劇団山の手事情社「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」

◎「暴力」と「言葉」
  柴田隆子

「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」公演チラシ
「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」公演チラシ

 シビウ国際演劇祭(ルーマニア)「凱旋二本立て公演」と銘打った劇団山の手事情社「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」が9月、アサヒ・アートスクエアで上演された。それ以前のバージョンとして、1999年の「印象 タイタス・アンドロニカス」と2002年の「オイディプス@Tokyo」があるが、今回の舞台はより「暴力」を様式化し、構成においても「物語」と「日常」の対比を明確にしていた。韻文によって書かれた原作は、その文体のリズムや様式性が物語の出来事からの距離を生み出しているが、山の手事情社は独自の演技メソッドである「四畳半」を用いて同様の効果を舞台にもたらしている。アシンメトリーで非日常的な動きとポーズをとっての発話は、我々の日常的空間との差異を浮彫りにし、舞台の重層的な空間構成を観客の感覚に描き出すのである。

 一方は紀元前5世紀、他方は16世紀末と成立年代に大きな隔たりがあるこの2つの作品は、戦争という「暴力」が常態化する中で書かれ、国家における「法」や「正義」の問題が扱われている。山の手事情社の公演は両者に通底する「暴力性」に注目したものであり、舞台上に展開する「暴力」の表象は非常にダイナミックで美しくさえあったが、単なる暴力賛美ではもちろんなく、非暴力的調停の技術である「言葉」の衰退という危機意識の中から現代社会の問題として捉えられていた。こうした注目の仕方は、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」や「運命と性格」での指摘を類推させる。ベンヤミンは犯罪や戦争時の暴力とともに、公権力の取締りなど合法的な暴力も問題にし、国家の正義や支配権の維持には「神話」が関与しているとする。ソフォクレスが描くのは、この「神話」生成の物語である。ギリシア神話の神々や古代エジプトの支配者層では平然と行われていた「親殺し」や「近親相姦」は、作品の元となった「オイディプス神話」によって禁忌として顕在化したのである。「神話」は「運命」という暴力を人間に課す。しかしベンヤミンによれば、ギリシア悲劇はこの「運命」を打ち破る認識が、おぼろげな形とはいえ現われているのである。山の手の「オイディプス王」の舞台は、このベンヤミン的解釈によって構成されているようにみえる。

 舞台では「運命」は黒衣の男たちとして視覚化されている。黒いマントに身を包み、仮面よろしく片手で顔を隠した彼らは、中央の紗で囲まれた内舞台の外、オイディプスの支配するテーバイの法の外をフィールドとする。内舞台で安らぐ白い衣装の女たちを引きずりおろして集団で暴行を加える場面は、たとえその投打音がスリッパを打ち付ける音だと視覚的に理解していても空恐ろしさを感じる。男たちに髪をつかまれ、ひきずられ、男たちが離れた後も人間の三形態に強制された姿勢を取り続ける彼女たちの姿は、暴力の支配力を強く印象付ける。オイディプスの物語はこの男たちにライトをあてられ、台詞を与えられた女たちによって演じられる。時に「男」が「女」を排除して入れ替わる演出は、「運命」の悪意を感じさせるものである。その暴力性は、ひとりオイディプスのみに向かわず、都市で受動的に生きる「女たち」全体に襲いかかる。

 幕間狂言のような「東京の女が見る悪夢」では、「シャワー」「グレープフルーツ」「髪の毛」「ビニール」といった日常を介して、潔癖症、育児不安、異食症、恋愛や接触への不安が演じられる。日常的身ぶりの反復から強迫観念が生じて狂気に至る女たちは、都市生活者の表象である。オイディプスが自らの発した法で自らを追放しなければならなかったように、彼らは自らを縛る常識や観念的恐怖で自らを狂気に追いやっているのである。

 その悲劇の背景には、部分のみを人間に暗示する「神託」の問題がある。舞台上に置かれたテレビモニターには、言葉の断片が流れ続けている。父ライオスに我が子を捨てさせ、育んでくれた養父母の下からオイディプスを立ち去らせた「神託」の実体とは、こうしたモニターに流れるあいまいな影のようなものである。これは人々が信奉する「神話」の暗喩でもある。この「神話」に対抗するものとしてあるギリシア悲劇の対話の「言葉」を、舞台では男たちによって口伝えさせることで、受動的なものに変えている。黒衣の男たちによって示される圧倒的な暴力的身振りと「言葉」との関係、これが山の手が現代の問題としたものである。秩序のために作られた「神話」の物語も、その対抗物たる批判の言葉も、純粋な「暴力」の前ではもはや力をもちえない。これこそ今日の我々のおかれている日常の、演劇の状況だと舞台は突きつけているのだ。

 オイディプスが目をつぶす場面、オイディプス役の女優はモニターを叩き壊す。これは、これまで支配してきた神託、さらに視覚的な見せかけの外界との決別を意味する。演出安田雅弘はオイディプスが生き続けることを選択したことに「希望」を見出し、このカオスさえも己が体験することなのだと女優に独白させる。それは異なる価値観や世界観を予感させるが、手放しの「希望」ではない。黒衣の男たちは声をそろえて「女たちよ」と呼びかけ、過去への反省と自己責任を要求する。この声もまた彼女の悪夢の一部である。白と黒、女と男、被害者と加害者、こうしたわかりやすい二項対立は近代的価値観として彼女に内在している。抑圧者と被抑圧者の構図から抜け出ない限り、全ては「運命」によって定められたまま、「悪夢」も決して覚めることはないだろう。しかし、それでもこの独白は新しい「認識」の立ち現われに他ならないのである。

 ソフォクレスは、光を失った後の娘アンティゴネとの放浪の旅の結末を『コロノスのオイディプス』に描く。ここでオイディプスは、生れる前に運命が決定したことに対する「罪」は「罪」といえるのかを問い、陥れたのは神々だと糾弾するに至る。このオイディプスの代わりに山の手事情社が用意したのが、「タイタス・アンドロニカス」の舞台である。

 レイプ、手足の切断、カニバリズムといった残虐な行為が繰り広げられる「タイタス・アンドロニカス」は、エリザベス朝時代の最も人気のある芝居のひとつであったという。この作品も視覚的に分けられ、ローマ人は着物、ゴート人は洋装である。舞台上には終始タイタスの妻という設定で和服姿の老女がおり、お茶を飲んだり、洗濯物をたたんだりと日常を演じる。「オイディプス王」では内舞台の内と外に分けられた日常と物語の空間が、「タイタス」では同一空間に重なって並存する。殺戮の場面、頭と肩で支えた倒立の形から硬直したまま落ちる「死体」の演技は、その大きな衝撃音ゆえ迫力があるが、その隣に何も聞こえないかのように平静に佇む老女の姿が、出来事との距離感を生むのである。

 物語では、タイタス一族の示す国家への忠誠、貞節の美徳、父系家族といった近代にも通じるイデオロギーが、ゴート人の女王タモーラたちが体現する身内意識、性的放縦さ、母系家族に対置される。「暴力」の功労により人望を集めたタイタスが敗者であるタモーラの息子を処刑し、皇帝の寵愛を得たタモーラは息子たちと共に復讐と権力維持のため、旧体制の象徴でもあるタイタス一族を暴力的手段で排除しようとする。彼らは支配者の側として法を利用する。タイタスの娘ラヴィニアは証言する舌も腕もないがゆえに暴行を告発できず、殺人現場で発見されたタイタスの息子たちは法にのっとり処刑される。目には目を。かくして、タイタスの側も更なる暴力をもって対抗することになる。

 しかし「タイタス」で一番の「悪」は、こうした暴力行為の実行者ではなく、言葉巧みにそれを引き出したムーア人アーロンとされる。実はタイタスの舞台であるローマにおいて、「嘘」という行為自体は処罰の対象にはならなかったという。しかしシェイクスピアの時代には、残虐な行為を行なったリチャード三世と同様、『オセロ』のイアーゴや『リア王』のエドマンドが「極悪人」とみなされることからわかるように、暴力が引き起こされる「嘘」に対しても「法」の網が広がっていた。アーロンという登場人物はこうした歴史的な法概念から生まれたのである。このアーロンの行為は果たして本当に「暴力」であり「悪」なのだろうか。山の手の舞台は、ここに疑問を呈しているように思える。

 アルルカンのような衣装を身につけ、狂言回しのように物語を破滅へと導くアーロンは、舞台では絶対的な「他者」として描かれる。アーロンを演じる山本芳郎は緩やかに流れるような動きと仮面のような表情で、ローマとゴートの二つの民族の外にある世界を垣間見せる。タモーラとの子の秘密を知る乳母をいとも無造作に手にかけもするが、彼の快楽は暴力そのものをふるうことではなく、「言葉」を用いてそれを引き出すことにある。タイタス一族の悲劇を楽しんだとする彼の言葉は恐ろしい。だが、アーロンは当時の法では合法的な「言葉」を手段に、抑圧者であるローマ人らに復讐を試みたに過ぎない。黒い肌で生れたというだけで死を宣告される彼の息子は、アーロンのこれまで置かれてきた立場を暗に示している。

 「他者」はアウトサイダーとして捏造される。「他者」とされたのはアーロンだけでなく、オイディプスでありタイタスでもある。彼らは法や国家を維持するため、判断の線引きをするため、新しい価値観を措定するために人柱として必要とされた。理解できない、理解を超える「他者」に対し、我々の歴史は「暴力」という手段に解決を見出してきた。秩序を守るためであれ、カオスから秩序を作りだすためであれ、暴力は暴力しか生み出さない。それを浄化できるのは、人間の摂理を超えた破壊としての純粋な「暴力」しかないのならば、我々はやすやすと「言葉」を手放していいはずがない。たとえそれがどんなに力なく頼りなく見えようとも。それがどんなに悪意に満ちているようにみえようとも。その「言葉」には「演劇の言葉」も含まれているはずだ、そう舞台は言っているように私には思えた。
(初出:マガジン・ワンダーランド第209号、2010年9月30日発行。購読は登録ページから。)

【筆者略歴】
 柴田隆子(しばた・たかこ)
 学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学専攻(舞台芸術領域)博士後期課程在籍。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
山手事情社「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス
アサヒ・アートスクエア(2010年9月2日-5日、2010年9月8日-12日)
構成・演出:安田雅弘

「オイディプス王」(2010年9月2日-5日)
原作:ソフォクレス
出演:山口笑美、倉品淳子、越谷真美、植田麻里絵、三井穂高、小栗永里子、安部みはる、谷口葉子、村田明香、山本芳郎、浦弘毅、川村岳、岩淵吉能、斉木和洋、野々下孝、文秉泰、谷洋介、石原石子

「タイタス・アンドロニカス」(2010年9月8日-12日)
原作:W. シェイクスピア
出演:水寄真弓、山田宏平、野々下孝、倉品淳子、山本芳郎、斉木和洋、岩淵吉能、植田麻里絵、浦弘毅、文秉泰、川村岳、三井穂高、浦浜亜由子、山口笑美、園田恵、越谷真美、谷洋介、石原石子

スタッフ
美術・照明:関口裕二(balance.inc . DESIGN)
音響プラン:斎見浩平
衣裳:竹内陽子
舞台監督:本 弘
宣伝美術:福島治、古河洋祐
助成:文化芸術振興費補助金(芸術創造活動特別推進事業)
協力:EU・ジャパンフェスト日本委員会
会場協力:アサヒビール株式会社


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