日本の演劇人に扉を開く エレン・スチュワートさんをしのんで

 河原その子

 日本の現代演劇をいち早くアメリカ演劇界へ紹介し、世界の実験演劇の母と呼ばれた、ニューヨークのラ・ママ実験劇場の創立者であり、芸術監督であったエレン・スチュワートが、今年1月13日、91歳で亡くなった。その日、ニューヨークの演劇界は深い悲しみに包まれ、「母」エレンの死に深い哀悼の意を示した。

 エレンはオフ・オフ・ブロードウエー演劇のパイオニアだ。1961年、41歳の時、それまで演劇経験皆無のファッション・デザイナーだったエレンさんが、弟の舞台作品発表のために、イーストビレッジ9丁目の小さな地下スペースを借り、ニューヨーク初のカフェ付きの劇場「カフェ・ラ・ママ」としてスタートさせたのが、現在4丁目にあるラ・ママ実験劇場の始まりだった。

 世界中からアンダーグラウンドの芸術家達を紹介し、それまで商業演劇中心だったニューヨーク演劇界に革命を起こした。東欧前衛演劇のイェジー・グロトフスキや前衛演劇の旗手・演出家アンドレイ・シェルバンをアメリカへ紹介、サム・シェパード、ランフォード・ウィルソン、ジャン=クロード・ヴァン・イタリー、俳優のアル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・グラス、ハービー・カイテル、トム・オホーガンなど「ラ・ママ」から世界に出た舞台芸術家達は数え切れない。現在上演が続いている「ブルーマン」もここから出た。

エレン・スチュワートさん
【写真は、エレン・スチュワートさん(ラ・ママ実験劇場アーカイヴにて) © Jonathan Slaff   提供=筆者】

 半世紀に渡る演劇活動で3000に及ぶ舞台公演をプロデュースし、ヨーロッパ、中東、中南米、アジアと、言葉通り世界を回った。93年に、オフ・オフ・ブロードウエーのプロデューサーとして初の「ブロードウエーの殿堂」入りを果たし、06年トニー賞Honor for Excellence in the Theatreを受賞、フランス文化芸術勲章、日本からは94年に勲四等瑞宝章、07年には高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)受賞をはじめ、その功績は、数え切れない受賞で称えられたが、エレンはこれだけの人材を輩出したと、有名人の名前だけを連ねるのを良しとしなかった。結果を評価の対象とはしなかったのだ。

 イーストビレッジ4丁目のレンガ造りの4階建てビルと赤いドア。国境を越えて多くの舞台芸術家がこのドアを開けた。エレンに会うには履歴書は要らなかった。あっても読まない。エレンは「人」を読んだ。

 日本とエレンの繋がりは深い。まだ世界が日本の現代演劇に意識が及んでいなかった時代に、寺山修司を呼び「毛皮のマリー」を上演し、海外公演が反故になり行き場を失った東京キッドブラザースに、寝床と舞台を与えた(ラ・ママには現在でも、ドミトリーと呼ばれる宿泊施設があり、アーティストが無料で滞在することも可能になっている)。当時日本で舞台を始めたばかりの私は微かに新聞評など読んだ覚えがあり、海外受けを狙ったとか、少しシニカルなタッチだったと記憶にあった。

 後年、私の演劇科の教授、アンドレイ・シェルバン演出で、同級生だった、現ラ・ママ共同芸術監督のミア・ユウが出演していた関係で、ラ・ママの産んだ伝説的ギリシャ悲劇三部作再演の舞台「トロイアの女」の韓国ツアーを訪ねた時、突然エレンに、「その子、今から役者を空港に迎えに行って」と仕事をふられた。部外者の顔と名前を覚えていた事にも驚いたが、彼女の為にそこに居ることがまるで当然のように、一瞬にしてその胸に抱き込まれた感覚だった。「それがエレンだよ」とミアが言った。

 アートとは関係ない些細な事ではあった。でもその時、エレンと日本演劇の先達との出会いもこれと似たものだったのではと思った。何かがすっと真っ直ぐになった感覚とでもいうか、自分はここに居ていいのだと思えた気持ち。これが才能に対しての保障も、お金も、社会的地位も応援も、とにかく何もないアーティスト達にとって、どれだけ勇気を得る一瞬になっただろう。外野のシニカルな批評を吹き飛ばすような大きな力、信じる力を彼女はどれだけ多くの人に与えてきたことか。

 大野一雄、朝倉摂、鈴木忠志、安部公房、近年では倉本總、堤春恵、ラ・ママ専属芸術家である美術家前田順、音楽家辻幸生など、実に多くの優れた日本舞台芸術をNYに紹介し続けて来た。現在も多くの日本人スタッフが、この世界的実験劇場の歴史を繋いでいる。

 時代が流れ、子供が育つと、時に「母」の存在は遠くなる。しかし今、ニューヨークで日本の芸術・文化がクール・ジャパンとして浸透している時代の遥か先に、エレンは日本現代演劇のパイオニア達にそのドアを開けていた。

 私は単なる後塵のその他大勢だ。それでもエレンとラ・ママの人々に出会えたことで、開拓者を思い、挑戦を恐れない気持ちを呼び覚まさせてもらったことに感謝するばかりだ。

 日本の劇作家坂手洋二と「くじらの墓標」のリーディングを申し込んだ時、台本も見ず、「文字が沢山あるのは嫌いなの、でもこれ面白いんでしょう?じゃあ、OKよ」。30秒で話は終わった。伝説は事実だった。

 ラ・ママで演出した作品が、俳優組合のルールで、土壇場で舞台の記録を残すことが出来なくなった時、エレンは私達の側に立って怒り狂ってくれた。何も守ってくれるもののない、情熱とお金を出し切った貧乏無名舞台人達にとって、記録を残せなかった無念さの気持ちを一緒にしてくれただけで、皆の気持ちは救われた。それはきっと体制というものに、常に恐れなく立ち向かってきたエレンの信念の現われだったと今にして思う。

 病のベッドを、今はエレン・スチュワート劇場と名づけられた、ラ・ママに並ぶアネックス劇場(ニューヨークで最も美しい演劇空間だと私は思う)の隣室に移し、車椅子で最後まで観客の前に現れて、彼女が半世紀前に舞台を始めた日からずっとそしうていたように開演ベルを鳴らし、「舞台へようこそ」と挨拶を続けた。

 エレンの訃報の届いた日に、ART/NYというニューヨーク市の演劇団体から、一斉メールで、その夜に舞台のあるカンパニーへ向けて、開演前に追悼の意を表しようではないかとの呼びかけが行なわれた。ラ・ママもエレンも直接知らなくても、その存在が、どこかで今日自分が演劇をしてることに繋がっているかもしれない。そんなメッセージだった。

「全てを文字に残すことはできない、ただ生きるのよ。」葬儀で紹介されたエレンの言葉。文字に残る功績以上に、人を迎え入れた時の暖かな掌の温もりで、エレンは時代を残したのだと思う。
(初出:マガジン・ワンダーランド第231号、2011年3月9日発行。無料購読は登録ページから)

【著者略歴】
河原その子(かわはら・そのこ)
 東京出身。コロンビア大学芸術学科修士課程(舞台芸術学部演出専攻)修了。SITI Companyの実験的演劇アプローチ“ビューポイント”を学ぶ。フォーダム大学の招待芸術家を経て、New York Theater Workshop 、リンカーンセンター・シアター・ディレクターズ・ラボメンバー。Drama League フェロー、NY市公認非営利シアターカンパニーCJA主催。舞台芸術学院、木山事務所出身。現在、子育てに翻弄されながらニューヨーク在住。

「日本の演劇人に扉を開く エレン・スチュワートさんをしのんで」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: リシャール
  2. ピンバック: Richard_Ku

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