「喜劇一幕 虹艶聖夜」(作・演出 藤田俊太郎)

◎蜷川をどう「継承」するか
 木俣冬

「喜劇一幕 虹艶聖夜」公演チラシ 劇場の中へ入り席につく。そこは新宿ゴールデン街劇場。小さな舞台には天井から床、壁面までモノクロ写真が整然と貼られていた。ところ狭しと本棚やテーブル、椅子、ランプなどが置いてある。どうやら誰かの部屋のようだ。
 開演までまだ10分くらい時間がある。ふと隣席を見ると、女性客がビデオを取り出し舞台に向けた。
「撮影はご遠慮ください」とやんわりとスタッフが声をかける。
 そのうち、劇場入り口から俳優たちが行列を作り始めた。ライブを見に来た客という設定らしい。
 ライブがはじまった。

 烈しいパンクに行列していた客たちが熱狂する。隣の盗撮少女はいつの間にか舞台の前面で撮影をしていた。
 パンクロッカーは見えないものに向かうかのように絶唱する。観客は狂い踊る。みんな、たくさんの人と同じ空間にいるにも関わらず、自分の内へ内へと潜るだけ。

 しょっぱなからいろいろ思うところがあるが、まずは舞台のあらましを書いてしまおう(※その後、演出が変更されたとのこと。客席全体をオールスタンディングのライブハウスに見立て、ライブが終わると着席できるようになった)

 ライブが終ると、舞台は元の静かな薄暗い部屋に戻る。
 女(土井睦月子)がそっと入ってくる。彼女は部屋の中を物色し、鞄にいろいろ詰め始めた。そこへ老人(中野富吉)が入ってくる。老人は三角帽子をかぶり、体にはクリスマス用の電飾をまきつけて、まるで人間クリスマスツリーだ。

 老人が女を孫と間違えたことから奇妙にずれたコミュニケーションがはじまる。女はなんとかこの場をやり過ごして逃げ切ろうと考える。が、老人と語り合ううちに変化が起こっていく。ついにはある台本の掛け合いの部分をやることによって、二人の気持ちは通じ合う。ハレルヤ、奇跡の瞬間……!
 ところが老人は、訪ねてきた警官たちに女を引き渡してしまう。「おじいちゃん!」 連行される女は悲痛に叫ぶ。

 同じシチュエーションが、今度は男(隼太)と老婆(小林允子)の組み合わせで行われる。老婆の登場は、どでかいラジカセをかつぎ、大音量を鳴らしながら。展開はほぼ同じで、男が悲痛な叫びを上げて連行されていく。
 ラストは、クリスマスツリー老人withパンクロッカーのライブで幕。

 最近あまり見ないアングラふうな芝居。懐かしいような新鮮なような……。新宿ゴールデン街劇場というシチュエーションには合っていた。

 この芝居を作、演出した藤田俊太郎は1980年生まれ。この作品で初めて劇場公演を打った。
 藤田俊太郎は蜷川幸雄の演出助手をしている。元々は、蜷川が主宰するニナガワ・スタジオに所属し俳優修行をしていた。芝居の出演者も蜷川が率いているさいたまゴールド・シアターやさいたまネクスト・シアターの出演者たちで、藤田は彼らの公演にも演助として付いている。

 だからとしか言いようがないのだが、芝居のあちこちに蜷川幸雄的な部分が顔を出した。
 最初の客席から現出し行列する人たちは蜷川幸雄と清水邦夫の「真情あふるる軽薄さ」を思い出す。同じ台本を別の配役で演じるのは、さいたまゴールド・シアターの、第一回中間発表公演「pro-cess~途上~」で、清水邦夫作「明日そこに花を挿そうよ」を、違う俳優の組み合わせで何パターンも繰り返して行うという演出のようだ。
 時間の堆積を表すような小道具のアンティークランプは、「アンドゥ家の人々」の装置が浮かぶ。
 高齢の俳優が台詞を忘れてしまうことがあるため、プロンプが待機しているというのも、ゴールド・シアター公演ではおなじみの光景。高齢の俳優の存在感がそれだけで物語を深くしてしまうのも、ゴールド・シアターの特性だ。

 偉大なる先人のマネから学ぶことは大切である。マネするうちに元とは違うものがこぼれ出てくればいい。おそらく、老人が電飾を巻いたり、ラジカセ担いだりは、蜷川幸雄はやらないだろう。最後に中野富吉に烈しく歌わせるのも藤田ならではか。

 昨年、蜷川は文化勲章を受章した。当人は常々エスタブリッシュメントにまつり上げられることを好んでいないようだが、野田秀樹が蜷川の受章パーティーで「演劇人が文化勲章を獲ったこと」を讃えたように、文化としての存在感が希薄になりつつある演劇活動が、社会的にもう少し認知されるための援護射撃になったとは思う。

 その蜷川から、若い演劇人が刺激を受けること、学ぶことは大いにある。
 古典的な演劇手法をリアルに実践している演劇人が次第にいなくなっている中、蜷川は、ギリシャ劇やコメディア・デラルテ、シェイクスピアの時代や歌舞伎の手法、スタニスラフスキー・システム、アングラ劇の手法などを用いた芝居を、若い世代にも伝えている。

 蜷川のシェイクスピアを見るまでシェイクスピア劇を見たことのなかった若い演劇人、小山内薫を知らない演劇人もいる昨今、蜷川は、演劇の歴史を次代に伝える数少ない存在だ。既存の価値を引っくり返してきた蜷川が今、継承を担っているのも皮肉な話だが、「カリギュラ」や「美しきものの伝説」の戯曲のおもしろさを若い世代に印象づけたことは大切なことだと思う。

 が、反面、その強烈な影響力から抜け出せなくなってしまうという危険性も孕んでいることを完全否定はできない。
 蜷川幸雄のブレない思想のようなものが、長く一緒にいるうちに絡みついて離れなくなっていく。生き方の指針になってしまう。言葉遣いや選択するものがいつの間にか蜷川的になっていく。カリスマとはそういうものなのだろう。まさに諸刃の剣というような。

 俳優で言えば、藤原竜也。蜷川と出会うまで演劇未体験だった彼は、蜷川演劇で集中と解放を身につけた。一気に台詞をまくし立てる方法は、舞台だと圧倒されるが、ナチュラルな演技を求める映像や現代劇などには合わないこともあり、違う表現の模索に一時期苦労していたように思う。近年は、徐々に新しい芝居を身につけてきている。

 さて、藤田俊太郎はどうなのだろう?
 この作品を見ながら思ったのは、彼にとって演劇とは何なのだろうか? ということだった。
 また、蜷川演劇は、藤田の中ではどういう存在なのだろう? 演劇イコール蜷川演劇になってはいないか? おそらく、同世代の演劇にほとんど触れていないだろう。年に10本近い公演についてたら他の演劇を見る暇はないはずだ。といって、今主流の演劇を見なければいけないわけでもない。そのほうが、全く新しい表現を生み出せるかもしれないから。
 感じたのは、蜷川演劇及び演劇への「好き」より、パンクと写真への「好き」だった。「好き」があるのだからそれはそれでいい。
 そして思ったのは、いっそ蜷川演出を完コピしてみたらどうだろう? ということだった。

 照明や音響のタイミング、台詞の速度、頭を強調した台詞術、装置を使った様々な演出手法などなど、パッと見ただけで演劇好きならすぐに蜷川演出と分かるものを、この物語にふんだんに盛り込んでみたら?
 藤田は、05年からずっと偉大なる蜷川幸雄の仕事を真横で見続けているのだ。ほぼ全作。こんな貴重な体験をしているのだから、生かさない手はない。周防正行監督のデビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」が小津映画の完コピだったようなことをできないだろうか?
老人と若者が、台詞のかけあいをする、最も大事なシーンに音楽がかかるのだが、蜷川だったらここに音楽をかけただろうか? いいシーンには聖なる音楽がかかるけど、いい台詞が聞こえないようにかけるとすれば、演技の良くないところをフォローしていることになる。老人の台詞が時折曖昧になってしまうからだろうか。……なんてことを見ながら考えてしまったのだが、蜷川オタクじゃない観客ならそこまで考えることはないのかもしれない。

 完コピでなければ、もう少し、蜷川演劇と距離をとることはできなかったか? パンク好きとして一切、蜷川的なものを排除することを課したとしても、蜷川の影響はなお滲み出て来るはずと思うから。蜷川演劇関係者で固めた公演をお金をとってやるのなら、もっと挑発的なものを見たかった。

 現代における行列とは何なのか? 客席に俳優を混ぜる意味は? ライブ(劇中劇)とは何か? 同じ物語を二回繰り返すこととは? この作品に「喜劇」とつけるわけは?
80年に生まれ、今30歳となった藤田俊太郎という人間が、これらモチーフにいったい何を託していたのだろうか? おそらくそれは先達の演劇人の批評性とは違うところにあるのだろう。
 身近な方法をそのまま使う、その素直さが今なのだろうか。

 ……と、小姑的なことを考えつつ、不思議と心地悪いわけでもないのだ、この作品。
 老人たちが若者を突き放すバッドエンドは後を引く。
 最初に、孫と間違えたのは老人のほうで、一方的に好意を示してきて。あんなにも心に染みる台詞の読み合わせをして。なのに、唐突に、変容してしまう。胸がチクチクした。

 現実と重ねてみる。実際、自分の祖父母が年をとって記憶が曖昧になってくると、今日はわかってくれたが、翌日は忘れられている、なんて体験はある。そういうものだと諭されても、瞳の中に自分への記憶がないのはショックだ。
 男が去り、またひとりになった老婆は、骨だけの傘をさす。なんとも言えない孤独感。同じ芝居を二回繰り返すことで、こういう出会いと別れが無限に繰り返されているように思えた。

 人と人とのコミュニケーションというのは、案外とこういうものなのかもしれない。一瞬ピタ!とフォーカスが合ったと思っても、すぐまたぼやけたり、ズレたりしてしまう。
 でも、一瞬だけでもピタ!となったことが確かにある。それがあるから、生きることは、嬉しいし、悲しい。

 演劇だって毎日やっても、毎日違う。最高の一体感はいったい何度あることだろうか。幻のようなそれを求めて、ただひたすら体と頭を動かす。若い演劇人たちは、蜷川幸雄の元で毎日毎日芝居を作りながら、こんな人間の心と営みを体に染みつけているのだろうか。

 〈去るものは去り来るものは来る、これ、人間世界の実相なり〉

 井上ひさしの「ムサシ」の沢庵のセリフを思い出した。

 私が見た回では最後、老人は楽しげに歌い踊っていた。後で、サングラスに革ジャンでかっこいいロッカー風になったそうだ。どのみち、老人は問答無用に強い、と思う。でも、ひとりだ。
 若いパンクロッカーは見えないものに向かうかのように絶唱する。やっぱり、ひとりだ。
 ライブは聖夜のイルミネーションのようにキラキラしてるのに、どこか悲しい。
 彼らの背後から足下まで面に敷き詰められたモノクロの抽象的な写真の陰影に、この作家の言葉を探そうと凝視した。

 それとは別に。蜷川演劇の完コピ、誰か挑戦してくれないだろうか。それが最高の蜷川幸雄論になると思うのだが。
(初出:マガジン・ワンダーランド第233号、2011年3月23日発行。無料購読は登録ページから)

【著者略歴】
木俣 冬(きまた・ふゆ)
フリーライター。著書に「挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ」(キネマ旬報社)、共著に「蜷川幸雄の稽古場から」(ポプラ社)、ノベライズに「シュアリー・サムデイ」「ジョーカー許されざる捜査官」などがある。個人ブログ「紙と波」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimata-fuyu/

【上演記録】
藤田俊太郎 演出第一作「喜劇一幕 虹艶聖夜
新宿ゴールデン街劇場(2011年2月28日-3月4日、プレヴュー公演2月22日-24日)

出演(劇中登場順)
ライヴスタッフ:西村篤(さいたまネクスト・シアター) 齊藤美穂(ニナガワ・スタジオ) 増田広太郎(ニナガワ・スタジオ
幻の観客:中村千里(さいたまネクスト・シアター) 茂手木桜子(さいたまネクスト・シアター) 渡辺るみ
虹艶Bunny:横山大地(さいたまネクスト・シアター) 露敏(さいたまネクスト・シアター)
男:中野富吉(さいたまゴールド・シアター)
若い女:土井睦月子(さいたまネクスト・シアター)
警官:西村篤(さいたまネクスト・シアター) 増田広太郎(ニナガワ・スタジオ)
女:小林允子(さいたまゴールド・シアター)
若い男:隼太(さいたまネクスト・シアター)

スタッフ
作・演出:藤田俊太郎
照明:大野正光(あかり組)
音響:八七橋岳(PAC)
舞台美術:清水享
衣裳:タナベチヒロ
舞台監督:佐藤豪
製作:三浦沙奈弓、金子文
題字:阿部優
宣伝デザイン・記録映像撮影:本間徹郎
舞台写真:遠藤祐輔
稽古場協力:湯澤先生

Special Thanks(舞台セット設営/スタッフ):濱野貴彦 明石伸一 吉田元海 高木達也 江間みずき 川崎誠司 中西紀恵 柏本奈津 安田祐登 佐々木 拓夢 平子貴章 野島結 小林沙羅 岩澤哲野 鈴木真之介 鋤柄聖一
料金  プレヴュー公演:3,000円 本公演:3,500円

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