劇団扉座「新浄瑠璃 朝右衛門」

◎平面世界を立体化する
 中尾祐子

「新浄瑠璃 朝右衛門」公演チラシ 舞台の意義に真正面から立ち向かった大作に出会った。
 原作がすでに小説や漫画などで発表され、一定の評価を得ている物語を舞台化する際、ひとつキーとなるのは「音」という問題だろう。
 この舞台の原作は江戸時代に死罪となった罪人の首を斬る役人を主人公にした名作漫画『首斬り朝』。作家の小池一夫と劇画家でもある小島剛夕の合作による1970年代の代表作だ。舞台の脚本と演出は「スーパー歌舞伎」の脚本でも知られる劇団扉座の主宰、横内謙介が手がけた。

 舞台版はタイトルにもある通り、三味線を伴奏楽器に太夫が詞章を語る劇場音楽のひとつ、浄瑠璃を音楽に起用した。作曲を歌舞伎義太夫として活躍する竹本葵太夫が担当。竹本と横内が組むのは2004年に初演された『新浄瑠璃 百鬼丸』に続き、2度目となる。

 竹本によれば、前作『新浄瑠璃 百鬼丸』が武家社会を舞台としていたのとはうって変わり、今回の作品では「町人の出来事を扱った世話物として作曲し、曲のタッチが柔らかくなっております。専門的には義太夫節でいうところの『口説き』と言いまして、オペラのアリアのような部分もございます」と説明する(公演リーフレットより)。首の斬り方も一つの方法だけではないということで、それに合わせて曲を変えたとも語っている。

 「金持ちと 貧乏人と 善人と 大悪党と この世の浮き世 どう生きたとて 行き先は、 所詮は墓場」「ならいっそ 好き放題に 生きようと にわか盗賊 荒れ寺に うまい獲物を みつけたり」

 物語の冒頭で歌われた浄瑠璃の詞だ。力強い節をもつ浄瑠璃の語りが悪人と善人の生まれるこの世の理、死罪となった罪人の心情をドラマティックに歌い上げる。音曲の浄瑠璃を現代劇に融合させるという選択が、音の出ない漫画世界を立体化することに類まれなる効果を発揮した。

 舞台美術は陽の届かない牢屋を筆者にイメージさせたが、制作側に聞いてみたところ廓や寺を再現したという。太い丸太を組んだような格子状の柵が目の前に広がり、丸太の奥の闇一帯を浮き立たせている。格子の手前は場面ごとに仕置き場や飯屋、屋敷と移り変わる。闇色でないものは上方に浮かぶ橙色の月らしき円のみだ。

 物語は腰の曲がった白髪の老婆(中原三千代)が、罪人の首を斬る処刑場、土壇場で働いていたという過去を語るところから始まる。

 親子三代にわたり、土壇場で罪人の首を斬る「死刑執行役」をつとめてきた山田朝右衛門役を劇団員の岡森諦が演じる。将軍の刀の切れ味を試す人体切り、公儀お様(ため)し役でもあり、世間から「死に神」と呼ばれるようになった男だ。老婆の若い頃の娘、おのぶ(高橋麻理)は悪人を懲らしめたいという気持ちで、土壇場での手伝いを希望し、斬られた首を洗う役目を与えられていた。裏切った愛人の家族を皆殺しにした女罪人や冤罪で処刑された男などいくつかのエピソードを盛り込みながら、死刑とは何か、善悪とは何か、朝右衛門とおのぶの考えを交差させて物語は展開する。

 今にも死を迎えるという間際で1人の女も思い出せない与五郎(上土井敦)が、身の哀れを嘆くと、朝右衛門は匂いや耳に触りはないかとたずねる。与五郎は以前風邪を引いたとき、看病してくれた女郎の女がいた。私の花と言って、都忘れの菊をくれたと思い出す。「おきく」だ!と思い出し手を合わせたところを、斬首される。

 また、愛人一家を手にかけた女罪人の志野(川西佑佳)の処刑では、ある冤罪に係わった役人を立会いにさせることで、死に行く人間の顛末を、人を殺すとはどういうものかを見せつける。朝右衛門は罪のない者にまで手をかけなかったか、志野に問いかける。おのぶに言いつけて、志野の髪を手で梳いてやると志野は泣き出し、素直に一言侘びを入れ大人しく手を合わせる。

 このように朝右衛門は、世間からは死に神と呼ばれながらも罪人に情けをかける男だ。そんな矛盾を胸に抱く男を岡森は口数少なく硬派に演じきる。

「新浄瑠璃 朝右衛門」公演から
【写真は、「新浄瑠璃 朝右衛門」公演から。提供=扉座 禁無断転載】

 死刑という重苦しいテーマをはらみ、首斬りの場面を次々と再現していくというこの難解な舞台を、同劇団の岡森諦や中原三千代、牢役人の井上役を演じた有馬自由ら実力派の演技力で厚みのある確かなものに仕立て上げていった。土壇場で悪人を懲らしめたいと希望したおのぶは、朝右衛門のやり方を手ぬるいと責める。罪人には死ぬ以上の苦しみを与えてほしいと訴える。おのぶの悪人に対する憎悪は、「私の人生を台無しにした」と語る札付きの悪党、新九郎(上原健太)に理由がある。

 朝右衛門は、死以上の苦しみはあるか問う。生きていれば人は変わる。生まれつきの悪人はいない。変わらないのは死人だけ。だから、死罪は一番の罰なのだと説く。自分は「首切りだがこの世から死罪がなくなることを願う」と、死刑執行人にして死刑廃止を説くのだ。

 やがておのぶは牢屋で起きたある事件の責任をひとり負い、牢屋の役目を解かれることになり、朝右衛門の屋敷に下女として拾われる。

 おのぶが朝右衛門の屋敷に着いた頃、町は祭りの最中。祭り囃子も聞こえてくる。しかし祭りの3日間、死に神は出入りさせないと朝右衛門の家では扉という扉をすべて閉ざし、家人も一歩も外に出ない決まりになっていると、処刑役人ゆえの悲しき決まりが明かされる。奥の部屋には何百もの位牌が安置されている。山田家が手をかけた罪人の位牌だと教えられる。朝右衛門は子どもの頃から祭りの3日間、この部屋で父と経を読んでいた。

 おのぶは問う。なぜそこまでするのかと。朝右衛門も子どもの頃は祭りにいけなくて悲しかったし、おのぶと同じように疑問に思っていたが、実際に斬首の役目を継いでから分かったと答える。次のセリフが印象的だ。「人を切るのではなく、罪を切る。切ってつながる縁もある」。

 「わたしの人生でただひとつの安らぎだった」とおのぶが回顧するこの関係は、悪党の新九郎(上原健太)の逮捕で崩れる。新九郎は首切りされることに決まり、おのぶは仕返しをしたい一心で朝右衛門の目を掻い潜り、土壇場にもぐりこむ。ふてぶてしい態度で反省の色も見せない新九郎は、おのぶの顔を見た途端に急変。血の気は引き、怯えて震え出し、小便も漏らす始末。手を合わせて命乞いをすると、おのぶは据わった目付きで「許すものか。私が殺してやる」とせまり、斬られた首を持って高笑いする。

 おのぶが朝右衛門の屋敷を去る前、朝右衛門は祭りで売られているような「ひょっとこ面」を持ち出す。おのぶが祭りの終った後に商人から買ったものの、どう渡していいのか分からなくて朝右衛門の枕元に置いていたものだ。すると、朝右衛門は「たまらなく愉快になり申した」と淡々とした口調で、「夜中に笑ってしまった。笑うことなどこの家で今までなかった」と面をかぶり笑う。

 そして続ける。「おのぶ、死ぬな」と。「辛いけど、良いこともある。首切り朝右衛門が面で笑うこともある。だから、死ぬな」と惜別の言葉。ここは観客の反応がもっとも良かったシーンとのことだ。

 場面は中原三千代ふんする老婆に戻る。おのぶは殺人犯の息子という濡れ衣を浴びながら、悪人の道を進んだと語る鬼次(高木トモユキ)と出会う。牢屋で働いていたとき、父が冤罪で処刑され孤児となったため、おのぶが乳を与えていた赤子のキン坊だ。鬼次は難癖をつけた風呂焚きの男にナイフを振りかざし、その行動を止めよう間に入った老婆が代わりに刺される。

 老婆、おのぶは鬼次に強く訴えかける。「どんなことがあっても、土壇場に送られるようなことはするな」と。「生まれ変われ。一からやり直せ。生きていれば人は変われる」と、かつて朝右衛門が説き、おのぶが反対した考えを必死で伝える。

 朝右衛門の屋敷を出て、新九郎のさらし首の場所へ足を運んだ頃から、おのぶは朝右衛門の考え方に近づいていたのだろう。「まだ洗っていないから、私がもう一度洗う」と新九郎の首を持ち去ったが、「でも心が締めつけられる。洗っても洗っても」と独白する。劇中で処刑前に一言、朝右衛門が「首切りの数は500を超えたが、気分の晴れたことはない。後で重きものがくる」とこぼしたことがある。罪人に対して異なる意見を持っていた朝右衛門と、おのぶの考え方が寄り添っている。

 クライマックスには老婆とおのぶが新九郎の首を軸に出会う。祭り囃子の音が響き、面をつけた群衆が背後から2人を取り囲む。老婆とおのぶは首に面をかぶせ満足そうな笑みを浮かべ、眼を閉じる。面をつけた群衆の先頭にいた朝右衛門が「年に一度の祭りなら、新九郎も笑うたぞ」と最後に締める。

 漫画として先に発表され読者もある程度のイメージを持っている平面世界を、浄瑠璃という古来から劇場音楽を支えてきた独特な「音」をキーワードに、奥行きのある立体世界へと昇華させた。

 公演リーフレットに横内のコメントで、首切りの場を描くというこの物騒な物語世界に浄瑠璃の音が「美と官能を加えてくれた」とあるが、言い得た表現だ。義太夫節の特徴とされる語りの重厚さ、すぐれた叙事性がこの世の無常や生死の境に立たされた登場人物のこころ、まさに生を絶たんとする場所の緊迫感を熱っぽく、ドライに語り上げた。

 民族楽器や金属、プラスチック、生活用品などを用いたというオリジナルの楽器は哀切に鋭く響き渡り、劇団研究所の研究生らによる群唱も舞台にどっしりとした膨らみをもたらした。客席に向って舞台の空気、波を送り動かしているのは人の力だと改めて実感させた。

 また、土壇場やお仕置きなど音に出して読むと艶のある言葉に、はたと思い当たるのも舞台の醍醐味だ。文字ではさっと通り過ぎてしまうような、すこし古めかしい言葉もセリフ、話し言葉として声に音にするとその色っぽい響きを再認識させられる。

 罪と罰、善と悪、人を裁く、首を斬るといった普遍的なテーマが、古典を通じ現代へと投げかけられた点も見逃せないだろう。法の体制など違うけれども問われているもの、問うているものは変わらないと気づかされる。ことある毎にハッと気づかされても、明確な答えは打ち出せないことを筆者は痛感した。問題は根深い。

 劇中で北町奉行の遠山左近(鈴木利典)は仕置きは見せしめと語った。対し、朝右衛門は罪人の心を改めるのが仕置きであり、人ではなく悪を切ると信じている。首切りをもって罪人は悪人でなくなったと断言する。

 朝右衛門が「死刑廃止論者なのは、原作のままです。むしろ原作の方が、論理的に廃止を訴えています」と語るのは脚本・演出を手がけた劇団主宰の横内だ。横内は自身のブログで、今まではそれほど明確な廃止論者ではなかったが、「腹をくくって、今後は死刑廃止論でいこう」と公演に先がけた決心をつづっている。「それは朝右衛門に義理立てするから、というのではなく、この戯曲を書くために、ストーリーや台詞をどうするか、悩み苦しむなかで、自分の意見、考えが、徐々にまとまっていった結果であります。そしてそれが単なる理屈じゃなく、自分の気持ちも含まれた、思想みたいなモノに固まっていった」と振り返る。

 この作品は古典劇と現代劇を融合した新しいタイプの舞台を得意とする横内ならではの大きな挑戦だったと評価したい。再演を繰り返し、そのたびに社会に問いかけてもらいたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第226号、2011年2月2日発行。無料購読は登録ページから)

【筆者略歴】
中尾祐子(なかお・ゆうこ)
1981年千葉県生まれ、立教大学大学院文学研究科修了。フリーライター。文化人類学専攻。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nakao-yuko/

【上演記録】
扉座第46回公演「新浄瑠璃 朝右衛門~原作・小池一夫/作画・小島剛夕『首斬り朝』より~」
【厚木公演】厚木市文化会館小ホール(2010年11月27、28日 厚木シアタープロジェクト ネクストステップ第1回公演)
【東京公演】紀伊國屋ホール(2010年12月1~5日)
*上演時間は休憩なし、約2時間5分

原作=小池一夫
作画=小島剛夕
脚本・演出=横内謙介
出演=岡森諦、中原三千代、有馬自由、犬飼淳治、高橋麻理、鈴木利典、岩本達郎、上原健太、鈴木里沙、高木トモユキ、川西佑佳、安達雄二、江原由夏、上土井敦、新原武、串間保彦、栗原奈美、藤本貴行、鈴木崇乃、江花実里、吉田有希
オーディションで選ばれた市民(厚木公演のみ)

浄瑠璃作曲=竹本葵太夫
美術=中川香純
技術監督=大竹義雄
大道具=島崎義行
照明=塚本悟
音響=青木タクヘイ
衣裳=木鋪ミヤコ
演出助手=田島幸
舞台監督=大山慎一
宣伝美術=吉野修平
タイトル文字=小林覚
票券=小林香織

制作=財団法人厚木市文化振興財団(厚木公演)、赤星明光・田中信也(扉座)
製作=財団法人厚木市文化振興財団、扉座(東京公演)
協力=MANGA RAK Inc. 小池工房、小池書院、松竹、星野事務所、krei inc. 
アンテーヌ リベルタ、JUSTICE、プランニングアート、ASG、ステージオフィ
ス、ドルドルドラニ、大山組、明和運輸。

全席指定・日時指定 
一般4200円(前売)、4500円(当日)、学生券3000円

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