連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第3回

上田美佐子さん(シアターXプロデューサー・芸術監督)

 東京・両国の劇場シアターΧは1992年のオープンから意欲的な企画・プログラムを進めてきたことで知られています。ポーランドのヴィトカッツィやチェーホフ、ブレヒト、つかこうへい、花田清輝、郡司正勝らの作品を精力的に上演してきました。その成り立ち、芸術創造の理念、そして経営基盤などはあまり知られているとは言えません。そこでシアターXを尋ね、プロデューサー・芸術監督の上田美佐子さんに質問をぶつけました。返ってきた言葉は、真摯かつ率直でした。(編集部)

 

||| プロデューサーの役割と覚悟

上田美佐子さん
上田美佐子さん

-ワンダーランドの劇場企画は、いろいろな形態の劇場の状況をお聞きしたい、というのが趣旨です。その背景にはもちろん劇場法をめぐる動きがありますが、それぞれの劇場がどのように運営されているのか、実際に劇場を運営に携わっている方が、劇場法についてどのようなお考えをお持ちか、ということを伺っています。

上田 誤解されがちですが、シアターXは完全な民間の劇場です。長年お付き合いしている方でも、つい最近「どこかの公立じゃないのか」と言う人がいてびっくりしました。

-シアターXの沿革についてまず確認させてください。もともと回向院(浄土宗)の境内だったんですよね?

上田 きょうも、8月19日から始まるオペラ『魔笛』の稽古で、お隣の回向院さんの幼稚園のホールをお借りしています。江戸時代から回向院さんの境内で行われていた勧進相撲が今日の大相撲に発展したのです。それで、ちょうどここ、いま劇場の建っている所が初代の国技館だったのです。

-蔵前国技館の前の国技館ですね。

上田 非常に洒落たドーム型の国技館だったのですが、1945年に戦争に負けてアメリカ進駐軍にメモリアルホールとして接収されたのです。しょうがないので大相撲は蔵前に移りました。その後、1950年に朝鮮戦争が始まったので返還されたあと、日本大学が買って講堂にしました。プロレスの力道山や、森英恵さんらいろいろなファッションショーなど日大講堂は大きなイベントホールとして使われるようになりました。そのうち武道館ができてみんなそっちへ行っちゃったり、やがて下町は高度経済成長期にはどんどん過疎化していっちゃったんですね。中小企業が多く、公害産業だったところは東京以外のところへ行ってくれと調整されたり、つぶれちゃったりして。

-1990年代のバブル期に土地の有効活用ということで、東京都の土地信託事業として住友・安田・東洋の三信託銀行が共同で受託し18階建てのインテリジェント・オフィスビルを建てた。その1階と2階にシアターXがあるわけですが、今もこの三つの信託銀行がビルを運営してるということですね?

上田 メインは住友信託銀行なのですが、(株)両国シティコアという管理会社をも設立しました。

-とすると一般にオーナーと言うときには管理会社の両国シティコア、つまりはその背景である住友信託銀行ということになるわけですね。

上田 はい。出発点はバブル期の1990年前後、ここは更地になっていて、何か儲かる事業をと東京都が考えたわけですね。日本型ディズニーランドなんて案もあったらしいのですが、結局は18階建てのオフィスビルがいいだろうということになりました。今でこそ、江戸東京博物館のような背の高いビルもありますけれども、当時は、ここの18階建てというのは突出していたのです。
 伝統的な文化の目から見れば見苦しい近代的な18階建てのオフィスビルが、下町=ヨーロッパでいうオールドタウンの全体を睥睨する、特に回向院さんを見下ろす形になるわけでしょう。どんな時代小説を読んでも回向院さんが必ず出てきますけれど、ここの地はもう、何と言っても回向院さんが中心ですから、ビルのマスタープランができたころ、回向院さんを中心に自民党から共産党まで、このビルの建設にみんなが反対したらしいのです。そこで協議し提起された案として「文化を創出・誘致し、かつ発信する」、自主的な演劇作品を作っていく=自主企画を主目的とする本来の「劇場」にするということになったのです。オープンは1992年の9月15日ですから今年の9月15日で満18歳となりました。

-そうすると、そういう自主企画を主とした「劇場」をという方向になったのは、東京都と住民との関係でということでしょうか?

上田 ええ。そうですね。住友信託銀行に付随していた住信基礎研究所というコンサルタント会社が新たなマスタープランを作った。今、劇場は一階と二階にできていますが当初も18階建てのオフィスビルですから、そのくらいの広さの集会施設が計画されていて、それを劇場に変えたということなんです。

-コンサルティング会社の知恵者みたいな方が、これを劇場にすれば、反対運動に対してもいいし、地域文化にも貢献できるという案を出したんですね?

上田 そうですね。それと今もそうですけど、劇場施設は新宿とか渋谷とか、みんな西にあるでしょう?こっちにはほとんどなかったのですね。現在はまたベニサン・ピットもつぶれちゃって、うちだけになってしまったのですけれども。しかし、そうして「劇場」設立となったものの銀行さんには運営はできないわけだから、誰に運営してもらうかってこととなり、いろんな人に当たったんですね。まず、ハードの劇場設備は劇団四季の劇場工学研究所がやったのです。だからついでに劇団四季が企画と運営に当たってくれればって話もあったのですが、予算額があまりに少なくてとんでもないと。じゃあ企画運営を誰がやるのか。コンサルタント会社を中心にいろんな公聴会なんかを開いたのです。オーナーの東京都や住信の意向に添う文化拠点となるべき「劇場」像とはいかにあるべきか、具体的にはどんな文化企画・実行プランが立てられればいいのか、って。
 その公聴会に私も2度くらい呼ばれたのですよ。私は当時ポーランドに熱中していたものですから、ポーランドの芸術活動がすばらしいってことを、好き勝手にしゃべっていたんですね。結局は誰も人材がいなかった、予算の関係なんかで引き受ける人もいなかった。「ここ両国のような場末の劇場なんかには出演する人も見に来るお客もなかなか無いだろう」とまではっきりおっしゃる意見もあった。が、発車決定のオーナーたちの課題は、とにかく最初はどうやって認知してもらおうか、来てもらおうか。少ない予算だけどそれでやってくれと委託され「じゃあ私がやりたいことをやらせて頂けるならば」と受諾。1992年9月15日から3ヵ月間、ポーランドの作家を中心とした『ヴィトカッツィのびっくり箱』でオープン。そのあと、ヤン・ファーブル(ベルギー)、T.パラスキヴェスコ(フランス)など外国ものをすこし続けたあと、私が編集者時代から知っていたつかこうへいさんや岸田今日子さんなど新劇の方たちにやってもらいました。それで大いに認知度も。

-つかこうへい作品は、1993年から1994年にかけて、ずいぶん長くやってましたよね。

上田 そうです。最初の8ヵ月は、『熱海殺人事件』を3バージョン、タイトルとシチュエーションは同じでも、全く違う三つの『熱海殺人事件』をつくるのです。警視庁の中で、しょうむない犯人をいかによりよき犯人に成長させ、13階段を昇っていかせられるかに部長刑事と刑事たちと犯人とが信じられない鋭意努力をするという話。
 2作目のモンテカルロイリュージョンでは阿部寛さんが部長刑事役でデビューしました。朝早くから稽古したり、ワークショップをやったりして、夜は本番。シアターXの劇場は、つかさんの書斎、実験室、道場、孵卵器でもありましたね。3バージョンを毎日上演、客は早朝から劇場を取り囲んで並んでいました。1992年9月15日にシアターXがオープンして、まだ1年たたない1993年4月から8ヵ月です。結局、その8ヵ月が終わってもまだシアターXでいろいろやってましたから、つかさんの印象が強かったんですね。『銀ちゃんが逝く』や『売春捜査官』の東京初演もまず、うちでやりましたしね。

-上田さんに企画運営を引き受けてくださいってことになったのは、住友のコンサルティング会社の方と元々お知り合いだったとかいうようなことがあるのですか?

上田 いいえ、全くありませんでした。実は、私が1989年春に東京でポーランドのアンジェイ・ワイダ監督と歌舞伎の坂東玉三郎でドストエフスキーの『ナスターシャ』をやりましたよね。そのことをコンサルタントの方が、最初は知らなかったのですが、新聞記者に聞いたりしてだんだん分かって、それだったらある程度のコネもあるんじゃないのかって、利用価値があると思われたんだと思います。

-それまでにそういうお仕事をなさっていたので、この方ならできるんじゃないかと思われたってことですね。

上田 ともかく1992年の9月にシアターXが両国に、10月にアートスフィアが天王洲に共に「劇場」をめざしてオープンしたのですよ。当時の読売新聞(1992.8.29)の記事に書いてありますが、アートスフィアが1年間のうち100日だけ自主企画をやって、その予算が15億円。アートスフィアは三菱商事100%の「劇場」ですから。それでインタビューの最中に「読売新聞の取材でうちの予算を聞かれてるのですけれども、アートスフィアは15億円だそうですが、うちの予算、ほんとのことを言っていいですか」って住信の本社に聞きましたら、言わないでくれって。うちはそれの消費税くらいだったんですね。(当時の消費税は3%)
 「劇場」構想の中身は、お互いに新しい「劇場」を作っていこうってことだったんですよ。但し、予算の方はね3%ですよね、うちは。だけど私は、やせ我慢で言うわけじゃないのですが、予算の問題じゃないと思ってましたから新聞社にそう答えたら納得してくださり、 うちの予算は公表しませんでした。記事は見開きで対となって大きく出たのですね。アートスフィアがいろいろパブリシティをやったので、うちが一緒に載ったのですね。
 双方とも辺鄙なところだけどお互い「劇場」としてスタートしようっていうことで。「劇場」として、っていうのが従来とは違ってて、日本の場合は貸し小屋が主ですからね。だから珍しいってことでも取材を受けたのでしょうね。 アートスフィアも、オープニングは意欲的な外国の作品を招聘していましたね。当時はお金があるから何でもできちゃう。でも外国に知り合いがいないと、うちの10倍くらいの値段で買わされてたりして。セゾン劇場もそうでしたね。それにしても、一番最初にセゾンがつぶれ、グローブ座がつぶれ、アートスフィアもまた。でも、今言ったところは、みんなとってもいい外国の作品や芸術家を招聘していましたよね。セゾン劇場はピーター・ブルックを全部呼んでくれて、日本にいてピーター・ブルックが見られるという喜びがありました。うちは聞いたこともないポーランドのものとか、若い芸術家たちのを多くやっていたけれども興味を持ってくれる人はわりとうちのファンになってくれました。

-他の劇場がつぶれていく中で、危機感のようなものは感じていらっしゃいますか?

上田 実のところうちはオーナーからのわずかな予算もバブルがはじけたあたりから数年で、ソフトの予算つまり企画の予算はゼロになったのです。その時点で私は辞めてもよかったのですけれどもね。話が違うって。だけど、既にその頃は1年中1日も空きがないほど劇場は作品でいっぱい埋まっていて、シアターXでやりたいって言う人も増えてて。うち独自の企画もいっぱいあって、じゃ、ここを拠点にとにかく演劇の創造は継続していかねばなるまいってことでやりました。
 先にも述べましたが、私はシアターXの委託を受けるに際し、演劇や舞台芸術を創り出そうという人たちの「創造現場としての劇場」をめざし、試みることを条件としましたので貸し小屋じゃもちろんなく、サービス業的にお客さんに気に入られるつもりもありませんでしたから。それは今も変わりません。だから、創りたい人がどう創っていくのか、それはきちっと批評されて、いろんな意見をちゃんと受け止めながら、本当に新しいものとか、失敗してもいいから実験をしていくのだとか。今もお金はありませんけれど、やっているわけです。

-予算がないってことは、単体として毎年、少なくとも黒字かトントンでなければならないっていう絶対的な条件があるということですね。

上田 いえ、そうはいきませんよね。私は劇場のプロデューサーをやるのはここが初めてですが、それまでは編集なんかをやってましたから、プロデューサーの仕事っていうのは、その時代、そのときにやらなくてはいけないものは何なのかというのを見極めて、作家や演出家や俳優と一緒にそれを実現していくことだと思うのですね。その全責任を負うことだ、と思うのです。幸い私の場合、劇場があるから、それを現場にしてやっていけば、大きな赤字が出なければ、なんとかやりくりして、例えば文化庁の助成をもらったりスポンサーを探したり、サントリーとかアサヒビールなんかにお世話になりましたけど。初めのうちはセゾン文化財団もいろいろ支援してくださって。でも、黒字が出るはずはないのです、うちに限らず。東京でやる劇団は、最初の東京公演とはアンテナショップみたいなもんで、どこも全部赤字なんですよね。それを地方に回していくことによって何とかしているわけでしょう。
 うちの場合は劇団があるわけじゃないから、巡回はしないのですけれど。なにかやりたいものがあって、やりたい俳優がいて、やりたい演出家がいて、成立するだけの魅力のある企画だったらやりますよ。どう魅力のある企画にしていくかが問題。初めっからはその通りにはいかない。一緒にやっていく中でだんだん見つけていくものですよね、演出家も作家も俳優もスタッフも。だから、うちはほとんどの企画が最低でも1年はかけます。
 今年の秋11月に初演する多和田葉子さんの新作、イスラエルの演出家で、これは、企画からこの秋で4年以上かかっていて、来年度にも再挑戦するので丸5年がかりの企画ですね。いちいちそれをコスト計算していたら成立しないですよね。やっぱり、やりたいか? やるか? ですよね。その多和田葉子さんの『さくら の その にっぽん』、これはチェーホフの『桜の園』から発想した作品です。台本が全部ひらがなで書きおろされたほんとに実験的な作品。『桜の園』の冒頭、ラネフスカヤがパリから帰ってくるのを待ってるところ、ここは飛行場ってことになってるのですが、「ひこうきは だいぶ おくれている ようだな。 きっと ねんりょうが たりないから ときどき そらの まんなかで とまってしまうんだろう」とか、非常に非常に面白い。演出家も俳優たちも、スタッフもちょっとどころか大々変なんですけれど。

-外国との人間関係があるので、高いお金で、お金任せで買ってくるみたいなことはしないですんでいるということですね。それでもかかるものはかかる。そこは、芸術的に妥協しないで、助成やスポンサーを見つけて手当てするのがプロデューサーである上田さんの役割だと理解してよろしいですね?

上田 そうですね。ほんとに言いたくないけど、それでも赤字になるのですね。今も赤字は何千万円もあるのですよ。それはプロデューサーの責任だと思います。だから私が死んじゃったらどうするのかなって思いますけど。それはプロデューサーの背負うべきことだと私は思っています。俳優さんは俳優さんで、やっぱりこれだけのギャラが欲しいっていうのがありますよね。だけどうちの場合それだけのギャラはもらえない。それでも苦労してでも出たいって出る。俳優さんはそれを自分の責任でやりますよね。だから迫力が違いますね。お金のためにやってるのじゃできなくなってくるのです。多和田さんもこれを書くのに打ち合わせをパリでやりましたので入れると3年以上もかかってます。それだけかかってやっと忙しい彼女が書き上げたのです。でも、脚本料はこれだけ欲しいとか全然おっしゃっていない、ゆえに申し訳ないと重く……。

-赤字はご自分で背負ってるってことですか?

上田 そうですよ。プロデューサーは、誰でもその覚悟でやるべきだと私は思ってます。

-でも、普通の人にはなかなか背負えない金額ですね。

上田 だから、職業としてプロデューサーをやるのだったらなかなかちょっと背負えません。その意味では、前近代的いえ、後近代的思想なんじゃないですかね。どんなふうに規定してもいいのだけれど、でも現実には、やりたいことはどんどん出てくるでしょう? 私だけじゃなくて、そういう提案をするとみんながやりたいって。稽古は3ヵ月くらいかかるのですが、9月に始まって11月17日から初演をやって、この先の年もやりますよ。でもときどきは3年くらいかかって企画したのに止めた、っていうのもあるんです。だからそういう意味では、さらに無駄にしてますね、時間とお金と。

-文化庁や民間の財団の助成は、シアターXの企画するものに出るのですか?

上田 文化庁の助成はいろいろ変わってきました。最初は、劇場に年間いくらということでした。そのうちに企画ごとに申請すると作品ごとに助成されるようになりました。うちはこれまでほとんど申請を採択されてたのですけど、今年は名作劇場以外、全部落ちたのです。但し、『シアターX 名作劇場』は、日本近・現代秀作短編劇100本シリーズで、もう既に64本の上演を続けているので、これは落とせなかったのかもしれません。(続く>>
(初出:マガジン・ワンダーランド第212号、2010年 10月20日発行。購読は登録ページから)


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