◎コドモたちの《祈り》が織りなすタペストリー
プルサーマル・フジコ
マームとジプシー、そして主宰で作・演出の藤田貴大の名前は、リフレインを特徴とする優れたテクニックを持った気鋭のカンパニー/演出家として知られつつあるけれど、のみならず、戯曲・演出・組織のつくり方といった点で彼らが「演劇」の多くを更新していることはそろそろ認知されてもよい頃合いだと思う。今回の『コドモもももも、森んなか』の再演で〈コドモ・シリーズ〉とも呼べる彼らの一連の作品群もひとまずの完結を見たし、これから未踏の領域に進んでいく節目ともいえる今、マームとジプシーのこの1年の歩みを振り返りつつ、『コドモ』再演にあたって取り組まれたこと、そして藤田貴大の知られざる演出・戯曲の特徴など、できるだけ過不足なく記述していきたい。
■マームとジプシーの〈コドモ・シリーズ〉
マームとジプシー(以下マームと略)を初めて観たのは『たゆたう、もえる』(2010年2月@こまばアゴラ劇場)の千秋楽。今やその代名詞ともいえるシーンのリフレインによって時間軸を行き来する手法はとても斬新で、かつてない感動と興奮をもってわたしは観た、とゆうよりこの作品にわたし(たち)が見られたような怖ろしい心地がしたのだった。演出のテクニックは確かに凄い。でも単に器用なだけの作風とは全然思えない何かがそこにはあった。1985年生まれの藤田貴大は、どうやって描くか(How)のみならず、何を描くか(What)を抱えた作家だとゆう印象をわたしは強く持った。(*1)
つづいての『しゃぼんのころ』(2010年5月@横浜STスポット)は14歳の少年少女を描いた作品で、これは皮膚に残る質感や風通しの良い空気感のある素晴らしい舞台だった。前作にならって排泄行為にまつわるモチーフを再び登場させながらも、ベルベット・アンダーグラウンド、ドアーズといった楽曲をパンクな家出少女たちの聖像(イコン)として用いたり、喫茶店のメロン・ソーダやシルバニア・ファミリーそして尾崎翠の『第七官界彷徨』といった文学少女的なアイテムが散りばめられたりで、小さいながらも豊饒な世界がひろがっていく。徳永京子を筆頭に何人かの批評眼のある人たちがこの公演でその才能を認めたためか、マームとジプシーの名前はこの頃から広範囲にひろまっていった。(*2)
それから半年ほど経った昨秋の『ハロースクール、バイバイ』は、KYOTOEXPERIMENTのフリンジ企画HAPPLAY?(2011年11月@京都アトリエ劇研)とフェスティバル/トーキョー2010の公募プログラム枠(同月@池袋シアターグリーン)に連続参加。本公演としてはマーム初の旅公演となる京都滞在と、連日の超満員でたくさんの熱狂的な批判・称讃を浴びた東京池袋の日々の中で(*3)、しかし彼らはとにかく良いプレイをすることに集中し、結果として評価・評判・名声・嫉妬・その他エトセトラといったプレッシャーの罠を軽々と飛び越えていった。
そしてひと回りタフになって迎えたのがこの『コドモもももも、森んなか』の再演(2011年2月@横浜STスポット)である。落ち着いた環境の中でつくられた様子は、横浜・急な坂スタジオで収録された柴幸男(ままごと)との対談からも窺える(*4)。とはいえこれは大きなチャレンジだった。資料映像用のDVDで観るかぎりこの作品は初演(2009年11月@横浜STスポット)の時点ですでに完成度も高く、そのまま再上演するだけでも十分なインパクトはありえたはずだ。しかし再演にあたって彼らは安全策ではなくあえてリスキーな選択肢をとり(*5)、結果的にマームとジプシーの成長を大きく実感させることになった。そうでなければわたしがこの長い文章を書くこともなかっただろう。さて、では一体彼らはこの再演で何をしたのか?
■ 『コドモ』あらすじ
『コドモ』のストーリーを駆け足で紹介する。まずは第一部(コドモ篇)。団地に暮らす三姉妹(さえ、ゆき、もも)がいて母親はあまり家に帰ってこなくて、理由は不明だけど父親もここにはいない。物語はさえの小学校の同級生・ちづみが家に遊びに来て習い事のバレエの新作をはっ、しゅっ、ほっ、とたどたどしく披露している滑稽なシーンからスタートする。ゆきにとってちづみはいつも自分の一歩先を進むトレンディな存在で、なんとかお母さんに買ってもらった匂い付き消しゴムを「ね、ちっちゃん、見て見て?」と見せるのだけどちづみにはすでに新しいねり消しゴムのブームが到来している。しかもせっかく水族館で買ってもらったイカの人形は親友のみずうみに「え、ダサくない?」と一蹴されてしまうし、幼すぎる三女ももはうるさくて臭くて太っちょで風呂に垢は浮いてるしいつも自分の邪魔ばっかしてくるし、うざい、それにさえのやけにお姉ちゃんぶったところもホントいけすかない。みずうみのことはあんなやつしばらく無視してやることにしよう。あーあ、メロンソーダが飲みたい、なぁー、そんでお母さんはいつ帰ってくんの?
以上はゆきの目線だが、実はちづみには親が1人しかいないとか、みずうみはゆきの家庭の事情を知っていながら「水族館より遊園地のほうがエキサイティングだよ!」とゆっちゃったことをすごく後悔してるとか、長女さえは帰ってこないお母さんとわがままな妹たちの板挟みになって泣きたい気持ちをこらえている、とかいった背景が次々と浮かび上がってくる。伝えたい気持ちと伝えられる言葉とのあいだにギャップのあるせいだろうか、コドモたちの世界ではいつもケンカが絶えなくて、彼らは、彼女たちは、ささやかな日常の中でゆっくりと傷ついていくのだ。それでも一緒に遊んだり給食のフルーツポンチのことで揉めたり、ベンチに座って野球を眺めて「おとうさーん!」と声援や野次を飛ばしたりしながら、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、そして土曜日と、永遠につづくかに思えるコドモたちの日々。でもいつかやっぱり「成長」はやってくる。ゆきは姉のクラスメイト・だいすけに誘惑されて、森の奥の秘密基地に手を引かれていく途中で「おまんじゅう(性器)」から初めて赤いものの流れることに驚く。あ、血…。赤い折り紙がはらはらと舞い落ちる。そして赤い曼珠沙華の花を見て彼女は一心に何かを祈りはじめる。そしてある日三女ももが姿を消し、コドモ時代は終わりを迎える。
つづいて第二部(旅立ち篇)。この先はシーンがリフレインされることもなく、時間はただリニアに淡々と流れる。嘘みたいに元気をなくし、中学校にも行けなくなっている長女さえは父から東京に来ないかと誘われている。が、もものことを忘れるのが怖くて町を離れる決心がつかないまま、河原で、丘の上の療養所にいる不思議な少女・あずさに偶然再会する。あずさは、自分は療養所にいて、ここにいるしかないと定められていることに安心もしてるけど、もしもここを離れてまた新しい場所に行くとして、そこでいろんな人に出会って、「自分の規模」を知ってしまうことがいちばん怖いと思うんだ…と語りかける。でもさえは「何言ってるかわかんないよ」と言い捨てて逃げていくしかなかった。ミストを振りかけ、大人びていくさえ。それでも、とうとう次女ゆきに「さえちゃんは、もものこと忘れないから、だから行きなよ」と後押しされてようやく東京に旅立つことを決心するのだが、しかしその背中にはこの町にひとり取り残されてしまう妹ゆきの「待ってよ…、いかないで、さえちゃん…、いかないで!」と泣く声がこだまして物語は幕を下ろしていく。
■ランドスケープ、タペストリー
大筋のストーリーは初演とほとんど変わらない。しかし再演バージョンでは照明や舞台美術も新しく構成し直されたほか、入退場の繋ぎ方がよりスムーズに美しくなり、リフレインの頻度・スピード感・切れ味なども飛躍的に向上。ストップモーションや高速リフレイン(*6)といった新技(!)も使われ、演出技術の面でもめざましい洗練を遂げた。けれどいちばんの大きな変化はキャストの数が増えて設定も変化したことで(*7)、しかも13人の登場人物すべてになんらかの見せ場がつくられた。フォーカスを1点に絞ることなく、物語の全体像を多角的に構成していくこの意識は前作『ハロースクール、バイバイ』あたりから垣間見えたけど、雑多なノイズを孕んでいくぶんストーリーも散漫になりかねないし、単純にエピソードの数も増えてしまうリスクはある。実際に上演時間は1時間50分となり(初日は2時間!)、小劇場の一般的な体感時間としてはちょっと長すぎると感じられたのは事実だった。しかしあえてそうしてまでも描きたいものが藤田/マームにはあったのである。
それはおそらくこの町の全体像、つまりは視界としてひろがる「ランドスケープ」である。徳永京子は『しゃぼんのころ』の劇評の中で「遠景」が見えたと書いていたが、今回の『コドモ』再演ではサイドストーリーが増えたことでそうした遠景がより3D的にひろがっている。コドモたちの「何かを眺めている」シーンがいろんな角度から挿入されたせいか、狭いはずの劇空間の中に豊かな距離感覚をもたらしているのだ。三姉妹が暮らす団地や、小学校や、トイレや、公園、川、海、神社、そして森の中の秘密基地といった場所のデコボコした起伏までもがまざまざと見えてくようだった。さらに何本もの「線」が引かれていくのも印象的で、トイレットペーパーは白いラインに変わるし、妊婦のりり子さんのへそからは赤い糸がすーっと伸びる。そして布が「森んなか」への秘密の通路をひらく。こうした「線」がイメージを呼び起こし、物語の糸となって、最終的に「タペストリー」として編み上げられていく。
タペストリー。とゆうのは、この作品をもっともよく言い表している言葉だとわたしは思う。「マーム」にしても「ジプシー」にしても布の手触りを感じさせるような名前だが(いつも夜なべで手作りされる当日パンフも象徴的で、今回は和紙っぽい手染めの紙に布の切れ端が幾つか縫い付けてある)、やわらかに衝撃を包み込んで変幻自在にカタチを変えていく布とゆう素材は、彼らにとって大事なものだろうし、だから糸をタペストリーのように縫い合わせていく今作品の感覚はごく自然と導かれたものかもしれない。ちなみに物語の終盤には「タペストリー」の邦訳名であるキャロル・キングの「つづれおり」が登場するけども、それはまさにこの作品が様々なシーンのつづれおりであることの隠喩でもあるだろう。
続く>>
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