連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第3回

||| 法律にはご用心 拙速の劇場法は

-劇場法について、上田さんは反対派の代表みたいなふうに言われてますが。

上田 今年1月、樋口一葉の『やみ夜』という作品をドイツ在住の演出家・渡邉和子さんでテロリスト誕生秘話風に上演しました。その際のプログラム後記に私が書きました文章の印象から「反対派の代表」みたいに思われているのかもしれません。したがいまして、まずはその文章を次に転載してみます。

 ご要心!!! 『やみ夜』へ 真しぐらの道、「劇場法(仮称)」という法律

 このところの急激に、かまびすしい「劇場法(仮称)」の制定と促進意図について私は、それが文化芸術を効果的な行政手段として利用しましょうとする国家の大政翼賛会的な民衆の統制システムづくりであり、われわれを更なる『やみ夜』に収容し、閉じ込めることになるものとしか考えられません。
(上記の文中、「文化芸術を効果的な行政手段として利用しましょう」は 財団法人地域創造・林省吾理事長の同機関誌2010年1月号巻頭「知事と市町村長の皆様へ」というタイトルの新年ご挨拶から引用。)※
 しかしながら平然と、ここまでこの法律制定の意図があからさま過ぎますと、余りもの蛮勇に呆れ返るしかありませんが。
 他方、社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)が、最近ひんぱんに流布しアッピールするところの提言書の内容も-社会・経済環境厳しいゆえ、ゆえにこそ「社会の活力と創造的な発展をつくりだす実演芸術の創造、公演、普及を促進する拠点を整備する法律(仮称:劇場法)の制定を提案いたします」-という官僚っぽく芸のない作文(失礼!)を、上位下達。日本演劇の嘆かわしい情況への問題意識や創造現場の意向をいっさい無視した、その意図も見えみえ。
 二十世紀歴史上いままでも、「世界経済」が原因による昨今のごとき厳しい経済危機、社会危機の際には、各国それぞれがファシズム化することにより、その国家体制の下、互に「紛争」とか「世界戦争」とかに転化させて景気の回復をはかって切り抜けてきました。そんな国家大政にそなえ民衆を自由にコントロールする統制システムづくりに、本来ならば不逞(ふてい)の輩(やから)で不服従、いちばんヤバイ筈の文化芸術・芸能者たち自身が、為政者を真似ての「法律制定」に奔走加担しているという-マ、三流作者のアイディアになる、こんな三文喜劇、早々に席を蹴ってもいいのでは?
(2010年1月10日~14日 シアターX自主企画『やみ夜』プログラムより)
「文化・芸術活動は、単なる一分野の活動ではなく、現在地域社会が抱えている諸問題に対する「総合的な処方箋」であり、防災・防犯・教育・医療・福祉・地場産業・まちづくり等に対する効果的な行政手段です」

 以上、相当に舌っ足らずな文章の記述となりましたのも「劇場法(仮称)」なるものの具体的な内容が一向に解らないのに、その“必要性”を促す文章類ばかりが送付されてくる。それもかなり進行しているような気配が濃厚……だが、一向にモチベーションもわからない、アウトラインもわからない、責任者たちの顔もわからない。あげく「劇場法って、劇場使用のどんな方法論? 新しいノウハウのこと?」という誤解をしている人々も。 ゆえに、これはヤバイと。そこで私同様おめでたい人びとへ、プログラム後記を借りて大急ぎ警鐘「法律なのですよ!」という拙文です。

 言うまでもなく法律とは違反すると罰せられる、国家権力によってね。違反せぬよう絶えず規制されるということが、どれだけ自由を疎外するものなのか芸術家なら直感できるはず、もっと緊張感をもってくださいよと。事例はいくらでも、歴史的事実としてありますよね。国家権力によって定められた法律には、尋常な力では抗えませんでしょう。治安維持法で虐殺された小林多喜二にしても、多くの人々の抗議も通じませんでした。いえ、抗議の「声」はまっ殺され、やがては「声」は哀しく隠れ、そのうち「声」は失われてしまう。

-劇場法っていうのはその過程じゃないかということですか?

上田 はい。第一に問題は現状の経済危機日本にとって、この社会情況を乗り切るためには「ファシズム」化へのより周到な進展が必要であります。とにかく上意下達には“聞き分けのよい国民”にしておくための装置・システムの完備は急務とさえ思われますし。そして、これは現状を肯定する思想・感性…等々を維持する立場を選んだ人々や、そこでの出世や権勢拡張をねらうのならば従わざるを得ない。いわゆる「反動化」を急ぎ、暗に陽に推進していく義理も生じましょうからねえ。
 第二に問題は、それを公務員の方々や、現状肯定保守の政治家さんらや、専門イデオローグの面々が、ファシズムの網をいろいろと仕掛けられるのは当たり前のこと。でしょうから良いも悪いも、ございません。けれども平田オリザ氏や芸団協さんらが、自ら正体をむきだしにしての法制化プロパガンダ、その居丈高なポテンシャルにすっかり押されてしまった各劇団や演劇統括団体の雄たちが「劇場法は、総論賛成。各論反対…」なんぞと、もはや“オリザ土俵”ペースに乗っかってしまっての怖気づいた態度表明をしてしまう現象こそ、もはや憂うべき。
 この第二のまたの理由には、日本国の「文化予算の増大」または「減額防止」等々、「ケイザイ大国、ぶんか小国」の貧困さを救おうという、氏らの先見の明とか、大志とかがおありなのだと申されたいのかもしれませんが。マ、虎の威を借りての余計なことはしなさんな。その代償の真の恐さを、皆んなで透視凝視いたしましょうよ。
  劇場法そのものが何で出てきたのかは、いまだ皆目わからないものの劇場法によって何がどう得をするのか? 自民党時代、シアターXなんかとは比べものにならないほど立派な劇場が、でも稼働率10%とか20%の公共ホールが地方にいっぱい造られた。そこを活性化して全体の予算を増やすのだと平田オリザ氏がおっしゃってるとか。でも、お国の「予算増」が今、芸術創造活動の現場におけるいちばんの課題なのでしょうか?
 プロデューサーというのは、どうしても実現したくてやったもので赤字をつくったら自分で背負う、そのくらいの覚悟でやるべきものなのですし、企画だって現在こそやるべき課題を見出し試みつつ「道なき道」を探求、葛藤を継続する。お金を積まれたからって拡ける道程ではない。簡単に上から若き未熟者を配してやれる、そんなことは妄想じゃないかと思います。芸団協などは何を意図してこういうことを言ってるのでしょうかしら。どういう「超課題」に基づくパースペクティブからの提言、行動なのでしょうかね。
 生物学者の中村桂子さんも言っていました。自然科学者へのそういう法律がいつの間にかできてしまって、「上田さん、法律だけはいったんできてしまうともうダメだから、もうどんなことを言っても後の祭りだから、法律は恐いですよ」って。法律をスルーッと、いつの間にか通してしまったら後は「法律ですから」っていう永遠の枷になる。悲しいことに日本人っていうのは、上から言われると「いや、私は」って言えないのですよね。何となく自己規制して、上がこう言うのだからまあ妥協しましょうかとか、七割くらいは聞いてあげましょうかとか、実際そうなるのですよね。そういうことをしない生き方のための文化・芸術・学問の活動じゃないのかな、と悩みますよと。つかこうへいさんなんかも、ひと口で言えば そういう人間としての弱いところを、どう自分や自分たちが自覚するのか、ということのために屈折し捻じ曲げて、「作品」勝負で、語ったと思います。だから原爆を落とされた日本が、逆に原爆を落とす日、というようなテーマで、顔面をぶん殴るような挑発をしたのだと。それは命がけだったと思います。プロデューサーも作家も演出家もみんな命がけでね、やらなきゃいけないときは、やらなきゃいけないのですよ。上からは認められなくても。

-よく言われる例ですが、ドイツの演劇は補助金漬けに近いような状態である、でも一方で非常に批評性は保っている。賛成派、反対派の両方から例として引かれますが、たとえば日本の場合、公金をどんどん入れてしかも批評性を保つというのは難しいとお考えですか? 難しいとすると、ドイツの場合とどこが違うんでしょうか?

上田 難しいでしょうけれども、やるべきだと。そういう意味では日本人はやっぱり長いものには巻かれろみたいなところがあるし。普段付き合ってて同じ考え方で進んでたような人が、ある時からどうしても保身に回るようなことって、個人的に見るとやむを得ないなと同情もするのですけれど、本当に小さなことさえ突っ張れないというのは、ヨーロッパの人たちと違うところだとは思いますね。

-日本人って、してもらった人に恩義を感じて、お金を出してくれた人には逆らえないというところがどうしてもありますからね。出してくれた人に変なことはできないっていうことでしょうね。

上田 そういう人が悪いというのではなく、そういう状況に追い込まないことだと思うのですね。もう大分前になりますが、Bunkamuraの社長になられた田中珍彦氏とご一緒に、仙台に行ったことがあります。地方公務員の方々が、劇場とかホールに回されて何も企画が立てられないので、そういう人に話をしてくれって言われご一緒に話をしに行きました。その公務員の方々は、日当をもらって一泊二日でセミナーに参加出張。でも、何も聞いてないのですね。だいたい三年たったら別のセクションに移動ですからね。そういう方々にホールの企画なんてできないるわけないでしょう? だから田中氏と、もうひとりのカンバセーション(企画制作会社)の有名なプロデューサー氏が全然聞いてもいない相手に、外国からアーティストを呼ぶためのノウハウについてしゃべってらっしゃったんですけど、私はもう頭に来ちゃって「“お役人風情”の方々には演劇の企画は立てられませんよ。それは別にみなさんが悪いわけじゃなくて全然目的が違うのですから、そういうものじゃないからです」と言っちゃいました。シアターXの例をあげて、どれだけ長い時間がかかるのか、向こうの人を説得して「『儲けには来ないでください。日本人はヨーロッパに比べると現代演劇のシステム理論も技術も演技の実力も弱いから、いい舞台を観せて足腰を鍛えていただきたいから呼ぶのであって、決して儲けないでくださいね』って、ちゃんと言えるようなそういうプロデューサーでなければできないんですよ劇場の企画は」って。「みなさんのような公務員の方、3年たったら転勤するような方にはできません」って最初はそう言ってたけど、そのうちに「公務員風情では…」なんて言っちゃって、向こうも笑ってましたけど「すみません」なんて。
 で、それ以上は説明したって退屈だろうからシアターXでやったので面白そうなのを映像にして持ってったのを見せたら、はじめてみなさん、居眠りから覚めた。「こういう面白いのも、何年もかかって呼んでるし、向こうもお金が目当てじゃなく来てくれたのですよ。こういうことはお役人さんではできないでしょ」って話したんです。後で田中さんが、上田さん、よくそういうこと言うな、って笑ってましたけど。でも私はその方々のためにもならないと思いましたから言いにくいこと言ったまでなのですよ。

-たとえば文化庁あたりの助成にしても、日本の古典芸能とか郷土芸能とかに偏りがちというところがあるように思いますが。

上田 他のジャンルのことは知らないのですが、なんで今まではずーっと助成されていたシアターXの企画がすべて「不採択」となったのかが、まったくわからず課長さんに聞きにまいりましたら、結局、「審査員が決めたので」って言うのですね。審査員っていうのは、この間もある場所で話が出てたんですけど、全然観にもいらっしゃらないのですよね。声の大きい人が言うともう全部決まっちゃう。海外のもの、国際関係については皆無と言っていいくらい関心がない、知識がない。価値があっても、めんどくさいんだか何だか。審査員のおひとりが数日前に語ってくださったところによれば、要するに知識がない、劇団に対して関心がない。おまけに申請書には「この作品はこういうわけで」って資料をいっぱい付けるんですけれどもね。新聞に出てたとか、こういうところで論じられていたとか、ブログなんかも。でも、審査員に対してはそういう資料は一切、はずすんですから申請用紙の記載だけになるんですって。こういうことを、こういう金額でやりたいという数字だけとなってしまうのでは、何の知識もない審査員にはわかんないわけですよ。そうすると、声が大きくて、これはやった方がいいとか、これはやらない方がいいとか言った人に従うしかない。反発する材料もないんでしょう。人間のやることだからしようがないのかもしれないのですが…

-それこそ審査員とお知り合いだったら優遇されちゃうとか、そんなことになってしまいますよね。みんな判断材料がない中で、声の大きい人がこれやりましょう、って言えば決まっちゃうわけですから。そういう人と普段お付き合いがあると有利だっていうことになってしまいますね。

上田 今から10年くらい前の頃、東京の劇場:シアターコクーン、紀伊國屋ホール、新国立劇場、そのころはまだあったセゾン劇場なんかから10人ばかりが選ばれて、ドイツへ招かれベルリンの劇場10ヵ所くらいを訪問し、館長や芸術監督から直かにお話を聞いたのです。その時みんな異口同音に、「ドイツでは十分に予算をもらっているので、われわれはお金の心配をしなくてもよいが、今日現在ベルリンには年金生活者を入れると、50%の失業者がいます。これからももっと増えてると思いますし、すでにネオナチなんかが出てきているような、このベルリンでどんな演劇をやればよいのか。われわれは毎日12時間、必死で何をやるべきかを考えています」って言ってました。日本の私たちは、お金の心配が一切ないならうれしいよねえって言ってたんですけど、でも、それだけに出来たものの評価は厳しいわけですよ。批評家がきちんとしていますから。粗筋がほとんどというのではない批評が載るのですから、プライドもありますしね。高級官僚さんも、ビッグビジネスの重役さんでも、「あの演劇、見た?」っていうのが話題になるような国で予算はいっぱいあるからチケット代がほしいわけじゃなくて、真実の意味で伝わるものが伝わったり、あるいは反応があるのかっていうことに悩んでました。
 だから、芸術監督は本当にもうへとへとになるみたいですよ。そういう厳しさがあるのですね、予算は獲得しなくてもいいのですが、その代わりのプレッシャーも大きいでしょう。ポーランドなんかでは、芸術家が社会でナンバーワンの偉い人なんです。自分たちにできないことを、あの人たちは生涯かけ、命がけでやってくれるのですからって、よく聞きます。そうすると、本当にいい作品でないと、もう居たたまれないですよね、作家にしても演出家にしても。そういう厳しさがね、日本には今はない。江戸時代にはあったようですが。マス・メディアが壊してしまいましたね。

-こういう今の現状の中で、劇場法のようなものができて、なまじそういう公共のお金との関係ができることは、腐敗を招くというお考えですか?

上田 上からお金をいただき「お上(かみ)の意図」が伝わってきますとね、それに抗えないのじゃないのですか? やっぱり、「求められてるものは何かな」という範囲の中でつくりますでしょうね。(続く>>

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