青年団若手自主企画「不機嫌な子猫ちゃん」

◎見えるものは「男の性」 「母と娘」の世界の中に
 金塚さくら

「不機嫌な子猫ちゃん」公演チラシ 状況はひどくありふれているのだった。
 愛情という名の呪縛で娘を支配する母親と、それに反発しながらも結局のところ依存している娘。母と娘という、この永遠の確執。
 いい年をして働きにも出ず、実家で母・愛子と暮らしている市子。彼女と母親との関係は、いわゆる「友達母娘」だ。名前で呼び合い、一緒に買い物に行き、同じ服を共有する。過剰なくらいべたべたと仲良く遊ぶその一方で、しかし彼女たちは互いに互いを恨みあってもいる。娘は母親の誤った「愛情」が自分を束縛し、人生における選択の自由を奪ってきたのだと責める。母は娘が自分の愛情を理解してくれないと嘆き、同等の思いやりを返してくれないことをなじる。

 母と娘二人だけのこの小さな世界に、姉離れのできない愛子の弟・隆史や市子の「彼氏」の中島が絡み、さらには市子の同級生と名乗る女が乱入して、狭い劇場はさながら現代の病の標本箱のようだ。少し行き過ぎなくらい姉を慕い、母子家庭の中で父親代わりに愛子を守ってきたのだと自負する隆史は、その愛子のためにも自分は市子の父親代わりになる必要があると考えて、母娘に付きまとっている。出会い系サイトを通じて市子と知り合った、いささか引きこもり気味な中島は、先走る思い込みで同棲だ結婚だと市子を振り回す。

 人物たちの設定は、多少極端にデフォルメされているとはいえ、世の中のあちこちでしばしば見受けられるものだ。女性の大多数は多かれ少なかれ愛子や市子の心情について身に覚えがあるだろうし、直接の交流はなくても、知り合いの知り合いくらいまで範囲を広げれば隆史や中島のような人物は簡単に見つかるはずだ。

 その「ありそう」な状況の再現は、とても上手い。私たちの生活の中に実はありふれすぎていて、もはや病とも呼べないような症状が、巧みに丁寧に描かれている。突き詰めればいずれも弱さや甘えに通じるそれらの「症状」が、面白がって嘲笑うのでもなく、正義感に燃えて何かを糾弾するのでもなく、中立を保って誠実に提示される。訓練された演じ手の役作りも適切で、「ありそう」な人物像が濃密な存在感をもって眼前に立ち上がる。

 作り手が男性であることを考えれば、母と娘に関する情報収集と分析は相当しっかりなされているのだと思う。新聞の特集記事を丹念に読み込んで、どの要素も余さず組み込んだような綿密な描写は、しかし上手に描かれているのになぜだか身に重なる実感に乏しいのであった。

 冒頭、市子と隆史の会話の中、母と娘の関係が暗に語られた段階で、私はかなり覚悟したのだ。これはもしかすると、ざっくりと古傷を抉られて、泣きながら観ることになるのかもしれない。
 しかしその覚悟は少し肩透かしに終わることになる。

 確かに、自分のことであったり知人の誰かであったり、見覚え聞き覚えのある状況が展開してはいたのだ。しかし、上手に形作られたそこには、生々しい体温が欠けている。傷口を抉られる痛みや、自身の姿をまざまざと見せつけられる苦しみや、己の生傷を明瞭に見せつけられて痛みを確認する、歪んだ喜び。怖れながらも期待していた胸の震えは、いつまで待っても訪れることはなく、状況は充分にリアルなはずなのに、結果の印象は生々しくならない。

「不機嫌な子猫ちゃん」公演から
【写真は、「不機嫌な子猫ちゃん」公演から。撮影=河村竜也 提供=青年団若手自主企画 禁無断転載】

 思うに、母と娘の攻防戦が手ぬるいのだ。必要にして充分な要素を盛り込んではあるけれども、「娘」経験者としての当事者的な視点で述べるなら、これはまったく甘いと言わざるをえない。特に母・愛子の描き方はまるで手ぬるい。
 子の罪悪感に訴えかけて脅迫する母の手管は、現実にはもっとずっと悪辣だ。愛情という切り札を振りかざして、理論と感情論とを強引に混ぜ合わせてゆくその戦術は、あらゆる反駁を無効化し、抗弁の余地を封じる。あの程度の遣り口では、愛子はちょっと我が儘なか弱いお姫さまというだけに見えかねない。
 市子にしても、病んだ己を自覚し、愛情の檻からの脱出を試みる子の抵抗は、母にとってもっとずっと手酷い裏切りであるに違いない。

 家を出て中島と住むのだという娘に対し、表面上は「あなたの好きにしなさい」と寛容を見せながら、愛子は言外に市子を手元に引き止めるための罠を張る。
“あなたは好きなようにすればいい。私は心配し続けて死んでしまうかもしれないけど。”

 娘にとって、「心配」とは怖ろしい呪文だ。「お母さんが心配する」という予感は強迫観念となってあらゆる行動を封じ、「お母さんを心配させた」という後悔はいつまでも自己を苛む。だから娘としては、頼むから心配などしないでほしいのだ。心配されると何か大きな失敗をしたような気分になる。その心配が愛情から発生するもので、自分のことを思いやってのことなのだと、言われてしまうと逃げ場を絶たれて気持ちが追い詰められる。
 むろん、娘のほうだっていつまでも追い詰められてはいない。強迫観念を自覚している娘は、その症状自体を利用する。優しく重くのしかかって圧迫する母の「愛情」に対して、その愛情そのものを告発するのだ。遠まわしの束縛が自分の人生から自由と喜びを奪い、こんなにも苦しめている。その愛し方は間違っていて、結果として自分は幸せでないのだと。

 娘にとって母の心配が呪いなら、母にとって娘の不幸はひどい断罪だろう。すべては娘の幸せを願ってのことなのだと、信じているのだから。
 自分のこれまでの献身の一切合財を根底から否定される危機的状況の中で、母は「この子は私を苦しめたいのだ」という理屈を見つけ出す。甘えん坊で幼くて世の中のことを何も知らない子供は、親の愛がいかに深くてどれほど支えになっているのかも気づかず、つまらない反抗心で親を苦しめて楽しんでいるに違いない。
 そうして母は嘆く。娘の仕打ちを悲しんで「哀れな母親」という被害者の立場に己を持ち込んでゆく。それは娘の罪悪感をいよいよ強め、娘もまた「不幸せな自分」をますます強調し、さらなる被害者になろうとする。
 母と娘との戦いとは、攻撃しあい相手を痛めつけるものではなく、互いに被害者になりあおうとする、際限のない悪循環のことだ。

 市子と愛子は確かにそのメカニズムに則った攻防を見せてはいるが、しかしおそらく、少し優しすぎるだろう。彼女たちは被害者になりきらない。どちらも引きが早く、相手を責め、自己を憐れむ場面は、始まったと思うと泥沼に踏み込む手前ですっと切り替わる。母も娘も重大な局面へ突入するのを避けるように、「お茶飲む?」などと話題を逸らしてしまうのだ。

 現実に、収拾のつかない母娘の押し問答を、そうやってうやむやにして強引に日常の中へ戻っていくということはある。あるが、それはもっと取り返しのつかない沈黙の果てに選択される非常手段なのだ。
 彼女たちの「話題を逸らす」という逃避の中には、相手に対する気遣いすら感じられる。「これ以上言ったらかわいそう」。そんな優しは母と娘の真剣勝負には発生しえない。かわいそうなのは自分なのだ。どれほど自分が傷ついてみせるか、母と娘はそこを競い合う。ということは、この戦いでは誰も勝者になれない、ということになるのかもしれない。制圧されすべて奪われ、完膚なきまでにぼろぼろの敗者になることが勝利であるなら、そんな勝利が勝利であるものかというジレンマだ。

 ゆえに、母と娘の戦いは延々と繰り返されるばかりで勝敗は決まらず、終局は訪れない、はずなのだが。
 しかしこの舞台には明確な勝者がひとり、いた。母・愛子だ。

 彼女は、娘が欲しかっただけなのだという。かつて結婚していた夫は、そのための道具にすぎない。彼女がただひとつ望むものは、いつまでも自分の庇護のもとにあってあらゆる喜びを共有する、着せ替え人形のように可愛い娘「市子」だけ。紆余曲折はあるものの、結局のところ彼女は彼女の「市子」を手に入れる。望むとおり、市子はこの先も決して手元を離れないだろう。弟の献身を無惨に踏みにじり、自分の殻に閉じこもる男を足元に縋らせて、最後に世界に君臨しているのはこの母たる女なのだ。

 何かがひどく気持ち悪い。
 それが良い意味なのか悪い意味なのか(気持ち悪い作品、というのが褒め言葉になる場合はしばしばあるものだ)、なぜそんなにも気持ち悪いのか解らないが、しかしこの結末はいったい何だ? 市子を舞台の視点とする、娘と母との葛藤の物語として観ようとすると、この状況はどうにも据わりが悪い。
 違うのだ。市子の物語として観ることはそもそも誤りだったのではないか。ここに到って、気になるのは男たちだ。

「不機嫌な子猫ちゃん」公演から
【写真は、「不機嫌な子猫ちゃん」公演から。撮影=河村竜也 提供=青年団若手自主企画 禁無断転載】

 女たちにまとわりつく、二人の男。家父長になりたい隆史と、世界と戦っている中島。両者とも、ひたすら内へ内へと向かうような妄想と思い込みを、頑なに疑いもせず、やけに自信をもって断定的に主張してのける。自己を肯定的にとらえるか否定的にとらえるかの違いはあれど、その自意識はいずれにせよ過剰。一見おとなしそうではあるが、その言動からは「キレたらヤバい」という凶暴さが窺える。市子がどちらかと二人きりで対峙しているような場面では、「逃げろ、市子!」と言いたくなる瞬間も度々ある。何か、本能レベルで身の危険を感じるのだ。

 中島は市子に語る。自分は、生まれてくる前のこと、すなわち子宮の中にいたときのことを憶えているのだと。そこがどれほど居心地のよい場所だったかを反芻し、嫌がったのにむりやり引きずり出されたことを呪わしく語る。市子を含めあらゆる女たちに裏切られ(たと思い込み)、世界に絶望した彼はついに「生まれなかったことにする」という決断を下す。子宮に見立てたダイニングテーブルの下にうずくまり、そうして彼は、座っている愛子の脚にすがりついて、その膝にうっとりと頬を預ける。それは、母たる女の脚だからだ。
 彼には母親がおらず、「お母さん」がどんなものか自分は知らないのだと市子に言う。しかし、子宮の中の記憶があるとは、何よりもよく母を知っているということに他ならないのではないか。彼にとって母だけが、優しく自分を包み込む甘美な世界のすべて。

 母。
 男たちの眼差しをたどって愛子を見るとき、はたと腑に落ちるものがある。彼女は実は、市子、すなわち娘にとってのリアルな母ではなく、男たちにとっての幻想の母なのではないか。か弱くたおやかで、美しく残酷な崇拝の対象。踏みにじられることすら法悦の。
 愛子の戦術が手ぬるいのも、最後の勝者が彼女であるのも、つまりは彼女が母であるからではないのか。隆史、中島、そして書き手を含めた男たちの目線の中で、彼女こそが聖女。永遠の憧れ。ひどく描けるわけがない。

 隆史にとっても、キーワードは「母」なのだろう。愛子は彼の最愛の姉であり、「姉」というのもまた男の憧れを呼び起こす記号ではあるのだろうが、市子を生み母となったことでその聖性はより高まったのではないか。母の跡を継ぎ、母となった女。自分という父性は彼女を守護し、支え導く。現実にはまるでぐだぐだな彼も、夢(あるいは妄想)の中でなら力強い一人の男だ。母たる女は、自分を誰より頼りにしているに違いない。
男たちに感じた危機感は、マザコン男を察知した警報か。

 この舞台からは徹底して父という存在が排除されているが、それも当然だろう。母を讃美し女を守るヒーローたる自分にとって、その理想郷においては父ほど邪魔なものはない。女や家を、愛し守り許し、支配するのは自分なのだから。聖母は幼子を、処女のまま懐胎しなくては。
 詳しくないので踏み込むことはできないが、もしかするとフロイト一派がこのあたりを上手に説明してくれるのかもしれない。

 これは、女たちの、母と娘との葛藤を描いた作品ではないのだ。あるいはもちろん、それを描こうとしたものではあるかもしれない。けれど、それよりもむしろ、男のロマンが明るみに出てしまっているような、そんな気がしてならない。

 だからこその、タイトルの「子猫ちゃん」ではないのか。女に向けるこの気障な呼称。そこには、女にかしづき女の我が儘に振り回される風を装いながら、それを許し掌の上を優しく転がしてやる寛容な自分、といった類の優越の目線が潜んでいる。現実の実態がどうであれ、そんな自分を夢見る目線だ。

 意図的なのか結果的なのかそれは知らないが、女の業を描いたと見せかけて、ここには男の性が浮き彫りにされている。そのズレこそが気持ち悪さの根源なのかもしれない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第234号、2011年3月30日発行。無料購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 金塚さくら(かなつか・さくら)
 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
青年団若手自主企画 vol.47「不機嫌な子猫ちゃん」
アトリエ春風舎(2011年2月18日-21日)
作・演出:田川啓介

出演:
兵藤公美、井上三奈子、村井まどか、森山貴邦、善積元

スタッフ
舞台美術:濱崎賢二
照明:山岡茉友子
音響:池田野歩
宣伝美術:根古敬生
制作:堤佳奈
総合プロデューサー:平田オリザ

▼ゲストと作・演出家によるアフタートーク
2月15日 北嶋孝(ワンダーランド・代表)
2月16日 今村圭佑(Mrs.fictions・主宰)、三浦直之(ロロ・主宰)

予約:2000円 当日:2500円 「母娘」招待

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
平成22年度文化庁芸術拠点形成事業

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