パスカル・ランベール作・演出「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」(SPAC版)

◎踊る世界の足元を示す
 柳沢望

「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」公演チラシ パスカル・ランベール作・演出の「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」は、2010年1月にフランスで初演された時にも一般市民多数が参加して上演されたということだが、富士見市、静岡市、宮崎市の三ヶ所で行なわれた日本での上演は、それぞれの地域から多数の一般市民が舞台に参加、さらに、多田淳之介(富士見)、大岡淳(静岡)、吉田小夏(宮崎)の三人が、それぞれの地で共同演出者として参加し、別々のバージョンを上演するという意欲的な企画だった。

 それは、地域に根ざし、かつ、世界に開かれた場所として、劇場という施設に何ができるのかをめぐって未来へのモデルを指し示すような試みでもあったはずだ。

 そうした点で、フランスに渡って初演の稽古にも立ち会うなど、丹念にこの上演の準備を進めた大岡淳氏を初め、制作面でサポートをしたアゴラ企画も含む多くの関係者の労力は、次の成果へとつながる結びつきを様々な仕方で日本の社会に残すものだったに違いない。

 私が見ることができたのは静岡での公演だけだが、10月23日(土)に、静岡県舞台芸術センター(SPAC)の舞台芸術公園野外劇場で上演に立ち会った印象を語りながら、今回の上演の意義について考えてみたい。

 二日目は大粒の雨の中でなされたという静岡の野外劇場での上演だが、幸か不幸か、私が見た初日はうす曇の夜空に月が良く見える宵だった。晴れたとはいえ、とても寒い日で、野外で見るのはなかなかつらかったが、自然に開かれた野外劇場だからこそ、味わい深く、そして考えさせられる舞台になっていたと思う。

「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」公演から
【写真は、「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」公演から。撮影=三五茜。提供=SPAC】

 たとえば、劇中、サブプライムローン問題が取り上げられ、アメリカで家を失った人々の様子が演じられたが、路上に投げ出された身体と同じ空の下に、演じる人も、見る観客も、置かれている。その、外気にさらされた身体が身を寄せ合うような場所から、舞台がまさに立ち上がっている。

 ネットに公開されたコメントによると野外劇場で上演することはパスカル・ランベール氏自身の希望だったそうだが(注)、季節はずれながらあえて野外で上演するという挑戦は、作品のテーマの本質に直に触れる舞台造形として結実していただろう。

 この上演では、中心となる出演者たちのほかに、大勢の一般人がパフォーマーとして出演しているわけだが(注2)、その一般参加のパフォーマーたちのあり方は、ギリシャ悲劇のコロスにもつながる。ギリシャの劇場は野外劇場だったわけだが、静岡での上演は西欧演劇史の起源への参照を促すものとして、しつらえられたのだろう。そうした幾重にも折り重なる歴史への反省は、舞台に立ち会うこと自体の成り立ちを反省する装置として、上演が上演自らを照らし出す舞台造形にもなっていた。

 さて舞台は、いくつかの層にわけられる複数のパートが重なりあいつつ断続的に入れ替わりながら、異質の要素でもって織り上げられるように進む。その層の違いをおおまかに区分すると、次のようになる。

1.フランス人出演者の詩的なモノローグによる、人生や、家族についての感慨を語るパート。
2.経済学や歴史上の経済状況をめぐるエピソードなどを、数人のフランス人出演者が寸劇のように示してみせるパート。
3.経済哲学者(エリック・メシュラン)が、経済学史とその思想的な背景について語るパート。
4.コロスのようなパフォーマーたちが演じてゆくパート(歌う人々も居れば、パントマイム的な仕草を繰り返す人々もいる)。

 まず、4番目のコロス的な層に注目しよう。群集たちは、ある場面では、経済学で扱われる「経済人モデル」というか、ある種の社会科学で扱われるような類型化されたエージェントのありさまを模式的に示すようなパフォーマンスをする。

 たとえば、太平洋の島々にあった交換の儀礼的な意義を解説する場面では、ひとりひとりが品物を手渡すマイムをすることで、交易ルートの模式図が舞台の上に示される。あるいは、パスカルが発明した計算機の機構について、歯車の組み合わせで計算がなされる様子を、それぞれのパフォーマーが歯車になったようなマイムをしてあらわす。

 これらのパフォーマンスは、経済学的な学識が社会をコントロールする道具となることによって、それぞれの生きた人が、まるで機械のように扱われてしまうという現在の社会のありかたを、そのまま喩えるような舞台造形だった。そのように、舞台に立つ人は、多層的な意味を表す主体として立ち現れてくるのだけれど、この舞台では、芸術についても経済の視点から反省される。たとえば、マラルメを中心とした詩人たちの秘教的な集まりを風刺のように喜劇的な仕方で描いてみせながら、大衆的な大量出版事業とエリート的な芸術受容の間の多層的なかかわり具合について語る場面は、そのまま、現代の芸術にもあてはまる省察へと観客をいざなっただろう。

 それだけ高度で複雑な思索が見事に造形され語られてゆく舞台を知性と感性の両方で受け止めるのはなかなか高度な力を観客にも要求していたと思われるが、この上演では、事前に用語解説なども配られており、身体において同じ空気の下に舞台を感じることと、知的な理解を行なうことの双方が丁寧に促されていたといえる。

 さて、作品イメージの核のように置かれる親密なモノローグ(1.)と、歴史上のエピソードを語る寸劇のような場面(2.)はフランス語で演じられ、電光表示の日本語字幕でその概要が示された。

 寸劇パートで喜劇調に早口になる場面などは、とうてい字幕翻訳では追いつかないので、もどかしさを感じた観客も居たかもしれない。だが、翻訳の限界や困難もまた、経済や交換というテーマと密接に関わる。その点で、翻訳が不透明な壁として意識されることもまた、観客にある種の示唆を与えたかもしれない。

 学者自身が講義のようにパフォーマンスする場面(4.)は、舞台傍らの演台に立つ通訳者が、まるである種の国際会議や学会での基調報告や講演において行なわれる翻訳のようなパフォーマンスを添える形で上演された。話の切れ目ごとにフランス語による講義を中断し、その訳稿を読み上げるように翻訳が示される。

 そのような翻訳上演の試みから対照的に浮かび上がったのは、フランス語の上演において、まるで講義のようになされる経済学者の語りと、風刺的な寸劇、そして詩的なモノローグのそれぞれが、身振りと言語のひとつの水脈においてつながりあっているように思えたのに対して、翻訳の上演としてみると、逆に、日本での講義や講演という公的言論のスタイルと、演劇的な発語との間に、むしろ断絶があるように見えたということだ。

 しかしこれは、演劇的なものについての日仏の違いを明示したという点で、むしろ直接的に正確な翻訳だったというべきかも知れない。言葉と身振りが、フランスにおいては、日常のふるまいや公的な言論のあり方においてまで、ある種の様式において一貫しているとしたら、日本においては、それが分断されている。舞台に示されていたのは、その違いにおいて可能な出会いの形だったともいえる。

 身振りの水準においてはフランスのパフォーマーと日本のパフォーマーが同じ形の仕草を直接に交換しあっているのが見てとれるので、言語の水準で日仏の演劇が置かれているはっきりとした違いの印象は、逆に極まった。

 講演をするように滑らかに語る経済学者は、無線のマイクをつけていて、舞台の上を歩き回りながら語る。そして、語る間にも、その語りの流れで思い思いに振舞うという風にさりげなく、舞台の上に散らばってそれぞれに日常的な仕草のマイムを続けていた一般の参加者がしているのと同じ身振りをしてみせたりもする。

 そうしたところで交わされる、身体表現の可塑性を前にすると、演劇的な言語表現においていかに翻訳が困難であり、それが、いかに文化の根底にまでおよぶ相違に由来するものであるのか如実に見えてくる。

 翻訳が示されるのは、その交換の困難においてだ。そうした仕方においても、交換できるものと、交換しがたいものとの様々な違いが、鋭く舞台に対照させられていた。

 上演の後半に、一般参加パフォーマーも含めて、舞台に登場するそれぞれの人が、自分が大事にしているものを舞台に持ち寄る場面がある。それぞれに品物についての思い出を、すこしかしこまった、しかし朴訥とした仕方で語りながら舞台の上に置いてゆくので、それぞれの思いのこもったものが並んでいくのだなという風に見える。公演で配られた説明によると、これは実際にそれぞれの出演者が思い出の品を持ってきたものらしい。

「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」公演から
【写真は、「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」公演から。撮影=三五茜 提供=SPAC】

 しかしその場面に続いて、サブプライムローン問題のあおりで路上に投げ出された一家の寸劇が演じられる。フランスの人たちが大西洋を挟んで向こう岸にいるアメリカの人たちを舞台で演じて見せている点で誇張の仕方も含めあれこれ興味深い場面だが、この寸劇のおしまいあたりに、「路上に家財道具を全部投げ出されたよ」と言って、先ほど出演者たちが並べた大切な品を指差すという場面がある。舞台にならんだ品々が、まるで、路上にほうりだされた家財道具であるかのように見える一瞬だ。

 経済において、財貨が単なる数字に還元され流動させられることと、それぞれの品物の交換しがたい価値との相違とが、夜空の下、舞台の上に、直接示されるわけである。しかし、それぞれの品物がそれぞれの人の手元に届いたこともまた、交換が可能にしたことなのだった。そうした逆説が、舞台の上に浮かび上がってくる。

 同じことは、一般参加したそれぞれの人のマイムの質にも言える。それはそれぞれに日常的な仕草をモチーフにしたものでありつつ、しかし、どこか型としてなりたつようなものに練り上げられていた。それはまるで、交わされる言葉のように、個性的な響きを持ちつつも交換可能な形に分節されてあるような、整えられた、慎重に選ばれた、仕草だ。

 冒頭で順番に舞台に登場するコロスのような参加者たちの仕草は、最初はひとりひとりが際立つように、それぞれの人の暮らしの中で行なっている所作や作業、動作を再現しているように見えているが、それが繰り返されるうちに、同時進行する舞台の背景に溶け込んでゆくかのようにも見えた。絶え間ない日常の動きから造形されたようなパフォーマンスのひとつひとつは、舞台の中心となるフランス人パフォーマーとの間で、身振りの交換や共振を起こすこともあれば、それぞれの人が黙々と仕事に専念しているかのように見える瞬間もあった。

 これらの身振りのあり方は、生活を織り成している身体の使用と、舞台において観客の目の前に置かれる身体の使用との間に、橋を架けるようでもあるが、ただ日常の身体のモードを舞台に再現したりサンプリングしたものではない。日常に取材した造形としてひとりひとりの参加者によって成立させられていたことが重要だろう。

 それは、生活の中から取り上げられながら、交換可能な仕方で彫琢された身振りだった。そこにも、様々な身振りや振る舞いの絡み合うシステムとしてある市場と重なり合う現代世界を多層的に照らし出す視線がある。あるいは、そのような身振りの彫琢は、生活の場面を単に効率や収益の論理によって奪われるままにしておかないような、生活から発して、しかし世界に開かれる仕方のモデルとして考えられるのかもしれない。

 そうした観点からすると、この上演で用いられた合唱のあり方がどのように作品にアクセントを加えていたのかについてはより慎重な注釈を加えるべきだろう。ここでそのための考察にしっかりと踏み込む余裕は無いので、気付いたことを指摘するにとどめるが、西洋音楽の方法論を踏まえながら、声を合わせるという原初的な共同性を磨き上げる合唱の仕事は、しかし、その独特の響きと共に、舞台に示された仕草やフランス語での上演とは消して交わらない区分の線をひとつ明確に引いていたようだ。

 コーラスの立ち上がり方は、マイムが日常から立ち上がるように見えるのとは異なった位相にあるようで、また、言論の言葉とは乖離したところに音が響いているということも含めて、ある種異質な印象を残していた。それは、文化的な制度の中には市場的な交換には還元されない局面があるということの端的な例示だったかもしれない。いずれにせよ、この落差が示されたこともまた、舞台そのものについての反省と言う側面ももつこの作品においては、その射程を広げるものとしてあったと評価できるかもしれない。

 静岡からの参加者は、一般公募で集まったとはいえ、なんらかの表現活動に携わっている人が多いようだった。その事実は、日本の劇場が関わりあう文化状況の制度的限界を示していた言うべきかもしれない。たとえそれが限界だとしても、そこには劇場の限界を押し広げる上で包括的に取り組むべき問題系があるのであり、今回の上演は、21世紀の日本社会における劇場のあり方を模索する上で不可欠な論点をほぼ漏らさず舞台の上に結節させていたと言えるだろう。

 作品のしめくくりに近いところで、リスク計算によって保険を効かせるような金融工学的な「出来事への恐れ」ではなく、予想外の出来事に自らを開く愛があるべきではないか、と問いかける言葉が、エリック・メシュランによる「講義」の結語としておかれていた。

 しかし、ここには、逆説がある。劇場がひとつのモデルを示すような共同性のあり方は、開かれることと同時に、閉ざすことをも要請しているだろう。劇場の客席は、常に限られている。入れるひとを選ぶことにおいてのみ可能となるような芸術的営為というものもある。

 さて、経済哲学者が発する愛という言葉が位置付く場所は、ポエティックなモノローグで示されたイメージと地続きであり、そこで超越性や父・母・子の関係モデルが示唆されていたように、カトリック的な思想の土壌と密接に関連したものとしてあったと思われる。だが、その背景が翻訳と紹介においてどこまで観客に伝わったかについては、疑問が残る。

 そこに、ある種の翻訳や伝達の欠落を指摘できるとして、では、その欠落が指し示すものは何なのか?日本において、家族というモデルが国家の水準でどのようなものとして象徴されてきたかを反省してみればその答えは自ずと出るだろう。

 この、思想や文化を交換する上での、欠落をもって応ずるほかないような困難さは、劇場と地域、そして世界との関わりについて考える上でも忘れることのできない点だ。日本の国家と演劇や劇場との関わりをめぐる問題を無視できない人は、今回の上演に続くだろう大岡氏の活動でこの困難がどのように扱われるのか、注意深く見届けるべきだろう。
(注)参照: http://www.miyazaki-ac.jp/moyooshi/2010/world-dances2/index.html
(注2)大岡淳氏の発言によると、静岡版の出演者は、40人ほどだったと言う。
参照:http://www.spac.or.jp/10_autumn/dansee

(初出:マガジン・ワンダーランド第216号、2010年11月17日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
 1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/

【上演記録】
世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」(SPAC秋のシーズン2010、県民参加体験創作劇場2010)

舞台芸術公園 野外劇場「有度」(2010年10月23日-24日)
上演時間:90分 フランス語・日本語上演/日本語字幕

企画・構成:パスカル・ランベール、エリック・メシュラン
作・演出:パスカル・ランベール
共同演出(静岡公演):大岡淳
哲学的テキスト・出演:エリック・メシュラン

出演:クレマンティーヌ・べアール、ケイト・モラン、セシール・ミュシテリ、ヴィルジニ・ヴァイヤン
一般参加者:朝羽純也、落合久信、川口駒貴、小長井涼、小谷野桂子、佐藤萌里、佐野千秋、Sabine Stadler、柴田恵、杉上友紀、杉原可奈子、鈴木綾乃、鈴木久美子、芹澤輝代、濱﨑邦子、春野菜緒、本多佐千子、松浦大樹、横山香代子
コーラス指導(静岡公演):戸﨑裕子(音楽青葉会)
コーラス:辻康介、戸崎廣乃、戸崎文葉、蓑島晋/梅原智代、梅原知里、梅原奈美樹、倉石寛、鈴嶋孝将、高田智佳、土屋佑里香、蓑島洋子、山下浩平/永井健二(SPAC)
チケット:2,000円/高校生以下1,000円

上演記念プレトーク
10月23日(土)ゲスト:宮沢けいすけ(静岡市議会議員)「脱競争経済は可能か?」
10月24日(日)ゲスト:中嶋壽志(静岡経済研究所専務理事)「多極化時代の静岡経済」
聞き手 大岡淳(SPAC文芸部/『世界は踊る』共同演出担当)
会場:舞台芸術公園内カチカチ山
参加費 無料(公演のチケットをお持ちの方)

企画・製作 財団法人富士見市施設管理公社、財団法人静岡県舞台芸術センター、財団法人宮崎県立芸術劇場、ジュヌビリエ国立演劇センター
製作協力 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成 財団法人地域創造、国際交流基金PAJプログラム、キュルチュールフランス、貯蓄供託金庫、ブイッグ建設イルドフランス、郵便局事業基金、リーディング用共済組合基金、在日フランス大使館文化部
後援 東京日仏学院
協力 ANA

《埼玉公演》富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(2010年10月16日-17日)
《宮崎公演》メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場、2010年10月30日-31日)


「パスカル・ランベール作・演出「世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~」(SPAC版)」への4件のフィードバック

  1. ピンバック: yanoz
  2. ピンバック: 中西理

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です