)同じ軋みが生じる結果に終わるのであれば、”Zero” の状態に収斂し、安心したいというのが人情だろう。が、おそらくそれも文字通りの「脱力」を意味しない。その時々の周囲の環境に上手く合わせて「自分の振舞いに軋みが生じない」状態と呼ぶ方が正確だろう。あたかも水と比重を等しくしたボールのように、水槽の中で浮かぶでも沈むでもなく、外から力を加えない限り位置を変えない状態。玉乗りのように上手くバランスをとり続けることが肝要だ。しかし、そのバランスが必ずしも幸せな状態ではないことも、わたしは知っている。それは絶えず身体の状態に気を配り、消化管から空気を抜き、カラダの各部位のスイッチをオン・オフし続ける状態でもあるからだ。

だから、この実験に立ち会ったわたしは不幸である。環境に合わせ、カラダとココロの間に軋みが生じない状態を保つことすらも、これほどの労力を掛け、絶えず相互作用の状況を確認しながらでなければ達成できない様を目の当たりにし、これまで自明のものとして受け入れていたカラダとココロの完全な統御が「お約束」でしかなかったことに気づかされ、しかも、そのバランスを失った刹那、カラダとココロの間の軋みに引き裂かれかねない様までも目の当たりにしてしまったからである。

しかし、ここでことさらに悲観するのはやめよう。外部に合わせようとしても完全には合わせられず、カラダとココロの相互作用も不完全なループしか描くことが出来ず、結果、常に「ちょっとした」軋みの余地が残ることを受け入れよう。その不完全さ、薄皮一枚分のズレに、自らを「観察」する余地、「内実」を探る動機が生まれるのだから。

不完全さ故の「ちょっとした」ズレに目をとめた瞬間にこそ、逆に未来の可能性に対する「ちょっとした」アクションに賭けてみる権利が手に入る。テラ銭は「ちょっとした違和感」、掛け金は「不完全なわたし」。この公演の「実験台」となっているパフォーマーたちは、少なくとも、その「ちょっとした」違和感を、何もなさそうな場所からひょいとつかみとる術に長けているように思われる。

テリー・ギリアムが「人間が自分のおかれたシステムから完全に自由になるためには、気が狂う以外に手段がない」と言っていたのを思い出す。映画の中のように簡単に「完全に」気が狂うことができないわたしたちには、その代り、その不完全さ故に「ちょっとした」ところでほんの少し足をとめ、観察し、アクションを起こす機会が与えられているのだ。
“Minus Ten”のコールでぎしぎしと軋み合っていたパフォーマーたちは、実験の終了直後、捏造された関係を脱ぎ捨て、何もなかったかのような風情で退場していく。そこでわたしは、「音を立てて軋む」自分のカラダとココロの相互作用を薄皮一枚隔てたところから観察することのできる目の実在を目撃していたのだと改めて気づく。その目は、ユーモアが依って立つ足場であり、絶え間なくカウントがコールされる僕たちの日常の中で「次のアクション」の可能性への希望をかろうじて抱けると確信できる根拠でもある。
(劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作)
(初出:マガジン・ワンダーランド第202号、2010年8月4日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
小畑克典(おばた・かつのり)
1967年東京都生まれ。会社員。ブログ「小劇場中毒」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/obata-katsunori/

【上演記録】
手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」
こまばアゴラ劇場(2010年6月25日-28日)

出演:篠原健 小口美緒 若林里枝 手塚夏子
スタッフ: 音響 牛川紀政
前売:2,500円 / 当日:3,000円 (全席自由)

【関連企画】
▽Workshop Workshop「からだストーミング」~体ごと巻き込まれたり遠巻きに眺めたり~
6/21(月)~23(水) 19:30~21:00、定員 30人 参加・見学 800 円
▽スペシャル カラダカフェスペシャル ~自分という感覚の境界~
6/27(日) 18:00スタート ワンドリンク 1,500 円

企画制作:手塚夏子/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成:財団法人セゾン文化財団
平成22年度芸術文化形成拠点事業

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